セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, December 10, 2009

第二十二章 貨幣が生み出された瞬間人類の価値は魅力に取りつかれた

 私たちは商品を買う場合に殆ど二秒でそれを決めていると言われる。つまりその商品選択基準とは理性とか合理性とかではなく、あくまでもその商品に惹かれるということであり、魅力に惹きつけられているということ以外のことではないのだ。そもそも貨幣経済において何らかのサーヴィスを得るということから、魅力的な商品を購入するということに至るまで我々は心地よく騙されたいという心理が消費者の側にもあり、また生産者とかメーカーは挙ってそのように心地よく消費してしまうような魅力を商品に付帯させることを心がけるのだ。つまり魅力ある商品、魅力あるサーヴィスを得たいという欲望が価値となっていったわけである。
 私たちは貨幣を通して欲望を買う。これは欲望自体が生きていく上で必要であるからだが、その欲望を満たすこと自体に魅力を感じているからである。しかし貨幣はそれを通して何か特定の欲望を得るために必要ではあると考えていてもそれ自体に価値があるわけではないということを私たちは本質的には理解しているし、貨幣を通して得る全ての欲望も、その欲望自体が価値なのではなく、例えば食事をすることは、生物学的に私たちが生存するために必要であるという意味で食物に価値があるということと、食事を誰かと共にするということに価値があるということの双方から理解している。あるいは食事はそれを取ることによって明日以降の未来において生活する活力となるという意味で価値があると理解している。従って欲望はそれ自体に価値があるのではなく、その欲望を満たすことによってその先に何か行動するために価値があると考える。
 つまり食料を買うために必要な貨幣を、何らかの労働の対価として得ることを通して社会生活を営むということから利用することを通して社会秩序へと同化し、資本主義社会に賛意を示しているのだが、その賛意はそうすることで欲望を満たすことが自然であり、それ以外にいい方法がないことへも同意しているのである。そして消費すること、欲望を満たすために買い物をし、貨幣を支払うことによってお茶を飲み、映画を見たりすることを私たちは選ぶ。行為を実現するために貨幣を使用することを自然なものとして認識している。つまり消費することが食べて生きていくこと自体なのだということを知ることによって消費すること自体が魅力を伴っているということを知ったからこそ、労働へと勤しむわけである。つまり労働は労働の対価として得る報酬によってその報酬たる貨幣によって消費し、食料を取ること自体が魅力ある欲望であると我々は知っているから、労働するのであり、労働自体に価値があるからであるよりは、欲望を満たすことが可能であるから魅力があり、魅力があるから価値があるということになる。つまり欲望それ自体をも、その欲望を満たす行為が魅力的であるからこそ価値を付与しているのだ。貨幣はそれを実現させてくれる最大のツールなのだ。しかし料理はそれを作るための素材を得るためには貨幣が必要だが、後は工夫である。料理は味そのもののクオリアを得るためになされる工夫である。その工夫は、食事を取ること自体が欲望を満たす最大の魅力があるからである。
 つまり最大の欲望である食欲を満たすこと自体が魅力的であるからこそ、一人で飯を食っても、誰かと食ってもそれが楽しいのだ。それを実現させるために我々の祖先は貨幣を発明し、その貨幣を求めるために労働するようになったのだ。
 しかし欲望を満たすために貨幣を得ることが必要だった筈なのに、いつの間にか貨幣を得ること自体が魅力となってしまうことも人類は体験してきたのである。つまりそれを使用することによって欲望を満たすことが魅力であったのが、いつの間にかそれを得ること自体が魅力ある欲望となっていったのだ。それは社会がそのような行為の連鎖を意味あることであるとしてきたからであり、またその社会を作ってきたのも我々なのだ。それらの行為の連鎖が産業革命を起こしたのである。
 しかしそこには人間の生活実現というレヴェルでの不在感があった。そこで人間は哲学し、再び生活実体の方に目を向け始めた。貨幣とはそれを有効に利用して本来の欲望を満たすこと自体に価値があるとしだしたのだ。価値とはそれをすること、そのものを利用することが楽しく、快楽があり、魅力があるということから、与えられてきたものでもあるのである。それは映画や演劇やスポーツを鑑賞したり観戦したりして得るものでもあるし、食事そのものの味や行為が魅力あることであるという意味で価値があるとそれぞれに付加してきたのだ。ここで価値とはそれ自体に魅力があるということから与えられるということだけははっきりした。

 付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇致します。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

Tuesday, December 8, 2009

第二十一章 スキャンダルな出来事を起こした人たちこそ最も私たちの好奇心を煽ったという意味では価値がある

 ここ数年の間にも堀江貴文氏や守屋武昌氏、酒井法子氏といった面々こそマスメディアを最も賑わわせた張本人であり、つまり彼らの存在抜きにある時代さえ語れないという意味ではイチローのような本格的にポジティヴなヒーロー以外では彼らが最大級の貢献をある時代にした、と言っても決して過言ではない。つまり彼らをネガティヴなものとして批判していた学者、文化人、コメンテータ、司会者などに比べれば彼らが存在したからこそ、世相において我々は自分たち自身の社会に対する見方に対して反省材料を得たとさえ言い得る。その意味では私は彼らに対してこそ裏の国民栄誉賞を授けたい。
 つまり何も一切人々を楽しませたり、独創的な行為をしたりしなかった人たちに比べれば彼らの存在の方に遥かに存在理由があるというだけで偉大である。つまり事件を起こしたとしても、それが無名の市民であったなら私たちはニュースになっていることに対して話題にもしなかったであろう。価値というものはそのように懐疑的に見なければいけないものなのである。
 概して日本人は穢れを嫌う感情があるから、自然主義と言った時そこには哲学は不在である。しかし通例欧米社会では自然主義というものは常に懐疑主義と隣り合わせなのである。このことが極めて重要なのだ。
 つまりスキャンダラスであるということ自体が既にその真実の姿がそれまで、つまりスキャンダルになるまでは巧妙に隠蔽されてきた、ということを意味するから、あるいはそれらの存在を偶像として崇拝してきた、つまり大衆であれ、同業界における関係者であれ少なからず彼らの存在自体を称揚してきたからこそ、その期待とか、崇拝行為が裏切られたという形でスキャンダラスであるわけだから、必然的に彼らの存在自体が実はそう安易に偶像を崇拝してはいけない(まるで聖典の謂いのようである)のだと、つまり安易に或る人格を特別ものとして別格視してはいけないということを悟らせてくれるという意味からだけでも存在理由が大いにあると言い得るのである。その他にも薬害エイズ訴訟問題など幾多の問題があったが、それらに比べると、今挙げた三人に私たちは極めて巧妙に騙された、と言うより彼らを尊崇の対象としてきた周囲の事実に決して批判的ではなかったとだけは言い得る。つまりそれだけ彼らの存在があまり簡単に偶像を作り上げてはいけないという風に自戒の念を持たせるために役立っているのである。つまりアイドル視する我々の通俗的心理自体が常に理性と隣り合って存在しているのだ、ということを覚醒させてくれる意味で彼らの存在は大きいと言える。
 もし私たちの社会に一切のスキャンダルがなかったとしたのなら、私たちはそういう社会において何か時代を振り返ることが出来るだろうか?世相というものを感じることが出来るだろうか?無理だろう。私たちは彼らに共通した存在自体がスキャンダラスであるという事実に寧ろ積極的に魅力を感じてしまう、つまり彼らを一定の厳しさを込めて糾弾したり、批判したりすることを世間体的に行いながらどこかで忘れ難いというイメージを彼らに付帯させてしまうのであるが、実はそれこそが魅力というものなのである。魅力とはたとえどんなにポジティヴなものであっても、必ずどこかでは<やばい魅力>と接点があるのである。従って我々は価値と言う時倫理的に正しいというものに対して果たして「だからこそ最大の価値だ」と言い切れるだろうか?そうではないだろう。つまり常に正しいだけのものには実は一遍の価値もないということを誰しもどこかでは了解しているのである。
 つまり魅力自体が内包しているある種の<やばさ>つまりデカタンスこそが私たちにとって尊崇する対象に付帯するイメージとして価値的に捉え得るものなのである。
 それはただ健康的なだけの要素に取り囲まれて生活すること自体へと抵抗とか反発心といったものが私たちには生来から備わっているからである。例えば異性とも一切付き合わない、あるいは酒やタバコの類も一切しないというようなタイプの成員に果たして我々は魅力を感じ続けることが出来るだろうか?それもそうではないだろう。
 そもそも資本主義社会、自由主義社会に付帯する自由のイメージには偶像崇拝的気分をどこかで持ち続けそれ自体を精神的な活力剤にして生活に潤いを持たすということは性格上必然的なことなのである。しかもその偶像とはどこかで人間臭さを必要とされている。つまり最良のものとは常にどこかで悪とも隣接している。だから一歩踏み誤って品行方正な偶像が過ちを犯すということは必然的なことなのである。だから本質的にスキャンダルな報道をして視聴率を稼ぐ学者、文化人、コメンテータ、司会者といった人たちは彼らによって食わせて貰えているという意味ではスキャンダルな事件を起こす大物の存在へ感謝の念を持つべきなのである。そしてスキャンダルとはそれが不在であると退屈であるから時代毎に私たちは恣意的に発見してきてさえいるのである。それがないということは退屈であり、それは時代精神が希薄であるとさえ我々は実は密かに思っているのである。

Sunday, December 6, 2009

第二十章 個人の行動の自由と犯罪、社会自体の在り方の価値

 端的に麻薬、売春といったことはそれ自体憂えるべきことかも知れないが、もしそういった一切の犯罪を抑止することだけを至上目的とするのなら、いっそ資本主義社会、自由主義社会を全面的に撤廃するしか方法などない。端的に北朝鮮のような国家では国家が国民一人一人の行動の自由を保障していないのだから、逆に行動の自由の行き過ぎによる犯罪も起こり得ようもない。従って一切の自由もない。全てを統制的に国家が管理しているからである。だから我々資本主義陣営の国民にとって覚醒剤とか売春、買春といったものがたとえ憂えるべきものであったとしても、中国のように麻薬を所持しているだけで死刑に処せられるという現実自体にはある種違和感を抱かずにはおれないだろう。
 だから生真面目一本のイメージである経済学者が痴漢行為をして地位を失墜したり、清楚なイメージが売り物のアイドルタレントが覚醒剤で逮捕されたりするようなニュース自体に一喜一憂するような社会世相自体は未だ国家によって全てが管理されるような状態からすれば如何に憂えるべき状況であっても救いがあるのである。
 端的に殺人をも含めた個人の激情やら個人の自由放埓への貪婪な欲求によって引き起こされる犯罪の全てが仮に発生し続けていたとしても、それら一切の犯罪が起こり得ようもない社会が存在することに比べたら未だそれらの方がずっと好ましい状態である、と判断してもよいのではないだろうか?
 確かに自由主義経済が金銭的経済力を主軸とした勝敗やら、格差を極端に生み出し、賄賂などが横行していくこと自体は確かに憂えるべき事態であると言えるが、それでもそのような社会には未だ公正であるとか、不公平に対する権利主張とか、社会全体の弱者に対する保護を主張したり、あるいは新たな起業の人材を発掘したりするような気運を生み出す土壌自体は確保されていると言ってよい。しかしもし仮に一切のそのような投機的行動を慎む一切の競争の不在な管理統制経済、管理統制政治しか成立しない社会であれば、それこそ人間精神は自由も創造性も一切が失われるだろう。
 だから最年少の年齢で首相に着任した人が一年程度で政権を放り出したことで国民がその後の与党の成り行きに憂えたとしても、尚完全独裁国家であるよりは遥かにましである、とそう考える人の方が多い筈だ。だからこそあの時も全く自民党の支持者層に対しては失望感を与えたけれど、それでも民主主義が一応機能していることはしているのだ、と考え直した人も大勢いた筈だ。つまりあまり与党が無策であればいつか政権を交代させてやればいいのだから、とそう開き直ることが可能なように社会を見ることが出来るということである。
 つまり資本主義社会とか自由主義社会につき物の弊害として麻薬や売春、賄賂といったものさえ、それらを一掃するためにあらゆる行動の自由、職業選択の自由を奪ってもよいなどと殆どの市民が望んでいない。と言うことはそれら社会の弊害でさえ必要悪として容認したままでいようという認識をどこかで必ず全ての市民が抱いている筈である。従ってそれらの弊害をニュースソースとして提供する容疑者全般に対して、そういった存在全てが皆無になっていくよりは、四六時中そういう容疑者のニュースばかりでも困るものの、そういったニュースさえ皆無であるよりはよっぽど時々そういうニュースがあってくれるくらいの方が社会の自由が実感出来ていいと考えている市民の方が多いということが通常の資本主義、自由主義社会における市民による社会自体の在り方の価値基準なのである。
 つまりあらゆるネガティヴな事件の報道に対する熱狂自体には必ずこの前提が付帯しているのである。だから我々はこう言うことが出来る。一切の行動の自由を奪ってまで賄賂、談合、不正入札、裏口入学、売春、買春、覚醒剤売買と使用が消滅させたいなどと誰も思わない、そしてそういった一切の資本主義社会が発生させる悪さえ成り立たないような不自由な社会になど生活したくはない、ということなのである。いやそれどころか我々は建前上ではそれらを批判しながら、時々そういうニュースが飛び込んで来ること自体を密かに期待し、胸をわくわくさせてさえいるのである。事実ここ数年のことを振り返ってみてもライブドアショックなどの時に様々なM&A用語を覚えたのだし、風説の流布にしたって、そういった事態の一切ない社会の退屈さに既に我々は耐え得るのだろうか?そんなことはあり得ない。私たちは現実にはあらゆるえげつない好奇心まで満喫させてくれるだけの刺激のあるトップニュースを常に期待しているのである。そしてそのような好奇心を充足させてくれるメディアを飼い馴らしているとそう実感し得る社会で生活すること自体に、行動とあらゆる行為選択の自由を保障されている、と実感し得ているのである。

Thursday, December 3, 2009

第十九章 レッテルを貼ること(対他的・対自的)の価値

 例の有名芸能人の覚醒剤使用による逮捕事件に伴ってユーチューブ上では彼女がトランス状態でDJをしている映像へとアクセス数が殺到していることが話題になったが、実はこの種のアイドルのギャップへの関心は、本来マスメディアに乗せられているイメージが全て巧妙なる視聴率獲得のために戦略によって集団によって作られていっているということに対してすっかり忘却してしまっているファン心理に根差している。しかし当人はかなり若い頃からプロデビューしていても普通の女性なのである。つまり我々は何もアイドル芸能人に対してだけではなく、政治家に対しても人気経営者に対しても、文化人に対しても彼らのイメージをその偉業に相応しいものとしてレッテルとして貼り付けているということである。これはファン心理によるものであり、最初からバイアスが掛かっている。つまり必要以上に神聖化してしまっているのだ。だからいざそういう偶像が何らかの過失を犯すと途端に転落というイメージを持ってしまう。しかし本来誰しもそのようなレッテルに百パーセント同化し得る成員などいないのである。
 その点それらの偶像に付帯させてしまうイメージとしてのレッテルとは、しかし対他的なものだが、そのイメージづけを世俗的に自分に付帯させてしまおうということが、俗物根性として発生してしまう。件の私を苦しめた性悪な処女たちがそうであった。端的に自らの処女性を神聖化させてしまうということ自体は実は結婚制度と、結婚が一定の男性の側の経済力に伴った行為であるという通念によって得られているのだ。
 つまりファンがアイドルに対して付帯させるイメージ上の似つかわしい「在り方」は、そうすることを日常化する低レヴェルのファン心理によって支えられているが、そのファン心理が対自分ということになると、途端に自らが勝手に偶像に付帯させたイメージを相手の男性に強要させる、自分たちにとってのアイドルでさえそうなのだから、自分のような存在に対してはそれ以上の配慮を払えと男性に強要するのである。彼女らにとってミーハー的発想とは端的に勝手に自分たちの偶像に付帯させたイメージであり、本来自分に対して周囲の男性に付帯させておきたいイメージに他ならないのである。
 確かに覚醒剤を使用したりすること自体はよくないことだが、彼女らは未だそういう風に逃避行してしまうだけのキャリアはある。だがその偶像を追っかけするファンたちはただ勝手に追っかけをしているだけで、自分自身は何らキャリアを構成しているわけではない。にもかかわらず、その偶像に対して付帯させたイメージ自体は自分たちによる表象だから、その表象は自分のようなアイドルではない通常の存在にも適用されるのだ、という主張自体が、権利上彼女らの心理には支配しているのである。つまり彼女らは自分で勝手に自分たちにとってのアイドルに付帯させたイメージとはとりもなおさず、そういうものとして自分たちを取り扱って欲しいという男性から見られる自分の理想なのである。しかし彼女らには一切の彼女たちにとっての同性のアイドルほどの才能も力量もない。端的にノンキャリアであり、通常人である彼女たちは、だから対自的には完全に客観視を怠っているのである。
 しかし彼女らのこの図々しい心理を我々は笑うことが出来ない。何故なら自分たちは自分たちがマスコミの偶像として取り扱っている存在ほどの日々の緊張を一度も味わったことがないのに、いざ彼らが何か過失を起こしたら、途端に彼らを火炙りにすることを見て楽しむからである。つまりマスコミが与える偶像化された全てのイメージとは、只それを享受する我々自身をあくまで自分のことは棚に上げたままにしておき、勝手に賞賛したり、勝手に貶したりすることが出来る便利なイメージでしかないからである。つまりそこには一切の責任がない。だからマスコミに流通するイメージというレッテル張りには一切の自己の実存に対する問い掛けがないのである。その自己を取り巻く事情を一時忘れさせるという副作用が概ね少ない覚醒剤の役割を我々はマスメディアの流す情報とその情報に乗るタレントのようなアイドルに付帯させているイメージに求めているのである。だからこそマスメディアとは生きもののように振舞っているが、実際は生きた人間でも、我々が飼っているペットでもない全くの無生物であるところの絶対的他者なのである。しかし日常の卑近な話題とはその絶対的他者に対してなされることが多い。そのような話題こそが直接我々の日常生活の利害に絡むことが比較的少ないからである。
 そのように現代社会に生活する人間が絶対的他者である幻想であるメディア自体が流すイメージを利用するということの背景には実は私たちが常に死に対して怯えているという事実が浮かび上がる。マスコミ自体の泡沫のイメージを褒め称えたり、貶したりすることによって一切永続的価値ではないことを一方で認めておくことで、実は自分の人生自体はそれほど簡単に判断することが出来ないという事実を常に問い掛けずに保留にしておくという日常的な目論見こそがメディアに対する責任のない態度として現われているのである。
 従ってメディアに登場する様々な偶像に対して勝手なレッテル張りをすることの価値とは端的に気分転換であり頭休めであり気休めであり生き抜きなのである。そしてそのことは全てのメディアに関わり運営している側が前提として心得ていることなのである。だからこそそのメディアの提供するイメージを裏切るような過失が齎されると本当は私たちの生活に然程重要な出来事ではない事件でもトップニュースとして取り扱うような事態へと発展していってしまうのである。しかしそれももっと我々の生活上で深刻な影響を与えるようなニュースが不在の時に限られるのだ。だが我々はそういった例えば世界同時不況の発端となったリーマンブラザースの破綻から、サブプライムローンの破綻といった深刻な事件がトップニュースとなるような事態を忌避したいと常に願っている。そういったニュースを聞くくらいなら、いっそアイドルの転落とか、有名文化人の犯罪といった事件の方を積極的に好むようなところは実際にあるように思われる。勿論彼らに対して贔屓にしているのなら、より彼らが素晴らしい仕事をしてくれるのに越したことはないのだが。

Thursday, November 26, 2009

第十八章 人間は他者の不幸に感動し、幸福に嫉妬する動物である

 この文章を書いている最中にある有名女性芸能人が覚醒剤を使用していた嫌疑で逮捕されたニュースが各報道メディアでトップニュースとして大きく取り上げられ、高視聴率を獲得した。さてこの騒動で私が実感したこととは、端的にメディアでスターとなっている人は皆作られたイメージに酔いしれているのであり、本人もその要望に只応えているだけであるということである。そして本人がそのギャップに益々戸惑っていたのなら、却って逮捕されてしまったことでほっとしているのではないか、ということである(そもそも三十代後半で既婚者、子持ちなのに清楚なイメージで大衆が追っかけていたということ自体に既に無理があったのである)。
 しかも興味深いことには、その芸能人が清純なイメージで若い頃から売っていたということが逆にそれを裏切ったということでメディア全体がまるで実際に高額であるだろう覚醒剤などをどういうルートかは定かではないものの、闇のルートで入手していた事実が、清純な若い頃のイメージとかけ離れていること自体を視聴者に対して興味を掻き立てていたことである。まさに高視聴率を獲得し得たのだから、容疑者となったその芸能人にメディアは感謝すべきであるが、その芸能人のそれまでに出したCD他関連商品全てを回収したというプロダクションの措置自体もかなり掌返し的行為であるが、それら一連のメディアの扱いや、視聴者の関心の実体とは端的に成功した人が自堕落な生活を確保することが可能なくらいの経済力を持っていること自体への嫉妬感情をメディアが煽り、視聴者はそれに乗せられているということであった。つまりメディアは当該の容疑者がかつては清純なイメージであればあるほどそのギャップにおいて視聴率を稼げるし、しかもマスメディアの公正さ、つまり成功者であれ過ちを犯したなら様々な措置を講じられ糾弾され制裁を受けるということを見せしめ的に示すことで正義を保つことが出来るということである。
 人間は要するに成功している当該の対象に対してその成功に酔っている姿に対して醜悪さを感じるが、その実体とは嫉妬でしかない。そしてそこまで成功していないで健気に頑張っている姿に感動するということは、端的に他人の不幸には寛容になれる、そして応援したり、激励したり出来るということ自体が、自分より上位である者に対して嫉妬するのとは裏腹に下位にあることを目撃して安堵するくらいには残酷である、ということを示している。
 感動の本質が下位にある者に対する憐憫であることは間違いないのだから、逆にそれまで成功してきた者が転落することを「ざまあ見ろ」という風に溜飲を下げるためにメディア報道を見ているのである。それが厭であるならそういう報道に辟易している筈である(事実そういう人も大勢いたことであろう)。
 つまり我々が無意識にメディア報道を利用している時には、自分とはまるで関係のないニュースを見て、気分転換していて、自分の実生活上での苦悩を一瞬忘れている。しかもその安心出来るニュースにおいてより溜飲を下げられるものとは、誰かが偉業を成し遂げたことよりも、人気のある偶像が落ちていく姿を野次馬根性で見ることである。だからそれまで羨まれる存在であればあるほどその対象が転落していく姿を「してやったり」と感じながら見る楽しみを得ているのである。マスメディアのトップニュースとそれほどではないニュースとの差とはそのような新聞であれば購読者層の、あるいはテレビなら視聴者のえげつない好奇心を引くものであるか否かなのである。
 そしてその事実は、受け手の心理には明らかに誰しもが潜在的には他人の不幸を喜び、他人の幸福を嫉妬するという性向があるということを送り手が意識的に利用しているということを意味する。人間は犬や猫をペットとして可愛がるのは、それらの存在を愛おしく感じるのは明らかに彼らが知性において人間よりも劣っているからである。しかし成功者である人間は自分たちよりもいい生活をしているから嫉妬の対象以外のものではない。そこでそれらの存在が転落していく姿を報道して伝えることによって、一般市民に欲求不満を解消させてやろうという目論みがメディアには確かにある。
 つまり私たちが日頃色々な出来事を耳にしたり、悲劇を観劇したりして感動するのは、本質的にはこの他人の不幸を見て喜ぶ心理と寸分も違わない。だから今度は感動を与えてくれた功労者は彼らにとって成功者(自分たちとは違う)であるが故にその転落に、何だ、あんな偉そうにしていたって、自分たちとそう変わりないただの人間じゃないか、と安心することが出来るのだ。だから逆にマスメディアが報じる様々な視聴率を取りそうな番組や特集を挙って見ようとする行為が内実的にはその種の屈折した心理が介在していることを自覚的な人間はなるべくマスメディアに得をさせることを慎みたいという気持ちになることだろう。しかしついそういった報道を見て楽しんでしまうのである。これがメディアの伝える我々の好奇心を擽る戦略に進んで騙されることを選択する私たちのえげつない本音、成功者の転落を見て楽しむという惨めであるが唯一の確固たる欲求不満解消法なのである。それは安倍首相が突然辞任に追い込まれた時にも多くの視聴者が感じ取った心理である。首相さえ只の普通の人間である、ということをメディアの報道が立証して見せてくれた、というわけである。それは政権初期には期待をさせただけにそのギャップを見て好奇心を充足しているのである。期待をされた人の転落を見て他人の不幸に喜んでいるのである。それは安倍首相の前の小泉首相の時には氏がそれほどトントン拍子で成功した人ではないことを多くが知っていたから味わえないことだったのだ。
 このことを価値的に考えてみると、メディアを好奇の目で接するという行為自体が一時自己に纏わる現実的な苦悩を忘れることが出来るという存在理由しか見出せない。それは実質的価値ではなくて、副次的価値でしかない。つまりメディアの報道は政治や経済の動向を伝えるニュースであれ犯罪を報じるニュースであれ、世相とか社会の変化や動き自体を確認することを通して自分もその同じ社会の中で生活を保守しているのだ、という実感を得ることなのである。そして他人の成功を見て羨ましいと感じること自体に、既にその者が慢心していれば嫉妬して、いつか転落してしまえばいいのに、とそう感じることの萌芽があるのだ。そしてメディア自体はそれらの成功者の姿を報じると同時に、どんなに成功している存在であれ、転落したのなら差別することなくそのことを報じるという公正さをアリバイにしているのだ。それを私たちは知っている。つまり全てのからくりを知っていてそれに同意しているのである。そしてそうしながらマスメディアがそれを視聴する側のプライヴァシーを守ってくれるとそう信じているのである。しかしいつ何時自分が問題の渦中に巻き込まれ、逆に糾弾される立場に立たされるかも知れないということをどこかで知りつつも、それは滅多にあり得ることではないと高を括っているのである。
 つまり私たちは倫理的に他者の幸福や成功を祝う気持ちを持っているということを盾に逆に、いざとなったらそれまでどんなに贔屓にしてきた対象に対しても幻滅する権利を持っていることを実感しているのである。つまり税金を払っているのだから、当然その市民としての権利を享受し得るのだ、というわけである。これは選挙権にも顕著に示されている。あれだけ支持してきてやったのに裏切られたということになると、違う政党に投票するのだ。しかしいつまで経ってもそれでは同じことの繰り返しであることを薄々誰しも感じ取っている。しかしそうは言っても政治はその時その時のニーズと問題点に対する処方という形で進行しているものなので、その都度態度を我々は容易に変えられ得る。つまりそのイデオロギー的な意味で態度を固定化する必要のなさに自由を感じ取っているのだ。それはお金を払って観劇している者のような心理なのである。だから政治家に対しても、周囲からあまり相手にされていなかったり、強力な敵に相対したりしているという事実に対してある政治家を贔屓にして、支持するのだ。これも他人の不幸に感動することの本質に適っている。しかし一旦強大な権力を手中に収めると途端に今度は批判の眼差しを注ぐようになる。要するに他人の幸福に嫉妬しているのである。批判とは端的に嫉妬が一点も介在していないとは絶対に言い切れないのである。勿論批判自体にある誰に対しても分け隔てなく賞賛すべき時はして、そうではない時には批判するということが一方で言い得よう。しかし相手があまりにも相手にされていないような場合批判するだけの価値がある、と我々は通常思うだろうか?つまり多くの支持を得ていたり、成功の美酒に酔っていたりする状態の人間に対して批判的眼差しを注ぐのである。従って批判する対象に対する感情という意味では明らかに批判の仕方自体が公正であることとは裏腹に嫉妬が介在している。しかもそういった皆から羨まれている存在をこき下ろす行為自体を賞賛する人たちもいるに違いないという目算も手伝っているのである。つまり偶像を転落させることで溜飲を下げる嫉妬者同士の共感と運命共同体意識を獲得しようと試みているのである。
 しかし重要な真理はもう一つある。どんなにセンセーショナルな報道内容であっても繰り返し報道されることで次第に全ての視聴者から飽きられるということをメディアは知っている。だからそうならない内に先手を打ってもっと衝撃的なニュースを、そうでなければほのぼのしたニュース(あまりセンセーショナルな内容が続くと逆に新鮮に感じるから)を用意するのである。だからこそトップニュースであったものは徐々に第四、第五のニュースへと降格していき、常にその日その時に多くの関心を集めるニュースに座を明け渡させるのである。それはある偶像に対する批判にしても同じである。一度は徹底的にこき下ろした後は逆に「しかし批判はしたものの」という口調で始まるようにさせて、今度は批判したものに対する存在理由を評価しようと画策するのである。そうしなければたちまち批判者の方の真意、つまり嫉妬感情が読まれてしまうからである。そこら辺の駆け引きの巧妙さこそが全てのケースで求められるというわけだ。
 しかし重要なこととはニュースの価値のタイムリーさであれ、そこには他人の不幸を喜ぶ、即ち自分の幸福を感じて安堵するという心理を我々が最大限に利用しているものこそメディアの報道内容の取捨選択であるということなのである。ここにも我々が価値として認めるものには本質的に悪が控えていることが了解されよう。

Tuesday, November 17, 2009

第十七章 倫理的であることは人間的であることに対する考えである

 第十二章における「倫理的なこととは倫理的でないものに対する規制である」としたことについて考えると、倫理的でないものと我々が考えることとは、曰く人間的ではないことと意味づけているように思われる。人間的ではないこととは、理性的であり、道徳的であり、責任論的であるというように、要するに人間社会の生きるということはどういう意味があるのかということに対する価値から外れていくことを意味するように思われる。例えばあと何年しか、何ヶ月しか生きられないということが分かっている人にとって残された時間をどう過ごすかということは、常に生とはいつ死が到来してもおかしくはないということに対する今更ながらの覚醒によって自分独自の回答が出されるだろう。だから今人間的ではないということを敢えて規定すれば、その自分独自である回答を考えずに生きていくこと、あるいはそういう回答を個人が得ようとすること自体を容認しないような理不尽さを言うと考えてもいいだろう。価値から外れるということは、何らかの回答を自分なりに用意すること、そういう心的な作業を怠ることであり、他者のそれを侵害することである。そしてそれは直観的に私たちが理解してきていることでもある。
 だからもうあまり長く生きられない人にとって生きること自体が分析的価値であり、その分析的価値を全うするために、ではどういう風に残された時間を過ごすかということにおいて、何か特定の遣り残したことをしようと考える時、そのためにどう計画を立てるかということが綜合的価値であると言えるだろう。

 学界という場所はかなり徒弟制度的不文律しか通用しない世界である。例えば哲学などは一定の人生経験を要する学問のように一般には思われている。しかし実際には哲学固有の論理に対してマナーを習得するようなタイプの学問なので、よく言われる三十四、五歳くらいまでに准教授のポストに尽かなければ出世は覚束ないような閉鎖的なサークルなのである。つまり職業ということから言えば、日本以外の国の事情はよく知らないが、やはり若い世代の頃からずっと続けてきていなければその世界で大成することは極めて困難であり、転職とか再出発があったり、別の分野との交流によって相互に批判や別分野の専門技術を応用したりする可能性がかなり低い。この現実は、本来学問や専門分野とは広く一般に門戸が開かれているべきである、というのはあくまで建前であり、内実的にはその狭い世界で生活を成り立たせている一部の人たちの利権確保だけが目的である、という価値における狭い綜合的目的だけで成り立っていると言うことが出来る。
 あるいは結婚自体を職業的地位とか、社会的地位を維持していくためのものであるという価値判断から考えると、例えば結婚前に難病を抱えていたことを隠蔽して結婚した場合、恋愛とは違って離婚する時に、そのことが難病の事実を隠されていた側は考慮されるかも知れない。その難病を隠されていた側が両親から継いだ経営をしていかなければならないというような場合、難病を隠蔽してきたことがたちまち愛を獲得するためだけではなく、夫や妻の経済力を期待するという目論みという形で理解される可能性があるからだ。
 本来愛ということを動機的なことからだけ言えば、相手の難病という事実は労わり合うべきことなのかも知れないが、結婚生活という現実の前ではその克服すべき難題に対してそれを対処していく責任が求められるので、巧妙にそのような難題を隠蔽してきたという事実(難病以外にも借金というようなことも考えられる)は結婚生活の維持を困難にするために仮に離婚へと縺れ込んだ場合、かなり隠蔽された側の正当性に対する証明という意味では考慮されて然るべきである(特に難病を隠されていた側が自分がその難病で子供が得られないことを承知でいる配偶者に、子供を後継ぎとして必要であるから結婚したいということを事前に報告していたのなら完全に考慮されるだろう)。
 つまり人間の愛情とか倫理といったものさえ、現実の社会生活では法規的、規約的な契約の公平性という考えの下では総合的価値となって判定される。つまり確かに難病を抱えている人とか、両親から受け継いだ莫大な借金という事実は人間学的には相手に対して配慮したり、援助すべき性格かも知れないが、現実問題他人の受難に対して援助したり、介護したり、結婚して配偶者として難題を分かち合うということ自体はあくまで理想であり、要するにその実現ということを前提に考えると、それを可能に出来る成員とはかなり経済力や社会的地位が求められるということがあり得る。だから恋愛してその結果結婚するという場合と、そうではなくあくまで何か特定の現実、例えば両親から受け継いだ事業をしていかなければならないというような目的のためにしなければならない結婚の場合とでは明らかに相手に対してしておかなければならないことの内容は変わってくる。これは恋愛と結婚とがどちらに価値があることであるかということの人間的な判断にまで縺れ込むこともあるが、常識的にはそういったことは机上の空論として見捨てられ、本来人間的な判断とか、倫理的判断とは現実の対処能力、個人に付帯する現実的な生活能力を前提とするのである。だから責任倫理的には慈愛よりも先にまず実現能力が求められるのだ。
 つまり人間的であることとは、ただ単に相手に対する同情とか憐憫とかにおいて持たれる感情を寧ろある部分では積極的の排除していく責任倫理において実現されることなのである。だからこの責任倫理を慈愛といかに結びつけることが出来るかという部分に我々にとって最大の苦悩がある。またそういう風に考えざるを得ない。何故なら責任倫理は時として相手に対して冷酷非情であることを積極的に求められるからである。従って慈愛とは全てのこちら側の損失を覚悟で相手に尽くすことであるので、責任倫理とは対立していくこともある。ある責任ある地位にある人間が自分の社会的地位をかなぐり捨てて遠地へと赴いたり、家庭を放り出したりすることは、その遠地やそこに住む人々との出会いにおいては慈愛に満ち溢れていても、捨てた社会的地位によって損失を蒙る人たちや家庭の人たちにとってはただの裏切りでしかないからである。
 つまり全てに対して私たちは責任を取ることも、全ての人に対して慈愛をかけることも出来はしないのである。従って「倫理とは人間的であることに対する考えである」と言う場合、それはあくまでケース毎に異なる結論を導き出すことを求めるその苦悩を背負い込むことを意味する。倫理とは苦悩に他ならない。
 それは何を取り、何を捨てるかということに纏わる選択の苦悩であるし、ある時には苦悩せずに瞬間的に迷わず選択してしまうことに纏わる冷酷非情に対する呵責でもある。だから人間的な決断とか人間的な選択と言う時、それは必ずしも人情味溢れるということを意味しない。それどころか人情味溢れる選択こそ最大の誤りであることの方が多いのだ。
 つまり「私は慈愛を持ちたい。しかし全ての人に慈愛をかけることなど出来ない。従って私はその慈愛を殆どの人に対してかけられない無能力を宣言することこそ責任であると心得ている」ということ自体が、人間的である場合そこには人情味を一切排除するという決意であることになるからである。従ってこの場合自分の無能力を知りながら相手に慈愛をかける人情味は無責任以外のものではないことになる。それは人間的でも倫理的でもないのだ。
 
 ここで個人の幸福感情ということから言うと、価値自体が悪を含有しており、感動も他者に対する徹底した不干渉と自分とかかわりさせないことから、相手に対して憐憫を感じることを言うのだとしたら、その感動させる相手の苦悩をそれまではあると知っていながら実際自分の能力の限界から助けることが出来ないでいる自分の不甲斐なさを承知で得る感情であるから必然的に感動には感動する時点で身勝手がある。感動をしたいと思っているのならその時点でエゴイスティックなのである(本質的に全ての人間が幸福であることを望むのなら悲劇を見て感動するということを諦めなければならない)。そういう意味では個人の幸福とはその幸福を得られないでいる段階で必死にそれを掴もうとしている場合は周囲から応援され、激励されるし、それは美として判断されるが、一旦それを獲得すると成功と同様、周囲から嫉妬の対象となってしまい、丁度人間がものを食べる時の仕草はどんな美女であれ、幻滅させてしまうようなところがあるような意味で、幸福の享受は周囲から見て美的に判断すれば醜以外のものではない。つまり人間は不満を感じるのは未充足であることを覚知しているからだが、一旦その欲求が充足されてしまえば、享受することで得る倦怠が待ち構えている。では一体そのようなことを知っているから逆にそういう充足を求めることを慎む、節制するということが美徳となっていく。それが一つの価値となってしまう。しかしその価値を認め、節制し、欲求を慎むこと自体が周囲から賞賛されることもあると、今度はそのように周囲に節制的美徳実践をアピールすることで得るメリットを求めてそういう態度でいることは醜以外の何物でもない心性となる。カントの言う根本悪となってしまう。つまりこの態度は十五章で述べた価値の孤絶性から言えば極めて矛盾してしまう。つまり他者に価値として認められることを前提にしてしまうとそれは既に価値ではないということだ。特に日本人に見られる周囲に不平を漏らさないことによって欲求充足にあまりにも貪婪ではないということを暗にアピールしていることにもなるし、そうすることで利発であると認識されることを権利上暗に容認して貰うということ、つまり十三章における倫理的価値自体を悪用することでもあるからだ。日本ではこれさえも悪であるとは通常認識され得ない。これはあくまでキリスト教文化圏での話である。しかし私たちにもこの考えは十分理解することが出来る。すると成功者につきものの周囲からの嫉妬に対して、「それは自分で努力して掴み取るしかない」という冷たい突き放しにある特権的な優越的快楽が成功には付き纏うから、十四章における成功者の復讐を遂げたことで得る「あなたは苦労したのだから、それくらい享受してもいいのですよ」という周囲からの認可という既得権を根本悪として認識することもたやすい。だから十六章での一般的価値を志向するものには、最初からこの既得権を容認し合う紳士協定が介在している。しかしそうではなく個人的価値を追求することは、ある意味では個人の幸福享受以外に何か価値があるか、とか、それが周囲から見れば幸福を、快を貪ることであるから醜と映ってもそれは自分自身が満足しているのだから一向に構わない(気になんてしない)という宣言性も要素として秘めている。
 つまり若い頃私が苦しめられた実際はかなり俗物根性旺盛で、処女であることだけを武器にして教条的に異性を訓育しようとする女性のような態度もまた、ある意味では個人的価値を追求することに極めて素直な生き方である、と言ってよいだろう。つまりこういうタイプの人間の真意は幸福感情や快を貪ることを真意レヴェルでは完全に理想としているのである。「女は経済力」と言って好きな異性に肉体関係を絶対に結ばせないままにしておき、それでいてその異性が自分以外の異性に関心を持つと急に未練を持つのである。常に禁欲を強いる相手の異性の存在を宙ぶらりんにしておくことによって、いいように利用されることを未然に防止するのだ。つまり担保としてその異性がいい働きといい稼ぎをしてきた時に少しだけ肉体を提供するという娼婦性こそが、男女同権になったはいいが、その娼婦性を兼ね備えている女性が多く昔ならそういう職業に就くところを、一般職業人に中に紛れ込んでいると思わずにはおかないような態度を一般女性に取らせてしまうのだ。全ての売春を廃止すれば必然的に自己防衛を女性に抱かせることになるのだ。
 だから逆にそこには精神的な意味では全く節制も禁欲的美徳もない。美徳がないから正直ではある。つまり相手が、簡単に自分が肉体を提供してしまうことを知っていいように利用されることを承知で悪辣な男性に奉仕してしまうようなタイプの男運の悪い女性であることを逆アピールしてしまうことを未然に阻止するタイプなら、この損失回避という意味では正直であるが、逆に相手がそういう悪辣な男性である可能性を薄々感じつつもその男性に惹かれていく感情に正直であることもまた別の意味で正直であると言える。つまり一切の保険と担保を拒否する選択もまたあり得るからだ。尤も女性の場合対男性ということになると、どちらが節制的であるかは俄かには判断が尽かない。精神的にはガードを緩くして自分の肉体を奉仕してしまうタイプの後者の方がずっと節制的であるが、肉体的にはそうではないし、逆に前者の(私が苦しめられたタイプの)女性の方がより精神的には正直であるが、肉体的快楽は将来に持ち越された快楽や幸福のためにとっておくという意味では節制的である。
 尤も愛に関してもそれは幻想であるから最初からあまり貪婪に求めないという決意もまたあり得る。これが女性なら相手に簡単に肉体を許させないということも、容易に関係も結ばないということでもない、一切異性を求めないという選択肢もあり得るからだ。

 だから完全に節制し、既知の真理の実践者として、あくまで欲求を大きく抱くからこそ、それが未実現であることから失望感を得ると考え、予め少なく欲求することを心がけていることが倫理的に正しいとしても、それは他者には強要しないし、自己信条を他者にひけらかすことがない限りで確かに正義論的には倫理に適っているが、ではそれだけで生活を成立させていることは、ある意味では前記の女性のような正直さは一切ないのであるから、ある意味ではかなり冷徹であり他者に対して一切の真意を隠蔽しているから、確かに前記の責任倫理レヴェルでは正しいにせよ、それは心情倫理レヴェルでは冷淡であり悪である。(賢者固有の悪)従って責任倫理的に正しいことは心情倫理的には冷淡である悪を内包し、そうではなく逆に心情倫理的に正しいことは責任倫理的には無責任な悪であるが、他者に対する接し方に関しては友愛的であり人情味もありそういう対他的感情という観点から言えば正直であるから人間的である、というここでもまた二つに乖離した価値の葛藤が持ち出される。だから完全なる倫理的正しさとか善などというものは所詮幻想以外の何物でもないということになる。完全なる悪もだから当然存在し得ない。価値は全て他方で悪があり、そしてこちら側から完全なる悪であると思えるものにも必ず善や倫理的正しさがあることになる。倫理的であることは完全ではないことの別名であり、人間的であることは善悪両面を引き受けること以外のものではない、ということになるのである。

Saturday, November 14, 2009

第十六章 価値はそもそも一般的なものとして志向するものとそうではないものとの間に最初から差異がある

 何か必死に仕事をしている人の間は何らかの想定され得る価値を支柱にして行為に勤しんでいるわけだが、全ての仕事に、私には一般的に認められ得る価値を支柱にしてする仕事と、そうではなくほんの一部ではあるが、そして自分の仕事を理解してくれる他者が極めて少ないことを承知で敢えてその価値を認めてくれる人が少ないということを承知でする仕事の二通りがあるように思えるのである。そのいずれが後世に長く語り継がれるかということになると、それは一概にどちらのタイプであるかとは言い切れないだろう。
 しかしその仕事をしている人自身はどこかで恐らくそのどちらのタイプの属しているかということだけに関しては自覚的であるように私には思えるのである。
 例えば私の信条とはたった一人でも私がしていることに対する理解があるのなら、生涯私はその仕事を辞めないという意図があるのである。
 私は若い頃私のことを誰よりも理解している、とそう私に常に伝えようとした女性と知り合っていた。しかしにもかかわらず、私は少しでも肉体的に彼女に関心がある素振りを示すと、彼女は私に経済力だけが女性に対して男性が接する権利を持つ指標であるようなことを強調し頑なに接触を拒絶した。そんな彼女の私に対する態度から私は他の女性に積極的に接しようとすると、彼女自身は一度も私と何の関係もないのに、必死に私が別の女性と接しようとすることを諫めようとしたものだった。私はその女性の、ある女性特有のエゴと、自分自身の肉体的欲望を持て余しているのにもかかわらず、それを躍起になって否定しようとする醜さが忘れられない(その女性は大学院まで進学した人だった)。たった一人の凡庸なる悪女に振り回された青春こそ私が過ごした若かりし頃である、と言ってよい(もう二度と会わないと決心するまでに費やした年数は実に八年にも及ぶ)。
 そしてその女性から逃れるように一時期、別の女性と友人となったがその女性は私よりも一回り以上年長だった(大学講師だった)。私の方の欲求を一切理解してくれないその女性は、私がそのことで覚めていった頃、今度は向こうから何故私を求めないのか、とそう尋ねたのだ。女性とは恋人にもなり難いが、友人同士にもなれない、私はその時ほどそう思ったことはない。
 私は面食らってしまった。男性の側からの女性への欲求と女性の側からの男性への欲求が如何に異質のものであるかをはっきりと悟った。私はそれから多く商売で体を売る女性たちと泡沫の快楽を求めた。そういう時期もかなり長く続いた後に、再び本気で恋愛したいと思った。そして今振り返ってみると、先に述べた醜い女性たちとの遣り取りよりは刹那的であり泡沫の快楽の時間の方が遥かに貴重だった、と言ってよい。そしてその後に出会う女性との出来事は確かに現在にまで精神的に継続するものを植えつけた。しかしそのことは未だ語らないでおこう。
 渡辺淳一氏の好む清楚という言葉が私は大嫌いである。広辞苑によると、「きよらかでさっぱりしたさま。飾り気のないさま」とあるが、私から言わせれば女性とは貪欲な性欲に取り付かれた女性と(尤もそれはそれで結構可愛い)そうでなければ、処女性だけを売り物にする俗物根性でありながら自分だけが清らかであると信じて疑わない醜い悪女の二種類しかいない。その中のいずれかにたまたま結婚していい妻として収まっているタイプの女性もカテゴライズされるだけのことである。特に一生男性とかかわりを持たなかったと言われるある女性政治家によって売春禁止法が施行されてから、日本男性の運命は変わった。そして続いて男女雇用機会均等法である。
 尤もそれらが悪法であったとまでは私も言わない。しかし根本的に男性が男尊女卑である精神的傾向はそうたやすく根絶やされるものではないとだけは言っておきたい。これは生物学的に仕方のないことなのである。

 話を最初の醜い女性へと戻そう。
 つまり端的に私自身、あるいはその信念にその女性は関心があったのである。しかし終ぞ彼女のようなタイプの女性は、私にとっての信念である男性にとって生涯命を賭ける仕事の意味ということを理解することは出来ないということを意味した。しかし人間とは自分にない要素自体に、積極的に自分自身を同化させたいと願う変身願望もあるのである。いや自分とは全く縁のない相手を手練手管で所有したいという悪辣な欲望さえ人間にはあるのである。しかし女性の方がより男性よりもその欲望を聖人ぶった装いの下で展開させることが巧いということは言えると思う。
 私はだから相手が娼婦であるとか、異性経験が豊富であるとか言うことが倫理的に正しくないと思っていたその女性の肉体関係を持たない前に既に母親化した態度に憤るほど醜さを感じ取ったのである。母親など腐れ縁の実の母親一人でいい。男女の仲とは端的に倫理など関係がないのである。端的に極めて悪女である処女も大勢いるのである。だから私は渡辺淳一氏が男性は清楚な女性を先天的に欲情する、というようなことを述べる(「欲情の作法」幻冬社刊)と、何故か反発を覚えるのである。清楚であることに如何程の価値があると言うのか?
 しかしそれすら私が私固有の経験から得た真理であるに過ぎない。全く逆の経験をなさっている方も大勢おられるであろう。だからその常に相反する真理がある、という一点に関心があって、記述する もの書き がいたとしたら、それは私とは正反対のタイプである、と言える。少なくともそういった価値観とか、経験から得た真理ということにおいて、私は自分が経験していないことに対しても理解を示すような書き方が一切出来ないし、そのことに対して正直でいたいのである。
 だからこそ私は私が書くものの性格は、ある意味ではかなり少数の人からしか共感も、理解も得られないのではないか、ということに対して常に自覚的なのである。そういう意味では私はどちらかと言うと小浜逸郎氏よりは中島義道氏にスタンスは近いと言えるかも知れない。しかしスタンスが近いからと言って、私は自分の良心に対する非難とか、家族に対する中傷などを中島氏のようには一切したくはない。勿論父はとっくに亡くなっているし、母は未だ健在であるが、そのことを取り立てて書きたい(どんな家族にも葛藤くらいは存在する)とも思わない。幾つかの蟠りがあったとしても、それは死ぬまで心の奥底に秘めたままにしておきたい。それが書くことにおける私の価値観と言えば価値観とも言える。 
 十二章から本章までかなり主観的な流れで書いてきたが次章ではそれらのことを今度は少し第一章で触れた分析、綜合的観点から、意図的に体系的に捉えて考えてみたい。

Wednesday, November 11, 2009

第十五章 孤独に強くなっていくことの価値

 私たちにとって成功者とは、端的に自らの復讐に共感者をつき合わせているということなのである。そしてそのような成功者に対していつまでも偶像崇拝している必要などない。成功という価値自体が極めて脆弱な幻想でしかないからである。成功とはそれ自体が価値であるとした瞬間にただの権威主義に脱落する運命にある。だから逆にあまり他人を信用し過ぎないということ、そして他人を信用しないで孤独に生きていくこと自体に寂寥感を一切抱かないで生活していくということを心がけることを一つの価値としていくことには意味があるように思われる。つまり私たちにとって一番問題なのは、端的に他者からあまりよく思われないこと自体に恐怖することなのである。勿論必要以上に悪い印象を与えたり、敵対していったりする必要など更々ない。しかし必要以上に他者から好印象を得ようという気持ちになることはないどころか、そのような心理は自己を常に追い詰めること以外には何も得させない。価値とは他者との間に相互にあるというのは常に社会の側から個に対するお題目でしかない。端的に価値とは自分にとってそう思えるものだけである。その中には既に自己とはどういうことかと述べた箇所で言ったが、他者からすれば自分の内部の切実なことでさえ一般的な事例でしかないのである。と言うことは既にその段階で価値とは孤独の中からしか生まれないし、他者からの期待とか、共有とかを求める時点で迷妄であることを知るべきであろう。だから逆に自分の中の切実な価値を他者一般に、あるいは特定の親しい他者に対してでもいいが、そもそも理解して貰おうという下心自体を全て除去すべきなのである。と言うことは極論すれば全ての個人にとって価値あることとは、誰とも共有し合えないという事実だけが一般的価値であるとも言えるだろう。
 つまり価値とは他人、他者に容認して貰うような筋合いのものではない、ということなのである。その共有不可能性の中にこそ価値が価値たる所以がある。それは私にとっては切実だし、唯一のものであるが、他人にとっては恐らくどうでもいいものである可能性の方がずっと大きいということに対する覚醒だけが価値を意味あるものにする、ということである。これは真理である。だからある価値が真にある個人にとって価値があるということは翻って考えてみれば、誰にも理解出来ないことなのに自分の内部ではずっと維持し続ける自信がある、ということに尽きる。
 何故そうなるのか?それは端的に価値自体とは、どの成員にとっても他者の価値と比較しようがないからである。従って価値とは個人的に大事にするものであって、公的なものではないということをどんな公権力でさえ知っているのである。だから逆に一般的価値とはそのように他者の価値をそう容易に踏みにじるものではないという公共精神だけである、ということになる。そこにある意味では社会全体の個に対する不干渉の徹底という態度が生み出されるのである。だから孤独に強くなっていく価値と私が本章を名づけたのは、他者には他者の価値があり、それを侵害出来ない以上、価値同士を突き合わせることが不可能なのだから、価値自体を他者に説得したり、共有を強いたりすること自体を一切放棄することから価値を考えるしかないのであるから、孤独に強くなっていく価値とはイコール価値は自分の内部に留めておくこと、それだけが自らの価値を守ることが出来るという意味なのである。

Saturday, November 7, 2009

第十四章 社会的成功という価値

 社会的成功という事実は、実は全ての成功した人間にとって没落の兆し以外のものではない。それは何故か?何故なら成功自体が極めて脆弱なモティヴェーションから成立しているからである。
 例えば出版界で流行作家的地位にある人の多くは、自身の挫折体験を告白したり、自らの最大の人生の失敗を売りものにしたりしているからである。それは端的にそう告白することを通して何ら自分のような挫折体験のない人たちに対して、そんなことだから成功しないのです、と宣言することを通した復讐を意味するからである。つまり成功とは何物かに対する復讐をやり遂げるという要素が極めて強いのである。
 それは数年前まで人気があり長く権力の座にいた宰相にも言えることである。端的に政界で彼のことを真剣に相手にする政治家など一人もいなかった。また人を愛することが出来ないと言って多く本を出版している哲学者もそうである。氏は若い頃に人生に受けた挫折感を共有し得る読者層だけを相手にして出版界の成功を勝ち得ている。あるいは変人を受け容れる素地のあるイギリスの学問的風土を称揚しつつ、それでいて変人にはある厳密なルールがあるなどと言う脳科学者もそうである。誰からも相手にされなかった自身の青春とその時に受けた差別的眼差しをした人たちに対する精神的復讐において成功を勝ち得ているのである。
 だからそのようにして勝ち得た成功とはそもそも成功しないままでいる人たちから次第に疎んじられる。そんな被害妄想にいつまでもつきあってなどいれないとそう徐々に判断されていってしまうからである。しかし予想外に成功がそのような自分が疎んじられたことに対する復讐という要素が皆無であることの方が実は少ない。だから仏教的な言説から言えば、そのように成功をしようと思い、成功出来ないままでいること自体が特定の人々が自分を疎外しているのだと考えることがあったなら、既に仮に成功をしたとしても、長くその地位を持続することが困難な脆弱な復讐的要素の濃厚な成功者でしかない、ということを意味するのである。
 だから成功とか不成功とか考えること自体を放棄すること、あるいは他者を妬むこと自体を放棄することが一番対自分ということでも、対他者ということでも問題なく生きていける精神的状態である、という仏教的考えは正しい。価値はだから宗教倫理的に言えば、獲得することに執着することによって無価値になってしまうと考えた方がよい。元々必要以上に望まなければ決して失われてしまうという気持ちになどならないからである。
 となるといっそ生きていること自体が既に無価値である、とそう考えることも一つの方便である。と言うのもこの社会には私自身気づいたこととして、必要以上に他者の中の成功欲求に敏感な者がいるものである。その種の成員は自分には一切の未来がないことを知っていて、未来に希望を抱いている成員に対してただ嫉妬をし、その希望を打ち砕くことだけが生き甲斐だからである。例えばあまり成功していない五十歳の中年が野心満々の十九歳の青年より倍以上人生を生きて来たのだから、何とか相手を説き伏せることが可能だと思ったり、凡庸に生きて来た七十五歳の老人が未だ人生に一花咲かせようと目論んでいる五十歳の中年に対して何か人生の役に立つようなことを言って、感謝されたいと望んだりしてもそんなことは一切巧くいく筈がない。何故なら人間という生き物はそういう下心を読むことだけは他のことがあまり得意ではなくても誰しも備えている能力だからである。
 人間とは自分が生まれてからのことを全て見抜くことが出来る他人など一人もいないということを誰しも知っているからである。親でさえ自分のことを百パーセント理解しているわけではない。ましたや他人なら尚更である。だから私もそういう素振りや口ぶりで接近してきた大勢の年配者をずっと警戒してきた。つまり自分の親でも自分の子供でも百パーセント理解しきっている者など一人もいない。ましてや他人なら尚更である。それを知らない愚者は一人もいない。
 つまり人の心をどうすることも出来ないということに対する諦念だけが全てをあまり失望させることなく運用させていくものであるとも言えるのだ。だから成功者が真にそういうことを心得ているのなら、いっそ自己の成功を疎ましく思う筈である。しかしそのようなタイプの殊勝な成功者というものはとんと見かけない。従って多くの成功者は運よく復讐を遂げて悦に浸っているだけのことなのである。だからこそ成功をしたという事実は既にそれだけに没落の兆し以外の何物でもないのである。

Thursday, November 5, 2009

第十三章 倫理的価値自体を悪用することの器用さを暗に認める人間の狡さ

 日本社会には日本社会の、恐らく同じようにアメリカ社会にはアメリカ社会に固有の器用に生きることを暗に認め、そういうタイプの人間を憧れ、真剣に生きる人を小馬鹿にする風潮はいつの時代にも散見されることである。小器用に振舞い、問題を起こさずしかしいざとなったら、即座に問題にかかわりたくはなく逃げて行ってしまうような小狡い人間が何と多いことか。それはこういう問題は真剣に討議すべきことであるが、それ以外のことはとるに足らず、問題にしてしまうとその処理に追われ、仕事量を増やすだけであるとする管理者側の惰性的、怠慢的エゴイズムから発生する態度であるに過ぎない。
 しかし日本人はそういうタイプの小狡い器用な人間は決して告発せず、そうではなく不器用に、苦情を訴えるタイプの人間を逆に差別するのである。
 日本人はそれが苦情を言わない美徳として罷り通っており、アメリカでは苦情を言う美徳として罷り通っているだけのことである。苦情を言ってまず損をするのは日本人であるから日本人は苦情自体を誰か別の人にさせておこう、とそう思う。アメリカ人は恐らく逆である。何もかも苦情を言うことで、苦情を言わないことで発生する損を回避して生活しているのである。しかしそのどちらとも理想的な社会の通念であるとは言い難い。要するにただ社会に存在する不文律を承知で、損をしないで、建設的であろうとしないだけである。いつの時代でも建設的であろうとすればするほど、衝突が大きいことになる。しかしそれは厭だから、日本人の場合には常に沈黙することで権利を守り、アメリカ人は常に衝突することで、こちらに非がある場合ですら声高に主張するサイドの方が得をすることを承知で、沈黙を破ることだけを不文律としているのである。
 この二つの例は社会通念全体が価値観にまで影響を与えている好例である。それは端的に価値自体を創造的に捉えようという態度ではない。価値は規制されていて、その範囲内で落ち度なく生活すればよいという判断である。私がこのようなタイプの論文を執筆した一番大きな理由はそこにある。
 つまり価値自体を与えられたもの、自ら作り出すのではなく、あくまで規制の枠組からしか考えられないままでいることに平然としていること、これこそが最も忌むべき価値観なのである。しかし実際はこのような生き方で甘んじている人はかなり多い。価値は創出するべきものである、という考えで生きているということ自体が齎す他者との間での衝突自体を回避しようという態度だけがどの国にも支配しているのではないだろうか?
 確かニーチェかエマニュエル・レヴィナスだったと記憶しているが、強い人が結局のところあまりにもその能力に対する周囲に嫉妬とか、警戒感によって弱くされてしまうという現象が津々浦々に及んでいるように私には思える。端的に責任を負おうとするタイプの態度の成員全体に対する暗黙の排斥意識が日本人も強いし、恐らく他の国民にも同様の心理が張り巡らされていることだろう。それは責任を負うことによる精神的負担を未然に防止しようとする自己防衛心によるものである。そしてそのような極度の全体的な責任転嫁が次第に弱いように振舞う狡猾な態度の、しかも用意周到に他者からの一切の要請を遮断しているのに、あまりにもその逃げ方が巧妙なので知性を醸し、一見紳士的なタイプの成員だけが巧妙に難事に関わることなく安泰でいるという事態が招聘される。
 そのように巧妙に真意を隠蔽し、何か心底に意志を秘めているかの如く振舞うその柔らかい物腰だけが倫理であるかのように倫理的価値を悪用し、不器用に衝突を繰り返すタイプの成員に対して、要領が悪いということで敬遠していく、その蓄積が真意を次第に人間から奪っていく。そして適当に倫理を悪用する成員の言葉巧みな戦術にただ乗せられていくようになるのである。
 ちょっと気弱で他者に対して何も、緊張してしまい、言えなくなる人に一言、人間社会では大物である必要などないのである。そもそもこの者が大物であると決められる者がいるとしたら、それは神だけである。だって人間は常に対立している立場がどの成員にもあり、その対立においてどちらかに味方すればその敵が悪ということになるだけだからである。従って完全に正しい者、つまりそれを采配出来る大物というのは全てまやかしなのである。それは特に私のように神を一切信じないタイプの成員にとってはそうである。しかし人間はどこかで大物を尊崇する、そういう部分がある。だからこそ大物ぶる、と言うより自然に他者全般からあたかも大物であるように錯覚されるように自分を持っていくことが社会を巧く渡っていく秘訣である。大物である必要などない、そもそもそんな価値判断自体が幻想なのだから。従って大物のように思われるように自分を見せかけること、それくらいに許容される悪を十二分に行使することだけがあまり他者から激突されずに済む方法ではないだろうか?だって倫理的価値を遵守しているように狡猾に振舞って巧妙に責任転嫁してきている人が周囲に大勢いるのである。従ってそれくらいの悪の行使を悪いなどと思わない方が良いのである。それが出来たならあなたも立派な倫理的価値の悪用者である。

Wednesday, November 4, 2009

第十二章 倫理的なこととは倫理的ではないものに対する規制である・人間の残酷さについて

 私たちは通常倫理的である、と言う時、それが倫理的であることが適切な場合には価値的倫理としてそれを称揚する。人類が何らかの種全体の生命維持の危機に瀕した時明らかに人類全体が結束することは価値的倫理である。しかしそういう非常時だからこそ、結束し合った人たち同士で時にジョークを言い合ったりすること自体もまた価値的倫理である。そしてそういう気の利いたジョークを倫理的価値があると言うこともまた正しいだろう。
 一方私たちは公共の新聞やテレビのインタヴューなどで「今あなたは何が一番したいですか?」とか「あなたの最大の望みとは一体何ですか?」と質問されて、「多くの女性と肉体関係を結ぶことです」と返答することは通常あまり適切ではない、いや絶対あってはならないという意見も含めると、そう返答することは憚られる。しかし結婚している人が浮気を時にはしたくなる、と考えることはよくあることだし、事実宗教的な教義とか信仰上の理由からそういう行為はおろか、願うことでさえいけないことである、として拒否することも含めて、そのように敢えて忌避しなければならないということ内に、既にそういう願望は誰しもある、ということを社会全体が容認していることを意味する。
 男性は生物学的にそういう願望は誰しも持っているということだけではなく、見得的な意味からそういう状態を維持したいと考えることは、少なくとも願望においてそう考えることは、それを直接公共の紙面とか電波で言わなければ別に構わない、と少なくとも宗教的信仰を一切持たない人はそう考えるかも知れない。
 と言うことは心からそういう願いを持つことはいけないと考えて、それを問うこと自体もはしたないとそう考える向きも含めて、実際倫理的なこと、つまり倫理的な社会通念自体が、そのように一瞬でも考えてしまうこと自体に対する戒めとして作用していることを意味しないだろうか?
 つまり倫理的である、ということ自体が、私たちの願望とか、心理においてどうしても逃れなれないようなタイプの生来的な悪の本能に対してそれを抑制する意図で設けられている、意図的に設定されてきた、とも言える。そればかりではない。人間は他人に対してその言葉がおかしいと思う時、その言葉が自分を笑わせようと意識して言うジョークに対してのみ反応するわけではない。無意識に何か言い間違いをした時に思わず噴き出してしまうものである。これは他人の失敗を見て喜ぶということだから、生来の部分に人間は他人の不幸を見ておかしいと感じる部分、つまり悪の部分が誰しもある、ということを意味する。これは感動自体が、感動する対象が誰からも相手にされない境遇に対してなされるということが、その境遇をでは自分が率先して取り除こうとまで誰しも思わないという例の真理とも相通じる。
 つまり倫理的価値を必要とするということ自体に既に非倫理的、と言うより、そもそも倫理など一切ない状態、それは言葉とか言語がない状態の人類に対する仮定なのだが、そういう状態では何が起きてもおかしくはない、という事実に対する覚醒を意味しており、言語を通して、倫理的規範を設けていること自体に既に我々が我々の内部に残酷な部分、端的に他人の失敗を見ておかしいと思うこと、あるいはパートナーに対する配慮とは関係なく他のパートナーに対しても性的に関心を持ってしまうという性向を認めている、端的に自らの悪に自覚的である、ということを意味する。
 それは価値自体にもまた、悪をも容認する、つまり社会全体が無秩序に陥らない限りで必要悪的に個人の自由を認めること、あるいは仕事上で常に完璧ではない態度と仕事振りでもずっと永続的にその仕事に従事していけそうなタイプの人を重視するとか、世の中はそのような価値的枠組のフレクシビリティを求めてさえいる。
 つまり倫理的であるとは、全く倫理がない状態に対してなら、価値的に捉え得るも、一定の倫理的秩序を維持し得ているような状況では、殊更声高にそれを叫ぶこと自体をあまり価値的には見ないということ、例えば管理職になっている人が部下たちに対して、一定の許容的態度で接するべきである、と言う時、明らかに部下の小さなミスに対しては寛容であるべきなのであり、言うべき時には言わなければならない、つまり倫理的価値を重要視しなければならないが、一定のレヴェルで部下たちがそれを履行し得ているのなら、振り翳すべき倫理が価値的倫理であるか否かの判断を持ち、ある時には倫理的な言説を控えるというような態度の採り方を学んでいく必要がある。
 何故そう言えるか、と言うと、人間はどんなに犯罪に走るようなタイプの人間でさえ、「倫理的なこととは倫理的ではないものに対する規制である」ということを重々承知であるからである。そして何故それを承知しているか、と言うと、誰しも自分が他人の小さな失敗を見ておかしいと感じ、端的にそれは喜んでいることなのだが、つまりそういう自分の性向を承知しているからなのである。それが小さな内ならいいが、度を越すと確かに差別へと繋がる。事実そういう風にして差別は作られていく。つまり倫理的価値が何かに対してある、と規定し得ること自体に既に我々は自らの悪、残酷さに対する自覚がある、と見てよい。

Sunday, November 1, 2009

第十一章 価値的倫理と倫理的価値

 私たちが倫理的な意味において価値を考える時、前章で触れたように、他者もまた自分と同様運命の固有性を生きているとそう考えることが出来る能力こそが自己だ、と捉えたが、そのように自分だけが特殊な存在であることを誰しも考えるが、そのように考えること自体はかなり一般的なことである、とすること自体が極めて倫理的発想のものである。
 そしてそのように考え、他者との間で協調したり、譲歩したり、協力したり、相手からの要請に応じたり、あるいは逆に他者を遠ざけたり、相手の要求を拒否したり、相手からの要請を断ったりすること自体に対して、その行為の正当性を問うこともまた、倫理的な問いであると言えるだろう。つまりあらゆるケース毎に何らかの倫理的価値付けが可能だからである。
 一方倫理的な問い自体をそれがでは一体本当に意味のある問いであるのか、そう問うことも可能である。例えば今言った相手に対してポジティヴに接するか、ネガティヴに接するかということに対して「それはいいことである」とか「あまり適切ではない」とか「改善の余地がある行為であった」とか反省的意識を持ったり、適切性において判断したりすることそのものは、それ自体倫理的問いであるとは言えるものの、そのように倫理的に問うこと自体が果たして有効であるか否かは、そのケース毎に異なると言える。するとその時倫理的に何もかも問うことだけが全てではない、というもう一つの価値判断も成立するから、当然価値的倫理とか、無価値的倫理といった判断も成立することになろう。
 つまり倫理ということに対する問い自体は、有効である場合もあるし、そう問うこと自体が無意味な場合もある、ということである。従って倫理的価値があるもの自体に価値がある場合もあるが、却って倫理的価値があるがために、そのもの自体がある場合には無価値になってしまうということも十分あり得ることになる。
 実際にそういうことというのは多々日常的にはある。お笑いの番組を見ていたり、相手のジョークを受けて笑ったりする時そのお笑い番組でタレントたちが言っているギャグを聴いて、笑った時、その笑いの意味を解析し、「でもそれはこういう時に言うのはおかしいのではないか」とその番組を見て笑った家族を見て、批評すること自体は家族内友愛という観点から言えば建設的であるとは言えない。笑うこと自体に意味があるのだから、笑いそのものの適切性を批評することはお門違いである。また相手が咄嗟にジョークを言って、それを理解しているのに、「それはどういう意味なのかな」と考えるふりを相手に示したとしたら、それは他者の言うことをよく聞くべきであり、その真意をよく考えるべきであるという訓示を誤って理解していることになる。ジョークを言っている時にはジョークを聞く体勢でいるべきなのであり、ジョークではない時の話し方とそういう時の話し方は異なっている筈だから、逆にジョークを言われている時にはそのジョークを言っているという相手の真意を汲み取る必要があるからだ。勿論そのジョークを言う状況か否かという判断の適切性というものがあるから、ジョークだからいつどのような状況でも許されるというものではない。
 だから今言ったことから言えば、ジョークを相手が言っていることをその状況下で判断することの適切性において、倫理的価値を求めても仕方がないケースとしてお笑い番組を見ている間の家族団らんや相手からジョークを言われた時の反応の適切性というものが位置づけられ、それはお笑い番組のタレントのギャグを笑うためのものであると理解することを理解したと明示するのではなくただ笑えばよい、ということ自体は倫理的価値であるが、ではそのようにある状況においてお笑い番組を見て笑ったり、相手にジョークを言ったりして笑わせること自体に意味があるのかどうかということ自体は、価値的倫理、つまりある状況において笑う行為自体が倫理的であるとする判断自体の適切性について正否を言うことが出来る。「その時笑ったのは、倫理的であったり、それは倫理的に判断したりすることが適切だから、従って価値的倫理である」ということになる。尤もそのように小難しく言うわけではない、例えばある人が別の彼からジョークを言われたりした時に、そのことを変に悪くとって気に病んでいた場合、そのことを相談した相手から「その時そうジョークを君に言ったこと自体は彼も大人気ないけれど(倫理的ではないけれど)、それを特別に気にし続けるという君の気持ち自体も(そういう風に倫理的な判断を持ち出すこと自体も)あまり意味のあることではない(価値があるものではない)」と言う場合、明らかに彼がある人に言ったこと自体は倫理的価値の範疇で判断され得るけれど、その判断自体をあまり大きなものとして考えること自体に対しては、価値的倫理の正否で判断されている。「それをそれほど大袈裟に考え過ぎること自体は無意味である」ということは「それは価値的倫理ではない、つまり無価値的倫理である」と言ってよいだろう。

Wednesday, October 28, 2009

第十章 自己とは何か

 行為が既に他者との関係を有しているということから、私たちは自己に関しても、他者に関しても行為を倫理規定的にしか捉えられないという運命を知った。しかし倫理とはでは一体何かと問うことは本質的命題だが、直接そこへ行くには少し早い。そこでまず自己とは何かということを問わねばならない。
 この問題に関しては発達心理学者の浜田寿美男氏の「「私」とは何か」においてかなり詳細に論じられており、そこでは他者を前にして自己‐他者の能動‐受動関係を得ることがあっても、それは一人でいる時には直接成り立たない。だがやはり一人でいる時にも我々はその関係を内的に抱え込むと浜田氏は考えているが、これは全く正しい。つまり自己とは端的に他者が目前にいないのであれば、その代わりに自分自身の中にも他者を作る能力のことを言うのである。と言うことは私たちは自己という実質的他者を自分の中に抱え込んで生きているということになる。
 倫理とか価値のことを言う時この問題に触れないわけにはいかない。そしてそれは私的価値と公共的価値が二重にある、ということ自体を、実はそのように考えてしまうこと自体から検証する必要性を訴えている。何故私たちは私的なことを公的なことと区別して考えるのだろうか?それは私的なこと自体が本当に自分だけの問題ではないということを知っているからである。
 確かに独我論的には私たちは私自身のことからしか世界は開けていないとそう言い得る。しかしそれは私が一人でそう思っていても、そう思っているということが恐らく私だけではないだろう、という観点を私が抱え込まないということを意味しない。それどころか独我論という問い自体が既に他者を前提している、つまり自分の目、自分の気持ちからしか世界というものを把握することが出来ない、とそう言った瞬間に、実はそれが自分自身に固有の問題なのではなく、そう言えること自体からして公的な問題でもある、とそう言う自分が一番よく知っているということなのである。だから自己とはある意味では自分の中に目前に他者、他人がいなくても他者を主体的に作り得る能力であると同時に、自分自身でしかないように思われること、独我論的世界観自体が既に他者に語りかけている、つまり「これだけは自分自身でしかあり得ない」と考えること、あるいはそれを他者に語ること自体が既に、語る能力において、あるいはそれ以前の考える能力において、世界は自分の側の見えでしかないということではない、本質的に世界の見えとは私以外の誰にとっても大事なものとして携えているものであるという歴然とした事実を内包しているということなのである。だからもっと簡単に言えば自己とは自分の内に他者を作る能力であると同時に、どんなに自分自身でしかないと思っても、実はそう思うこと(能力)自体が他の全ての存在者とそう変わらないということを気づく能力でもあるのである。
 と言うことは自己とは自分という存在が他者から見たら、私にとっての他者と同様のただの一般的他者でしかないということに対する覚醒でもあるのである。
 人は皆自分だけが特殊だ、と思っても、実際他の人たちは皆酸素を吸って生きているが、私だけは二酸化炭素を吸って生きているわけではない、と知ることも出来る。確かに自分の運命とは固有なものだ。しかし自分以外の誰しもがその固有なものを抱えて生きているのなら、自分の運命の固有さとは一般的なことでもあるのだ。つまり誰一人固有ではない者などいない、という意味において。だからこそ逆に自分の固有さとは却って一般的なことでしかないのである。とりわけ自分以外の他者にとっては。そしてそれは誰しもそうなのである。私だけがその固有さを一般的なこととして見られているのではないのだ。つまりそのことに対する自覚こそが自己ということを獲得することである、と言い得るであろう。

Monday, October 26, 2009

第九章 価値は見出された途端に権威主義に堕す

 価値は最初価値などないと思われ続けている間はずっと規制の価値に反抗し、抵抗し続けているわけだから、純粋な志向を持っている。しかしそれが一旦世間一般に認可された途端に、守りの体勢に入って行ってしまい、端的に権威主義に堕すという運命を持っている。価値は価値があると意識された途端に純粋に見られることを拒むからである。感動の質とは、それが素晴らしいものであるという先入観がなければないほど純粋である。従って価値とはそれが価値であると認可された途端、それを価値ありとする人にとっても、その価値ある行為をしたり、価値ある事物を創造した人にとっても一挙に守りの体勢へと突入する。だから相撲の力士が十日目を過ぎた辺りで全勝できている場合、優勝の二文字が脳裏にちらつき、通常であるなら難なく勝てる相手に足を掬われることも往々にしてある。
 ある作家がある作品を世に出し、それが価値ありと認められた後に作る作品はかなりその価値に対する評価ということを意識せずに作ることは困難である。その意識を跳ね除けても恐らく前作同様に高く評価されることは極めて少ない。それでも前作と同じようなタイプでしかも受け狙いのものではないものを堂々と発表出来るのであれば、まだその作家の将来は目先の評価を当てにしていないだけ見込みがあるというものである。つまり誰からも認められない作品を作り続けていく勇気がある内はその作家は守りの体勢に抵抗している証拠だからである。
 全ての行為は他者に自分の行為を説明する段において、その正当性の主張を性格として帯びてしまう。従って価値と認められる行為がそれを意識してしまうことを予め承知しているからと言って、自分の行為がいつまでも価値的に評価されないままでよいと判断しても、それ自体が価値を意識して堕すことのない本当に価値ある行為だと意識しているのなら、やはり評価される価値同様その瞬間から堕してゆく運命にある。つまり他者の視線を暗に意図していることになってしまう(そういう場合は大体後世では誰かが認めてくれるだろうとか、知らない人が判断したら価値として認めてくれるだろうという期待がある)。
 従って全ての行為は、行為する限りにおいて何らかの価値評定を求めることを志向してしまっていて、その事実を容認することを厭わずに済ますことなど出来はしない。
 つまり評価されることによる堕落という運命をも引き受ける覚悟もまた、行為には求められている、ということになる。何故そうなのか?それは全ての行為が結果的に何らかの形で他者を巻き込み、また自己の行為自体も既に行為する段において他者によって既になされている行為と因果的に結びついていることを知るより他はないからなのである。その意味では行為は既になされる前に既に価値‐無価値の規範に含み込まれているのだ。
 これはシジフォスが岩を山頂に運ぶことに等しいとも言える。だから行為とは潜在的には悪を、行為が価値的に容認されることで発生させる慢心を巣食わせる自己に対しても、あるいは行為を価値であると容認することで権威主義に加担して、見逃されていく他の価値に対して無視することを決め込むように他者に対しても運命論的に誘発させる可能性として予め内在させているのだ。
 それは言葉を変えれば、人間が行う全てのことが、自己と他者の関係を作る以上、善悪や価値‐無価値という評定を免れ得る行為など一つもないということ、そして行為を行為として規定し得るということ自体が既に善も悪も発生させてしまうことを意味している。と言うことからも行為が既に倫理規定性を帯びているということが言える。倫理規定の中に価値‐無価値という判断もまた位置づけることが可能である。

Friday, October 23, 2009

第八章 価値を認めることと感動するものを必要とすること②

 そして私たちは価値あるものを求めるということの内に、その価値あるものに対して感動したり、そのように感動させるものが人間である場合には、天才と呼ぶようになる。しかし私たちはその人間に感動しているのではなく、その人間の行為や作品、仕事、業績に対して感動しているのである。所謂人間性に魅力を感じているわけではないのだ。価値があるものを生み出す、あるいは価値があるものを見出す力量とは、その人間をある意味ではそうではない人間よりは世間的には全うではないというイメージを与え続けることだろう。それは奇行というよりは、寧ろ何もならないことに精を出す変人、無意味なことに拘り続ける偏屈という命名を与えられることになるものの方にずっと近いだろう。それでもそのようなタイプの人間の行為や思想が認められない内は誰も相手にしないが、一旦そこに価値があると触れ込まれる(それは大体権威ある人による発言が多い)と、途端に手のひらを返したようになってしまう。つまりそれまでは積極的に価値ある行為や思想を見抜けず烏合の衆であったのに、その瞬間から悔い改めるように心がける、しかしその実そうすること自体で既に自分は価値があるものを一切見抜けないただの凡人であることを証明してもいるということに大概私たちは気づこうとしないのだ。
 すると価値のメカニズムの第一の条件とは、価値とは、それを容認しないままでいることが権威主義であること、つまりあるものの価値を見抜けないということが既に価値として容認されている範囲内でしか全てを判断し得ないという多くの無能力を価値として認められる以前において価値を価値あらしめるために必要とするということだから、価値あるもの自体は最初から一度として規制の価値、つまりあらゆる権威に反抗していく、規制の価値や権威を一切認められないという資質を要求されることになる。
 すると既に認められている価値自体も新たな価値が見出されても尚、価値が剥奪され得ないのであれば、尚のこと、価値とは林立してしかも相互に価値同士は衝突し合うという運命を引き受けており、しかし価値同士の対立自体は致し方ない現実であるとされながらも、ある価値にとって対立する別の価値は、そのことによって価値ではないとその地位を剥奪されることがないのであれば、全ての価値は相対的であるということを認めることになり、また同時にある価値が主張することそのものも決して万能ではないばかりか、別の価値にとっては害悪以外の何物でもないということを価値が価値である段で既に意味してしまっている。しかしある価値にとっては自分だけが最高のものであり、それ以外は決して容認し得ないのであるから、相対論を容認するわけにはいかない。すると或る人にとっては価値とは常にあらゆる林立するものの中から選択するものでしかなく、一旦選択してしまったなら、それを反故にすることが出来ないという一点でのみ他の価値を排斥していかなければならないということをも意味する。もしそうではなく相互に対立する価値を双方認め得るのであれば、それは自己欺瞞的な考えにしか過ぎず、本当に個々の価値に対しては見誤っているとしか言いようがなくなってしまう。しかしその手のタイプが圧倒的に多いにもかかわらず、困ったことには殆どの人間が自分だけはそうではない、とそう思い込みたいのである。
 一人の人間にとってある瞬間においては一つのことにしか感動出来ない筈である。しかし人間は常にそのある瞬間のためだけに生きているわけではない。そして瞬間は常に移ろいゆく。つまり感動の質も、価値として容認し得るものの質も推移していく。その推移という現実に対する認知こそが私たちを自分だけは相対主義者でもなければ、個々の価値を見誤っているということに対して「そうではない」と思いたいようにさせているのである。

Tuesday, October 20, 2009

第八章  価値を認めることと感動するものを必要とすること①

 既に述べたことだが、私たちは感動するものに対して、それが虐げられ、あらゆる努力が無視されていればいるほど感動の対象とする。と言うことは即ち感動を与えるものを必要とするということの内に感動するものを作り出すために必要なあらゆる感動出来ないこと、つまり凡庸で、素晴らしい行為や努力を一切認めない平凡で死ねば誰も顧みないにもかかわらず、生きている間は結構巧く他人とやっていける大勢の人間を容認していることになる。感動するものを価値と認める一方、感動出来ない多くの無価値を同時に常に必要としており、そのコントラストを作り出すために積極的に世の中にある差別一切を黙認しているのだ。だからこそ人間はそれが自分たちにとって必要なものであるという認識である最高のものとしての価値の中に既に価値と言い出す瞬間に既に悪を不可欠の要素として含ませているのである。と言うことは価値を存在し得る最高の認識として容認する段において既に私たちはあらゆる悪や、あらゆる無策、あらゆる不平や不正に対する無関心を容認し、それら一切に対する解決を常に先送りして、自分がそれらを解決することが出来るくらい能力を備えてはいないということを価値と言うことを通して宣言し、価値を認めることに吝かではないという宣言を通して自分の無力を世間一般に是認させているのである。それは責任を一切負わないということに対する世間一般からの是認を得ることだけのために人間が生きていく上で価値を求めるということを既に自分でも気づいているということなのだ。
 ショーペンハウアーは「存在と苦悩」において「苦悩とは天才を育てる条件である」と言っているそうである。と言うことは天才を必要とするという段階で既に、天才が価値あるか否かはともかく一人の天才を作り出すためには天才ではない大勢の、そしてその天才を一切認めない凡庸な市民を必要としている、と言っていることと同じである。しかし恐らくそういうショーペンハウアー自身も、では一体誰が隠れていて、本当は素晴らしい行為をしているのに天才だと誰しもが見損なっている人なのか、それを言い当てることが出来ないということに対しても自覚的だったのではないだろうか?つまりだからこそ天才にとっては苦悩が生み出される条件として必要だということになるのだ。いや天才は予め天才なのではなく、ある苦悩によって生み出される、苦悩に苛まれているという状況とか状態の中でそれを除去しようと必死になって努力する中のほんの一部だけが天才になり得るということをショーペンハウアーは言いたかったのだ。
 だから必然的に天才とは偶然が生み出すということにもなる。その天才という部分こそ人類にとっての財産であり、天才が生み出されること自体が人類にとっての価値であると言うのなら、価値とは常に後付的に偶然を必然化する思惟こそが生み出していることになる。つまり価値とは既にあるものに対する命名なのではなく、生み出されてきたものに対して「それこそが価値だ」と発見し得るような状況においてのみ規定され得るものということになる。

Saturday, October 17, 2009

第七章  パフォーミングアーティストにとっての生きている価値・スポーツパーソンにとっての生きている価値

 私自身は仕事上でのリアルなライヴ感という意味で最大のものはパフォーミングアーティストであると思っている。確かに運動を伴った躍動という意味でライヴ感の最大のものはスポーツである。しかしスポーツの場合、スポーツマンの死とは端的に競技からの引退以外のものではない。引退後かつての名選手が死去するという事実は、ただ単に普通の人の死であるに過ぎない。
 しかしパフォーミングアーティストたちは、ミュージシャンであれ、芸人であれ、落語家、コメディアン、ダンサーたちは全て死ぬまで引退ということがない。従って死んだ時の空虚感はスポーツパーソンより以上であると言ってよい。スポーツの熱狂は価値的にはやはり生きている人間の人生という位相ではなく、肉体的躍動であり、精神活動である以上に身体活動である。勿論試合そのものには全て心理的要素が濃厚にある。しかしそれにもかかわらず、彼らに求められているのは、メンタルに負けることでなくあくまでも勝ち続けること、つまり自らの肉体をスポーツ的美のサイボーグにすることなのである。だからどんなに苦境に追い込まれてもそれを克服し得た時にのみ評価される。
 しかしパフォーミンングアーティストたちにとってアーティスティックなスタイル、様式、芸風といった全ては実は、克服とか、技能的に精神的苦境に打ち勝つことではない。そもそもアート的傾向のあるもの、それは伝統芸能も含んでだが、それらは負けていること、あるいは打ち勝っていないこと自体もまた一つの表現なのである。
 その意味で囲碁や将棋の世界、あるいはチェスといった世界は明らかにスポーツに近い。つまりゲーム性のある勝負事においては、精神的にまず勝者であること、しかもどんなに苦境があってもそれを乗り越え理性を平素のように保つこと自体が技能となっている。しかし文学とか芸術と同様パフォーミングアーティストたちにとっての技能は、苦悩自体を表現することにあるのである。それは克服して健常である状態で(あるいは近づけて)勝負するのとは違う。
 だからこそ逆にスポーツには一切のデカタンスがない。スポーツには端的に平常人としての理想が常に求められている。病的な天才というものはスポーツ選手にはいない。勿論病をおして試合に出ている人はいる。しかしそれらは端的にそういう風にチャレンジングであること自体として評価される。そして克服した状態であること自体として評価され得るのであり、パフォーミングアーティストたちがそれ自体を日常として引き受け、表現しているわけではない。しかしこのように全く相反する価値を双方が引き受けているという事実自体が、世界が別個の価値の理想を常に共存させ、双方を必要としているということを殆ど多くの人たちが認めているということ自体が一つの価値自体の奇蹟である、と言えないだろうか?
 勿論パフォーミングアートの特定の分野にしか興味のない人は大勢いるだろうし、逆にスポーツのある競技だけにしか関心のない人も大勢いるだろう。しかし彼らとて自分にとってあまり関心のない分野が消滅してしまえばよい、とまでは思わないだろう(それは中にはいるのだろうが)。

Thursday, October 15, 2009

第六章 公共的価値と個人的価値

価値を論じる際にどうしても避けて通れないものに価値には公共的なものと、個人的なものという区分けが個人的にも公共的にも存在している、ということである。価値ある者と言った場合、それは公的には全ての人にとって便利なものであるとか、全ての人に心の潤いを与えるもの、例えば観光的な人気スポットであるとか自然の遺産、あるいはあらゆる利便性を我々に齎すインフラ、自動車、パソコンといった存在が挙げられる。
 しかしそれらは一々価値であると個人的に感慨に耽るように実感し得るものではない。従って個人的な価値とはそういった当然権利として享受し得るものではない、もっとある個人史において切実なものということになる。
 しかし興味深いことにはこの二つの価値を誰しも使い分けているという事実自体に誰しも異論はないのではないか?寧ろそちらの方に私は人類の考えの奥深さを感じる。勿論ある意味では公共的価値が一切破壊されて喪失した状態で私たちは個人的価値云々を言う心の余裕はない。それは戦争を体験された全ての人々に理解しやすいことであろう。あるいは天災においても、私たちは個人の家が破壊されて悲しいということがあっても、未だ生き残っているということがある内は、それほどでもない。つまり全てのインフラ、全ての公共的価値として認可されている事物が破壊されている状態で得られる個人的価値とは人間同士が助け合うような気持ちだけである。そしてそれがあって、初めて個人的価値が生彩を持つ。独裁者による私物化された国家などの場合には個人的価値全体が国家の価値となっている。しかしそういう例外を除いて我々一般の市民にとって個人的価値はそれを維持し得る社会環境を前提としている。公共的価値自体が問われ得るのはそれらが破壊された状態においてで、そういう状況にならない限り、我々は個人的価値だけを常に心に抱いて生活している。引っ越ししたばかりの頃に初めて知り合った人たちとか、行き着けた店といったものは、そういった人たちや店がそこから立ち退いたりした場合固有の感慨を私たちは持つ。
 しかし個人的価値は公共的なものに対しても向けられるが、そうではない本質的に個人的な価値とはやはり人生に対する、生に対する考え方、仕事とは何か、愛とは何かといった世界観の問題である。ある意味ではこれらにさえ公共的価値というものがあるが、それこそ、つまり自然や社会インフラや我々にとって欠くことのできぬツール以外の公共的価値としての人生の在り方とか、愛に対する定義といったものだけが却ってそれが公共的であることを心理的には拒むというところが我々の実感であり、本音である。つまり公共的価値とは外的な環境においてなら賛意を示すことが我々には迷わず出来ても、それが内的世界になると途端に強制と感じてしまう。これはファシズムが心を統一しようとしてきた歴史とも関わっている。
 しかし意外と個人的価値であるように思っている内的世界の心のありようも、多くは他者と共有し得る様相であることにある時期から、つまり思春期以降我々は覚醒していくのである。しかしそれでも尚個人的価値として輝きを内的世界における心のありようが失わないのは、それが他者と比較することが本質的には不可能だからである。
 比較することが出来ないことというのは内的世界だけでなく個人史ということもそうである。つまりどんなに似た境遇、どんなに似た職歴であっても、本質的に人間が違えば、その本質は異なる。その個人の経験や体験に根差した価値観だけは比較出来ない。よってそれらの個人の経験とか体験から得た価値観こそがその者が死去した後価値となる場合も稀にはあるだろう。しかしそれは生きている内は公的な価値として対象化することは出来ない。それは生きている個人の人権もあるし、行動の自由もあるからである。従って個人の価値観を共有しようとすることが冷徹に出来る人たちとは本質的にその者と生前親しかった人たちではない。個人的交友関係というものはその相手に対する公共的価値において交際しているわけではない。それは個人的価値において触れ合っているだけである。そのこと自体は相互に個人的には価値がある。しかしある偉大な業績とか人生に対する考え自体は、あくまでその業績や考えを抱いていた人と親しくなかった人たちによってのみ、価値を守ることが可能である。それは親しい友人同士では事業は巧くいかない、ということからも明白である。
 価値とはそれ自体どんなに個人的なものであっても、公共的意味を持っている。それは普遍や一般化を志向する。だから逆に公共的価値が大上段に存在すると触れ込まれると、それは幻想ではないかと我々は疑う。つまり公共的価値自体が実は個人的なものではないのか、と。確かにどんなに有名な祭でも、祭自体に行きたいと思わない限り、それは個人的な価値ではない。従って日本全国の有名な祭に参加するということがあったのなら、それこそ個人的価値である。それは日本全国の観光地や、湖や、山や、海岸に訪れるということと本質的には変わりない。つまり公共的な価値自体は、そのいずれを選択しようがそれこそ個人の自由であるが、個人の価値の方は、それを他者が容易に侵害することが出来ないのである。その意味では本質的に人間社会において守られねばならないものとは、個人の価値の方である。それを蔑ろにした社会があるとすれば、それはテロリズム国家であるかファシズム国家である。つまり公共の価値だけが全てであるような、そしてそこには行動や思想の自由は一切保障されていないといったような状態を想像すればよい。
 だから当然祭に参加しない人たちを排斥するような空気を作る社会が有ればそれも同じようにファシズムである。

Tuesday, October 13, 2009

第五章 実在の価値、言葉の価値⑤

 このことは論理的実証性の二分法に水を差すものではない。つまりこれからの倫理学はこのような中間的感情とか苦渋の決断とか真偽に二分され得ない価値をこそ見据えればよいのである。
 もし実在の価値に対して言葉の価値が極めて特殊であるということが真実であるなら、恐らくそれは言葉自体がある部分では極めて論理に加担している、と言うより論理を頼りにしている、という事実に起因する。しかし言葉とは本来この私たちの不条理的ないつかは死ぬという身体とか肉体に宿るものである。そして私たちの情動(生理的なものを中心とした)や感情と共に他者に対してという体裁をとって、外部に出力されるものである筈だ。となると必然的に言葉の価値とは実在の価値の模倣であるべきであり、それが理想であるということになる筈である。にもかかわらず決断における中間的感情を判決自体は無効化するかの如く、私たちは言葉をそれが伝達のツールであるために必要以上に、その言葉の効果(例えば数年前のある人気のあった宰相によるワンフレーズポリティックスのように)から優劣が判断されがちである。従って誠意とか真意よりも、その言葉を(巧みに)操縦すること、そして何よりその言葉自体が意味的、論理的、倫理的、説得力ある言葉自体の美を求めているということになる。
 恐らく実在としての価値の一部であるという意識さえ言葉に対して我々が抱いていてさえ、言葉を固有の魔力として感じ取っていることの根拠はここにある。つまり言葉以上に人々を魅了する説得力あるツールはなかなか他には存在し得ないということなのである。
 すると理想的には次のようになる。言葉とはそれ自体に対して魅力を感じ取ることの可能な対象であるが、それは実在的価値にフィットしていて、その価値を称揚して、実在に対する感謝に満ち溢れている必要があるということになる。つまり言葉の価値とは実在に対する模倣であり写像でありながら且つ象徴であり、鼓舞である必要があるのである。
 でもそう言い得るためには言葉自体が一つの独立した実在としての価値があるということをまず認めなければならない。

Sunday, October 11, 2009

第五章 実在の価値、言葉の価値④

 今日カレーの匂いを店内に充満させた店が40パーセントも売り上げを上昇させたという話が朝のNHKのニュースで報じられていた。確かにそれは錯覚であり、ヴァーチャルな感性による戦略であるが、心地よく消費するということだって私たちの生活において実体的な意味世界における重要な指針である筈である(同じ買い物をするのにも買うものが同じであるのなら心地よく買った方がいいに決まっている)。
 だからリッチな豪邸が映し出され格好のよいヒーローが活躍するアクション映画がヒットしたとして、それは自分がそういうヒーローのような行動が出来ないということ、そして豪邸などに住むことが出来ないということの精神的な代理作用として溜飲を下げているだけではないのだ。恐らくそういう場面を映画で見ること自体に快楽がある、脳内のドーパミンが活性化するような何らかの根拠がある筈なのである。確かにヴァーチャルな三次元映像とか、その種のヴァーチャルな匂い自体を警戒する考え方もあるだろうが、生理的実在において人間はそういうヴァーチャルなものをリアルマテリアル以外にも求めているのである。そういう観点からすれば現代論理学に一番欠けているものとは、そういう脳内の作用、クオリア的感受に対する新たな意味世界の構築から捉える視点ではないだろうか?
 つまり自分の息子を贔屓することも生理的実在なら、それを敢えて押し殺して論理的な意味=公平で文学の将来を見据えて別の女性の作品にエールを送ることもまた生理的実在からも価値評定出来るということに他ならない。(不公平なことも公平なことも公平に扱う)これまでの論理学であるなら、恐らくただ単純に否定するものを真理的に偽であるからと考えてきた。しかし文学賞で敢え無く落選作にすることを決断する審査員の胸中では次回作を期待したい、というものもあるに違いない。また肯定するものに対しても限りなく不満があるけれど仕方なくそれに対する肯定的意見を提出するということもあり得る。
 しかし論理学では論理的に真偽、正否で判断してきたために中間的なことを捉えきれなかったということと、敢えて苦渋の決断で自分の息子に対して落選とすることだって、ただ単純に文学の真理に沿って判断した、とそう捉えていただろう。しかし違うのである。それは敢えてそういう判断をせざるを得ないという複雑な感情が渦巻いているのである。
 従ってこれまでの論議に拠ると、価値自体も正否とか真偽で推し量れるものではない、つまりそのような単純な二分法では割り切れないということになる。

Friday, October 9, 2009

第五章 実在の価値、言葉の価値③

 これは哲学などによる独我論における二分法といった論議自体を生理学的には容認出来ないという方向へと議論を持っていく。「自分しか愛せない」と言っている哲学者もいるが、実際このニューロンの発火現象自体を捉えると、恐らくそう言っている哲学者の脳内でも彼にとって嫌いな他者に対しても発火しているのである。つまり論理的な真理性と、実在の生理的な作用とは必ずしも一致しないということがあるのである。それは即ち意味の世界自体が、論理的な真理性と、実在的な生理作用においてでは異なった見解があることを示してはいないだろうか?例えば机はどんな机でも同じである。それは機能的な意味合いとか、しっかり床にフィットしていて、崩れなければそれでいい。しかし実際机の形状とか色彩とか、物質感そのもののクオリアの差異が齎すその机で仕事をしたり、本を読んで寛いだりする時の脳内の作用は恐らく違っているだろう。つまりそれは乗り心地のよい車とか、使い心地のよいボールペンといったものと同じで、意味世界において論理的には「これで十分である」としても、作業能率的にも精神衛生的にも生理的実在感という観点からは同じ机同士でも隔たりを持っているだろう。すると必然的に意味=公平の原理もまた、論理的な意味世界だけでなく、実在生理的な意味世界というものから価値評定すべき局面も出てくることになる。 つまり論理的認識において公平である意味世界も、一歩実在生理的レヴェルへと位置をずらして見ると、ちっとも公平ではない、机毎に全く異なった精神作用を、それを使用する者に与えるということが現象として出て来る。

Wednesday, October 7, 2009

第五章 実在の価値、言葉の価値②

 私たちは日常、意味の世界に生きていることを少しも疑問に感じていない。例えば机を 見てそれをそこで椅子に座ってものを書いたり、本を読んだりするところだ、と認識する。それも意味的に事物を捉えている証拠である。しかしそれを一々意味世界の認識としてなど捉えることはしない。つまりそれだけ意味とは私たちの生活に定着しているのだ。
 しかし一方私たちは家族とか親しい友人とか、自分の人生にとって重要な人たちとの触れ合いにおいて何かあったなら、家族とか親友のために全てを捧げるとか、要するに他者全般に対して確かに優先順位をつけている。そして仮に自分の息子が文学賞を目指して頑張っているということを知ると、本当は自分の息子がそれほど文学者としての才能があると信じられなくても、自分の息子の成功だけを祈る。つまりそれが愛情である。
 しかしこの時明らかに文学自体の優劣とか、文学の才能ということから言えば贔屓をしているだけで、文学的意味の世界からすればただ愛する者の味方をしているだけである。(意味=公平<不公平である公平>)
しかし意味とは本質的にはそういう愛情の優先順位とは異なったものである筈だ。そこで意味を公平という観点から考えてみよう。すると意味とは愛する自分の息子が文学賞の候補作を書いていて、父親である自分が審査員であったとしよう、しかし自分の目からすればもう一人の女性の作品の方が優れていると思う、だから文学賞審査員として、あるいは自分の作家生命に賭けて推すべき作品がその女性の作品であるとすれば、たとえ息子の作品も候補に挙がっていても、彼女の作品を推奨すべきであるし、それが理に適ったことである。
しかし一方科学の世界ではミラーニューロンという脳内のニューロンの働きが立証されてきていて、それは他者の行動や他者の感情を自分の脳が読み取り、その読み取る時に活性化するニューロンの位置がまさに自分がその他者と同じ行動をしたり、感情を持ったりする時に活性化するニューロンと同じである、ということが確認されている。
 するとこのニューロンは確かに自分の愛する対象(他者、例えば息子とか娘とか妻)に対しても発火するが、それ以外の人間全般に発火するのである。勿論自分の愛する対象に対して発火するものの方が強度から言えば優越しているだろう。しかし人間は本能的には他者であれば誰に対してでもそのように脳は活性化するのである。

Tuesday, October 6, 2009

第五章 実在の価値、言葉の価値①

私たちは何か特定の人による行為を価値的に評価する時明らかに行為の仕方のスムーズさとか巧みさとかいうレヴェルではなく、寧ろ意味的に、あるいは倫理的な位相から素晴らしいことだ、と判断する。尤もテニスやゴルフで名プレーをすること自体は、確かに価値的に素晴らしいが、それは同時に巧みさでもある。それは名演奏でもそうだし、名画を描く画家の筆触にしても同じだろう。しかし少なくとも人間の日常の行為に関して我々はそれが例えば政治家であるなら道義的に素晴らしい、価値ある実践的処理、実務だと言うことがある。尤も近頃では政治もパフォーマンス的な魅力を湛えたものでなければ支持率も上昇しないので、なかなかそこら辺も矛盾はあるだろうが、少なくとも例えば夫婦の愛の表現は、性行為をすることさえ含めてそれは巧いとか下手ということだけではない、勿論巧みさも要求されるが、それは寧ろ付随的なことであり、それだけがクローズアップされてしまうといかがなものかと倫理的には考えられ得る。
 しかし一方言葉の価値というものを考える時私たちは明らかに時節を弁えたこと、状況判断の適切なことという風にかなり技巧的な実現性に重点を置いて判断しているとも言える。つまり逆のケースから考えれば、仮に心を込めて言った一言でもそれがあまり表現的な適切さとか、TPO的な所見から吟味するといかがなものかという評定さえ得てしまうのが普通である。つまり言葉の価値とは内的な動機ではない、寧ろ結果主義的な言葉自体の適切性において判定される。その意味でかなり言葉を通して特定の人とか、特定の集団、国民とかに向けて説得したり感動させたりすることはパフォーマンス的な巧みさが要求される。それに対して行動という規範においては、行動自体の巧みさも勿論だが、それ以上に行動をしたこと自体を評価するに値すると言っている場合、意外とその行動自体が当初はあまり芳しい評定を得なかったのだが、少し時間を置いてみると、その評定の得ないことを顧みずに起こしたことという風に逆に巧みであるかどうかということよりも、その行動事実自体に注視されることになり、倫理的評価という形では行動的巧みさ、迅速さとか美的な動きとかそういうことはあまり大きく考えられることがない、と言えるだろう。
 それは行動という動作とか、動作されて結果する行為事実が、スポーツなどの技の巧みなどの場合を除いて(実はそれらだって弛まぬ努力、練習ということの一つの結果でしかないことなのだが)大半が行為自体が実在化されたことによる意味、その成果の齎す意味に我々は注視する。
 しかし言葉ではそこが違う。言葉自体が巧みに説得力を持たなかったり、言葉自体にそこから意味とか倫理的美を読み取ったりすることが不可能であるものを、そういう言葉を齎すその意志を高く評価するとまでは言わないのが通例である。
 これは一体何故であろうか?
 それは恐らく言葉が実在としての存在、あるいは存在事実ではなく、それ自体が既に意味だからである。言葉とは実は敢えて実在的に捉えれば隙間だらけである。それは端的にものとか動き自体とは完全に異なっている。それは言葉自体の美がそれをどういう美しい声で発しようが、そうではなかろうが全く何の関係もないということ、あるいは悪筆家が書く文字自体には一切の美がなく醜だけであったとしても、言葉の示すところにこそ実在と等価の美が感じられればそれでよいのである。
 それは実在の価値に対して言葉の価値が極めて特殊であることを意味している。

Sunday, October 4, 2009

第四章 価値を区分けする本能的判断

 私たちはこの理性論的恋愛、結婚における責任倫理的判断、相手を公平な目で見ようとするその決意が、それとは対極のただ贔屓のままでいていい、つまり道義的なことなどどうでもよいとする判断と対立していくことを経験している筈だ。従ってこの二つはある決意においては対立するけれども、私たちの生活では別のものとしてそれぞれ使い分けていると言える。ではそれは第一章における①ということになると、必然的に理性論的に相手の人格を公平な目で見ようという決意に該当し、②の判断は趣味なのだから、あるいは生き抜きとか娯楽なのだから、あるいは余暇での過ごし方での一つの潤いなのだからという意味で明らかに気軽な気持ちで臨む感動ということになる。すると倦怠期に差し掛かった夫婦が意図的に結婚記念日にどこか思い出の場所を訪れようとどちらかが、あるいは相互に思案し合うというような場合、それは②であるが、Ⅰであることが本来である筈だが、心情的にはⅡが混入している、と考えていいだろう。またサスペンス映画とかホラー映画を鑑賞して、休日に午後過ごすという選択は②のⅠに属すると考えていいだろう。それこそが要するに気楽に感動出来ることを選ぶことである。
 つまり私たちは価値自体を相互に別のものとして心的に共存し得るものとして、あるいは相殺されることがあるという意味では真剣に時には考えるべきものとしても、その二つの相異なった考えの下でその都度判断すべきものとして理解している。
 この種の価値の区分けそれ自体は、実はそれをたやすく判断し得る内は、人生全体を潤いのあるものにしたいという気持ちで生活全体の潤滑剤にするという気持ちに揺らぎはない。しかし一転それが深刻な様相を帯びる時も人生にはある。価値を一つに収斂すべきではないかと考える時も人生には到来するということだ。相互に相殺するような価値を別々に持ち合わせること自体に対してカントの根本悪的な要素を嗅ぎ付けることもあるからだ。
 しかしそれは確かにあり得る苦悩だが、価値を一つに収斂していくということは、意図的な決意を得る時とか、意図的に行動に踏み切る時が多いのではないか?そもそもそのように一つに収斂させていくこと自体は実は、かなり決心が固まっていて、その決心を行動に移す時である。そしてそういう時の心的な様相はある意味では排他的であり、決別する対象に満ちている。だからある意味ではかなり慎重に事に当たらなければ後々後悔することも多い。一度捨て去ったものを取り戻すことは容易ではないからだ。それは特に人間関係に言える。決別して後悔する人間関係もあれば、決別してよかったと思える人間関係もある。そして決別してよかったと思えても、懐かしい気持ちになれるケースとそうではないケースとがあると言える。懐かしい気持ちになれる場合にはあっさりと去っていっただけであり、それは決して決別の意図を示していない場合である。決別して後悔している人間関係において懐かしさはある意味ではかなり辛辣に心に響いてくるだろう。つまり後悔の念が相手に対する非礼とか、相手に対する思い遣りの欠如に忸怩たる思いを払拭し得ないということである。だから逆に決別してよかったと思える人間関係の場合には、私たちはそれが決別の仕方がさっぱりしたものであれば、然程忸怩たる思いに沈み込むこともないだろう。寧ろもう一度復活し得る可能性を残している場合には、それは暫定的な決別であったからである。
 しかし意外とこの二つを容易に峻別し得るものでもない。つまり私たちはこの二つを、つまり決別してよかったと思えることと、そうでなく後悔していることの間を常に行ったり来たりしている、というところに生きることの困難さがある。それは同時に価値自体が常にこの二つの間を行ったり来たりしている、ということでもある。
 或ることを価値であると認めることと、その考えから決別すること、それもそうであるし、そのようにある異なった価値同士を共存させること自体に対して、ある場合にはそれでよいとし、別の場合にはそれを潔しとしないというケース毎の判断の違いが横たわっている。それは①と②、ⅠとⅡの区分けに関しても全く該当するのである。この区分け自体私による恣意的なものなのだが、案外誰しもこのような区分けを一度は想定してみたことがあるのではないだろうか?
 そして何らかの領域での判断において価値を一つに収斂していった方がいいと判断すること自体と、そうではなく寧ろ共存させていった方がいいと判断すること自体は常に別のものとして私たちは自分なりに介在させている。それが本能的な判断である。だから逆にもしそれが本能的なものではないとすれば、理性論的に修正し得ると思えるのであれば、それは一つには自己意識、世界に対する接し方を変えるという決意に満たされているのであり、逆にそうではなくそれは問うこと自体がおぞましいと思えるのであれば、本能的判断に委ねることに対して惑いがないということを意味するだろう。

 例えば経済学は管理の問題である。つまり経営(尤も経営そのものだけであるなら経営学がそれに該当するが)、経済政策全てに渡って経済学は行為の妥当性に関する問いであると言ってよい。しかし哲学は行為をその外面からだけではなく内面から決心の構造も含めて考える。だから本能的判断がいい意味で功を奏することは経済学の原理を忠実に履行するというような場合でもある。それは国家政策だけではなく、例えば個人においてはどういう内容の商品を、どれくらいで消費するかということにおいてもそうである。 
 しかし一方行為の妥当性とは別に、行為自体の価値、つまりこういう場合にはこういう判断で行為すべきであるが、あまりいいとは言えないような行為自体を出来る限り回避し得ないものかとか、もしそういう妥当な行為をすることなく終えた場合どうなるかということになると哲学の出番であると言えるだろう。しかし本能的判断はその行為が決して理性的ではない場合でも利用されるが、一方行為の正当性自体を問うことも含めて、理性的論及そのものもまた一つの本能であると捉えてもいいだろう。つまり本能を抑制しようと試みること自体もまた一つの本能的判断であるというわけである。その意味では行為の妥当性を論じる経済学自体を内心の価値判断から哲学で考えてもそれもまた一つの本能であると捉えていいことになる。

Friday, October 2, 2009

第三章 愛という価値・恋愛と結婚②

 例えば相手が自分と同世代でその天賦の才を持ち合わせていて、しかもその才が自分を脅かすものであり、しかも自分にはない全く異質の才である場合と、その相手がかなり自分より年少の場合では自ずと相手に対する接し方に違いが生じてくるだろう。勿論相手の年齢に関係なくそういう差別を行動上ではしないにせよ、心理的には随分違うと言い得る。
 そのことは端的に男女の恋愛感情にも、結婚生活での配偶者に対する態度でも同じではないだろうか?
 つまり愛の価値とは相手を自然と愛せる、つまり贔屓出来る感情が、相手がそれをするのに相応しいと思える立派な行為であるとか責任を自分に対して果たしているということ自体が、愛=贔屓と、愛=贔屓ではなく理性論的に相手を認める ということが重複していることこそが相手に対する気持ちにおける幸福であると人間が感じる以上、私たちはそれが重複していないことの方がかなり多いと知ることを通して、愛が自分の恋愛とか結婚生活においてなら、重複を望むが、そうではない場合には相手に対して公平な目を持とうという気持ちになるわけだから、必然的に恋愛でも結婚生活でも、相手が自分が贔屓にしている面以外の意外な一面を自分に対して覗かせたなら、即座に応用する考えとして重複しない場合でも相手を尊重しなくてはいけないという気持ちである。
 従って重複しない場合の、つまり贔屓にはなれないに対して相手を認めざるを得ないという理性論的判断こそが尊重であるとすると、必然的に相手を尊重するということが、その相手が尊重するに値しない立場に立ったと自分が判断したのなら、即座に味方をすることを止めるということを常に決心的にも持ち合わせているということを意味するのである。
 だから逆に相手を尊重するということが贔屓心と重複している場合は、相手が自分に対して道義的に理に適った行為をしないようになっていった場合、その失望感は、ある意味では贔屓心と重複していない場合よりも激しいと言える。可愛さ余って憎さ百倍である。
 だから必然的に愛の価値とは、贔屓と評価とが重複していることが最も望ましいと誰しも思う。そして恋愛初期とは贔屓の心の方が強いことの方が殆どであるが、それが長期持続することとなると、途端に相手に対して贔屓出来ない側面も多く併せ持つことを知ることとなるから、必然的に道義的に贔屓心を殺してでも、相手を評価しなければならないことも多くなっていく。その端的な例こそが結婚生活である。
 だから尊重という心的作用は公平な目で贔屓心を殺そうと努める感情が生み出す潜在的には相手が期待を裏切った場合には容易に見捨てるというサディズムを保険として持ち合わせた微妙な心理を本質とする、と言えるだろう。
 しかしそのことと、感動の本質が、実は無意識の内に日頃は決して相手を庇ったりすることがない相手に対しても、本質的には差別しない(嫌悪感を示すこともしない代わりに、庇いもしないし、助けもしないし、味方にすることもしない)が、決して友好的ではいないという意志を履行しているからこそ、いざ極端な例を、例えば「レ・ミゼラブル」を読んで感動するような意味で、盗人を容認しないけれど、その境遇を知ると共感してしまうという、それが実は憐憫と隣り合わせであることを気づきもしないでいる、ということであるのとはいささか異なるかも知れない。
 何故なら感動の本質がドラマとか小説で描かれているヒーロー、ヒロインに感情移入する場合には、その相手がフィクションの世界での登場人物であればこそ感動するのであり、それが実際に存在しているのならあまり親しくしたくはないと思えることを感動している際に我々は気づいている。そしてその実際とドラマではなくてもノンフィクションノベルであってもそこで描かれていることの感動的共感が現実で起きた場合の自分の行為選択と乖離していたとしても、いやそうであればあるほど感動の度は強化される、ということとは違うからだ。感動の場合我々はその乖離を消滅させようとすらしない。それがあった方がいいとさえ思っている。しかし実際の恋愛とか結婚生活とかでは、少なくとも別離したり、離婚したりする行為選択以外のケースでは必ずその贔屓と、評価の間の乖離に対して折り合いをつけようと努力する筈だからである。
 だから恋愛とか結婚の場合には、仮に尊重という心的作用が自己欺瞞的であったとしてもそれは、どこかで必ず責任倫理的な信条と結びついている。つまり安易に離婚は出来ないとか、一度でも愛した相手を素気無く出来ないということ自体が既にその責任倫理的心的作用と結びついている証拠である。しかし感動の場合はかなり気まぐれなケースも多いのだ。それが人生を左右するくらいの、例えばある行為とか作品と出会ったことで、職業を選択したり、転職を決意したりするようなケース以外では、それは気まぐれであるからこそ真に感動に浸れるという面もあるからである。つまりその感動の重大さと気安さの同居に何かまた大きな意味が控えているようにも思われる。

Wednesday, September 30, 2009

第三章 愛という価値・恋愛と結婚①

 恋愛をするということは、その人間の精神的なスケールを向上させる、とよく言う。しかし安定した収入と、安定した家庭ということは、恋愛とはまた別の価値であると通常多くの人はそう思う。勿論必ずしも結婚生活自体が潤いとか幸福感情を齎すものであるとは限らない。しかし恋愛は確かに不感症的な性愛に対する関心のなさに比して精神的に充実させるということがあっても、一歩間違えるととんでもない痛手や、周囲に迷惑をかけることになるケースもしばしばあるということも殆ど全ての人にとっての共通認識だろう。
 一方片思いであるなら、それは相手に対して不快な感情を喚起しない限りで本人に誠心的充実を与える価値であるとも多くの人は考えるだろう。
 すると価値的に幸福であるということの自覚が、一定のレヴェルの不安定を抱え込むことになる恋愛感情が、自分の精神的充実を得てしかも迷惑にならない限りで、それはいいことである、と価値的に私たちが判断していることになる。しかしそれは実際に実を結ばない恋愛によって大きな痛手を蒙らない限りでのことである。つまり立ち直ることを前提とした考えである。しかし恋愛感情はややもすると、男性の側から女性の側へも、その逆でもストーカー的な状況を作りだすこともしばしばあり得る。しかもほどほどの恋愛であるなら私たちはそれを心の養分であるとは思わない。多少好感を持つということなら誰にでもあることだからである。するとどこかでアヴァンチュールを期待したりする危険な恋に憧れるギャンブル的感性から私たちが価値的に判断しているのが、恋愛の効用であると言ってもよい。
 しかし恋愛がただ単にプラトニックな間柄であるならまだしも、性行為を伴うとやはり様相を変えていくことは必至だ。しかもどちらかが、あるいは双方が結婚している場合には尚更である。情動的な感動を得たいがためにする恋愛であるなら、相手の家庭とか、社会的地位とか収入による安定といった要素は大した意味を持たないだろう。
 しかし安定を求める人間は結婚をして身を固めるという表現をするだけあって、不安定なギャンブルを回避するために結婚する場合、明らかに恋愛を害悪と決め付けている。つまり恋愛を心の養分として価値的に認めるということと、結婚を家庭生活の安定を希求する意味での価値として認めるということの間には二者択一的な葛藤が存在することになる。そしてある者はその葛藤を、結婚適齢期以前とその時期、そしてそれ以後という風に区分けして考える。しかし通常家庭を持った人間は、その家庭の平和と安定を突き崩さない限りで恋愛感情を容認するに留まる。しかし他方そのような安定的な平凡そのものを悪と決め付けるタイプの恋愛に対して非実利的な意味での存在理由、あるいは恋愛動機を、恋愛による結果よりも重視する考え方も存在する。この二つは永遠に交わらないようにも思える。しかしそれも結果的に家庭を崩壊させてまで突き進んだ恋を選択したことが、後々までそうしてよかったと思えるかどうかにかかっているが、仮に不倫関係に陥って、家庭を崩壊させてまで突き進んでしまったが故に、それを自己正当化しようとする心理が「やはり恋を成就させたことは間違いではなかった」と思い込むということも十分あり得ることである。人間は過去を吹っ切ったり、清算したり、正当化しつつ総括することが好きだからである。
 しかし逆にそのような冒険一切を極力回避してきて、それで心の平静と家庭の安定を構築し続けてきた人にとって、不安定要因である(それは経済的な意味合いでも、時間のロスという意味合いでも)恋愛を危険視して、あるいは価値的にも認められないということがあり得るが、一方自分はそういう恋愛の不安定さを一切避けてきたけれども、他人がそういう生き方をしていることは、自分の選択とは別に価値的に認めるということはあり得るだろう。その場合価値論的にはⅡの選択であるとも言える。そしてその者は自分に対しては自由恋愛の不安定要因を避けるということがⅠの選択として価値があるということになる。それは丁度逆のケースにも当て嵌まる。つまり自分は不安定要因を抱え込むようなタイプの波乱万丈の恋愛をしか出来ないが、客観的に他人全般に対しては安定した家庭とギャンブル的感情を回避している姿を肯定して価値と認めるというケースである。つまり双方ともに共通していることとは、端的に自分とは異なったタイプの選択をしている人の考え方やら思想、生き方をそれはそれで認めるということ自体を価値的に認めているということだ。だからもし自分とは違う生き方や選択を容認したり、あるいはもっと積極的に肯定したり、高く評価したりする場合、その丁度逆の選択や生き方をする二者は極めて対他感情という意味では似た価値観であると言ってよい。また逆に相互に絶対自分とは違う選択、生き方をしているタイプの成員を認めないとするなら、それはそれで相互に似通った価値観であると言ってもよい。
 つまり結婚生活の安定と持続を選択するか、恋愛の自由さと情動と、動機的純粋さを、結婚の持つ妥協やら建前とかそこで要求される忍耐を避ける形で選択するかという二者択一からではなく、自分と同質の選択、生き方のみを価値的に容認するか、あるいはそうではなく相手(他人)が自分と正反対の選択、生き方をしていてもそれはそれで価値的に認めるかという二者択一において、価値観の在り方の違いは顕在化している、と言ってよいだろう。つまりそのように自分と違う相手、他人の価値観を尊重するということ自体が一つの愛なのである。つまりこの後者の二者択一には明らかに相互に差異を認め合う隣人愛がある。つまりそれこそが違う者同士の愛の価値なのである。
 すると自分とは異質の選択、生き方をしている人を絶対認めないという形での価値観とは、自分の選択している価値観以外の一切を認められないということだから、必然的に単一の価値主義者(絶対主義者)であることになる。そしてそうでなく他人の差異を尊重する価値観の人は端的に価値の相対主義者であることになる。
 しかしこれとて感動の心の持つサディズムと同じであり、一定の相手を引き離した相対主義が、相手が自分と隔たっていればいるほど自分に対して干渉してくる機会は少ないわけだから、必然的に正反対のものに向けられる好奇心も手伝って軽いサディズム、つまりかつてイギリス人の女性が日本人の男性を前にして平気では裸になったような意味での憐憫までは行かないが、無縁の他人に対する接し方で利他的であるわけではない。
 すると価値的に相手が自分と隔たっていることを承知でそれとして認可するスタンスは尊重という心的作用自体に軽いサディズムが混入していることを示してもいる。
 つまり私たちは自分と同質のものに対して何らかの形でそれが正しいものであると知っていても、逆にそうではないと知っていても(寧ろ後者でこそ)それを贔屓しようと思う。それは逆に言えば、特に後者の場合尊重とは言えない。だから前者の場合は尊重の中でもほっとするタイプのものか、あるいは贔屓していることの中でも良心の痛まないものである。と言うことは尊重とはそれ自体あまり贔屓することが出来ないもの、つまり自分とは資質的に同質ではないものに対して、しかしそれが優れていることを承知なので、贔屓は出来ないが、賛同したり、評価したりする必要があるので仕方なく賛意を示すような心的作用である。従ってそれは端的に形式的責任遂行の面がある。と言うことは尊重する相手に対してそういう気持ち抱くことを正しいと自分に言い聞かせているということは、相手に対して尊重し得ない、つまり相手の言うこと、することがあまり高く評価出来ない場合には、容赦出来ないということを意味する。真に贔屓な相手に対して我々は寧ろ仕事自体があまり芳しくない場合にこそ、その落ち度を容赦なく責めることだけはしたくはないと思う筈だ。勿論そのあまり芳しくない結果を庇うことはいくら贔屓の相手でも出来はしない。しかし少なくとも容赦のない追及をすることだけは差し控えたいということである。 と言うことは逆に贔屓の心を一切持てない相手に対してその行為の優れていることを認めざるを得ない場合、明らかにその仕事の質が落ちた時には容赦出来ないという、一旦認めざるを得なかった立場の者の卑屈なリヴェンジ心が控えているとも言い得るのである。つまり尊重ということが贔屓と重なっている場合とそうではない場合とでは天と地ほどの違いが横たわっている。

Monday, September 28, 2009

第二章 価値には悪も含まれる

 感動的な演劇やテレビドラマや映画において、主人公が苦悩し、懊悩し、迫害され、理不尽な扱いをすることからドラマティックな展開から応援したり、殺されないで、と願ったりすることで、ドラマは感動を呼び起こす。しかし鑑賞している視聴者や観客は、既にその感動が巧く演技する悪役たちの果たす役割によってクローズアップされている、ということを知っている。受難、差別といった一切が描出される時、そこにはサディストたちによるアグレッシヴなヒーロー、ヒロインたちに対する悪辣さこそが、ドラマを盛り上げ、感動を誘うということを知っている。
 それは既に美とか、正義を確定するために、積極的に撲滅すべき悪、不正が必要であることを物語っている。あるいはこうも言える。悪の立場から見れば、迫害される側に全く落ち度がないということも現実にはあり得ないのだ。ただ総体的に見て、出過ぎている側を悪と取り敢えず決めつけるだけである。そのように裁定するあなたは既に詳細な相互に対立する側の事情を斟酌することを止めて、ただ漠然とマクロ的視野という安全地帯にいるだけに過ぎない。
 あるいはある感動的ドラマを鑑賞している全ての視聴者、観客は熟知している。つまり正義とか善に対して不正や悪とは相対的なことでしかないということを。
 だからある行為が善であるのは、その行為によって潤う立場の成員に限られるわけだから、感動するドラマが蹂躙され、応援されるヒーローやヒロインたちにのみ立脚しているわけではないことを知るような意味で、私たちが幸福で平和であることは、その影で不幸のどん底に突き落とされ、平和を乱される現実を敢えて目を瞑っていることであると薄々全ての成員は知っている。従って価値とは、価値ありとする立場に付帯する価値を認める人たちによる授受であり、授受され得るメカニズムであるということを私たちは知っている。だから価値の存在理由にはあらゆる肯定的ではない無価値、あるいは害毒自体を含有するのである。つまり他方で逆説的存在を積極的に必要とするのである。もし他方にそういった悪が一切なく、害毒もないとすれば、それまで善であるとしていた存在もまた、善ではなくなる。あるいは価値さえなくなる。
 悪や不正が善や正義を際だたすということ自体に既に価値には、無価値、価値を剥奪するような害毒を必要としているということを意味する。つまりそのように蹂躙されることによってのみ価値は価値としての命脈を保つこととなるのである。
 まただからこそ悪自体に魅力を追求すること、あるいは美を求めることすら私たちは価値として無意識には全ての成員が認めている。
 既にあるスター性のあるタレントとかアクターたちをクローズアップさせるための引き立て役や悪役は憎まれるためにのみ参加させられている。それを承知で演じる方も工夫する。第一私たちの社会は人相のいい人、顔つきの整った人を好み、その人格がどうであるかという判断は常に二の次である。つまり面相の好感の持てる人に対してそれに相応しい人格を付与し、そういう人がスターであるならそれに相応しいドラマティックで視聴者や観客が感動出来る脚本が注文を受けて書かれるのだ。それはロックシーンにおいてベースギターが縁の下の力持ちであるのと同じである。尤も確かにポール・マッカートニーやジャコ・パストリアスたちはベース本来の美で、リードギターと引けを取らないタイプの名演奏で楽しませてきたわけだが、ベースだけがヒーローになるということはないだろう。
 しかし価値はないもの強請りであることも多く、従っていいベースプレイヤーがいないバンドではそういう骨のある奴を探そうということになる。しかし大体そういう存在は②の綜合的価値であり、①の分析的価値にはなり難いとは言える。と言うことは理性論的に判断するような男性脳的な傾向としてのシステム化志向性から言えば、Ⅱの理性論的価値から言えば確かにベースギターやベーシストはヒーロー足り得るのだが、Ⅰの価値を感情論的には私たちは優先する傾向があるので、悪役を真に応援することは控えるだろうし、それはあくまでアンチヒーロー志向的な意味で批評的高次の判断であり、即座に好感を持つという判断ではない。ベーシストが主役になってそれが普通である状態が来ないのと同じである。
 すると価値とは価値ありとする直観的判断を優先する傾向が我々にあるから価値は直観的には見誤りやすいとも言える。
 しかし長い目で見ればやはり第一印象で価値ありとしたものの方がずっと正しかったという判断もしばしば私たちは経験する。人も見かけで判断するな、という不文律と共に、百聞は一見にしかずとも不文律的に言い得るわけだから、どちらの判断が正しいかということもその都度異なるとだけは言える。
 だから逆に悪はどんなに直観的には価値がないと思えるけれど、よく考えると、主役を引き立てる悪役同様、それはそれで必要だ、何故なら悪が存在しない世界では善も価値もあり得ないのだという哲学的判断が成立してしまう以上、ニッチなりに確固たる地位を獲得しているとも言い得る。つまり意外と安易な善や価値よりは、悪、それだけは別腹で私たちに確保された価値判断だと言える。
 マフィア二つの組織に掛け持ちで雇われた殺し屋がいたとしよう。それぞれの組織は彼が掛け持ちで雇われていることを当然知らない。彼はこの二つの組織が対立していった時、双方から腕の立つ殺し屋が対立するその殺し屋が掛け持ちで雇われている組織にいると知らされ、そいつを殺してくれと依頼される。要するに彼は彼自身を殺してくれと双方の組織から依頼されるのだ。この時彼が取るべき行動は一体どういうことになるのか?
 それは悪そのものではなく、政府の組織にしても同じである。この殺し屋のような存在は恐らくどの社会にも存在し得る。全ての人に対してその存在理由が善であるような人間はこの世にはいない。もしそうするとすればこの殺し屋は自殺するしか方法がない。しかし仮に自殺したとしても彼がそれまでしてきた双方の組織から依頼された殺人は、全て対立する組織双方にとってデメリットであった筈だから、どんなに八方美人的存在であろうとしても、その時点で双方にとって善たる存在ではないことになる。また自殺すればそれまで依頼出来た双方の組織に少なからぬダメージを与える。しかしそれも結局どちらの組織もダメージを受けるし、また彼の存在に対する実を知らないがために受けるダメージを双方が回避し得ることになるから、プラスマイナスゼロであるとも言える。
 つまり全ての人間はこのような状況にあると言ってよい。従ってドラマで受難を得るヒーローやヒロインたちは、そういう観点からすれば、素直に自分がつき従うべき相手とか、味方したり、共感したりするサイドが決定されているという意味においては、決して世間一般的な意味合いからすれば善良ではない、それどころか鼻摘み者である場合の方が多い。しかしその鼻摘み者の存在自体を我々は知っているのに、その弧絶状況自体に、ドラマティックな感動を得るのだから、感動する側も極めてサディスティックな態度で鑑賞していることになる。従って感動するということ自体も極めて善良な感情ではないということになる。そして感動するという心的作用がそのようにサディスティックな様相を含んでいるということが、脳科学的なセレンディピティーのような意味で感動することが脳にとっていいことであるという価値自体が、悪を容認していることになる。いやそれくらいなら悪とは呼ばないということがそもそも自己欺瞞以外の判断ではない。感動される側の鼻摘み者をあなたは決して現実社会で発見した時、自己保身のために個人で救済しようとなさらないであろう。だからそれが出来ないと知っているから、受難を得るヒーローやヒロインをドラマで見て感動するのである。「気の毒にね」と。ニーチェもきっとあなたが感動することが脳にとって価値あることであると言ったなら苦笑していることだろう。
 この事実一点を取ってみても、価値とはそれを価値であると見做す時点で心的には悪の作用を含有していることが分かる(我々は普段は自分からは助けられない気の毒な鼻摘み者を美化し、周囲の者を悪に仕立てドラマ=価値を作る)。

Sunday, September 27, 2009

第一章 価値とは一つの技術である

第一章 価値とは一つの技術である

 価値には幾つかのタイプがあるように思われる。つまりそのタイプを総称して取り敢えず私たちはそれらを価値と呼んでいるということである。
 まず二つに価値は大別されるように思われる。

① 特定の目的のためではなく、それ自体が一つの価値であるように思われる価値→分析的価値
② 何か特定の目的のために役立つこととしての価値→綜合的価値

 しかも②には更に二つに大別される価値があるように思われる。

Ⅰ 幸福感情、快の獲得といった個的な価値
Ⅱ 公共的、公的な倫理(道徳)、道義的、責任論的な価値

 概してこの最後の二つにおいて女性が直観的にⅠを、男性は直観的にⅡを選ぶことが多いということを脳科学者である茂木健一郎氏は述べている。(「女脳」講談社刊より)

①の価値とはそれ自体が美しい風景とか光景、あるいは絵画とか音楽といったものに対して素直に感動する時に我々が理屈ではないという形で理解するものなども含む。一方、②の場合私たちは何か特定の目的のために努力している際に、苦労した末に何かいい目的遂行のためのアイディアを思いついた時などに、「それはやってみるだけの価値があるな」などと言う。つまりそれは方法であるとか、選択であるとか、要するに一定のプロセスを通過したものの中でそれをチョイスしたり、採用したりすることに価値があるように思われる価値に対する見方である。①自体は既にその中にⅠもⅡも含まれているが、あまりのも分析的な真理であるので、そのように二つの大別する必要を我々は通常感じない。
例えば母親が病気になった時看病をするために実家に戻るといったことはあまりにも当たり前のことなので、実家へと急ぐ行為自体は価値があるが、それを一々価値であるとなど我々は通常認識しない。母親が病気から直って欲しいと思うこと自体は幸福感情であるからⅠは内包されているし、あまり仲のよくない母親と子どもという関係でも母親が病なのだから有無を言わず駆けつけるということは正しいという言い方においてもⅡの考えが内包されている。一方②において我々はその目的に向かっている途上で色々なアクシデントとか思惟に放り込まれることがあるがために、一つ一つの思いつき自体に対して価値評定しやすいということが言える。そこで自分で見出した価値であるのに、それ自体を分類することもたやすいと言える。旅行に行く時にどういうルートで、どういう移動の手段で行くか、電車で行くか、バスで行くかとか、途中で下車する駅を設けるか、一直線で目的地に行くかというようなことは明らかにⅠの価値であるし、一方観光地に設けられた名所案内の立て看板に示された地図が風雨のために塗料が大分剝げ落ちてしまっているから、市の観光課の職員がそれを修正しようと提案すること自体は、Ⅱの価値である。
しかし価値が私たちにとって必要であると思えることの内の最も重要なこととは、それが失われていくことをどこかで私たちが知っているということではないだろうか?
 つまり一つには人生は価値があると誰でもそれを論理的にではなく直観的に感じ取っているとしたら、それは私たちが死ぬからである。従って価値ありとするものとは、人生自体という最上位から次第に端的に死ぬまで私たちにとって必要なもの、例えば健康とか、健康を保つために必要な栄養とか運動といったものへと徐々に格下げされていく運命にあるのである。そして次いで思考することとか、鑑賞することとかである(勿論職業として思考することとか鑑賞することをしている人も大勢いるが、それはまず生活することとか、人生を生きることという大前提と、その行為が職業に結びつく、社会的需要があるとか、自分自身に職業として定着させ得るくらいに才能があるとかという条件が必要となる)。
 そのように失われていくことを知っているから価値ありと感じられるということは、逆に今現在は獲得していないが、生きている間には是非獲得したいと願うことが、例えばそれまでは挑戦していなかった、自分の中にそういう能力があるということを意識したことがなかったが、中年以降になってから挑戦してみたいと思うこと、例えば子育てが一段落ついた段階でやってみようと思う趣味とか、あるいは一度も食べたことがない美味しい料理とかは獲得していないから価値があると思える。
 勿論その中でも絶対必要であると思えることと、経済的余裕さえあれば欲しいということのランクはあるだろう。人生において最大の価値のある私たちにとっての存在である食料ということを考えてみると、私にとって野菜、茄子とか大根とかキャベツが食べられないということは耐え難いことだが、フォアグラとかキャビアが食べられないということはランクとしてはずっと下である。つまりそれら高級食材といったものは、必要最低限であるからこそ最高度に必要度の高い、つまりランクの上の日用品とか、必需品に比較すれば、金銭的余裕とか、精神的余裕のある時に必要になるもの一般、つまりランク的に言えば下のものなのである。
 だから必然的に価値とはまず生きていけること、生活が成立することという大前提の上で、そのために絶対欠かせないものという価値と、それ以外のしかしその欠かせないものの獲得が安定してくれば、必然的にもっと別の獲得していなかったからこそ価値があると思えるようになるという、要するに段階的なことが存在するわけだ。そのことに関しても分析的な意味で最大の価値とは人生であり、人生の幸福であろう。そしてその幸福を高次の価値判断から言えば、自分に向いた職業に就くということが最良であるけれども、まず食べていける、つまり現実問題として需要があり、その需要において自分が供給し得るという条件に適合したものが人生において最大級も総合的価値ありとなる。しかしそれは精神的意味合いからのものであり、またそういった最低限の人生を成立させることの出来る食料こそが物理的な意味では綜合的な意味での最大の価値のものということになる。だから食膳ということとか、食べること自体を精神的な文化にまで高める意識というものは当然現代人には付帯しているのだが、それは端的に食料が確保出来るという次元のランクからすれば、かなり低ランクのものであると言ってよい。だからこそ逆に「いや一人で食事するよりも愛し合う人と一緒に食事した方がずっと幸福だ」という価値判断が成立し得るのである。つまりそのような意味で最高度のランクである価値は、最低限の生活が成立し得るという条件を成立させるという意味での最高度のランクはまず必要とされて、然る後に要求されてくる、と考えればよいだろう。そうなると、精神的価値を充足させるための価値ということから考えればやはり価値自体とは技術的なことである、ということは真理であることになる。技術を伴わない真理はないし、幸福もないし、精神的価値もないということから言えば、価値の不可欠の要素とは物理的条件を成立させる技術であることになる。
 勿論それは人生そのもの、生きることそのものが最高ランクの価値である、ということを常にア・プリオリな真理であるから除外した場合の思惟の結果であるということは当然のことである。だから逆に愛する者との間で育まれる愛さえあれば、飢えて死んでもよいという価値判断も当然成立する。しかしそれはやはり現実問題としてみれば、かなり無理がある考えということになる。あまりにも満たされた生活から徐々に落ちぶれ果てていくことを恐れて自殺するという例は確かに現代社会では多く存在する。しかしそれはあくまで例外的なケースであろう。何故なら殆どの人はそういうトップの地位とか財産を得ることなどないからである。勿論貧困の中でも愛を最高級のランクに位置づけることは出来る。しかしそうしながらも愛する者同士何とか人間は飢えずに済むように工夫しているわけだから、やはり需要に対する供給となり得る職業と、家族などに代表される人間関係、食料の確保という現実的三本柱が価値的には常に並存し得るということになりはしないだろうか?
 そしてこの三つには専門的技術、対人関係技術、調理といったように全て技術が関係してくる。その意味でやはり価値とは技術そのものである、ということが演繹されるのである。私は技術というとどこか唯物的イメージを抱く人もいることを承知で敢えてこの考えに固執するのだ。つまり技術とは考えることの基本にも横たわっているし、また手を使って何かを作るということにも利用される人間の生活、人生において最大の武器である。それ自体が価値であると考えることも出来るが、敢えて価値そのものもまた技術であると私は考えてみようとしているのである。そしてスポーツを喩えに使えば、それは勿論勝敗があるし、プロとなると勝たなくては生活が成り立たない。しかしそれでも尚、すること自体が最大の価値であると考える。それは分析的価値である。しかしやはり勝つために努力するだろうし、そのために筋力トレーニングをするとか、そのために水泳をするとか、ランニングをするとか細かな技術が要請される。従ってそれはランク的に言えば、それぞれ綜合的価値のものである、ということになる。

価値のメカニズム 序章

 私たちは生活する上で、自分の行為を目的化したり、意味づけたりする。これは私たちが生を意味あるものにしたい、価値あるものにしたいということの表れである。
 しかし意味化された行為は一旦それが行うに値するものであるとされると、その意味について問うことは次第に等閑にされていく。つまり価値的な規範自体に対する検証とは、価値あるものを選ぶ行為においては邪魔なものだからである。
 私たちは何か世界の中で存在するものを見つめる時、その見つめて理解出来ること自体、つまり知覚行為自体に対しては検証し得ない。知覚自体がどういう傾向のものであるかとか、観察するとはどういうことなのかということ自体に対する検証とは、端的に何らかの目的を帯びた行為の中ではなし得ない。それらは判断を中止した上でなされる思惟だからである。従ってそれは丁度どんどん注文が来てその注文に応対して生産を捌いていく立場の人間が注文を受け付けて生活するとはどういうことなのだろう、と考える余裕がないことと同じである。
 しかし人間は時として反省意識に放り込まれ、それは自発的にそうであるし、ある時突発的衝動においてもそういう気持ちになるものであるが、そうなると今度は徹底的に目的化されてきた行為自体を検証し始める。その時価値ありとして判断してきたことは果たして正しかったのか、とか判断するとは一体どういうことであるか、とか要するに行為全般に渡って行為や行為連関自体が有する価値を見つめ直す。そして終には価値判断とは何かとか、価値そのものとは一体何なのかということに思惟を巡らせる。
 本テクストは価値を問うことを本論とする。あるいは価値を行為や生活、信条、思想、哲学一切に対して付与すること自体を検証してみよう、という試みである。
 価値がないということを考えることが出来るのは、価値があることはこれこれこういうことだという判断が成立しているからである。価値とはしかしそれ自体に縛られることを性質的には有している。つまり一旦価値があるとすると、価値転換し難いものとしても考えられる。すると価値を問うことは価値を一つに収斂させていこうとする私たちの保守的な性格自体を検証することを強いる。
 つまり価値ありとする判断自体が既に価値に呪縛されることを承知で行われている。と言うことは価値がないということに対しても既に判断する以前に何か漠然としてではあるが、私たちがその原型として何かを価値として理解しているということを意味する。
 価値にはそれだけではなく倫理的価値とか幸福的価値とか、要するにそれぞれに付帯するための宿主を要する。その宿主自体の性格によって価値の在り方がその都度変更されてもいる。と言うことは、価値それ自体は一つの機能を持っていると考えることが出来る。だからこそ私は本論を「価値のメカニズム」としたのである。
 本論では価値自体を検証するために行為を中心として倫理的、正義論的、道義的な立場から考える傾向のものと、美的、幸福論的、感情論的、感覚授受的な立場から判断する傾向のものとを常に対比させて考えていこうと思う。実はこの二つはこのように二分することが本来不可能なものとして存在しているのだ、という私の考えがあるのだが、そこら辺にこそ本論の主旨があると思うのである。