セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, September 15, 2012

第四十一章 価値と判断Part2

 価値は常に偏見と隣接しており、相補的でもある。それは感動と残酷が隣接しており相補的であるという第二章 価値には悪も含まれる で述べたことである。
 つまり価値自体が既に偏見を含んでいるのだ。それは価値が偏見と結託して共犯関係にあることを物語っている。
 ある人間が正常であり、健常であるということ自体が既に別のある者が異常であり障害を抱えているという認識ともなっている。これは初歩的な哲学的真理だ。
 例えば日本では精神科医とは医師免許があれば誰でも開業も出来る。しかし麻酔医だけは別の資格を要する。精神科医とは一日中精神疾患とセッションに明け暮れている。そういった職務から彼等以上に精神的に困憊する医師はいないであろう。それはフィジカルな面で治癒に当たる外科医や内科医とも本質的に違う。
 従って精神科を訪れた人なら誰しも感じることであるが、精神科医とは精神科で診療してもらっている時にだけ人間味がある様に思え、それ以外の日常で彼等と対峙した時、こちらが精神的病を抱えていることを知ったなら、一番差別的眼差しを注ぐ。つまり彼等は日頃から精神疾患ばかりを相手にしているから、彼等を日常生活では警戒しているのだ。
 これは検察官が被疑者に対して対等な人間として相手を扱えないのと同じである。或いはもっと極端に言えば死刑執行ボタンを押す公務員がその瞬間には死刑囚を人間だと思わない様にしているのと同じである。  
ある精神障害者が障害者となるのは、端的に障害認定によってである。それは最初にカルテを書いた医師の裁量に拠る。医師という職務は自分のところに診せにきたクランケに対し、前にかかりつけの医師があった場合、そのカルテを見たいと望む。従ってどの様なタイプの疾患者にとっても医師から見れば治癒対象でしかなく、そこに心の交流はない。これは真理である。何故なら、そうしなければ彼等は職務を遂行出来ないからである。
 各種依存症の人も全く同じである。彼らも一旦精神科の門を叩いたら、再依存率という統計的データの餌食になる。中には完全に依存から脱した人もいるだろうが、そういった人達も再依存率の網の目という偏見から自由にはなれない。  
これは統合失調症でも何でも同じである。或いはもっと分かりやすく言えば犯罪者となってしまった者が刑期を終えて出所しても尚再犯率というデータの網の目から自由にはならないということである。これは保護観察などの制度からも語られている。
 これ等は一重に統計的数値データ主義という科学主義の神話に拠る。科学的データの信憑性こそが人をデータ的な対象としか見ない習性を彼等に与えている。
 前章でも述べた様に所轄の警察ではそれぞれ固有の不文律があり、たとえ憲法や法律(特に刑法)に遵守していたとしても、極めて微妙な判断は全て個々の警察官に委ねられている。その時々での警察官の気分から職務質問から逃れようとして(別段悪いことをしていなくても)逃走する者を追う警察官は逮捕特権がある。公務執行妨害という名に於いてである。
 これは個人レヴェルの裁量権であり、要するにその時々での警察官(彼等も人の子である)の気分に委ねられている。青年警官などは前日に恋人と喧嘩してむしゃくしゃしている時には、厳しい眼差しで一般市民を監視する眼差しに変貌するかも知れない。
 個人レヴェルでなくても集団組織レヴェルでも気分というものは大きく左右する。ビートたけし氏が「テレビタックル」で述べていたことらしい(又聴き)であるが、自分が税務署の批判をテレビですると途端に税務署員が彼の自宅を調査しようとするということらしい。つまり集団組織レヴェルでも何となく虫の居所が悪いと、そういう決裁になっていくということは充分にあり得る。これは大阪地検特捜部の書類改竄と証拠隠滅事件でも明白ではないだろうか?
 警察などは特に一斉手入れとかをすることがあるが、これなども警察組織全体のその時々での一般市民からの警察への眼差しに影響を受けた状況的な気分に左右されている。今の時期これこれこういうことは少し取り締まろうという決裁は全て警察上層部によってのみ委ねられている。顕著な例が風俗営業法に関する取締りである。
 精神科医は科学的データ主義の神話に拠って、警察官や警察組織は個人や集団レヴェルでのその時々での気分(世論からの彼等への期待などもそうである)で偏見を巣食わせながら彼等固有の価値観を構築している。
 これはアーティストが一般市民よりも反体制的考えを抱きやすいということにも言えるし、文学者がモラル的にアンチ的生き方をする人を称揚しがちであるということにも言えることである。これ等は一重に職務とか職業的行為性格的な習慣が齎す固有の思考法に拠る。つまりそういった行為習慣による思考法とはある固有の方向へと傾きやすいのだ。これこそが偏見を巣食わせやすいことなのである。従って価値観とは端的にその人に固有の偏見と共生していると言うことが出来る。

Sunday, September 9, 2012

第四十章 価値と判断Part1

 マスコミは今年新たにプロに仲間入りした野球選手から、ゴルフの選手にしても、離婚した芸能人でも全てイケメン面、イケ女面にだけ焦点を当てて報じる。それが「俗がある」ものとして前提された社会の実相である。イケメンもイケ女もそのことをロールプレイングとして意識しているし、それを追っかけるマスコミもロールプレイヤーである。
 しかし本質論とは常に俗とは別地点にある(或いは我々自身でそう思うことにしている)。それを知っていればこそ俗はいい意味で保たれる。俗が俗として生存し得るのは、世界が清いこと、我々の脳内で思い描く理想とは別地点にだけ実在や実存があると我々が妙に真理論的に、公理論的に納得しているからである。しかしそれは当然である。一人一人の脳内に思い描かれる理想や理想的世界とは必ず個々でずれていて、それを統轄することは実質上不可能であると皆知っているからである。
 この世界には多くの障害を持って生まれる、或いは後天的に障害を背負わされる人達もいる。しかし障害が一体何処から何処までなのかという判断は常に恣意的である。時代的にも地域・地方毎にもそうであるし、認定者の裁量や個人的見解に於いてもそうであるが、実際は逮捕される時は何らかの個人的決裁でそうなるのだし、病院に入退院することも全てそうである。身体的・知的・精神的いずれの障害認定もそうである。
 我々は仮に一つの障害が何らかの形で克服されても、その障害の克服から生じる新たな難題に直面するだろうし、仮に一切その障害が生涯克服されずにいたとしても、その事実と現実自体への受け入れに対する難題が待ち構えている。
 だから社会で各大学で毎日頻繁に行われているワークショップやシンポジウムが学的な純粋培養主義なのは、法律セミナーやアーティストやミュージシャン、デザイナーの養成機関の教育方針が純粋培養なのと同じ理由に拠る。それは端的に医療の現場でも教育の現場でも法曹界でも画壇や画商の世界でもCD制作業界でもウェブデザインの世界でも何でも社会が、或いは世界が俗でしか運営されていないからである。
 それは行政に於いても障害者として認定されるとか、前科のある人として認定されるとかのレッテルづけ、要するに名指しによってある個人のアイデンティティが明確な形を示されて、それが社会で通用してしまうという運命的事実に於いても立証される。
 ある警察組織の末端である所轄区域では伝統的にある犯罪に対しては他区域と違って目くじらを立てるということはあり得る。各地域、地方毎に微妙に不文律は異なる。するとそういった地域、地方には固有の社会的判断が成立する。それはある行為事実に対して、それは犯罪にまでは至らないという決裁と判断が成立する臨界点が各地域、地方毎に微妙にずれ込む。そこに当然時代性も混入する。するとある時代の犯罪は別の時代に於いては美談とか正義になり得るし、逆にある時代の正統的行為は別の時代にはモラル論的非常識となり、犯罪にさえなり得る。
 それはある行為事実への判定に於いても精神異常であるか否かの判断にも直結する。そしてそれらの総括的事実世界に我々は直観的にあざとい。であるが故にせめてワークショップやシンポジウムに於いては純粋培養を標榜するのだ。
 俗とは地域や地方での不文律と、その中を掻い潜って我々が生活していかざるを得ない現実の強制に対する暗黙の容認、それは当然その現実を我々が変えていくことが途方もないことであると予め予想し得るし、だからこそそれをおおっぴらには公言し難いという心理に根差す。
 それは端的に人間社会がどの社会でも出世競争社会であり、その勝利者と敗者が常に共存しているが故に、管理職的成功者の目線と、その目線自体への批判をも含め上から目線と、管理される立場の下から目線との共存に於いて、その共存事実自体を俗と受け取る我々のもう一つの目線が、安易な批判とか安易な共感、反感を表明し難くしているのだ。
 この二重の目線の交差は権力者、非権力者、管理者、被管理者、それらいずれにも属さないタイプの成員全員が持っている。つまりある部分では権力者ほど非権力的である。それは弱者性に於いてそうである。或いは被管理者でも出世コースに乗り将来が約束された立場の人とそうでない人の間にも落差はある。又その様な約束された将来自体も出世コース、非出世コースとの間に内実的に然程の落差はないとさえ言い得る。 
 障害に就いて触れたが、障害自体を少年少女期から携えている人や青年期から携えることとなる人以外の全ての社会成員はいずれ身体障害を老いという形で背負わされる。或いは精神的にも死への恐怖や不安に苛まれる。
 その点に於いて各個人間に差別はない。この非情なる無差別性こそが生や性の実相である。
 確かに障害者というレッテル、前科者というレッテルは生涯付き纏うかも知れない。しかし全ての何らかの形でのレッテルに於ける当事者達は、そう名指されることで、外部と緊密に連絡を取り合えるとも言える。或いはそういったレッテルの一切ない者は、その一切のレッテルづけの拒否とか社会全体から見忘れられているという事実に於いてレッテルを頂戴している。そこにはあるレッテルを生じさせる社会的要請が何らかの形で作用してレッテルとして機能せしめられている事実自体が、我々は固有の価値を常に設定せずに生存し得ないことを物語っている。そしてその価値と価値に包含される内容の選択と設定という判断が常に各自に委ねられている。
 つまり権力者であれ非権力者であれ、当事者性としては常に単一であり、その逃れられなさに於いては平等である。或いはこうも言える。俗受けすることを狙うマスコミが一般大衆という完全に各自の意識に於いては不在な対象に向かって放つメッセージの杜撰なクローズアップ性、つまりこれ見よがし性は、そうされることに常に忸怩たる思いを抱く成員にとってさえ、自己保身的なステイタス保持にはなくてはならないものなのである。
 それが俗が一方で存在し得ることで自己を非俗的位置に押し留めることを可能化しているのだから。
 当事者の気持ちが理解出来るわけがないと決めてかかっている者がいたとして、それに対してそれではいけないと言い放つ者と、言い放たれる者、つまり障害者とか非差別者に対して、障害認定や差別実態への告発であるとか、社会参入と社会復帰というリハビリテーション自体の存在理由が一つの大いなる差別であると捉える者と、否それは違う、やはり何とかその当事者とそうでない人達との間の壁を突き崩す必要性の主張は真っ向から対立している様で、実はそうではなく相補的であり、相互依存的である。或いは何らかの当事者であること自体が、その当事者ではないという事実に於いて、全て何らかの形で何かの当事者であること自体が、どの世界で名指されカテゴリー化されるかということで、内部と外部を各自に認識される段で既に俗と純粋培養との間の相補的締結、取引が成立している。
 ある時はある事実が俗となり、しかし同じそのものが別の時には純粋培養的対象と見做される。その逆もまた化なりである。最初から資本主義社会の競争原理に晒されているある行為が逆に極めて聖職的なこと、或いは純粋社会福利厚生的原理の名の下で理解されることもある。そもそも法曹的現実自体がそうであったし、教育現場もそうであった。
 教育も法律的決裁も、一定の俗的現実が純粋性と峻別される以前的には無法状態と、無教育状態が存在した筈なのであり、だからこそ三十八章でのドライヴァーとしての快に於いて我々はアウトロー性を蘇らせているのである。それはインターネットやツイッターやブログ、フェイスブック、WikiLeaksなどの利用に於いても、権力者も非権力者も無力で平等である利用実態からしてそうである。
 しかしドライヴァーの快はドライヴァーとしてのポジションを獲得している者、或いはそうしたいという欲望を抱く者にしか訪れない。
 ユーザーの快が非ユーザーにとって快不快の規準になり得ないということでは、テニスに関心のある者にとってのウィンブルドンの動向も、ゴルフに関心のない者にとっての全米オープン、全仏オープン、全豪オープンとかの動向も、サッカーに関心のない者にとってのワールドカップやアジアカップの動向も無関心者にとって<存在しているのに存在していないのと同じ・性>で世界の大半が埋め尽くされているという事実があり、その意味で全人類は平等である。だからある者が被差別者であったとしても、その差別は別の世界では成立し得ないし、ある者がある世界で優位にあり、権力や管理義務も遂行権や決裁権があったとしても尚、それはその世界に於いてのみである。そういった一個一個のコミュニティの価値が犇き合っていて、林立していて、隣接していて、或る一個のコミュニティに帰属していたり、参加していたりする事実は一重に単なる偶然でしかない。それは全ての世界で平等である。出会いと別れの偶然性に於ける徹底的平等が世界の実相である。
 これはある意味では極めて低次元の俯瞰主義かも知れないが、紛れもなく真理である。従って差別する側もされる側も、それは差別しながら差別され、差別されながら優位に立ち、その言説的な名指し、レッテル付け自体の持つ意味合いは狭いコミュニティでの止むに止まれぬその時点での判断にしか過ぎない。
 ここに価値に参入すること、つまり一個のコミュニティに帰属、参加、参入、参画すること自体の偶然的出会いとそれを一定期間永続的に持続することの判断と、その判断を誘引する価値認識ということに於ける世界の平等的均一性がここに持ち出される。Part2ではその価値認識を誘引するものとは何かに就いて考えてみたい。