セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, December 19, 2013

第五十三章 顔の見えない文字オンリーのメッセージの本質とは?No.2 ツール・ディヴァイスを使いこなす万能感/判断力と行動力のテスト

 今多くの役所では電子ファイル化が進み次第に職場はスペース的に簡素化されてきているし、そもそも全ての国家試験的な大きなことから大学受験等もペーパーテストにしている昔ながらの方式自体が大きく変貌と遂げていく未来展望は今既に垣間見られる。
 マシーン、ツール、ディヴァイスを利用することへ快楽を抱く人類にとって、その魁的な悪の誘惑として前回銃器の発明を挙げた。拳銃は今日益々老若男女分け隔てなく利用しやすいものへと改良されてきている。この事実はそれ自体は人類の悪そのものであり、悪を認める形での性悪的ニーズに応じて銃器メーカーがアメリカ、タイ、フィンランド、ブラジル等には存在するということだ。
 銃器の発明の前はその扱いに訓練を異様に要する剣、弓矢等が古代からずっと部族社会では存在し続けたし、それらの利用には体力的な鍛錬を要した。その訓練の最小限の簡素化こそが拳銃の発明であり、これによって体力の衰えた老人、そもそも非力の多くの女性や子供でも容易に暴漢から防備可能となっただけでなく犯罪、つまり殺人殺傷も可能となった。
 しかしそういったネガティヴなリアルも今も存在するが、もっとずっとグローバルな形で、そしてユニヴァーサルな形で情報摂取と通信的な送受信を可能とさせたものこそスマホ(PDF端末)やタブレット端末の進化であり、PCの多種多機能、ロングテール的なニーズに対応した各種分化である。
 しかしもっと心理学的にも人類学的にも人類を認識的な価値規範、価値考察的な哲学を一足飛びに飛び越した実用性の猛威は、寧ろ人類を非哲学的に推し進めている。要するに現代のマシーン、ツール、ディヴァイスの過剰利用こそ、コミュニケーションの各自に拠る権力をリアルに持てなくても、あらゆる大勢の個人とネット上で繋がっていられると幻想し得るし、事実そのリアルな出会いをも既にかなり広範囲へと拡張しているし、時間的にも短縮させられる。人類は既に万能感をマシーン全般を日常的なコミュニケーションの武器とすることで快楽的にも得てしまっているのだ。
 ウェアラブル端末がもっと普及し進化すれば(文字オンリーのコミュニケーションももっと進化し、グラフ、数値参照的なものとなって瞬時の判断と選択を個に可能とする様になることが実現すれば)、既に出回り切っているとスマホ全般さえ衰退し、その内姿さえ消すだろう。そうなれば今は未だ権力のない人でも大勢の他者と交信し得るし、その際にリア充的な人格査定や社会的地位を問われることを他者へ気を遣う必要がなくなっているだけのことが、もっと受動的にウェブサイト上での交信をリア充以上に選択している部分さえ消滅し、その内アグレッシヴに自分自身の主観にだけ忠実に全ての他者を選択する様な交信を非リア充的に電子機器にだけ依存させるマナーが徹底化され、あらゆるペーパーテストが不要となり(従って不必要な記憶力重視の教養主義も影を潜め)、会社の入社試験も完全にウェアラブル端末利用をベースとした瞬時判断力速度テストとか行動力のテストをビッグデータを利用して行う時代はもう直ぐ其処迄来ている。
 銃器の進化とコンパクト化に拠って各人の強さの定義を一変させてきたテクノロジー人類学的な人類全体の時代的移行で既にスピリチュアルな部分でマシーンとマインド自体を共存させるというベクトルを人類は選択している。この様に無差別的(いい意味でも悪い意味でも)なコミュニケーションを実現させた人類は、個の世界へ沈潜するということ、個の好き嫌い的な選択をこそ優先させ、公共性の遵守は最低限のレヴェルに押し留め、日常生活の大半の時間を孤独空間(其処に大勢の他者が居合わせてさえ)を独り占めするスピリチュアルな独我論を完全に実現させてしまっている以上、そのデジタルコミュニケーションの一人遊び的中毒性は、万能感の無差別的全人類的個に拠る所有と、フレックスタイム選択的な行動アスペクトに拠るパンドラの箱を開けてしまったのであり、過去へ遡行することは、私の予想では既に何度か述べたが、今の流れが三百年くらい持続していくその後でしかないのではないだろうか?
 何らかの極めてネガティヴな事態の到来、つまりビッグデータ利用に拠る極度の独裁政治や恐怖政治に拠って19世紀迄の植民地が経済的パワーその他に拠って履行されることで人類のヒューマニティに深刻な影響を与えでもしたなら、全ての電子機器を葬り去ろうという気運が人類を突き動かす時代も到来する可能性は充分にある。しかしその時にはこのブログの文章を目にしている全ての来場者も私もこの世界には存在しないだろうし、又余程の奇跡でもない限りこのブログも世界中の誰からも存在すら気に求められなくなっている。本ブログをはじめブログなるものさえ、その時の人類には全く無関係のものとして事実凄く過去にそういう時代もあったであろうと一部の歴史家によってのみ記述されているに過ぎまい。(つづき)

Monday, December 16, 2013

第五十二章 顔の見えない文字オンリーのメッセージの本質とは?No.1

 国家それ自体は、そして国家権力自体が我々一人一人の人間の孤独の弱さや虚栄心を代表し(ある意味では反映象徴し)その個自体の弱さ、無力さを暈す為に用意周到に支えられ(それを助長しているものこそマスコミ、マスメディアである)、その装置の直接運営者である為政者はその孤独を一手に請け負っているわけだが、為政者の孤独はマスコミの無性格的集合性によっても支えられていて、その内実は極めて常に脆弱である。対しマスコミ、マスメディアの無性格性は強靭である。
 一方個人としての性格は、我々一人一人が全く無責任で責任転嫁であり、メッセージ的交信行為をダイレクトに為政者へは向けられず、一方では為政者による政府、他方では野党とかマスコミ、マスメディアに担わせている。その無責任性と無性格を助長しているものこそ実は現代のウェブサイト、サイバースペース上でのコミュニケーションだと言える。あらゆる青少年のいじめを可能にして、相手を自殺へと追い込めるこのネットコミュニケーションは実はその基本が文字情報オンリーであることによって完遂されている。つまりメッセージの送り手本人の顔の見えなさ、その顔を確認することの無意味さに於いて既に我々による現代生活が送られている以上、文字オンリーの交信手段は如何にFacebookによって写真画像が多種交信されても尚Line上で即時的な文字のやり取りが頻繁となれば、瞬間的幻想へと後退する。
 個人内部の野心も虚栄心も全て一瞬で文字化されることによってメッセンジャー自身の持って生まれた固有のアウラが雲散霧消される。この匿名性は既に人類では銃器の発明によって殺傷手段がその暗殺者とか殺人実行者の腕力によってではなく、あくまで機械の有効な使用の仕方によって実現するという歴史的快挙(?)によって可能となっていた。しかし銃器の発明とは、それ自体現代社会では最期手段へと後退し、既にロボット兵器によって国家権力レヴェルでの実力行使を可能としているし、個人のメッセージ投函的欲求は完全にあらゆるディヴァイスの利用によって充足されていて、それは文字自体のアウラの雲散霧消によって可能となっている。
 お前が嫌いだ、という一言は特定の個人によって発せられた場合、それを言われた本人は確かにいい気持ちはしないけれど、そう言った相手の人格とか日頃の行動によってその言葉の意味を理解しようとする。しかしそれが液晶画面の内部に点滅する文字情報によって示された場合、その相手が全くリア充的に顔の見えない場合は、匿名性を帯びて相手の性格や人格は全く理解出来ない。そしてその無性格性にも関わらず相手の悪意だけは充分伝わる。つまりそれは無言電話とか2ちゃんねるでの悪意ある書き込みに性格的には相同の性格を帯びているのだ。これはマスコミ報道に振り回される現代人の無性格性、つまり群集心理、集合性の無性格行動選択と同様の性格を付与されているのだ。
 しかもLineではそのタイムラインのリアルタイム性が相手の悪意の無責任性、迎合的無性格性をより助長し、そうメッセージを伝えられた者をより孤独へと突き落とす。
 つまり文字情報オンリーの無記名性とは、それ自体それに参画するゲームプレイヤーもその文字メッセージの裏の悪意に対して贖罪心理を抱かせ難く、それでいてそれを突きつけられた者へは固有の意気消沈を助長する。それは偏に文字の持つ観念的な意味読み取り誘引装置性に拠る。要するに文字とはそれ自体その文字を入力する行為者の虚栄心を生な形で伝えることを避けさせ、言葉と感情とが結びついている実在的発話と異なり、そういったリアルタイムの表情読み取りを不可能とさせ、メッセンジャーの感情を無化させる。思想家や批評家の思想表明の言葉の散文から読み取れる主張や感情さえ、短文メッセージにはない。それでいて短歌や俳句の作者の短文へ込めた感情も混入されていない。悪意ある短文による書き込みは、文学でも批評でも時代的メッセージコピーでもない。要するにそれらは明らかに無性格、無責任の垂れ流し的な液晶画面内部の落書きである。
 この液晶画面内部の落書きの受信者へ齎す精神的な鬱とは、現代を生き抜くことが、固有の孤独感、つまりそれくらいのことは誰も深刻になんか受け止めないという現代のネットユーザー全般による総意、暗黙のノンシャランス的同意の前では個人内部の処理を求められている。従ってそういった文字情報の悪意ある書き込みで精神的に消耗することは、そのメッセージ受信者の日頃の精神的ストレスの解消の仕方が悪いだけだというリア充的な健康維持の怠慢と受け止められてしまうし、そうならざるを得ないとも言える。そこで猛烈な勢いで似非的なネット上の勧誘を受ける全てのネット受信者達は、そもそもリア充的な意味での本物の(?)出会いをサイバースペースでは求めるべきではない、という暗黙の現代人の同意の中で、全ての無責任な悪意とは受け流すしかないと判断する。
 しかし精神的に病苦にある人間はそう容易に全てを受け流すことは出来ない。精神的病苦とは、即ちリア充のストレス解消によって無責任で無性格な落書きを一切受け流すということを困難にすることそのものだからだ。とりわけ青少年期、思春期ではそれは困難である。大人の様な健全なストレス解消手段をそもそも境界人とは持ち難いからだ。
 確かに現代社会は北朝鮮の様な特殊な国でない限り、価値とは多元的である。しかし価値自体があまりにも近代迄と異なって多種多様化してしまっている以上、選択するということがかなり受け流し能力をリテラシー的な意味でもツールやディヴァイス利用の俊敏さに於いても向上させなければ履行不能である。つまり現代人とは、要するに自分自身とは無関係で居てもいい全てを適当にミーハー的に短小軽薄に受け流す為の固有のスキル、つまり考え込み過ぎない、と言うことは便利さそれ自体に懐疑的な問いを持ち込まないという無知性性を求められているのである。
 つまり非哲学的存在者であることを積極的に求められている現代人は無性格な悪意ある書き込みの衝撃を大都会の駅のトイレの落書きの様に現代固有の都市現象同様受け流し、全く意に介さないという文字情報オンリーの弊害を巧みに自己責任に拠って回避することに於いてのみ知性と哲学を要求されるという状況を生きている、と言えるのである。生物の世界では弱者程いじめられ虐殺される。ネット空間上では相手へ弱みを見せないはったりだけが精神的平衡維持に求められていると言えよう。
 付記 今年日本で起きた広島市の少女暴行リンチ殺人死体遺棄事件、そして中学生監禁性的虐待事件の背後には全てLine上のネットコミュニケーション、サイバースペースカンヴァセーションがある。しかしこの種のディヴァイス依存度の強い青少年の生活を改善する為にも積極的に幼少時から雑多なことへ慣れる、純粋培養ではない鈍感力を価値とする人間教育が求められている(現代の大半の大人は既に雑多な不純な真理に就いての教育を受けていない)と言える。又現代人の悪意ある書き込みに逃避する行為の常習化とは、言ってみれば深層では偶像へ逃避することと同じだ、と言える。その逃避それ自体を一々悪として駆逐することを考えるより、受け流しに慣れることへ心身を鍛えるという鈍感力がヒューマニティを損なう形ではなく持てるか否かが現代人に突き付けられた固有の哲学と思想を見出すのではないだろうか?

Tuesday, November 19, 2013

第五十一章 エロスと虚栄心/通信傍受社会から読み取れること② 孤独に弱くなっている現代人類、そして国家No.1

 現代人類を決定的にある方向へと大きく舵を切らせたのがウェブサイト利用、つまり通信手段としてのネットコミュニケーションを世界中に張り巡らせたことだ。しかし一見人類がウェブサイトを獲得したことで、孤独に強くなったと思えるのは表面的な見方で、その実却って孤独に弱い性向を助長させた、と言える。何故なら一人で居る時もネットを通して誰かしらとコミュニケーションを取ってしまっているからだ。人と会う以外では一人で居る時はTVを見るか、本を読むかしかなかったかつてと違って現代では対話さえネット上で可能となったからだ。
 そのことは個人の中でどうメッセージを示すかという虚栄心を膨張されもしたが、その事実はこと個人の行為だけでなく、個々人の集合体であるあらゆるコミュニティへも、そして国家自体へも波及していったと言える。世界の通信傍受システム開示に最も貢献したアメリカ合衆国自体が最も孤独への恐怖に打ち震えていることは、ドイツのメルケル首相への通信傍受が問題となり、国際問題化したことに拠っても証明されている。あらゆるウェブサイト関連のコングロマリット(アップルを頂点に、マイクロソフト、グーグル等)自体が人類の孤独への弱さを企業全体で体現させてしまっているという実態にこそ、企業であれ世界防衛システムに於いてであれ、アメリカ合衆国とアメリカ巨大企業が孤独への恐怖を率先して示してしまっているという現況が語る。
 孤独に弱いのに、あたかも孤独に強い様に他者へ見せる虚栄心こそが現代の世界防衛と通信傍受システムのスキル最前線を担っているアメリカのウェブ関連のコングマリットである。そこではサイバースペースへ関わる一日の時間配分が大きければ大きい程エロス的コンタクトを失っていくが、その喪失を世界中の市民が共有しているという実感を得る為にこそアメリカ合衆国のSNAの活動とウェブ関連企業の市場独占的リアルがある。つまり一見ウェブサイトの世界制覇が世界中の市民が最大のコミュニケーション利便性を得ている様に思えるも、内実的にはアメリカ合衆国とアメリカウェブ関連企業の越境性の中にアメリカアズNo1のプライドとその実現に世界中のシステム進化の必要性への焦りが総動員され、アメリカ人の孤独恐怖感情に世界中が付き合わされている(カナダもフィンランドも日本も韓国も中国も)というリアルは否定し難い。
 権力の頂点に君臨するということは、国家であれコングロマリットであれ、巧妙に支配者が最も孤独に強いと思わせ、その実その権力者の欺瞞的責任倫理が丸事世界市民を巻き込むという図式が仄見える。要するにアメリカの孤独解消法に世界中が付き合わされてきたと言える。それは中国国内でチベット民族やウィグル民族が漢民族による共産党本部と人民解放軍の孤独解消法に付き合わされているのと構造的には同じである。
 虚栄心は個人内部である内は、それ程周囲に大きな影響力を持たないが、集団化されると民族にせよ、国家にせよ、企業にせよ、巧妙にその全体自体が孤独を感知しているという事実を隠蔽する様になる。その巧妙な正義的理由に世界平和とか世界治安のテロ撲滅の意図が供せされていると解釈すべきである。勿論オバマ大統領一人の権力と指導に拠ってもそのリアルがどうなるというものではない。
 SNS過剰利用に拠るネット空間でのいじめが各国で顕在化しているが、同じことが集団、民族、国家全体の中でも個人の虚栄心がシンボル化された巨大なパワーで世界を制覇しつつある。そして厄介なことには集団化された虚栄心が最も観念的正義のメッセージとして常套化されやすい、ということである。エロスの喪失はウェブサイト上でのコミュニケーションの多用に拠って明らかであるが、その病的な依存自体がどの個人に於いても共通した経験である様にどの国家、企業でも共有されているのだ、という歪な安心感が世界のウェブサイトコミュニケーションに拠って証明されている。
 精神的なリアルに対してインポテンツ化しているというリアルだけが世界市民に共有されている、という訳だ。ヴァーチャルである時間を多く共有するというリアルだけであらゆる宗教、宗派、政治信条の違いを超えて世界が一つとなっているという歪な実感に現代人類は脆いが、絶対的なある歪な安心感を得ている。この安心感がスピリチュアルな危機であるという危惧自体をネットコミュニケーションの利便性が成立し難くしている。いいじゃないか、世界がどんどん便利になっていくのだから、という訳だ。
 しかし世界全体がアメリカ化された社会を望んでいるのでもビヴァリーヒルズでの生活を望んでいる訳ではない。ブータン人も中東の多くの国民もアメリカされた文明を理想としている訳ではない。と言ってウェブサイトコミュニケーションは共有したい、その事実こそがスピリチュアルな危機の到来に耳も眼も塞ぐというリアルを作っている。
 現代人類の共有価値とはとりもなおさず世界では様々な文化差、生活習慣差があるにも関わらずそのある種絶対的壁を一瞬ウェブサイト利用では忘れられるという奇妙な幻想を世界中で共有し得るというリアルとなっている。しかし利便性が向上進化すればする程その絶対的壁は不動のものであると我々を実感させる。言語の違いもそうである。しかしその事実を忘れたいと願う心理こそがアメリカアズNO1とアメリカコングロマリットの恒常的世界支配を許す結果となっている。
 ジュリアン・アサンジもエドワード・スノーデンもそのリアルへ楔を打ち込むことで、アメリカ合衆国やアップル、マイクロソフト、グーグルの世界市民への共有幻想と対となり得るもう一つのリアルを世界中へ共有させている。この二項対立は恐らく今後三百年はずっと延長されるのではないだろうか?
 エロス的対人関係をネット利用に拠って世界中の市民が喪失していることに於いてのみあらゆる文化差を超え得ると幻想すること、そして孤独へ絶対的に弱くなって一人で他者と多くネット利用時間帯に繋がっているという実感を得ることで、文化差、生活習慣差を嫌が上でも実感することを回避しようとしていることが、アメリカ合衆国のSNAとアップル、マイクロソフト、グーグルを個々人が凄く孤独へ弱くなっている人類の性向を各人全てが忘れたい願望に拠って巨大化させている、ということは現代人類の決定的な精神的ベクトルである。
 国家、民族、コングロマリットの決定的性格とは、その巧妙に個々の成員の虚栄心を代表し、暈し、それ自体の実はかなり孤独に弱いという欠陥を巧妙に隠蔽する装置である、ということを我々一人一人の市民が実は覚醒しているにも関わらず誰もその決定的事実に触れたがらないということに現代人類の精神的病理の性格が如実に顕れていると言うことが出来る。(つづき)

Wednesday, October 23, 2013

第五十章 エロスと虚栄心/通信傍受社会から読み取れること

 我々は観念的理想を脳内で追い求めることは出来るけれど、それは必ず実現してみていいものではない。そういった意味では実在の、現実の理想には必ず居心地のいい、それを快として許容出来る欠陥とか短所を伴っている。そうでないものはあり得ないし、又あったとしても、其処に温かみを感じることは出来ない。
 アートは美的観念の図像化なので、当然実在への観察が感謝の念としても息衝いていることもあるが、幾分必ず実在への不満から理想化されている。昨今展覧会で鑑賞した竹内栖鳳もレオナール・フジタも実際の猫や裸婦を絵画的美へと送り込んでいることを確認し得て、絵空事として絵が実在からヒントを得た作り事である感をより強くした。
 実在に憩いを感じることと、不満を持ってより理想化された今は体験出来ない実在(それは幻想かも知れないが)を追い求めることを我々は脳内で絶えず行っている。
 しかしそういった理想的美は実在の実際の外交的軍事的諸問題を抱えた国家とか社会では絵空事であり、絵空事がリアリティを持つのも、そういった有象無象の実在の国家や社会の汚穢があるからである。
 まさにその汚穢の中で右往左往している我々は、しかし同時にエドワード・スノーデンが愛国心と理想との狭間で義憤に駆られ告発した監視社会(NSCに拠る通信傍受の一切のプライヴァシーと個人の権利を踏み躙ることへの告発対象としての)も、一面ではその様に監視されればこそ初めて意識し得る個人の秘密とか個人の権利というものもある、と知っている。
 要するに一切の監視のない社会ではそもそも個人の権利であるとか秘密を特別のものとして意識すること自体がない。そういった精神的ストレスが発生しようがない。監視することだけを考えればそれは社会の側(つまり監視することが治安維持目的の為に正当化され得る)の正義が悪意へ変貌する危険性を我々は察知し得る。
 しかしその様に個人がテロその他の反社会的行為へと赴く危険性とその能力を一切信じていない社会に既に現代人は満足してもいない、とは言い得ることなのだ。
 もっと率直に言えば、我々は何処かで人から存在(それは社会へ何事かを齎す能力自体である)を認可されたいという欲求もあるということだ。そしてその人から良く(能力があると)見られたいという欲求は、自分がある程度存在感がある存在と見られるのなら、自分が気づいていない瞬間に見知らぬ他人から覗かれているかも知れない、その状況を密かに愉悦的に歓迎している、そういった一種のマゾヒスティックな快楽をも我々は心底では否定していないのだ。
 それはブログで既に自分で書いて自分だけが読む日記を公開することによってある程度誰しも実現しているのだ。ブログの記事が個人的なことであればある程、我々は自らの切実で、それを他者に知られることに羞恥を覚えること迄暴露したくなるマゾヒスティックな願望もあると知っている。だからこそ昨今全世界的問題となっている悪乗り投稿サイトが検索回数をヒットさせているのだ。
 これは監視社会におぞましさを感じることと対比的であるが、そうではなく監視社会自体を密かに愉しむという性質をも我々が持っている証拠である。
 実は純粋なプライヴァシーという観念そのものが統制される社会とか国家という存在に拠って生み出されているとも言えるのだ。だからこそビジネスで会社員として関わる人がビジネスオンの時間帯では一切のプライヴァシーは許されぬからこそ、オフの時間帯ではビジネスに関係する誰からも(顧客であろうとも)干渉されたくはないという気持ちを持てるのだ。それは一種の社会との契約関係でもあるし、プライヴァシーを価値として認識する為に拘束が必要だ、ということでもある。
 ではエロスとはここでどう捉えたらよいだろうか?
 エロスとは男女の異性愛を基調とするものであるなら、それは俗的なことであり、観念的なことではない。しかし或いは監視社会に拠って性行為迄覗かれているのではないかという懸念こそが、異様なるプライヴァシーという形で性やエロスを純粋な秘め事、二人の(或いはそれ以上の人数での)孤独へと作り替えている。しかしここでもマゾヒスティックに自分の秘め事を覗かれてみたいという欲求をも我々が手放していないことを我々は気づくのだ。
 覗かれていても覗かれていなくても個というものの存在論的差異は他者と自分自身とでは決定的だとするのがアヴィセンナ以降の全ての独我論(独在論、solipsism)という哲学命題である。自分自身の存在は自分にとっては決して他性一般へは組み込まれず、そうであると知っていて、言語行為ではそれを無効化させずにはおかない(永井均の命題はそこであるが)、つまり個的な孤絶的なこととはそれを言葉化させることで一般化されてしまい、それはその孤絶を感知する存在論的差異と矛盾するという命題が昨今の(と言うより初期からずっと)永井均の哲学である。
 しかしその命題は永井に拠って昨今作られたわけではなく中世哲学者アヴィセンナ以降の伝統的見解である。しかしそういった問題意識以前的に現代人は監視されたくはないと言いつつ、つまり自分自身の社会的存在理由を一切与えられないということには耐えられず、覗かれるということすら自分が覗かれていると気づかない限り(そういう場合は相手へ不快感を持つ場合はやめて欲しいとストーカーの被害者よろしく感じる)全くあり得ぬよりはあった方がいいとも内心で思ってもいる(これはスノーデンの様なエリートには気付き難い点である)。
 関心を持たれたいという心理は虚栄心が生み出している。虚栄心と羞恥は表裏の関係である。公的ではあるがオフレコなこと、私的なことの全ては会話事実であれ性行為的秘め事であれ、それを直接誰しもが知り得ることにはさせたくはないからプライヴァシーとなっている。それが現代人の権利である。そして自分自身にとって快く思えない他者からそれを知られることを嫌がる感情は虚栄心が生んでいる。従ってこちらに関心さえない他者の視線を疑心暗鬼で気になるという精神状態は虚栄心の病理的状態に拠って形成される(ところで虚栄心それ自体は羞恥と関係があり、率直によく見られたい軽度のマゾ的心理と虚栄心と、しかしここから先は覗かれたくはないというのが羞恥である。そして独我論の問題ともこの虚栄心と羞恥の問題は無縁ではないと思われるが、それは又別の機会に論じよう)。
 監視されているけれど、その監視システムの全貌を知ることは出来ないが、方々から監視されているかも知れないし、そうである可能性を否定し得ないので、誰からも監視されまいぞと死角を探して歩行するというスリルを満喫することも決して不快とも言えないという心理状態に慣らされている現代人であればこそ、逆に一部では人間心理の中にマゾヒスティックに覗かれてみたい願望も我々は発見するからこそ、悪乗り投稿サイトが社会現象化するのだ。
 監視されているかも知れないという社会状況を何処かでもうそれをどうにかすることは個人の力ではどうにもならぬので楽しもうという心理を恒常化させることに吝かではない現代人は、無意識のマゾヒストとして生活することを選択している。
 それをなかなか認めたがらない(人間理性という観念がそうしているのか?)からこそ監視社会を社会問題化しようとするのだし、それを正義論理的な極点迄突き詰めた人こそスノーデンなのだ。彼は端的にエリートであり、インテリなのである。しかし一般市民はそこ迄考える余裕自体を与えられていはしない。
 見られたい欲求が既に他性との相関の中で我々にはあるのだから、いっそテロリストに反社会的行動を取らせぬ治安維持の為にプライヴァシーを覗かれない権利を国家へ売り渡したって、それはそれでいいではないか、という選択を我々は事実しているのだ。
 視姦ということは、そういった他者からの関心を一切されないで存在さえ確認されていない状態よりよっぽどましである、という価値判断を我々は確固とした形で認めている。
 他者から存在さえ無視されることへの一抹の淋しさこそが視姦されることをそんなに悪いことではないと我々に心理させている。これは決定的な自他認識の化物である人間の性質である。
 確かに人間は自分だけが監視されているのだとしたら、それは耐え難い、恐らく誰にとっても。しかし自分だけでなく全ての自分以外の他者も又そうである、という状況を我慢する方がテロリストにとってテロ行為をするのに自由であるよりずっとましだ、という選択を例えばアメリカ国民は採っているのだ。
 通信傍受はテロの標的にされやすい社会や国家では一般市民の同意を得やすい。しかしそのことと、他人から自分が何処かでは自分が気づかない侭注目されているのだ、とは思いたいという心理があることは、全く別のこととして両立し得る。
 人間の虚栄心は男女の異性愛、同性愛を問わず、LGBT全てであり得る。肉体的エロス、視姦されるこの身をよく見られたいということはあり得る。それは相手が~であればこそ、特別にこう見られたいという形で発揮される虚栄心である。
 人は人前ではこれなら見せてよいという形で行為する。ゴフマンの儀礼的無関心もそのことを言っている。しかしある瞬間ふとしたことで、絶対に人には見せたくはない仕種を見られてしまうこともある。格好悪い処を目撃されることはある。その偶然に見られてしまう、見つかってしまう無様さこそが羞恥を生む。
 従って誰からも注目されないことには不満を持つ(物足りなく思う)ことと、格好悪い処(自分で気に入っていない自分の姿や仕種)を見られたくはないということの双方とも虚栄心の父であり母である。
 勿論それが決して無ではないけれど、極めて微弱な人も居る(例えば私も比較的そうだ)。
 しかし通信傍受されていることそれ自体にある種の気持ち良さは感じられぬけれど、一応治安維持の為に同意しようと思っても、その監視盗聴が悪用されたら恐ろしいとは誰しも思う。その悪用可能性こそがスノーデンの考えた義憤の発端であったことだろう。
 傍受者の魔を刺させる状況的可能性こそ、極めて悪辣で巧妙な独裁的権力者に拠る意図である。そういった権力者の登場は充分可能性があるのだ。
 次回は独裁的政治手法と国家的規模の集団的な虚栄心に就いて考えてみよう。それはコングロマリットとか大企業の経営的独裁も含む。そして虚栄心とは独裁に拠って育まれるのだ。(つづき)

Thursday, October 17, 2013

第四十九章 監視されるエロスとその告発者と現代社会対人関係の虚栄心と孤独

 現代社会を極めつけのプライヴァシー維持不可能な時代へと突入させたのが3.11であったこと、そして世界同時多発テロと言いながら、それが端的にアメリカ国内で起きたことだったということ、NYの持つ国際的性格からそう呼ばれたが、アメリカ型自由主義と資本主義競争社会へ何の疑問も持たない人達にとって、それは「世界」であった。要するに監視カメラと盗聴システムが、スパコンの進化とビッグデータ確保に伴って進化の速度を増さしめたのが3.11であったことは紛れもない事実である。
 日本で特定秘密保護法案が可決されそうになっている背景には2010年9月7日に勃発し、同年2010年11月4日にYoutube上で40分の映像として流出した尖閣列島沖の中国漁船衝突事故で国家機密を暴露した海上保安官が居たという事実に拠っている。
 要するに我々は既に個人のエロスを満喫することすら、国家機密維持と、その為にそれを脅かすテロ勢力を未然に防止する為の監視盗聴システムの網の目の中で安堵の気持ちでは可能ではない地点に立たされているのだ。
 現代人は孤独ではなくなっている、と述べたテレビのコメンテータも居たが、都市生活者はとりわけそうであるのはエロス的充実からではなく、短文メッセージに拠る受信送信システムに拠ってである。それは寧ろ社会心理学的には現代人がウェブサイトとそれを可能とするツールのシステムを保持していなかった時代より、より孤独に弱い性質と体質を保持してしまっているという証拠である。
 恐らく近日中には、Twitter、Facebookでのなりすましを防止するシステムさえ監視カメラとスパコンのビッグデータベースに拠って可能となるであろう。
 監視カメラは当初はテロ未然防止システム開示の為に進化したとしても、その結果進化してしまった監視カメラは盗聴器同様、次第に当初の目的から離れて自立して、他人のプライヴァシーを覗き観ることすら可能とさせる様に人類に悪を目覚めさせている。既にその誘惑に抗しきれない資質を露呈しているからこそ他人のPCに収納されたデータを盗み見るハッキングテクニックが進化してきたのであり、その事実と監視カメラと盗聴システムを悪用することさえ、それを白日の下に晒さなければ自由であるとさえ言える状況は、国家に拠って個々人の市民のプライヴァシーをチェックすることと、国家という意識とは無縁の個人が覗きを楽しむことを同時に可能とさせる監視カメラの安価供給と利便性の進化に依っている。
 マーク・ザッカーバーグはある意味では先述の現代人はそれ程孤独ではなくなってきているという逆説的な現代人のウェブサイトとツール利用に拠る孤独感の倍増に漬け込んで成功を収めたビジネスパーソンである。既にFBでは友達相互に自己の対人関係的ネットワークを自慢しひけらかすことと、それをFBでの友達に紹介することでつながり依存症を加速化している。それを助長するシステムとして挨拶(pokeと呼んでいるが、これは英語俗語では性交の意味さえある)を頻繁に友達間で行わせる仕組みが挙げられる。
 それに対してジュリアン・アサンジとエドワード・スノーデンは自由というものの市民性としての権利と国家主義とかそれを象徴するビジネス的な社会的自己の虚栄心とは正反対のエロス的個人の権利、秘密を保持する倫理的モティヴェーションという義憤に駆られて世界を告発したのである。アサンジに拠る反国家主義一辺倒への批判と、スノーデンに拠る国家保全、治安維持の為の個人主義とプライヴァシーを破壊してまでも遂行する国家監視システム(NSC)への告発とは同時代的倫理思想に根差していて、マーク・ザッカーバーグの行ったビジネスクリエーション(それは監視システムを強化する国家主義へ迎合的である)と正反対である。
 エロスは監視されるものであってはならない。しかし国家は治安維持の為だけにそれを犠牲にすることを選び、それを何とも思わない世界市民を育て様としている。しかしFBもTwitterもSNS一般は明らかに世界市民の中で真に平和で安堵あるエロスを享受し得るのがほんの一部の資産家や富裕層だけであり、それ以外は全的に監視され盗聴されていることを承知でSNSで現代人固有の孤独解消システムに参加して、その内容が監視されていることに何とも思わない不感症に馴らされていっているのだ。
 現代人は精神生理学的には既に極めて歪な性格のマゾヒズムに浸っているとさえ言えるのだ。それは精神の疲労と疲弊を喜んで受け入れる不健康な老化を許さぬ意識至上主義的な性格の国家資本主義戦略の一翼を半強制的に担わされていると言えるのだ。
 SNSに参加することは一面では本音を語る孤独な自由の確保を可能としているけれど、本質的にはそれは予め見せるという意識に拠って維持されているシステムなので、必然的に自主規制的本音というものを恒常的に維持することを強いられている。それはそのシステムに参加している間は明らかにリア充的なエロスを放棄することに同意していることだからである。
 だからSNSに拠る禁欲的自主規制習慣の保全とは、言ってみればエロスの放棄を世界的レヴェルで世界市民に強いるものである、という意味ではウェブ的ヒューマンネットの強制という意味ではどんな会話の内容でも、どんな個人的な呻きであっても国家に拠って監視され盗聴されることで辛うじて治安を維持し得る歪な現代社会の禁欲主義(つまりそういう日常に感性的に積極的に慣れてしまうことで、国家<主義>に却って依存する)と同時代的な意味で同一志向の構造を持っている。
 そしてそのリアルに疑問符を突きつけたという意味でジュリアン・アサンジとエドワード・スノーデンはマーク・ザッカーバーグや柳井正や三木谷浩や堀江貴文達とは正反対の意識のベクトルで世界へ対峙した、という意味で一世紀後にも名前が残っていることだろう。対しザッカーバーグ達の様な存在は手を変え品を変え登場し続け、個人の名前は残らないだろう。
 勿論そのネット上のコミュニケーションを可能化させたスティーヴ・ジョブズやビル・ゲイツの様なエンジニア的感性の経営者達はザッカーバーグ達とは別の位相のパイオニアとして名前が残るだろうが、一世紀後にアサンジやスノーデンの考えてきた個人の自由という理念に対して、ジョブズやゲイツはそれを助長させたのか、それともそういった自己反省をもザッカーバーグ、笠井型の現代資本主義社会の中での個人の孤独に漬け込んだシステムと共に招聘させた張本人達であるかということは、その時点での人類の立たされている個人の自由の状況如何だ、とも言い得る様に思われる。
 しかしここで次回以降の論説へも引き継がれる問題として、実はエロスという観念そのものが実は完全なる社会から隔絶された自由な空間という発想に拠って現代では助長されていて、ギリシャでスポーツ、哲学、民主主義が形成されていた時代のエロスと性格的にはかなり乖離してきてしまっている、という厳然たる事実も忘れてはならない。
 それこそがSNS利用で助長される自己のヒューマンネット誇示の虚栄心とも関係のあるサディズムとマゾヒズムとも大きく関係する歪な性格のエロスへの渇望とも関係があるものと思われる。しかしそれを論じる為には精神生理学的な歪なエロスとアート的美的観念の関係性へも着目する必要がある様に思われるが、それこそ次回以降の論議を続行させ得るものであろう。(つづき)

Friday, September 13, 2013

第四十八章 媒介価値とは行為のことである/現代、そして未来を思想する・第一部

 永遠不変を観念としては理解しつつも、人生は短く、生きている間に何かアクションを起こしたいのが我々の願望である。にも関わらず我々は惰性的に押し流されやすく、そのことを我々は昔から承知で、哲学ではそのことをアクラシアと呼んできた。それは不変の価値とは対極の「生まれ変わり難さ」のことである。
 それを告発することで打破しようとしたのがエドワード・スノーデンであり、情報摂取をネット空間に拠って当たり前のこととしている我々の日常への批判行為としてスノーデンの告発を認識する必要がある。彼は一面では凄くオーソドックスな愛国主義者であり、だからこそ通信傍受の実態を無視してうっちゃっておけず、国家犯罪を告発したのだ。それはオリヴァ・ストーンの言葉を借りればもっと高いレヴェルでの倫理的な使命感だったと言えよう。
 何かに受け流されていくことの最たるものこそスマホの過剰利用である。最早中毒症状を呈していて、nomophobiaという語も定着した。その為にデジタルデトックス(digital detoxification)を現代人は求める様になった。アメリカと韓国で顕著な現象も次第に日本をも蝕んできている。そして次第に一過性の流言飛語へ飛びつきやすい性格を現代人へ醸成させている。そしてその事実への反省もしないという習慣も身についている。
 ネット帝国主義はある意味では無思考的にツールを利用し、その中毒性を歓迎する。人間が無思考的に文字情報のみを信頼すること、図式とグラフの数値に拠るフラグで示されたデータ参照のみに自己理性を預けてしまっていることが、よりネット空間を支配するコングロマリットの世界制覇と資本帝国化を加速化している。しかし恐らく後三百年の間人類は20世紀以降我々に拠って生み出されたスティーヴ・ジョブズ型の天才を持て囃すかも知れない。
 しかしある日人類は情報摂取の為だけのネット空間を全て捨てようと言い出すかも知れない。勿論そうなる前迄に多くのサイバービジネス定着以前に確立していた既得権益的コングロマリットの解体作業を人類が模索して、その為にサイバービジネスの方を肯定し、益々ネット帝国主義は巨大化していくだろう。
 しかし前回から述べている媒介価値へと常に目線をシフトさせる我々にとって、それは行動である、という想念が我々の中でサイバービジネスの帝国主義化の加速に伴って醸成されることも確かである。そして行為は既に価値的創造以外の過剰創造を忌避していく方向へと収斂されていくのではないだろうか?
 スマホの登場に拠ってどういう情報をどういう方法に拠って摂取するかということ自体を考える心の余裕を我々はある部分では捨てた。つまりスマホ一つあればそれでこと足りるとしたのだ。しかし本当にそうだろうか?真に価値ある情報は本からでもネット空間からでもなく、直に人と接したりする為にも、イヴェントや実際のランドスケープを体感する為にあらゆる現場へ自己の身体を伴って赴くことに拠ってである、と既に我々はスマホを片時も離すことのない日常の中で個々人では密かに気づいているのではないだろうか?
 つまりスマホの携帯とは言ってみれば、そのことに気づいているのに、容易に誰しもが世界中を旅して回る時間的余裕も経済的余裕も、そういった機会を得る為に必要な社会的地位も獲得出来ないということへの諦めが生じさせている現象とも言えるのだ。
 人間は創造されたものの上に胡座をかくことを自らに許さない。故に創造と真に言えるものとは、一度創造されたものを破壊することに拠って、やっと創造の基盤を得たと言えると知っている。伝統というものも実は一つの行為のパターンの読み直し、組み換え(それを現在、歌舞伎<花柳界>ではしようとしている)に拠って初めてその基盤を得ることが出来る。
 しかし今はどんなにnomophobiaが深刻化して社会問題であろうと、既存の既得権益コングロマリットへの批判勢力拡充に人類はイエスを言い続けねばならない。そこで優雅に雄大な風景を眼前にして過ごす時間の余裕を得るだけの金銭的循環を一般市民が得ることが容易ではない以上、スマホ携帯に拠って、その欲求実現不可能性に拠るフラストレーションを解消させようとするだろう。かくしていよいよネット帝国主義は加速化する。時には情報操作に拠って非革命的精神を植え込むことを画策する天才的なアジテーター、ネオナチ的な情報操作に拠って国家主義を定着させようとするハッカー集団、それを軸として政権迄樹立する時期も我々人類は経験するだろう。要するに全てのネット帝国主義の精神的弊害を訴える輩を既存勢力(ネット空間拒絶的感性の世代の人達に拠る保守主義)打破の為に人類が結束することを邪魔する勢力と見倣す国家主義的扇情的右翼(ネオナチ的な情報操作集団とそれを結託した政治勢力)が再度人種問題、世界の宗派別闘争を加速化する時期も到来しよう。
 勿論見かけ上ではイスラム教文化圏とキリスト教文化圏、ヒンドゥー教文化圏等は巧く懐柔策を見出していくことだろう(今現在のシリアを巡る米露その他の関係の様に。尤も未だこの問題も未来の行く末は不確実ではあるが)。しかしそのことと人種間対立感情とか、宗教別の倫理的感性のずれは深層意識の上では深刻となっていく可能性の方がより強い(その兆候は既に日本の温泉に先住民族のマオリ族の人が入浴出来なかった最近の事件でも物語られている)。
 上記のネオナチ的サイバービジネスはSNSのゲシュタポ化に拠って加速化される恐れは大いにある。要するに凄く魅力的ツールを通して凄く魅力的ワンフレーズで民族主義的相互監視空間へとSNSが変貌する兆しは既に現在でもある。それはSNSの利用者が既に自己主張より、SNS固有のコミュニケーションメソッドへの追随的中毒者化しているからである。そこでは身のあるツイートや情報より型通りの挨拶の常習化、より大企業的新製品のツールの宣伝と、それに阿った上級ユーザーとしてのナルシシズムの有効な活用者のみ大勢の友達やフォロワーを獲得するという無思考的なユーザー間のゲームと化しているからである。
 スマホ利用とSNS利用の過剰的な頻度に拠って、より無思考的、無思想的な大勢追随者の群れを作っているのが現況の社会である。その実態の平均化に拠って表面上は確かにイスラム教文化圏もキリスト教文化圏も差がない様な幻想も作り上げられていこう。しかし言語的壁も相互に払拭されていないし、イスラエルとパレスチナとの間の感情も解決してはいない。そこでアルジャジーラの様なメディアとYoutubeとの連携の様な現在でも既に確立されているトライアルが部分的には世界中のインテリとか特定の思想信条的な人々をこれからも結びつけていくだろう。しかし恐らく行為を媒介価値として最大のパワーと自覚する人類はネット空間、サイバースペース利用自体を建前化させ、真実には相互に暗号を送信し合う便利なツールでよいということにしていくだろう。
 何故なら今は未だスマホもタブレット端末も目新しい段階であるが、あと数十年後にはそれは使い古されたものと化し、暗号通信的傍受を専門とする知の体系が世界中で進化していくことに拠って既存のグローバリズムともインターナショナリズムとも無縁の極めて特殊なバイアスのかかった思想集団や利権集団に拠ってネットが利用されていく、それも合法的に国境の枠を超えて結束してネオナチ的な排他主義と閉鎖的特権的集団となり、SNSに拠って未通女い(おぼこい)ユーザーを誘惑したりして、多少未来へのヴィジョンを持った者を潰しにかかる監視集団となっていく可能性は充分にあるからである(ブラック企業の現今の社会現象もその兆しであるし、ブラック企業自体も消滅することなく維持されていくだろう。規制すればするほど地下化、SNS化することに拠って)。
 人類から悪が消滅しないのは、振り込め詐欺(例の母さん助けて詐欺とかいう呼び名は定着していない)からも理解出来る。
 そして私自身の予想では三百年後に人類はやっとサイバースペースという媒介自体に支配されることを捨て去ろうと意志する集団が登場するのではないだろうか?そしてそれより早く非核化(エネルギー戦略的にも軍事戦略的にも)が実践し得ていたなら、サイバースペースは有効利用されている可能性があるが、そうでなければまずサイバースペース自体を破壊しようという動きが顕在化する様に思えてならない。
 今回は行為とはまず悪への誘惑から出発する、そしてそれでも尚アクラシアよりましだと人類は志向するという観点からと、SNS利用者の無思考性、無思想性から捉えたが、そのことが前回示したエロスの問題とどう関わるかに就いて次回は取り組んでいこう。(つづく)

Tuesday, August 20, 2013

第四十七章 媒介価値の肥大化とエロスPart1

 前回は媒介的価値の目的に対する優位と肥大化、そして目的を超えた手段とかツールの方の肥大化に就いてスノーデンショックと絡めて論じた。
 それはしかし今年春に東大本郷キャンパス小柴ホールでのスウェーデン哲学者ラビノヴィッツ氏の思想と相反するという訳では決してない。私は次の様に『価値と倫理Part1』で述べた。「もし公共的価値と個人的価値双方で重複している部分を規定するなら、それは真に価値的であり、実現されて然るべきだと誰しも思おう。/従ってそれは極めて実践的、プラグマティックな事であり、具体的な事である筈だ。先月中旬東大本郷キャンパスで行われた国際会議(international conference)でスウェーデンから来日されたWlodek Rabinowicz氏は価値とモラルは別者であり、一致しないとレセプションで私が質問すると返答された。氏の発表ではto be valuable is to be desirableという一節を挿入していた。/この事はモラルとはそれ自体一種の便宜的な(expedient)社会ツールであり、価値化するだけの大仰なものであるべきではないという思想の表明と受け取る事も可能である。」
 つまりラビノヴィッツ氏がそう考えるのは我々が媒介的価値を肥大化させ過ぎることを熟知されているからなのである。
 しかしこの実在こそが切実で我々の生に最大の影響力を齎すと知っていて、それでも尚且つ非実在的媒介価値を重んじてしまう(それは倫理自体もそうだし、何かを価値化して崇拝することもそうであるし、宗教的行いへの自己陶酔的美学的な自己日常習慣への自画自賛とか耽溺でも言えるが)ということは、裏を返せば、実在への我々の本質的な懐疑心の内在的存在を示しているとも言えないだろうか? 我々は本来実在自体がどうであるかより(自然科学に於いてさえ)、どうあり得るのかより、それをどう捉える(べき)かを常に優先している。或いは実在自体が問題であるかの様に思える時でさえそのどう捉える(べき)かの方を優先させている。 だからこそ我々は常に知覚され得る実在とはフェノメノン(phenomenon)として、それを本質的に(真理的に)支えるものをヌーメノン(noumenon,カントの言った物自体)と捉えてきたのだった。
 それはある意味では完全に実在など(と言うことは、その実在への知覚自体もだが)一切が幻想(illusion)であるかも知れない、という我々自身の深層での思いこそが、媒介的価値の方を実在より重んじ、過大視させるべく心の傾向を作っている。
 我々はほんの些細な企業のキャッチフレーズとかコピーとかに印象づけられている様な要するに文学や哲学を待たずとももっと日常的に経験する言葉への愛着の全てもこの実在懐疑に端を発する媒介価値の方の優位と優先的視点と密接に関係している。
 そればかりではない。我々は欲情的エロス、愛欲的なこともそれを示しているのだ。
 中国でも韓国でも整形手術が大流行であるという社会現象を引き合いに出さずともあらゆるファッションセンシビリティがそれを示している。
 例えばファギンズ、レギンス、スキニー、スパッツ、タイツの類は、全てそれを着用する女性の元の体型的なことより、どんな体型の女性が着用しても美しく扇情的に性的刺激をヴィジュアルに異性たる男性へ送るべくデザインされている。このことはどんなに美形の顔の女性と一夜を共にしても、その女性から吐き出される言葉が余りにも陳腐だと男性の欲情が一瞬にして萎え鎮静化されてしまうこととも関係がある。
 つまりどんなに美形の臀部でも腰つきでも、その見せ方がエロスを誘い込むものでなければ魅力が半減するからである。つまりヴィジュアルのアピールとはそれ自体、実在がどうであるよりも媒介的価値認識のものだからである。 異性へ惹かれることは、その異性の人格的(つまり倫理的)善に対してだけでは断じてない。その(自己自身の性的な)見せ方が視線を惹きつけるという意味では常に最大である。
 つまりエロスとはそれ自体媒介的価値のヴィジュアル的、もう少し男女が親密になれば明らかに触覚的(tangible)な媒介的価値(つまり肌と肌が接触する際の指使い、腰の動かし方等の全て)そのものなのである。
 我々が恋愛やセックスでパートナーを惹きつける上で重要なことは言葉であれ仕種であれ絶頂へと至る音声であれ、端的に振る舞い、もっと言えば演技である。それは媒介的価値のものである。
 確かに現代社会では卓越したエロスの名作という文学芸術作品を我々一般市民が模倣するということがあるけれど、起源論的には明らかに全ての文藝、舞台芸術、音楽といった表現の類は、我々自身の生来的に持っているこの異性への惹きつけという作為に内在する演技性、媒介的価値を模倣してきたのである。
 あらゆる文藝、表現はまさに我々自身持ち前のエロス的作為、エロス的な演技的本能を模倣するのだ。だからこそ現代のファッションデザインはそのことを承知して、我々の性的なパートナーを惹きつけるべく、その行為それ自体を演出する様に図られている。
 フルクサス等の20世紀のアート運動とは、ある意味では権威化されたアートの形骸的なアカデミズムへの反抗に拠って作品からでなくパフォーマンスを通した運動に拠って、固定化された権威を瓦解させるべく意図されたものだったのだ。
 そして現象学者であるミシェル・アンリ等はそういったトライアルを、問うことを拒否する哲学として(本来哲学とは問いに対する返答であるというギリシャ以来の伝統に逆らい)エロスをクローズアップすることで(その際、自己触発というレヴィナス用語を巧みに用いた)、学術的営みと表現との間の垣根を乗り越えようとした、と捉えることが出来る。

Sunday, August 18, 2013

第四十六章 価値と倫理Part5 スノーデンショックから読み取れること②

 エドワード・スノーデン容疑者が結局南米へは旅立たずずっとロシアに滞在し、ロシアで職も見出してしまったことで、アメリカは身柄引き渡しをロシアへ交渉すれど、ロシアはそれにダーと言わず、そのことで米露関係がこじれてきている。
 しかし何故そこ迄アメリカはスノーデン容疑者に拘るのか、それは国家自体が情報摂取に血眼となってきていて、その事実へ羞恥を感じているからに他ならない。
 別ブログ『意図論』でも述べたが、人類は言語を習得し、保持した瞬間、そして貨幣を発明し利用した瞬間等幾つかのエポックイヴェントに拠って人類固有の性格と欲望を決定的なものとしてきた。
 現代社会が情報摂取に本文があるとすれば、言葉・貨幣・情報というこの三つが人類が自己に齎した最大の価値となると言ってよいだろう。
 スノーデン容疑者の行った告発が如何に衝撃的なものであろうとも、次第にアメリカの個人情報傍受システム自体が進化していかざるを得ないので、スノーデン容疑者の知る情報自体も無価値となっていくだろう。しかしそれでもアメリカという国家自体は二度とスノーデンの様な告発者を国家の側から出さぬ為に彼を帰還させて罪状をはっきりとさせたいのであろう。
 私がこれら一連の問題で最も関心を抱いたこととは、我々人類は情報それ自体ではなく、情報を傍受しているというリアルの方を常に優先させている、という事実である。
 これは人類が、言葉とはそもそも何か実在の存在しているものへ名付けられている(名詞は特にそうであるが、動詞や形容詞も、その行為、動き、状態を命名しているので、結局実在の現象、事象へ名づけていると言える)のだが、その実在そのものより、実在へ命名し、それを伝える行為の方を優先させてきたと言い換えられる。
 貨幣とはその媒介を通した商品を入手する為のものであるが、その入手する当のオブジェより、そういった一連の何かが欲しい時その欲しいオブジェを入手する為の手段であるお金の方に我々は魅力を持つ。お金に拠って交換されるオブジェそれ自体は替えの利くものであると心得ている。
 言葉、貨幣に並んで情報も、その情報摂取に拠って得られた情報もだけれど、それ以上にそうやって情報摂取し、情報入手する行為それ自体に魅力、魅力と言ってもそれを決してやめられない中毒性のもの、現代の若者が二十四時間スマホ画面に意識が釘付けとなっている依存症をも招聘する行為の連鎖、情報ネットワークと四六時中関わっているというその日常的事実の方を優先させている。
 これら一連の言葉、貨幣(或いは貨幣経済)、情報との関わり合い、それのない社会では生きられない、ネットと緊密に自己を関係させずにはおられない、という事実は、対象それ自体ではなく、要するに対象へと関わる媒介(media)それ自体の方を価値的に見做している証拠である。オブジェとはそれ自体は何でもいいし、替えが利くものでしかない。
 この我々自身の媒介価値のものにしか関心もなければ、欲しもしないという驚くべき事態は、思念とか思想でも言えるし、それは全宗教の本質でもある。哲学的思考がそうである。
 我々は思想・哲学・宗教等に拠って、要するに知の制御、知そのものの取り扱うには膨大過ぎるその観念的なオブジェ(或いはオブジェそのものを支える観念)を追い求めてきている。知の獲得とはとりもなおさず知の制御のことなのである。
 デカルトがコギトと呼んだものとは、ある部分では自己というものの扱い得られやすさの実感出来なさそのものであり、その癖その扱いきれない代物を世界とか、社会とか、要するに関係のネットワークの中で位置づけざるを得ないという事実への驚きを持った、しかしその驚きからミニマルな疑い得なさの獲得への希求、切ない迄の耐え難い欲求である。
 キェルケゴールはそういった自己の扱いきれなさそのもので世界へのあらゆる謎へ対峙するその事実へのデカルトへのそれなりの応答の仕方へ、それを記述する主体の側から記述する者の韜晦的で欺瞞的な心の振る舞いに就いて反省的に語っている。そのベースにはヘーゲル流の主人と奴隷とか正否の関係という安穏では済まされないもっと込み入った対自的懐疑と、そのことへの耽溺それ自体を愛すことを辞さないある種の精神的オナニズムがあり、それはショーペンハウェルの持っていたペシミスティックな迄の世界への希望の持てなさへの共感がある。
 キェルケゴールのシニシズムを受け継いで世界の構図を欺瞞的な悪へ閉じ込めたのがニーチェで、彼が言う超人とはデカルト的主体でなく、そういった懐疑とか反省とかを可能とさせる誠実な自己の在り方などでなく、要するに世界自体の腐敗の変わらなさそれ自体への自然主義の提唱である。
 その点では分析形而上学のデヴィッド・ルイスが最もデカルトコギトから遠ざかっている分、ニーチェ的形而上学の継承者だと言える。様相は実在し、あらゆる可能性は可能性として存在し続ける、未来永劫に。それはニーチェの現代版の腐敗の変わらなさをも含めた無時間化された自然主義、全的に眺望し得る神の如き視点の体系性の復活を旨としている。
 現象学ではメルロ・ポンティもポール・リクールも、もう一度関係の網の目に於ける自己とか主体を模索している。その関係は物自体として意識主体である我々が関係そのものをも関係として自己へ位置づける欲望として存在することはカントに拠って既に指摘されていたし、ベルグソンは純粋持続という形で意識主体こそが時間をも作ると考えたのだった。
 ハイデガーはその様にして手に入れた世界そのものが自己であり、サルトルはその考えを引き継ぎつつ、世界に望まずに放り出された我々の責任はあくまで自己決済にのみ存すると考え、そのことで救済されることの絶対的な無さを訴えた。ガブリエル・マルセルはそのニヒリズムへ存在への感謝の念という形で希望を見出そうとしたのだ。
 こういった一連の哲学的思想とはあくまで世界の実在が主役なのではなく、実在を認識の網の目の中に取り込み、そのことに関する言葉の遣り取り、営み自体が重要であり、そこで得られている哲学的認識も、そういった情報の摂取、哲学的認識自体への情報的価値化とその価値化の止められなさである。
 ある部分スノーデン容疑者の本国帰還を望むアメリカの躍起も、個人情報傍受を国家事止められなさそれ自体への羞恥の隠蔽にこそあり、個人情報という(これも又実在的でありながら観念的な非リア充的なことであるが)実体無き実体への摂取が、好奇心とも猜疑心とも見分けのつかない状態で国家自身が臨んでいる証拠である。
 好奇心と猜疑心の境界を明確に指摘出来る者は居ない。
 アメリカはもっと有効な情報傍受の仕方を進化させていくか(スノーデンの様な裏切り者が出難いもっと何か別の有効なシステムを開発させていくか)、この様な傍受は何もアメリカ一国ではないけれど、アメリカの傍受はそれなりに進化して世界の傍受システムのモデルと少なくとも世界が見做していること自体への明白さを少しでも世界から逸らせたいという国家羞恥に拠ってスノーデン引き渡しをロシアへ打診しているのだろうか?そっちでもそういうことがあれば、こちらも直ちにそっちへ容疑者を帰還させる、とそう約束し得るだろうか? エドワード・スノーデンの行った告発は、媒介価値に魅せられ、それから離れられぬ人類の真の意味での羞恥的部分の暴露そのものであった。しかし彼がしなくても他の誰かに拠ってそれは行われていただろう。
 認識と思考の連鎖へ没入させる言葉、実質的社会生活を成立させる貨幣、生活を保守する為の防衛としての情報それら全ては、それ自体と言うより、それらを援用し得る能力とその能力を保持しているという信用の方に比重が移行しており、それが電子書籍、クレジットカード、プリペイドカード、電子マネー、ハッキングスキル等をより重視させる方向へと我々の意識を固定化させている。それは一々全ての本を読むことを我々に放棄させ、金もそれで買う商品というオブジェ(それはポップアーティストの偉業に任せておけばよい)より、金自体より、貨幣的数値を収支決算的に産出されるだけである。
 信用という一語の為にあらゆる言語行為、貨幣流通、情報摂取が行われ、その過剰に拠って信用から他者への極端な懐疑へと発展していってしまう連鎖を反復してきたのが人類史だったと言えるだろう。
 媒介価値それ自体への比重の移行以上に、人類史にとって重大な事実はない。信用も懐疑もその媒介価値への追認から生まれる。そして80年代に丸山圭三郎等に拠って持て囃されたフェティッシュの原理は、実体より厄介なものとはその実体を追認するシステムという媒介価値だという思想だった。つまりオブジェへのフェティッシュよりある意味で媒介システムへのフェティッシュの方が強く病巣が深い。
 その病巣の深さこそが現代の若者を一日中スマホ画面へ意識を釘付けにして、その危機的状況を察知したエドワード・スノーデンをして国家情報戦略へ謀反を起こさせたのである。

Saturday, July 20, 2013

第四十五章 価値と倫理Part4 スノーデンショックから読み取れること

 今世紀以降恐らく人類の間で熾烈に吹き荒れる事とは、国家主義と世界市民主義との間の葛藤だろう。その未来予測を成立させるものこそビッグデータの猛威だ。監視カメラ、そしてエドワード・スノーデンに拠る国家、政府に拠る盗聴、SNSその他のあらゆる発言の監視等の事実が対テロ対策的意味で白日の下に晒された事でもある。
 我々の精神は何処かでは必ずアナーキズムを志向する。それはウェブサイト利用に於いて反社会的意見をツイートする現代人の心的傾向からも読み取れる。それで職を失ったり、自殺したりした官僚や政治家も居る。そういった公務に就く人達さえそういう隠された本音を何処かでぶちまけたいという欲求を携えて生活しているという部分にこそ人間本来のアナーキーな性質を読み取れる。
 しかしそういった本音吐露だけでなく現代のSNSでは明らかにミーイズム、つまり著名人と繋がりを持ちたいという渇望も大きい。しかしTwitterでもFacebookでも著名人になりすまし大勢のフォロワー、友達を獲得しているケースもかなり多い。所詮これらのツールでも人的繋がりは満たされぬ虚栄心、しっかりとした発言権を何処にも求められない多くの現代人の心の隙間に芽生えた不満の矛先を収めようとしている気持ちを擽る事に貢献しているに過ぎない。
 国家主義と世界市民主義(つまり一切の国境を超えた時代的同時性、共時的意識での個人主義)との対立以外に我々は完全なるアナーキズムを認める事も出来る。日本なら日本という国家の存在を一切価値的に認めないばかりか、世界市民全体で共有されるものさえ信じないという心の在り方もあり得る。
 アナーキズムでも完全孤立主義的個人主義と、国家よりも地方とか所謂閉じたローカリズム、つまり習俗的な居心地の良さを国民意識より優先させようというものとがある。そしてこの両者はある個人に於いては両立し得るだろうが、別のある個人に於いては両立し得ないだろう。
 何故なら前者のアナーキストは集団内協調は然程苦ではないが、国家主義、政府主導的国民生活の在り方への不満はあって、それは認められないという気持ちでいるのに対し、後者のアナーキストは形式的には国家がしっかりとしていて、しかしその中で集団の協調性とか同時代的意識の共有等一切なくたっていいどころか、積極的にそういった全体主義的雰囲気を無くしてしまえ、とそう思うだろうからだ。しかしその二つのアナーキストは何処かでは集団とか人々の集合それ自体は認めている。
 極稀に地域共同体も国家もあってもいいが、所詮内心では世界とは自分個人内部で閉じているのであり、地方の習俗も国家的民族伝統の全てが潰えさっても一向に頓着しないとう人達だけがいずれのアナーキズムでも構わないというスタンスを取るだろう。
 しかし後者のアナーキストもいざSNSをする時には日本人であるなら日本人同士、日本語で遣り取りするなら、日本語固有の時代的言葉の使い方を採用するだろうし、英語で英語園の人達だけでなく英語を母国語としない、しかし互いに英語でしか意思疎通し合えない国の人達とネットで繋がっている場合、意識的に自己の民族的アイデンティティを消去しようとするだろう。それこそが意図的なグローバリズム的意識の選択であるが、そういう風に意図的に、意識的に消去せざるを得ない処に、なかなかしぶとく残存している我々の民族的意識や気分があると言っていいだろう。
 例えばエドワード・スノーデンは二度と祖国アメリカの土を踏めずに生涯を終えるかも知れない。しかしそういう風に自分の人生がなるかも知れないと知って、あの様にNSAの暴挙を告発したのは紛れもなく自民族意識からであり、同時に世界的共時性への加担的意識でもある。NSAに拠って国民の、そしてアメリカ以外のアメリカに拠って傍受し得る限りの外国の個人データを集積する事にアメリカを血眼とさせてきた根拠は明らかに9.11である。ブッシュ前大統領に拠る愛国者法(9.11の45日後に制定された)に拠って監視国家アメリカが構築された。そのウェイヴに多くの先進国も<右に倣え>してきた事も現実である。勿論それを加速化させてきたものこそスパコンの進化だし、スパコンの進化を9.11ショックがアメリカ人主体に齎したと言ってもよい。
 しかしそういったリアル社会、リアル世界での動向より、それ以前的に我々は生まれてこの方、自ら居心地の良さを価値として認める感性の中に明らかに国家民族的倫理感や地方風土的感性を携えて生活してきているという事の方が重要である。確かに前述の様に地方習俗的な感性とは国家主義的伝統とは対立する部分はある。しかし結託している部分もあるのだ。地方の習俗は日本では神道的所作や伝統と結託して育まれてきたと言えるし、それは仏閣でも同じである。神道と仏教自体が結託してきたのが日本の宗教精神史なのである。
 ところでアートは高次の鑑賞能力を鑑賞者へ強いる文化である。
 それを踏まえて現代日本アートの20世紀以降の遺産に就いて触れると、高松次郎のアート作品(彫刻、絵画、インスタレーション、パフォーマンス、絵本等)は彼自身の日本人である事の民族的アイデンティティは省略の美学だとか抑制された色彩感覚だとかでは活かされているけれど、彼の出身地であるとか、そういった幼児体験とも密接な風土性とは無縁である。その意味では高松のアートの仕事とは、グローバリズムを認めている。要するに抽象空間概念に拠る単純化とアートメッセージの無国籍性を容認している。
 その点ではカンディンスキーがロシア人としての民族性も土着的風土性も十二分に発揮していた様な意味で高松の後輩の世代の関根伸夫はずっと高松より土着風土性を表出させている。そして我々は高松とかアメリカのアーティストで言えばソル・ルウィット等の作品からは風土性から体感するものを得る事は出来ない。その点でカンディンスキーも関根伸夫も前者はロシア人にとって恐らく外国映画を観ていて突如そこにロシア語が登場したりした時に、又後者では日本人にとってアメリカ映画を観ていて、そのある場面で突如向こうの人が日本語を喋り出す時に覚える固有の身震いに似た民族的現象性を得るのと似た何かを直に作品を鑑賞する時に感じるだろう。
 要するに高松やルウィットの仕事はアート言語を読み取れるのに対し、カンディンスキーや関根の仕事では民族的共同性を体感し得るのだ。
 アートに対して時代の共時性をもっと実社会的リアルに即して鑑賞させるものこそ芸能である(その点では音楽でもJ-popは明らかにクラシックや現代純音楽よりも芸能に近い)。テレビドラマでは主に二種類のタイプのものがある。一つは芸能ネタ等に拠る脚本家にとっては最も書きやすく且つ無難なドラマだ。これは芸能界自体が特殊な体制迎合的営業性を持っているので、息抜きとして鑑賞される。対し企業ドラマでは多かれ少なかれ全ての企業がコスト削減等の為に企業秘密を保持していて、酷い場合には企業と関連業界全体で隠蔽体質もあるので、それらを戯画化して固有の社会的リアル感を持たせて鑑賞させるタイプのものである。青年世代の登場人物に拠る俗に月九と呼ばれるトレンディードラマは前者に属す。
 これらのドラマは端的に本質直観とは真逆の寧ろ積極的に現実批判を逸らす、要するに現実肯定の心的作用へ加担している。息抜きという事自体がそういうものだからである。だから芸能それ自体には思想は要らない。それがないという事に息抜きの息抜き足る所以がある。息抜きとはそれ自体本質直観を決定的に逸らし、現実肯定を促進するものであり、息抜きをする個人からあらゆる哲学的問いを消すもの以外ではない。そうする事に拠ってどんなにシリアスな企業告発ドラマでもそれを鑑賞する者から現実容認以外の心的志向を持たせない様にするものである。この部分ではアートと決定的に芸能の大衆性は異なっている。
 しかしこの息抜き提供の齎す作用を見越してあらゆる宣伝媒体も動いていて、それは資本主義の一種の慣例である。そしてだからこそウェブサイトでは日頃のお堅い職務を一時離れた個人に拠る「隠された本音」がSNS等に拠って発露されるのだ。つまりきちんとした社会的地位の保持者であれ失業者やメンヘラやニート(彼等も一種のメンヘラであるけれど)であれ一時現実から逃避する事をテレビドラマが提供する鑑賞者にとっては完全な受身である態勢で楽しむ娯楽にはない切実な本音吐露の出来るメディアとして2ちゃんねるもSNSも現代人に拠って暗黙の内に容認されている。ウェブサイトビジネスの全ては新種の息抜き提供装置である事を免れない。
 だからこそそういった気軽な本音の中で時折読み取れる真実にリアルな思想的行動を誘発する発言とか固有の人的繋がりをNSA等の国家諜報機関は日夜傍受しようとしているのである。そして政府直属のそうした機関にそういう行動を取らせているものこそ実は我々諸個人に拠る暗黙の一時の本音発信の欲求、つまり匿名的な個へ現実逃避する事を自然と各個人へと選択させるSNS的ネット空間の中毒作用以外ではないと言い得るのではないだろうか?
 確かに哲学者も芸術家が居酒屋で話題にするのが同じ芸術家やその仕事である様な意味で本や論文の中で問題にするのが同じ哲学者や哲学史だけである。しかし少なくともリル社会での固有の欺瞞性に就いてずっと告発してきた学問メディアとして哲学者はリアル社会の確固たる幸福追求さえも、その欺瞞的虚飾に就いては主張してきた。
 そこで次回はデカルト、カント、ショーペンハウウェル、キェルケゴール、ニーチェ、ベルグソン、ハイデガー、ジャン・ポール・サルトル、メルロ・ポンティ、ガブリエル・マルセル、ポール・リクール等の系譜からこの哲学者からの実社会への告発を読み解いていこう。

Thursday, May 30, 2013

第四十四章 価値と倫理Part3 革命への失望と断念とアートパフォーマンスとモブフラッシュ

 コミュニケーションが求められる事は、有益なそれとそうでないそれとを分ける認識に拠ってである。要するにそこにはメッセージとして残すという意識が生じている。それはあるメッセージを権威付け、別のメッセージを捨てて忘れ去る事である。
 しかしそもそも言語行為を、コミュニケーションを我々は残す為にしてきたのではなかった。だから東浩紀に拠るハンナ・アーレント等へのオマージュ的な動物化という語彙とは要するにコミュニケーションとメッセージへの権威化を無効化させる欲求を現代人は抱いてきているという言及であった。それを更に宇野常寛がネットコミュニティでオタク的にクラスターを我々が形成し本論を求めるのでなく、余剰のみを精神的に追求すればいいという考えを推し進めた。これは言い換えれば革命の断念である。要するに社会はもう変わり様がないのだから、社会機能や社会機構をその侭にして余暇とかルティン的時間以外の余剰を精神的豊かさを持つべき時間へと変質させていけばいいという思想である。
 しかしこの様な意識の変換を提唱したのは宇野が最初ではない。既に二十世紀にはアーティスト達がハプニングとかパフォーマンス等の確立に拠って残す為の行為でなく、その時の瞬間的出会いの感性を育もうと考えたのであった。何故そういうトライアルをしたのがアーティストであったかと言うと、アートとはそれ自体が作品提示行為なので、モノを残す、モノを作れば残ってしまうというアーティストの自我と、それがもしそんなにないものであってもモノ自体が残ってしまうという社会現象に興味があったからである。
 その点ではアーティストは哲学者以上に残す事、残る事への観念の洗い直しに関しては哲学的であった。フルクサス等のグループが世界的規模で展開し、草間彌生も若き日々にはNYでパフォーマンスをしていたのだった。それは言ってみれば意識の変革を促すトライアルであったのだ。つまり貴方がアート作品を創造し制作する事は、それを残す為なのか、というニッチマーケット的地位であるところのアート市場が市場価格という形で資本主義社会の中でアートをコレクターとディーラーとクリティックとキュレイターが共謀してある作品を権威化する事でそれ以外の作品を取るに足らぬものとしてきたそのアート市場と文化コード全体への懐疑主義がアーティストに刹那の瞬間的出会いのハプニングとかパフォーマンスへと意識を向かわせた。そしてアート史的には明らかにパフォーマンスの進化過程に於いてインスタレーションという仮設的な空間装置の創造行為が進化していく。
 その行為をアーティストだけでなくデザイナーも応用し、スポンサーがついて企業包みで行ったりヘヴンアーティストやミュージシャン達が競合したりして今日のモブフラッシュ等のムーヴメントが行われる様になってきているのだ。
 現代のきゃりーぱみゅぱみゅ等のモブフラッシュは作詞作曲家、衣装選びの最新鋭ファッション仕掛け人、ダンス振り付け指導者、アートディレクター、録音技師等の芸能パフォーマンスのスタッフ全員が一方では音楽を配信するサイトビジネスと共謀して執り行っている。それはしかしかなり積極的な既成の社会インフラの利用に拠ってであるので結局資本主義社会の貨幣と金融の循環システムを肯定した態度であり、初期アートパフォーマーに拠る社会全体への問題定期であるよりは、より娯楽提供の意識が強まっている。それは東京都がヘヴンアーティストを容認しだした頃から既に革命の断念という意識の恒常化に拠って促進されていた。要するに初期アーティストに拠る発明はモティヴェーションのアート哲学性を剥奪され様式化され社会の時間論的インフラ、つまり瞬時の娯楽提供へと転換され応用されてきたのだ。これはアートの追求とか思索メッセージではなく反映的資本ゲームプレイへの転換と読み替えられる。その読み替えが何故いけないという形で示したのがシンディー・シャーマンであり森村泰昌であり、アートとは個人が個の内面を描く自我論的ツールではないとして近代アートの個性主義神話と個神話をぶち破ろうとして中世の工房システムを復活させメディアを取り込んで戦略的に行ったのが村上隆である。彼のメディア戦略の中から価値を見直された草間彌生、後発世代では会田誠、やなぎみわ、できやよい等がそれらの戦略を踏まえて登場してきたのである。
 しかしここでもう一度メッセージを残すという事の意味に就いて考えてみる必要がある。
 つまり一体我々人類は言葉を残す為に利用してきたのだろうか?
 そうではないだろう。
 人類が言葉を残そうとする様になったのは人類史全体から言えば比較的最近の事であろう。生物学的に言えば今現在を大晦日とすればほんの師走も暮が差し迫るクリスマスくらいの頃からであろう。
 人類が言葉をきちんと残す様にしだしたのは法の明文化からであろう。社会進化、とりわけ貨幣の発明に拠って利子その他の制度が確立して以降人類はバーター交易では生じなかった様々な貧富の差と金融システムを保持してしまっていて、その為に法を要した。そして政治が交易その他の行為を取り締まる様になっていく。政治が司法秩序を維持する為だけでなくなっていくプロセスで初めて人類は国家を所有する様になり、必然的に政治行為を記録化する様になる(議事録その他)。言葉がそれ自体として残される為に書かれる様になっていく過程で聖書も初期原型を形作られた。グーテンベルグの登場はそれを欧州諸国へ聖書を印刷する形で普及させる。言葉が「残す為のもの」として明示される過程では交易の為の貨幣の発明と、国家の成立と政治秩序の形成等を要した。
 やがて人類は産業革命を経験し、写真を発明、録音機材を発明、電話、映画等を発明する。ハードとソフトが分業し始め、聖書以外に辞書や小説等が一般市民に読まれる様になっていき、映画を観る様になり、新聞で写真を眼にする様になる。その過程とはとりもなおさず公文書しかない状態から一般書籍が普及する過程である。
 しかしそれでも尚我々が言語行為をするのは、何かを残す為にだけなされてきているわけではない。その事のメッセージを初期アーティストに拠るハプニングやパフォーマンス(50年代以降)のトライアルは志していた。
 だからモブフラッシュの行為はアートに拠って出された問題提起自体がマスメディアや政治的国家的統一それ自体が変数的に揺らぎがあっても関数的には革命に拠って倒される可能性が著しく希薄化していく過程で、そのトライアルがデザインやフッションへと置き換えられていく過程を経て初めて成立している、と言える。革命に拠って国家や社会を変革する事への失望やそれを断念する事で新たなフェイズへと意識を向かわせる為に一瞬の日常の驚きを得る事が価値化されていった過程とは、そういったアートモティヴェーションに拠るパフォーマンスを経てもアート市場の、ある作品は素晴らしく高価でどの国家もオークションで欲しがり権威化されるというリアル資本主義社会の変わりなさへの暗黙の精神的抵抗がベースにある。
 権威化とは他者の偶像化から始まっているが、それがアートという宗教儀礼性と密接に進化してきた世界でも顕在化していく事に拠ってマイスター的地位の天才とそうでない人とが分離していく。他者偶像化を政治でも経済でも経験してきた人類は偶像化を今度は自己、自分へも応用し始める。その際に重要なロールを担ってきているのがウェブサイトがブロードバンドの施設される過程で確立していくSNSであろう。
 つまりそこでも既に人類は誰しもが最早既に言葉を残したくなくても残っていってしまうネットコミュニケーションでのリアルなるオブセッションに見舞われているのだ。そこでほんの一時だけでも世界の日常とは変わり得るという幻想を享受する事に快楽を見出し始めた。そこで本来はアート作品を残す事のみを正業としてきたアーティストが残す事は写真とか動画とかだけで作品本体はパフォーマンスの時間内だけで跡形もなく消え去る事に愉悦を見出した。そしてそこに眼を付けたのが企業のプロパガンダと音楽業界とであった。そしてYoutube、WikiLeaks等を日常的に保持した人類は非商業的行為と商業行為との境界自体を無意味化させる方向でそれらの行為を認識し始めた。 要するにモブフラッシュの登場に拠って我々は国家や議会への革命だけを志向する事は今日的な意味ではテロリズムへ行くしかないと知っているので、そういったバイオレンス抜きで行える日常的認識とか判断に内在する因襲性の打破をパフォーミングに拠って見出す活路を見出したのである。そこに脈打っているものとは20世紀アーティストが否定するべく命題化させた権威化されたモノ(作品)という制度への懐疑にも内在していた権威化と偶像化への問い直しそれ自体である。
 権威化とは必ず偶像化され得る他者に向けてなされるという事実へのネームレスな市民の突然のインプロヴィゼーション的参加という形での「残すもののみが価値なのではない」という形での「一瞬で終わるパフォーマンスの刹那的日常の喜び、快楽の発見も又精神にとっては価値である」というメッセージなのであり、それは残さない事の人類に拠る美学への覚醒であるとも言えるのではないだろうか?
 付記 尚初期ハプニングは意外性という状況内反社会的メッセージ示唆性に本論があり、パフォーマンスは造形的美に本論がアート史的にはあったと言えるが、今日のモブフラッシュはその双方を巧みに接合させより娯楽性の強いものとしている(昔アーティストの行った事はそれ程洗練されていないが故に新鮮な驚きをその場で観客となった人々は得ていたのだった)。暗黒舞踏派等の人達の活動もこのパフォーマンスと実験演劇・アングラ演劇の試行と共謀していたと言えよう。

Saturday, April 27, 2013

第四十三章 価値と倫理Part2 未来展望から鑑みる価値と倫理

 Symbol、notion、abstractionは我々の価値判断を他者へ説明する為のツールである。倫理や道徳も自主価値判断、自主道徳を持つ事を促す教育ツールであった。しかしそれが教条的な権威へと転化しやすいという事が前回の論旨であった。
 我々は生まれてきた時特定の民族、性別、家系や遺伝子を受け継いでいる。その点ではあらゆる我々の日常に付帯する物事の考え方の流儀は特定の方向性へと権威付けられている。つまり憧れや敬意の対象が暗黙の権威となっている。そういうもの一切のない家庭環境はない。たとえ犯罪者や盗人の家系でもそういう反社会的誇りを暗黙の内に受け継いでいる。それは正当的権威であるかやお上に容認されてきているのかという事とは無縁に固有の視点を全個人に与えている。
 つまりそういった固有の条件のない存在者はおらず、それは実存的に生活しているという意味で全存在者の共通する性格、つまりその制約に対してどう自己を考えて行動していくかという事である。
 それは一人の大人がどういう家庭環境で育ってきたかという事以外でも、歴史的に後から考えられる時間軸的な意味でどういう時代に育ってきたかという事を抜きにその考えや思想、信条の出発点を語れないという意味に於いてもそうである。
 要するに完全に全ての条件から自由な存在者は居ない。
 その点から考えれば、確かに現代社会でのウェブサイトを通したサイバー空間、ネット空間は様々な意味で情報摂取とウェブ上でのコミュニケーションを日常生活で不可欠のものとせざるを得ないという意味で我々はどんな個々人も固有の条件と制約を引き受け生まれ育ってきたという事をウェブ上でのコミュニケーションマルキシズムに於いて無効化させる幻想を強制的に全ユーザーが享受している。
 インターネット利用とはかつて大きな会社であったヒエラルキーが今でも厳然と存在するのに、少なくともウェブ上ではそういった階級差とか社会的地位の高低さえそれ程重要な事ではないかの様なウェブサイト利用時での共通した幻想へと全ユーザーを運んでいる。
 この点は寧ろ最早社会システムの階級差とか経済格差等の全てがどうにも大きな変革等期待すべくもなく恐らく殆ど変わりなく存続していくであろうという固有の諦観が、だからこそ一時ウェブサイト上で全ユーザーはそういった固有の個人の条件を引き受けた社会での個人の内的心情を隠蔽し対外的には偽装した日常の自己欺瞞的なゲームで休憩を取り、もう一つの社会的リアルの変えられなさからの逃避的心理で集う別のゲームとして我々にインターネットを通したコミュニケーションが提供されていると考えてもよい。
 だが本当に何時迄も我々はこの社会的実際としてのリアルとウェブサイト上での全ユーザーに拠るコミュニケーションマルキシズムを続行していくであろうか?少なくとも百年単位で考えれば、何時迄も21世紀前半の侭で人類が居続けるとも私には思えないのである。
 確かにウェブサイトを通して我々は固有の単発的メッセージの送受信、つまり短いフレーズでの言葉の遣り取りを絵文字等と共に日常生活で不可欠のツールへと昇格させてきた。
 しかしそういう風に言葉と密接ではなく日常生活を過ごす事等出来はしないという事実への覚醒は、一面では全世界的規模で人類全体にとって言葉とは何かという哲学思想的思惟を与えずにはおかないし、それは益々個々人の間で痛烈な命題となっていくだろう。
 資本主義は欧米では王政と貴族制度の成熟と崩壊とを並行させて、キリスト教倫理の人民への精神的支配と呪縛それ自体への自問と共に成立してきた勤労観や人生全体への価値規範の意識の芽生えと共に17世紀以降徐々に確立しつつあった産業革命と、その大量生産、そして倫理的政治理念的には公平と平等と自由との兼ね合いで次第に商業活動の自由という形で定型化され、それと並行して国家的理念も絶対王政的秩序の崩壊と期を一にして定型化されていく議会制度等と共に国内でのグローバルスタンダードを各国が模索していく様になる(アフリカ、中東や中国、インド等は異なる歴史であるが)。
 20世紀は戦争の世紀であり、それは産業革命以降の技術革新と国家的権威とが結託して兵器を主とした軍需産業の確立に伴って起きた事であり、そのテクノロジーは鉄道や自動車へと徐々に主産業的アイテムとしては移行していく(勿論現在でも航空産業と軍需産業の技術的提携は益々確固となっているし、宇宙産業とそれらも密接である)。
 しかしウェブサイトが個々人の世界市民に個人主義的精神的憩いを見出させた事は、一面では社会的な規約がどの分野でも定型化され、そこで求められるスキルへの評定基準が益々数値化され(日本では偏差値教育、各種プロに求められるスタンダードがTOEIC等で何点以上であるとかあらゆる技能的に求められるスキルが数値化されている)、しかし一方精神的安らぎをアートや音楽、芸能へ求める現代人は、殊にアートというニッチマーケットでの価格設定が一般耐久消費財的なグローバリティとは全く異なった常識と根拠で同居させる如く、要するに一方では極めてグローバリティある普遍的基準を正当としながら他方では益々価値規範的にはオタク的なスタンダードを幾つもそれ等グローバリティとは別個に別腹で用意している。音鉄(録り鉄)、撮り鉄、乗り鉄、時刻表鉄 等様々に細分化させる事にあらゆるオタク領域で憩いを見出し悦に浸る。それは言ってみればグローバリティとオタク的スペシャルスタンダードとの全く正反対のベクトルへと益々現代人の意識が乖離していっている証拠である。
 しかしこの先百年、二百年とずっと人類はこの二曲分離的な分裂、統合失調を持続し得るだろうか?まさにそれこそが問題である。
 鉄道マニアをそれぞれ分野別の呼称をつけてカテゴライズする感性は日本人に顕著だが、これはある意味では現代分析哲学の唯名論者であるネルソン・グッドマンの哲学的思想を現代人が体現してみせた、と言うことすら出来る。
 しかしこの飽きもしない既に大きな秩序、国家とか組織とか集団の論理は変え様もないという諦念が齎すオタク的趣味とSNS等を通した擬似コミュニケーション、つまり文字と文字の遣り取りだけに費やされる送受信行為がリアル社会の変わらなさへのうんざり感からの逃避的シェルターとなっている。
 数日前私は次の様なツイートをFB.とTwitterで呟いた。
 「現代社会はある部分では一切細かい部分を気にしない感性でないと気楽には生き抜けないが、私は普通の人なら見過ごせる部分をどうしてもそう出来ない。故に時々全てを破壊したい願望に駆られるが、その勇気もないので全てから逃げ回る。常に自分だけのシェルターを探し回っては失敗し続けている。」
 このツイートは現象学者よろしく全世界市民が自己の日常的行為を反省的視点を携えつつ現在行為を観察すれば誰しもが結果的に見出す像であろう。つまりウェブサイト上での送受信行為は投稿サイトであれ似非的なニュースであれ、全てそれを送受信する事であたかもリアル社会へ参画しているかの幻想を個々人に与えつつ着々と無自分化を果たしている事に全ユーザーは気付いていて、しかしそのリアル社会のリア充的様相からの逃避を止められなくなっているのだ。しかしそれでいてそれを深刻に受け止めもしない。しかしリアルな我々の肉体は確実に個々人で老化していて、何時かぷつんと送受信は止む。これも間違いない。
 しかし個人が呟いた膨大なツイートはウェブ上で確実に残っていってしまう。残したくもないものさえ残されてしまうのである。ブログは作っていた本人が死ねば永遠に消す事が出来ない。
 この事が齎す我々の内的変化とは、この侭でよいのだろうか、コミュニケーションとは逃避的に一人で送受信する行為への没入の侭で真に果たされていると言えるだろうか、という事である。
 私は最近先のツイートより前に次の様なツイートも別々の時に呟いた。
 「現代社会はテレビでどんな番組を見ても視聴率が分かったり、街中至る所に隠しカメラ(監視カメラ)が仕込んであったりして、要するに何から何迄メカによって張り巡らされていて、そういう技術がどうなっているかという事を一々気にしていたら生きていけない様になっている。要するに利便性を享受しつつ無関心的に都市空間を闊歩し生活するしかないと皆分かっているのだ。自分に関心ある事だけにかまけていればいいと決め込んで生活するしかないのだ。」
 「SNSでも携帯でも余りにも多機能だと却って食傷気味になり、もっとシンプルなのがいい、心地良く使いやすいという気持ちは現代人に固有だと思うけど、よく分かる。四六時中その過剰サーヴィスに応対して享受サーフィンだけが得意な奴って何処か阿呆みたいに見えないだろうか?」
 前者ツイートでは全市民をゆったりとしたリズムの牧歌的生活に於いて老成させないありとあらゆる新機種登場と、システムの改変に目配せせねばならぬ現代情報化社会市民性を、後者ツイートではそれを只管喜んで便利だと享受するタイプの市民を揶揄している。
 ガブリエル・マルセルに拠る『存在と所有』では現代人の堕落を堕罪等で象徴させているが、21世紀の現代人にとってそれは安穏としたシステム改変に伴う利便性向上への享受とシステムのテクノロジーの全てを把握しきれぬが故に好奇心が何時迄も止む事のない老成させない社会故に派生する決め込み型的無関心心理であろう。  
 20世紀以降今日迄はあらゆる意味で天才の才能の独占の時代だった。商業資本主義スキルの才能の独占者としてハワード・ヒューズ、投資資本主義スキルの才能の独占者としてウォーレン・パフェット、コミュニケーションツール提供型資本主義スキルの才能の独占者としてビル・ゲイツ、スティーヴ・ジョブズ、マイケル・シュミット、ジュリアン・アサンジ、マーク・ザッカーバーグ等々。彼等は明らかにビートルズ、マドンナ、マイケル・ジャクソンといったロック&ポップスの世界の精神と、セルゲイ・エイゼンシュテイン、スタンリー・キューブリック、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャーといった映像の鬼才達の精神をコミュニケーションスキルに於いて統合した。
 恐らくこれからも短期的に大きな話題を攫う堀江貴文型の鬼才は登場しては消えていくだろう。しかし基本的にコミュニケーションマルキシズムが全世界市民へ浸透していくにつれ、よりミニチュアサイズの准天才がごろごろとあらゆるエリアを闊歩する時代へと突入するのではないだろうか?
 その意味では個々人の精神に多大にインスパイアされた言語認識的な精神の変革者として上記の資本家やアーティストと並行してルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン、アラン・チューリング、リチャード・モンタギュー等の考えた認識論や観念図式や数式は無意識の内に21世紀人の精神へ浸透し、彼等のスピリットが現代社会全体の様相へと体現されていると言っても過言ではない。
 それ等に加えてC.Sルイス、ガブリエル・マルセル、マイケル・ダメットといったキリスト教精神の思想改変者達が上記言語認識的改変者と同時代を生き思想提供した事実が、無神論者と有神論者の壁をぶち破る方向へと今後の人類を誘引していくのではないだろうか?
 以前私はこうツイートした。
 「恐らく刹那に対する考え方に有神論者と無神論者とでは決定的に異なっていくのではないだろうか?つまり刹那に永遠を感じ取れる感性は無神論者の方が多いのではないだろうか?」
 基本的にこの考えは変わっていないが、永遠性への希求という意味で両者に何か明確な境界がある訳ではない。20世紀の思想哲学は多くが否定論理に拠って成立していたが、その点でも今後人類はもう少し素朴な肯定論理を見出そうとしていくのではないだろうか?認識論的な観点から20世紀思想哲学と各種コミュニケーションツールでのスキルが否定論理に拠って多大の進化を遂げた事は確かだ。芸術表現でもジョン・ケージ、ジャン・リュック・ゴダール、寺山修司等多くの逸材、天才達は否定論理に拠って表現の認識に改変を加えてきた。
 しかし我々は内的な自然としての肯定を求めていく必要性に目覚め、そこで再度20世紀思想哲学、そして表現を振り返るのではないだろうか?
 金融資本主義は確かに当分は続くだろうが、商品価値やサーヴィス提供価値自体の金銭化のイデアそのものを改変させていく事に於いて参考となるのは、ニッチマーケット的アートが浮き沈みの大きな毀誉褒貶的反動主義から学んだ事であり、とことんロングテールビジネス化させるいい意味での袋小路ニーズに対応したニッチマーケットとそれを支えるオタククラスターの自然性である。
 科学的合理性は徐々にヒッグス粒子やダークマター等のより高次の抽象化された理論物理学の宇宙起源論に拠って、アートと理論物理学の境界が曖昧化していく方向へとシフトしていくだろう。そこに従来型の哲学や認識論、存在論迄もが統合されていくのではないだろうか?勿論完全融合するのには後数百年はかかるかも知れない。
 20世紀型管理職然としたソーシャリティは一部SNS等に拠って残存していくだろうが、益々個々人は不干渉主義的に徹底化していくものと思われる。つまりそれだけ人類は全スキルや全テクノロジーを熟知していられぬという知識と情報の完全制覇への諦念から先程述べた無関心性を自然なものとしている以上、個々人の対人関係もより不干渉主義が徹底化していくだろう。
 要するに相互干渉主義的モラルは少なくとも市民生活からは徐々に消滅していく。それは国家主義でも二三百年はかかるだろうが、人類が絶滅を未然に防止する意図と知性と理性で臨むのであれば柔軟なものへと改変されざるを得ないだろう。
 ある部分伝達意図を相互に汲み取る様なコミュニケーションセンシビリティはリア充回復的な意識へと目覚め、テレビのスポンサーとか制作者に顕著であり続けてきた業界的な特権意識や階級意識がより雲散霧消していき、SNS等のサイト運営自体も国家に対する地方の発言権の様になっていかざるを得ないのではないだろうか?それをなし得ればテレビ等のメディアがよりウェブサイトと協調していけるだろう(そうでなければ全放送局は淘汰されるだろう)。
 全メディア、全ウェブサイトを人類から放逐される可能性を今度は考えてみよう。
 それは要するにコミュニケーションの根本原理であるフェイス・トゥ・フェイスコミュニケーションへの覚醒に拠ってであろう。
 メディアもウェブサイトも健在である時点でも恐らく人類は誰かと会話する時相手の顔の表情から相手の感情を読み取るという判断の仕方を変える事はないだろうからだ。
 確かに現在はより20世紀と違って自己世界への没入が日常化している。しかしそういった自己没入とフェイス・トゥ・フェイスコミュニケーションとは常に日常生活ではどの個人でも反復されている。唯今の時代では自己没入が旧態依然的な集団や組織の論理へと批評性を獲得している。しかしそれすら時代と共に旧態依然的なものの一つへと格下げされていく事は間違いない。
 人類全体の意識はウェブサイトを通したコミュニケーションマルキシズムがより時代の必要性としてクローズアップさせられるエポックと、逆にそこで見られる自己没入を各種ツールを消滅させず温存させつつつも、リアル対面型の個々の共同体的回帰志向が価値化され、自己没入の価値化を転倒させるエポックとが反復して暫く二頭制として定着していくのではないだろうか?
 しかし原発事故等が自然災害に拠って勃発するなどすれば、自然回帰的なテクノロジーの開発がより叫ばれ、自然科学全般が生命倫理や医療と密接に自然還元的システムとしての社会インフラを模索していくことだろう。つまり文明崩壊的インシデント(例えば二年前に日本で起きた原発原子炉のメルトダウン等とそれに拠る放射能汚染区域の発生等の)が今後どの程度人類を襲うかに拠ってその改変スピードも決定されていくと言える。
 文明破壊欲求的なデカタンスとかインフラ消滅を叫ぶ自然回帰的なメッセージが詩人やアーティスト全般で隆盛を極める文化的様相も予想し得るが、それ等のスピリチュアルなムーブメントが如何に自然科学や言語理論等の社会インフラ接続型のスキルと融合していけるかが人類の生存のキーとなるものと予想される。要するに人類生存にとって何を全世界市民に共通した価値とし得るかという事が、リアル社会での実用性と形而上性との相補性に於いて何を求めていくべきかという自問自答をする事こそが殆ど無意識の倫理命題となり、それこそが価値の全体であるという個の意識となっていくのではないだろうか?
 価値は実用的で個人的であってよい、という在り方から無意識の世界市民共通の倫理と同質的であろうとする意識は、現在にとっての前時代の倫理とは必然的に異なった位相の認識ではないだろうか?それはある意味で全ての個にとって自己内での言葉の遣り取りという意味では20世紀の偉大なる言語的認識の天才の仕事を全個人が反芻する機会を時代と生存の意識が提供するという事である。或いは倫理基準の個々人性とその他者との共有可能性の模索という発想へ人類は強制される事なく目覚めていくという事である。
 その意識の中でどんなコミュニケーションが今最も求められ正当であるかが個々人の中でその都度判定されていく様な未来が私には見える気がするのである。

Saturday, April 13, 2013

第四十二章 価値と倫理Part1 自主道徳や人類の未来と個人の愛着、価値は倫理や道徳と一致するか?①

 価値が固有の偏見へと結びつきやすく、価値と偏見の共生は避けがたいにも関わらず我々は他方では常に価値を更新させ、その価値へ従って行動したいと望む。つまり価値とはそれ自体行動原理であり、行動規範である、と言うより、そうあるべきだと考え我々は語彙化し、言説化する事で行動しやすくしようと考える部分では我々は言葉に拠って決心しようとする生き物だと言える。あらゆる政党の選挙公約、マニフェスト等はそういった宣言してその通りに履行する事が行為者への信頼を構築してきた一つの政治史的なリアルである。
 しかし公約とか約束手形とかの資本主義ツールとしてのプロミスだけが行動規範ではなく、我々は感性的趣味嗜好型の生き物でもある。それこそが愛着という事だ。愛着は常に実践的であるとは限らない。
 例えば価値とは公共的価値を基準に考えれば個人の愛着は二の次とされて然るべきと誰しも公平や正義の原理としてはそう思う。しかし同時にその公共性が使命だけが崇高でも何処か居心地の悪いものを感じたなら誰しも抵抗を試みる。沖縄の米軍基地を基地関連の産業に従事しその恩恵を被っていない市民にとっては四六時中飛ぶ軍用機やヘリコプターやオスプレー等の導入へ反対したい感情も極自然なものだろう。
 しかしそれは個人的な感慨も多く手伝っている。危険性という事で言うなら成田空港も羽田空港も同様であるし、日本中の空港は危険と隣り合わせである。
 しかしもし公共的価値と個人的価値双方で重複している部分を規定するなら、それは真に価値的であり、実現されて然るべきだと誰しも思おう。
 従ってそれは極めて実践的、プラグマティックな事であり、具体的な事である筈だ。先月中旬東大本郷キャンパスで行われた国際会議(international conference)でスウェーデンから来日されたWlodek Rabinowicz氏は価値とモラルは別者であり、一致しないとレセプションで私が質問すると返答された。氏の発表ではto be valuable is to be desirableという一節を挿入していた。
 この事はモラルとはそれ自体一種の便宜的な(expedient)社会ツールであり、価値化するだけの大仰なものであるべきではないという思想の表明と受け取る事も可能である。プロテスタンティズムの本家でもあるスウェーデンの哲学者である氏のナショナリティを象徴しているかの様だと言ったならレイシズムとなるだろうか?
 従って個人固有の愛着だけを最大限優先したなら個人の偏見にもなり得る個人的価値とは、それ自体公共的な人類の未来への視点とは別個に成立し得る。だから個人の愛着とは個人の思い出とか趣味同様エゴイスティカルである。
 しかし同時に誰しもが等しく(勿論出来る限り)不快ではなく心地良いものであるべきだ、とは公共的価値では言い得るし、それに反意を示す社会人は少ないだろう。つまり建築も都市計画も全て少なくともそうあるべきであるという努力に拠ってはなされてきた(その中でナチスの様な誤りも在ったとは言え)のだ。つまりそれこそがRabinowicz氏の主張でもあったわけだ。
 そもそも倫理とは欧米では元々は旧約聖書世界観であるところのユダヤ選民思想、つまり約束された土地への祈念に満ちたエスノセントリズムでありレイシズムだったのだ。旧約聖書から新訳迄アラブ人とは異邦人だし異教徒(misbeliever)で在り続けてきたし、今でもそうである事はイスラエルとパレスチナ問題一つ取っても明らかである。預言者エイブラハムとモーゼとその思想の伝授というヤハウェ思想が根幹に在るユダヤ教起源のキリスト教倫理は個人の価値を認めるていのものではない。カソリックでも最後の審判に拠る神に拠る決裁から決して自由ではない。
 だからこそプロテスタンティズム以降の倫理思想はマックス・ヴェーバーを待たずともプラグマティズムを志向する性質のものであるという事自体が歴史的必然であった。
 要するに問題となるのは倫理や正義を何処迄遵守すべきかという判断の問題である。そして判断自体が既にどんな場合でも個人に拠るものでありながら、本ブログで口を酸っぱくして述べてきた様に集団とか他者一般という意識を介在させずに下す事がないという事こそが問題なのである。そしてそれは価値それ自体ともずれるのだ。
 日常的に些細な事では我々は価値とは個人的な嗜好を優先する事も多い。ある部分では我々は誰しもかなり日常的な行為の大半は個人的価値に従って行っている。
 しかし倫理とは正義とは、なるとがらりと様相を変える。これらは要するに集団(組織、法人、国家、民族)の共同幻想なのである。そこには固有の精神病理性さえ見出せる。倫理や正義への恭順、殉じる意識の全ては集団ヒステリー的な愉悦を伴っている。モブメンタリティ以外の快楽は三島由紀夫の自決にさえなかっただろうと読み取れる。勿論彼の場合はアナクロ的に過去の軍国主義的幻想が脳内に育成されていたし、こんな筈ではない日本のあるべき姿という観念が柱としては在った。
 集団ヒステリー的な郷愁は時代の移り変わりと共に実感される。東急渋谷駅の蒲鉾駅舎への郷愁が都市再開発の流れで掻き消されていく姿を脳裏に止めておきたいという事は、ある種の前時代を知る者によるエゴイズムでもあるし、愛着である。
 三島の自決等に見られるナルシシズムはアナクロ的な前時代へ遡行出来なさへの痛恨、前時代で兵役を逃れた彼自身の贖罪、その時代に国家奉仕出来なかった事の後悔と未練が見て取れる。
 集団ヒステリーは多くは自己犠牲的美学で自己の最期を飾りたいという観念性を帯びている。しかしこれは価値の中の極めて特殊な集団同化衝動であり、よく冷静沈着に考えれば回避し得る事だ。アートや文学作品創造のモティヴェーションにはこの種の衝動的なクリエイティヴモメントがある事は確かである。しかしその創造的衝動も一種のヒステリックなものであり、それと日常的なルティンや安定した生活への欲求はそういうものとは切り離されている。仕事自体が一種の精神的幻想である。しかし生活とか人生全体は仕事の没頭や熱中とは切り離されて認識されている。そこに敢えて仕事とか家庭とか幸福的充実的な何かを我々は人生を意味づけて納得しようとする。
 ある部分では風景への愛着もかなり個人的な事である。個人の思い出に好きな風景とは当て嵌められている。それが個人と集団への同化と時代への未練が加われば東急渋谷駅蒲鉾駅舎への郷愁が形作られる。それは要するに個人の感慨での憩いのある風景であれ集団の一員として都市空間の代表的風景であれ、見慣れたものを変えたくはないという願望である。それは保守的な価値である。
 従って個人的価値とは一方では全ての自分にとって気に入らない因襲的な事はどんな事でも変えたいと内心では思うのに、他方では保守的に見慣れたものを変えたくはないという心理へも志向する。だからこそ価値は自己信条や理想に準じた革新的部分と、逆に見慣れた風景やツールやディヴァイス等の使い慣れた仕方とかツールそれ自体を変えたくはなという保守的部分とが共存するし、自分は多くの人は変えて欲しいものでも、とりわけそこに住んでいるのではなく近所の散歩ルートとして憩いの風景として発見しているものは住民本位で変えていかれる事を望まないという身勝手なエゴイズムでもある。
 しかしそのエゴイズムこそが倫理や正義の宗教的因襲性や雁字搦めの保守的社会制度へも食い込んだ保守的通念をぶちやぶっていきたいという自主道徳的な観念をも生んでいる。些細な自己に拠る日常的発見こそが理念型の理想主義とか正義とか倫理に対して待ったをかける事を時として可能にする。だからこそ価値とは実践的で自由なものであり、アナクロニスティックな集団同化幻想に拠る自己犠牲へも発展し得るも、理念だけで全てを履行する際に伴われる四捨五入的な切り捨てに拠って失われるものへの価値再発見も促す。
 要するにある種の社会正義とか常識の教条性への謀反をアウトロー的に意識革命する部分の精神とは個人の愛着とか、日常的習慣に拠って形成されている個人的行動パターンとか日常的生活の個人的理想と言った行き着けの居酒屋から好みの散歩ルート迄含む個人にとっての価値それ自体である事が多いものと思われる。そしてそれを失っている事は社会全体を全体主義とか唯理念主義へと退行させていく危険性と常に隣り合わせである事を我々は歴史から経験的に学んでいるとも言えるのだ。
 今回の論旨を纏めておこう。
☆倫理とは常に正しいとは限らない。→倫理が持つ教条性への懐疑(歴史から学んでいる我々の経験的判断)
☆宗教倫理的な伝統的思考の持つ陥穽への着目→結果、価値(value)=行動規範(action normativity)とは倫理それ自体とはずれる。
結論的に、価値とは最終的には自己に拠る価値であり、行動規範とは自己固有の行動規範である(それは集団同化や烏合の衆への批判的眼差しを形成する)。
 価値(個人に拠る価値判断)とはpragmatic、practical、concreteであり、symbolic、notional、abstractではないという事である。