セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Monday, June 30, 2014

第六十章 価値と倫理Part6 革命への断念と失望とアートパフォーマンスとモブフラッシュⅡ

 韓国の大企業は大半が(現代、サムスン、LG等どの企業も)大株主は外国人、外国企業であり、言ってみれば韓国人自身の雇用者は出来る限り低賃金で酷使され、ほんの一部の大企業経営者、或いは大株主以外は益々外資にとって都合のいい企業経営戦略に拠って益々格差社会と化している事は、昨日民放のワイドショーでも紹介されたし、多くのジャーナリスト達に拠って情報が開示されてきている。ソウル市河南区九龍村(カンナン区、クリョンマウル)は僅かカンナンヒルズとでも呼べる区域から数百メートルしか離れていないにも関わらず天国と地獄の差であると言っていい。似た様な状況は中東でもアフリカでも国、区域に拠っては垣間見られるかも知れない。
 其処で誰しもが二極分離社会となっていく国家全体の中で、貧民層から卓抜した知性の人が登場し、貧困層を救うべく革命的行為をして、仇を討って欲しいと願う人達も居るかも知れない、と想像はする。しかしそういった知性の持ち主は貧困層出身であっても、次第に大きな仕事へと登用され、最終的には経営の実権迄握る位迄伸し上がる可能性は高い。そうすると彼は自分の能力に見合った仲間を貧困層とか富裕層とか出身に拘らず探し、協力し合う様になるだろう。かくして彼に拠って革命的な行為が成し遂げられるという事は一種の19世紀的幻想でしかなく、彼も又成功者として富裕層の一人として仇を討つとかいう様な心理からは只管遠ざかって行き、エスタブリッシュメントとしての生活を享受する様になるだろう。従って現代社会ではこの極端な高額所得者とか富裕層と、万年失業者や貧困層との分断はほぼ永遠に埋まる事なく、社会矛盾の一様相として継続的に論議されていくべき課題として残るだろう。
 そのほぼ絶望的なる反復は、とどのつまり共産主義の失敗(ロシア革命以降のソヴィエト国家の崩壊)に拠って証明されてしまっている。寧ろ革命の末に成立する国家や社会では、官僚主義的な閉塞感だけが支配するという事を人類が知ってしまっている以上、最早残された牙城は中国だけだ(とは言うもののロシアもその本質は集団主義的部分ではソヴィエトとそれ程大きく違う訳ではない。只資本主義化された経済システムを導入しているだけに過ぎないとも言えるが)と言っても、当の中国も体裁的には経済開放区を設ける事で、やはり資本主義経済を導入しているかに見せかけている。しかし其処に言論の自由はない。基本的に中国は階級社会的官僚制度と一党独裁と言論統制に彩られた形式的な資本主義であるに過ぎない。
 この様な生活水準自体が二極分離していく社会では使用される言語の語彙使用から、ちょっとしたテーブルマナーに至る迄徹底してブルジョワ階級的な上流社会と下流社会とでは交わる事のない品性が直観的に意志疎通する際に一瞬で判断される様なタイプの沈黙の差別が横行していくのかも知れない。とは言えあくまで成功者も富裕層も、絶対的永続的な在り方なのではなく、一瞬で数億の負債を抱え込んだり、ワンクリックだけで倒産に迄追い込まれたりする訳だから、当然その沈黙の差別も一寸先は差別される側に回るのが自分かも知れない、という目測を含んだものともなり、結局革命的幻想が遠い昔日のロマンへと後退してしまっているかの様に、或いは今という時さえリアルに明日へと継続していく可能性に充満したものでなく、あくまで刹那的な快楽を享受する瞬間でしかない、とまるでオージー(日本ではオレンジ等とも言う。つまり古い言葉で言えば乱交パーティー、スウィンガーの集い)を繰り広げる様な饗宴の中で一時の安堵の溜息をついているだけかも知れない、と全ての成功者達は感じ取っているかも知れない。そういう憩を感じずに何時も質素な気持ちで居られる人達の中のほんの一部だけがある程度継続的に生涯成功者としてのポジションを維持し続ける事が出来るのかも知れない。勿論そういう一部の人達も常に存在し続けよう。
 集団的自衛権を法制化する事に反対の意を唱えて昨日新宿駅の近くの歩道橋の上に居座って演説をした後焼自殺を図った男性が居たが、こういった政治的パフォーマンスは今後も続出するかも知れない。しかし仮に日本で集団的自衛権行使容認の法制化が整備されても、それが反対の立場の政治家達に拠って覆られていっても、恐らく中国に拠る日本への尖閣列島等を巡る領海侵犯的行為は断続的に反復されていく事だろう。こう言っては何だが、日本国内での集団的自衛権を巡る憲法解釈問題とは、日本人自身の戦後的良心を巡る一種のイデオロギー論争なのであって、その事自体と、軍事防衛的なリアルとは常に乖離していると言える。つまり北朝鮮もなのであるが、彼等が中国からも韓国からも疎まれている限り、挑発的に日朝協議が開催される度に事前に日本の本意を探る形でこれからも日本海にミサイルを発射させるブラッフィングは繰り返されるであろう。
 アーティストは時代を変える事は出来ない。時代を変えるのはアートがメッセージとして送る時代の不安を除去しようとする国民全体であり、ある部分表現者のメッセージは哲学者の理論や観念同様、何時なんどき、国粋主義や民族原理主義へと転化されるか分からない脆弱さも持っている。ボブ・ディランの反戦反黒人差別のメッセージの普遍性も、その当時のアメリカ合衆国自体が世界一のGDP(その比率は世界GDPの六割近いシェアであった)のリーダーであったという事を前提しているのであり、恐らく日本円にして二億近くでLike a Rolling Stoneの歌詞のメモがオークションで遣り取りされるだけのカリスマ的な存在は今後世界で登場する事はないだろう。もし登場するとすれば、世界中で核戦争になっていったり、世界中を大地震とか大津波が覆う様な地殻変動が起きる様になっていったりする事に拠って世界中の原発のエネルギー施設が崩壊し、倒壊して、世界中を放射能が拡散して人類が生存を脅かされる時だけではないだろうか?
 その意味では1960年代のフォーク、ロック(ウッドストックジェネレーションにシンボライズされる)ムーヴメントに近い様相の社会運動は二度と再来しない、というのが私の予想であり、寧ろ形骸的にフルクサスのトライアルを商業化していった様な(草間彌生の作品の商業デザイン化の様に)よりきゃりーぱみゅぱみゅの持っている様なピンクレディー焼き直し的な意味でのアートパフォーマンスやモブフラッシュの様な試みが継続し、其処に何か格段のモティヴェーション的な革命性は徐々に消え失せていくだろう。 もしそういうモティヴェーション的な革命性を求める動きがあるとすれば、日本国内でかつては造船や製鉄で隆盛を極めた山口県下関市や、福岡県北九州市等の人口減少化している都市空間や過疎化したエリアで吟遊詩人や地方素人歌舞伎や今のネットを駆使したコミュニケーションではなくビラや地方紙自体をゲラ刷り等の輪転機を利用したオールドスタイルのコミュニケーションで実践する等の試みに拠ってではないだろうか?
 つまりマクルーハン、ウォーホル的、もっと遡ればワルター・ベンヤミンが予言した様な複製やマスメディアの幻想を利用した戦略的メッセージへは人類全体がより深度のあるモティヴェーションを運ぶメソッドとしては懐疑的である事からも、伝統的マナーに則った芸能等の古典保存意図と地方人同士の生活的協働性に根差したメッセージこそが静かに失望された革命的幻想に代わってより説得力のあるメッセージとして理解されていく、仮にネット利用されたとしても地域限定的な利用のされ方が見直される様なタイプのメソッドに拠ってではないだろうか?