セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Friday, July 20, 2012

第三十九章 俗とは何か?俗としての価値

 我々はある部分では俗なものを常に共存させ続けてきた。つまりそれを「そういうものがあってもいい」という形で。しかしこれはある部分は上から目線的発言である。いやそうではないかも知れない。何故なら我々は一個の人格の中に上から目線であることと、下から目線であることの二つを常に共存させてきているからである。
 若手プロスポーツ選手の誰それが年間ギャラランキングで一位を取ったこととか、有名芸能人同士の結婚のニュースが週刊誌や写真週刊誌やワイドショーネタになる一方そういったことには一切無関心なエリートとかインテリたちは実はそれらの大衆ネタ的情報が飛び交っている現実自体を歓迎しているのである。何故ならそれらがなければエリート階級とかインテリ的知性が差別化され得ないからである。
 日経平均株価や東証株価に一喜一憂したり、自社株とか個人所有の株価の推移に一喜一憂したり、株式市況ニュースや日経新聞を、目を皿のようにして眺め入るビジネスパーソンたちにとって寧ろそういった一切のビジネスサークル的現実外の大衆マスコミネタに一喜一憂している大衆という存在(実はそれ自体が最も実体があるようでいてない存在でもあるのだが)を一方で積極的に必要としている。つまりこういうことだ。俗っぽいこと、スポーツとか芸能ネタとは端的にそれを軽蔑しているインテリ層やら、それらは大衆のニーズであるとして上から目線でそういった一喜一憂を見守り、その大衆の安寧を祈願するようなタイプの管理者たちにとって積極的に自己の優越性を大衆に対して誇示するために必要なアイテムなのである。
 もし仮に毎日多くの購読者が目にする新聞のトップニュースが常に論理学や言語学、哲学などの最新情報であったなら、概して学者一般はおまんまの食い上げである。あるいはこうも言える。全国に放映される全てのニュースのトップニュースが常に株式中心であり、全てが企業経営者とか株式投資家のための内容であるなら、率直に言って彼等の存在理由はなくなるのである。時にはあまり極端に悲惨なニュースも深刻な経済状況は政治状況のニュースのない時には昔活躍したマスコミで著名な人物の訃報がトップニュースになったりするからこそ、経済通とか専門家がその存在理由を保持し得るのである。
 だから俗とは実は俗な内容のニュースソースに一喜一憂するような大衆のためにあるのではなく、端的に管理者層、中間管理職層、経営者層、あるいはインテリ層のためにあるのである。その証拠に俗なニュース自体に対して最大のアレルギー反応を示すのは今列挙した層に属さない普通の市民たちだからである。一般の市民たちの大半が自分自身は大衆であるとも、庶民でもあるとも一切考えてなどいはしない。つまり彼等は自分自身のことを大衆であるとか民衆であるとか庶民であると上から目線で見られることを欲するわけがない。もし自分自身で他者に「私のような庶民は」などと言辞したとしても、端的にある種の社交辞令的建前主義的慎みというマナーにおいてであり、真意ではないのだ。それはその人間の本当の資産とか経済力とは一切関係のないことである。それらは自己本位を巧妙に包み隠すこと自体を美徳とするようなタイプのある種の儀礼的慎ましさの表示行為でしかないのである。それをそう儀礼上言われる立場を人間の不文律的に心得ていなければならないというところにある種の現代都会人的儀礼上の建前的自己欺瞞がある。
 俗とは俗ではない自分を各個人が発見するために設けられたマスメディアを、そういうものを流通させる存在としてマスコットのように存在させる我々全ての現代人的存在者にとっての必須のアイテムなのである。それはそういう風に常に自分とは無縁のものとしておくためになくてはならない子飼いのアイテムなのである。