セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Tuesday, July 6, 2010

第二十九章 神という価値

 哲学者、永井均は、神とは全てを創造することは出来たとしても、その創造した個々の気持ちにだけはなれないと考えている。しかし神とはそもそも何らかの苦悩を背負い込んだ人類の誰かが、最初「神」と発した、結局自分以外の誰しも自分の苦悩を除去してもくれなければ、自分の苦悩を自分のように生きることが出来ないという現実を前に、藁をも縋る気持ちで自分を救ってくれる存在を仮想して生み出したものである。だから恐らく所詮自分の内部でどうにかする以外に一切の手立てがないということ(諦観)が神という概念を生んだのだから、最初からそんなものは実在するものの概念ではないということも了解出来る。
 しかもそのことが図らずも永井均の疑問に答えることにはならないかも知れないが、少なくとも「何故世界中で、しかもある特定の時代に生きているこの自分だけが私であり得るのか」という疑問に対して理解の端緒となる考えとは全てを創造することが出来たとしても、その創造された個々の気持ちにはなれないということであるなら、全知全能という定義に逆らうことになるから、所詮神とは我々の心が生み出した幻想であるということを知るために世界中で、しかもある特定の時代(それは私にとってはこの文章を書いている2009年10月7日という時点を五十歳で生きるという現実)のこの私が自分であるということの理由かも知れない。つまり誰も私以外にこの自分であることが出来ないという論理的には決してその理由を語れなさが逆に藁をも縋る気持ちで神を生み出したが故に、その実在しない神によって我々は救われ得ない。すると必然的に神といういもしないものに縋るということもまた内心では自由なのだが、そういう気持ちになることで少しでも今のこの苦悩を除去出来るのであればそれはそれで自由である(私はそうは思えないタイプである)が、要するに全ての痛み、感情、苦悩の全ては所詮誰も助けられないということ、この孤独の中でそういう自分を生きる私を救えるものは自己責任(自分の気持ちにありよう)でしかないということを知るために神はいない、そして神がいたとしても、神にさえ自分で作った個々の存在者の気持ちにだけはなれないということを知るためだけに、世界中で、「この」特定の時代に生きるこの私だけがたまたま自分であるという超偶然を「神が与えた」と考えるしかなくなってくる。勿論それは同語反復的問いとなってしまうし、第一神などいはしない。するとその冷厳な現実を知らしめるためだけに「神は世界中で、特定の時代のこの特定の身体を生きることが私であるという現実を作り給うた」ということになるし結局無限後退を来たすようになる。神ではなくて自然でもよい。しかしそれでも尚しっくり来ない。要するに世界そのものとは世界を世界であると言えるこの私を置いて他ではあり得ない。だからこそ自分がこの特定のこの私でしかあり得ないことの理由となる。つまり自分以外の存在にはなり得ないということを知るためにだけ「恐らく」我々は自分以外の身体でも意識でも世界の他の誰でもないこの自分だけが私である(私だけが自分であるでもいい)という現実を付き付けている(無限後退を防ぐためにそれは神による思し召しではない)ということになる。
 つまりそのようにしか説明し得ないという冷厳な現実から逃避するために、しかし少なくともその論理的逃避でしか自分を救えない者のためにだけ神という概念は価値的に存在し得る。それはだから実在概念であるかのように思えるが、実は価値概念、つまり世界中の誰をもこの自分にはなり得ないということ、誰も本質的にこの自分を救ってくれることはないということを知ることが、この弧絶を生き抜く上で一時論理的に考究し続けていくことの中で「それでも誰かはこの自分の苦悩を理解し、何とかしてくれる」とそう思い込むことを通して苦悩を乗り切るためにだけ「神」という概念には存在理由があるとしたら、それは端的に実在概念ではなく、価値概念に他ならない。
  実は永井均以外でもエルヴィン・シュレーディンガーもまた似たようなことを「わが世界観」(ちくま学芸文庫、橋本芳契監修、中村量空・早川持信・橋本契訳)で語っている(第五章 ヴェーダーンタの世界像 より、特に97から101ページより)
 しかしこのシュレーディンガーや永井均の問い自体は実はもう一つの問いを産出する。それはコリン・マギン(マッギンとも)が考えているコグニティヴ・クロージャー説である。つまり神は空間自体も作り、時間自体も、全てのものも作った。しかしその個々の空間や時間やものの気持ちにはなれない。それは私が絵を描くことをしても、一つ一つの作品の気持ちにはなれないという論理を編み出さざるを得ない。しかしその論理は一つある飛躍がある。それは我々にはこの身体を離れても魂があるのではないかという問いと、ものには果たして心があるのかないのか、という問いである。
 仏教をはじめ全ての宗教は死後我々はどうなるのかと問うてきたし、勿論それを立証することなど一つの宗教も出来はしなかった。しかしその出来なさ自体が逆に死後の世界などないとも言い切れはしないことになるし、またそれこそデヴィッド・チャーマーズの言うようにサーモスタットにも心があるのかないのかも証明出来はしないという問いを産出する。それは空間とか無自体の性質を科学は決してこれまで証明してはこなかったというマギンの問いをもここで見直させる。
 もしピカソが描いた数万点の絵画やアート作品のようの一点放射状に神が存在物を創り給うたということであるなら、確かに神にさえ空間とか無とかものの気持ちになれはしない。しかしそうなると八百万の神という発想にはかなり説得力が出てくる。つまりチャーマーズの問いのように全ての存在物には心があるのかも知れないという考えを通してである。だからその考えは死んでこの肉体が滅んでも魂は不滅かも知れないという考えの可能性をその問いは引き出している。
 しかし興味深いことには、神とは自分自身に対して自信を喪失している時に縋るべき対象としての神と、そうではなくかなり自信に満ちている時に自戒の念を忘れずに、自己の慢心を予め抑止する意図から神を尊崇する時にでは異なっているタイプの感情と気分ではないかということだ。つまり縋る神とはどんな些細な能力の保持においても、縋る立場からすれば喜ばしいことであるし、感謝感激雨霰である。しかし自信に満ちている者にとっては神によるこれまでの自分自身の幸運とか恩寵に対する感謝の念が逆に神でさえ弱く、完全無比ではなく、絶対ではないということに対する諦観があり、それは神自体に対する思い遣り、あるいは完全無欠さ自体にある綻びに対するある種の覚醒によって、神自体へ憐憫さえ有している。この時自己内の他者に対する敬意とか配慮自体に内在する自己ではなかなか気づかないタイプの慢心、つまり尊大がある。
 つまり感謝の念が子ども的心理である内はいいが、大人的な礼儀となっている時に寧ろ尊大が潜在的に潜んでしまうというアポリアがあるのだ。
 つまり神はその点でも実在概念ではなく、あくまで価値概念、つまり我々の内心の自己に対する謙虚さに対するバロメータであると言える。