セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, July 20, 2013

第四十五章 価値と倫理Part4 スノーデンショックから読み取れること

 今世紀以降恐らく人類の間で熾烈に吹き荒れる事とは、国家主義と世界市民主義との間の葛藤だろう。その未来予測を成立させるものこそビッグデータの猛威だ。監視カメラ、そしてエドワード・スノーデンに拠る国家、政府に拠る盗聴、SNSその他のあらゆる発言の監視等の事実が対テロ対策的意味で白日の下に晒された事でもある。
 我々の精神は何処かでは必ずアナーキズムを志向する。それはウェブサイト利用に於いて反社会的意見をツイートする現代人の心的傾向からも読み取れる。それで職を失ったり、自殺したりした官僚や政治家も居る。そういった公務に就く人達さえそういう隠された本音を何処かでぶちまけたいという欲求を携えて生活しているという部分にこそ人間本来のアナーキーな性質を読み取れる。
 しかしそういった本音吐露だけでなく現代のSNSでは明らかにミーイズム、つまり著名人と繋がりを持ちたいという渇望も大きい。しかしTwitterでもFacebookでも著名人になりすまし大勢のフォロワー、友達を獲得しているケースもかなり多い。所詮これらのツールでも人的繋がりは満たされぬ虚栄心、しっかりとした発言権を何処にも求められない多くの現代人の心の隙間に芽生えた不満の矛先を収めようとしている気持ちを擽る事に貢献しているに過ぎない。
 国家主義と世界市民主義(つまり一切の国境を超えた時代的同時性、共時的意識での個人主義)との対立以外に我々は完全なるアナーキズムを認める事も出来る。日本なら日本という国家の存在を一切価値的に認めないばかりか、世界市民全体で共有されるものさえ信じないという心の在り方もあり得る。
 アナーキズムでも完全孤立主義的個人主義と、国家よりも地方とか所謂閉じたローカリズム、つまり習俗的な居心地の良さを国民意識より優先させようというものとがある。そしてこの両者はある個人に於いては両立し得るだろうが、別のある個人に於いては両立し得ないだろう。
 何故なら前者のアナーキストは集団内協調は然程苦ではないが、国家主義、政府主導的国民生活の在り方への不満はあって、それは認められないという気持ちでいるのに対し、後者のアナーキストは形式的には国家がしっかりとしていて、しかしその中で集団の協調性とか同時代的意識の共有等一切なくたっていいどころか、積極的にそういった全体主義的雰囲気を無くしてしまえ、とそう思うだろうからだ。しかしその二つのアナーキストは何処かでは集団とか人々の集合それ自体は認めている。
 極稀に地域共同体も国家もあってもいいが、所詮内心では世界とは自分個人内部で閉じているのであり、地方の習俗も国家的民族伝統の全てが潰えさっても一向に頓着しないとう人達だけがいずれのアナーキズムでも構わないというスタンスを取るだろう。
 しかし後者のアナーキストもいざSNSをする時には日本人であるなら日本人同士、日本語で遣り取りするなら、日本語固有の時代的言葉の使い方を採用するだろうし、英語で英語園の人達だけでなく英語を母国語としない、しかし互いに英語でしか意思疎通し合えない国の人達とネットで繋がっている場合、意識的に自己の民族的アイデンティティを消去しようとするだろう。それこそが意図的なグローバリズム的意識の選択であるが、そういう風に意図的に、意識的に消去せざるを得ない処に、なかなかしぶとく残存している我々の民族的意識や気分があると言っていいだろう。
 例えばエドワード・スノーデンは二度と祖国アメリカの土を踏めずに生涯を終えるかも知れない。しかしそういう風に自分の人生がなるかも知れないと知って、あの様にNSAの暴挙を告発したのは紛れもなく自民族意識からであり、同時に世界的共時性への加担的意識でもある。NSAに拠って国民の、そしてアメリカ以外のアメリカに拠って傍受し得る限りの外国の個人データを集積する事にアメリカを血眼とさせてきた根拠は明らかに9.11である。ブッシュ前大統領に拠る愛国者法(9.11の45日後に制定された)に拠って監視国家アメリカが構築された。そのウェイヴに多くの先進国も<右に倣え>してきた事も現実である。勿論それを加速化させてきたものこそスパコンの進化だし、スパコンの進化を9.11ショックがアメリカ人主体に齎したと言ってもよい。
 しかしそういったリアル社会、リアル世界での動向より、それ以前的に我々は生まれてこの方、自ら居心地の良さを価値として認める感性の中に明らかに国家民族的倫理感や地方風土的感性を携えて生活してきているという事の方が重要である。確かに前述の様に地方習俗的な感性とは国家主義的伝統とは対立する部分はある。しかし結託している部分もあるのだ。地方の習俗は日本では神道的所作や伝統と結託して育まれてきたと言えるし、それは仏閣でも同じである。神道と仏教自体が結託してきたのが日本の宗教精神史なのである。
 ところでアートは高次の鑑賞能力を鑑賞者へ強いる文化である。
 それを踏まえて現代日本アートの20世紀以降の遺産に就いて触れると、高松次郎のアート作品(彫刻、絵画、インスタレーション、パフォーマンス、絵本等)は彼自身の日本人である事の民族的アイデンティティは省略の美学だとか抑制された色彩感覚だとかでは活かされているけれど、彼の出身地であるとか、そういった幼児体験とも密接な風土性とは無縁である。その意味では高松のアートの仕事とは、グローバリズムを認めている。要するに抽象空間概念に拠る単純化とアートメッセージの無国籍性を容認している。
 その点ではカンディンスキーがロシア人としての民族性も土着的風土性も十二分に発揮していた様な意味で高松の後輩の世代の関根伸夫はずっと高松より土着風土性を表出させている。そして我々は高松とかアメリカのアーティストで言えばソル・ルウィット等の作品からは風土性から体感するものを得る事は出来ない。その点でカンディンスキーも関根伸夫も前者はロシア人にとって恐らく外国映画を観ていて突如そこにロシア語が登場したりした時に、又後者では日本人にとってアメリカ映画を観ていて、そのある場面で突如向こうの人が日本語を喋り出す時に覚える固有の身震いに似た民族的現象性を得るのと似た何かを直に作品を鑑賞する時に感じるだろう。
 要するに高松やルウィットの仕事はアート言語を読み取れるのに対し、カンディンスキーや関根の仕事では民族的共同性を体感し得るのだ。
 アートに対して時代の共時性をもっと実社会的リアルに即して鑑賞させるものこそ芸能である(その点では音楽でもJ-popは明らかにクラシックや現代純音楽よりも芸能に近い)。テレビドラマでは主に二種類のタイプのものがある。一つは芸能ネタ等に拠る脚本家にとっては最も書きやすく且つ無難なドラマだ。これは芸能界自体が特殊な体制迎合的営業性を持っているので、息抜きとして鑑賞される。対し企業ドラマでは多かれ少なかれ全ての企業がコスト削減等の為に企業秘密を保持していて、酷い場合には企業と関連業界全体で隠蔽体質もあるので、それらを戯画化して固有の社会的リアル感を持たせて鑑賞させるタイプのものである。青年世代の登場人物に拠る俗に月九と呼ばれるトレンディードラマは前者に属す。
 これらのドラマは端的に本質直観とは真逆の寧ろ積極的に現実批判を逸らす、要するに現実肯定の心的作用へ加担している。息抜きという事自体がそういうものだからである。だから芸能それ自体には思想は要らない。それがないという事に息抜きの息抜き足る所以がある。息抜きとはそれ自体本質直観を決定的に逸らし、現実肯定を促進するものであり、息抜きをする個人からあらゆる哲学的問いを消すもの以外ではない。そうする事に拠ってどんなにシリアスな企業告発ドラマでもそれを鑑賞する者から現実容認以外の心的志向を持たせない様にするものである。この部分ではアートと決定的に芸能の大衆性は異なっている。
 しかしこの息抜き提供の齎す作用を見越してあらゆる宣伝媒体も動いていて、それは資本主義の一種の慣例である。そしてだからこそウェブサイトでは日頃のお堅い職務を一時離れた個人に拠る「隠された本音」がSNS等に拠って発露されるのだ。つまりきちんとした社会的地位の保持者であれ失業者やメンヘラやニート(彼等も一種のメンヘラであるけれど)であれ一時現実から逃避する事をテレビドラマが提供する鑑賞者にとっては完全な受身である態勢で楽しむ娯楽にはない切実な本音吐露の出来るメディアとして2ちゃんねるもSNSも現代人に拠って暗黙の内に容認されている。ウェブサイトビジネスの全ては新種の息抜き提供装置である事を免れない。
 だからこそそういった気軽な本音の中で時折読み取れる真実にリアルな思想的行動を誘発する発言とか固有の人的繋がりをNSA等の国家諜報機関は日夜傍受しようとしているのである。そして政府直属のそうした機関にそういう行動を取らせているものこそ実は我々諸個人に拠る暗黙の一時の本音発信の欲求、つまり匿名的な個へ現実逃避する事を自然と各個人へと選択させるSNS的ネット空間の中毒作用以外ではないと言い得るのではないだろうか?
 確かに哲学者も芸術家が居酒屋で話題にするのが同じ芸術家やその仕事である様な意味で本や論文の中で問題にするのが同じ哲学者や哲学史だけである。しかし少なくともリル社会での固有の欺瞞性に就いてずっと告発してきた学問メディアとして哲学者はリアル社会の確固たる幸福追求さえも、その欺瞞的虚飾に就いては主張してきた。
 そこで次回はデカルト、カント、ショーペンハウウェル、キェルケゴール、ニーチェ、ベルグソン、ハイデガー、ジャン・ポール・サルトル、メルロ・ポンティ、ガブリエル・マルセル、ポール・リクール等の系譜からこの哲学者からの実社会への告発を読み解いていこう。