セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, May 22, 2014

第五十九章 現代人は現代社会の異常さを熟知していながら昔へ戻ろうとしないし、戻れないと知っている④

 現代人は依存症的性格を強く帯びている。例えばそれはマシーン自体の快に浸りきる事に於いてもだし、性行為自体への愉悦の異様なる執着もそうだ。現代の薬理学ではその話題で常に持ちきりである。ドライヴァーの快に就いては既に本ブログで取り扱った。ドライヴァーの快は運転しながら聴くBGMの選択と相俟って極めて現代人の生活に於いて精神的なモードを調整する意味で極めて重要な役割を果たしている。しかしそれは快適さの度合いからすればノーマルだが、依存症となると話は別だ。
 現代人にとって最も身近な依存症はSNS全般に依存する事に於いてである。一日の内大半の時間にそれへ掛かり切りとなるという事は既にかなり依存度が高いと観ていい。Twitterではフォロワー数を競う事もそうだし、他人のツイートを見て揚げ足を取る事もそうだし、チャットでもツイートリプライでもそれだけに大半の時間を過ごす事は誰かと直に会って話す事と異なる性質があるのは、それがマシーンに没入するという事に於いてである。ツールやディヴァイスを使いこなす事自体へ没入させていこうとする事がそれ等の産業の経営者の戦略である。遠隔操作の犯人が自白に拠り逮捕され再裁判となっているが、遠隔操作それ自体の快に目覚める事も一つの依存症である。通常の社会的地位に見合う仕事の性質と異なった事はその匿名性であるが、ウェブサイト利用自体にそういう要素があるし、セックス依存症でも、性行為自体の匿名性へ没入しているケースが多いだろう。
 それ等は要するに顔の見えなさが常に主役である。顔を面と突きあわせて語る事と全く異なった操作性へ没入する事を予め性質として用意しているのが現代通信機器だと言える。その通信機器を通じて多くのサイトから性行為自体のゲーム性を知識や情報として獲得すると、それを実践してみたくなり、そういった秘密のサークルを見つけ、それへ参加してセックス依存症となっていくというケースも極めて多いだろう。
 現代のPDF端末にせよ、タブレット端末にせよ、通信機器それ自体は一人遊び性であるにも関わらず応答可能性に満たされている。実際にそれ等の産業に関わる人達の操作があるので、人とは間接的には関わっているが、それは匿名性を帯びている。従ってネットユーザーは常に匿名で匿名的集合であるウェブサイトビジネスの人達とだけウェブサイト利用中にもワードやエクセルの使用中も彼等に拠って仕掛けられた操作ゲームへ参画しているのだ。それは相互に顔を直に見せ合わない事を確約しているゲームである。
 しかしそれだけ日々多くの電波が世界中に飛び交っている現代社会では、どの国でも個人もそうであるし(恐らく北朝鮮でも中国でも規制はずっと日本より厳しいだろうが、秘密裡には利用されているだろう)、政府自体も政府機関で諜報活動をしている国は多いだろうし、米中のサイバーハッキング戦争が過熱化している現在は、その熾烈な電波交信自体が米中以外の大半の国にも影響を与えているに違いない。それは心理的に現代人の心の襞に生活上での感情にウェブサイトが定着していなかった時代には無かったストレスと快楽を与えているだけでなく、脳神経学的にも臨床精神医学的にもかなり大きな影響を与えているに違いない。にも関わらずウェブサイト、サイバースペースコミュニケーションに異様に依存する事自体への処方を医療的に成功しているとは言い難い。何故なら全くそれ等を使用する事なく生活している事自体が治療する側もされる側も不可能であると知っているからである。
 昨日新彊ウィグル自治共和国内で大きなテロ事件が勃発した。三十一人の市民が死亡した。全く同じ日に北朝鮮軍が竜平島に攻撃を加え、韓国軍が応酬した。タイでは緊迫化する夜間外出禁止令が勅令され戒厳令的モードに入っている。インラック政権失脚から今日迄のタイ情勢はタイ固有の政治軍事状況だけが理由なのだろうか? この様に中国、北朝鮮と韓国(昨今では大型観光客船の遭難事故を含め)、タイで同時的に起きたこれ等一連の平常ではない状態は何か精神的に人類全体の脳神経学的、臨床精神医学的な理由があるのではないだろうか?
 タイのバンコク、新彊ウィグル自治共和国内のウルムチ、竜平島を結ぶとまさにほぼ正三角形的な関係が浮上する。そして東南アジアでの中国とベトナムとの領海問題から遠くウクライナ情勢、ボコ・ハラムに拠る女子誘拐事件(ナイジェリア)迄、我々は人類がある部分ではこの過密な情報化世界が実現して以降、それ迄にはない性質で人類が過剰ストレスを抱え込み、実はウェブサイト利用自体が昨日又何処かの国で通り魔殺傷事件が起きた(一々国名さえ覚えない様になっている。何故ならそれ等が起きる理由はまさに「ある国」に固有の事ではなく、人類全体の今の精神的モードと関係すると思えるからである)し、それ等は現代情報通信社会自体が招来する精神的モード自体の人類全体の共時的異変か総合的根拠として言えるのではないかと思える。
 しかしそれは余りにも広範な問題なので、一体何処から手をつけていいかが未だ誰にも分からない。そしてもし情報通信的電波自体がかなり人類に脳神経学的、臨床精神医学的に弊害を齎すと思っていても、それ等を廃止する事を人類全体が同意する訳がない。其処でそれ等の問題は常に先送りされる。
 或いは余りにも突然複数の国々で悲惨な事件が同時多発するとすれば、或いはそれさえ米中サイバースペース戦争とも関係があるのではないか、と仮に多くの医療関係者達が想定してさえ、それを証明する手立てが余りにも広範であるが故に無視されていく事だろう。そしてそれならいっそ個人で自分の生命の安全を守ろうという暗黙の気運が芽生え、個のサヴァイヴァル戦略的な事だけが暗々裏にどんなに国家的強制の強い国家群内でも芽生え、それ等が又情報通信手段を通して世界中に拡散していく、という反復は後三百年続くのではないかと私は考えている。勿論それ迄に原子力発電の大いなる矛盾に拠る弊害も世界で齎されるだろうし、地震や津波も猛威を振るうだろう。その度に今丁度日本で西ノ島が火山噴火に拠って陸地面積を増幅させている地球自体の地殻運動の様な地球環境自体の問題がクローズアップさせられ、サイバースペースというメタ的リアル存在の今後の人類へ与えていくであろう精神的ストレスや脳神経学的、臨床精神医学的インパクトへの問いは、その都度絶えずそれらの専門家の間では話題となっていくだろうが、世界的レヴェルで究明される事は先送りされていくのではないだろうか?
 それが実際にかなり究明されていくのは三百年後、そしてその時代になってやっと現在のウェブサイト以上の利便性を持つメタ的リアル存在が、それでいて今サイバースペースが精神的に人類へ与えているインパクトを与えない様な新機軸が発明され一般ユーザーの下へ登場し、普及していくにつれ解消されていくものと思われる。だがそれ迄はウェブサイト自体へ精神的に完全に順応している訳でもない今の人類(しかしあたかも順応しているかの如く全成員が振る舞う)に、もっと今よりストレスフルな日常の連鎖と共に昨今連発した悲惨な事故や政変が火山の噴火口の様にぐつぐつぶつぶつと沸き起こっていき続けるものとも思われる。

Friday, May 16, 2014

第五十八章 現代人は現代社会の異常さを熟知していながら昔へ戻ろうとしないし、戻れないと知っている③

 日本では小泉構造改革以降規制緩和に拠り明確に実力主義が加速し、その実力とは他を押し除けて競争で勝利する事であるが故に、経済格差が明瞭になってきた。その中で派遣社員が設けられ、経営合理化が促進された。民主党政権へと小泉総理退陣後三年後に移行したが、その社会構造の本質が大きく変更を余儀なくされたという事は決してなく、益々小泉構造改革の路線の経済格差の明確化現象が鮮明となっていった。従ってアベノミクスに拠ってより効果を上げる企業や経営者、実業家は中間層では決してなく富裕層である。小泉構造改革が最も大きく舵を切って変えて方向の先には、中間層が存在せず、一割の富裕層と九割の貧民層、貧困層というリアルがはっきりと示されている。
 修正資本主義等と言われた日々も既に遠く、競争社会は経営合理化的競争社会へと変質していき、経営者になら誰しもなれるが、その事は決して従業員として安定した生活と収入を得るという生活スタイルを誰しもが得られるという実態ではなく、その理想とは益々程遠くなってきている。経営者として成功を収める為には経営合理化をせずにはおれず、社会構造全体が派遣社員を捨て駒として用意する事を躊躇せずには経営を安定して維持していけない様な仕組みを誰しもが認めずには生活出来ない経済循環的なリアルを実感している。それは日銀総裁の様な立場の人から、派遣社員、アルバイト非正規雇用者にしても全く同じ事情にある、という事でもある。
 ケインズ理論に対してマネタリズム等の経済学理論が持ち出されてきた百年であったけれど、より古典的なマルクス理論に迄遡行すべく歴史的ヴィジョンを歴史家に持たせる様なリーマンショック以降の未来への不確実性的な未来展望の中で我々はある意味では全ての経済活動や労働基準に就いて論理的な組み立て直しを求められている、とも言える。
 そもそも何か労働的な行為が金銭へ換算されるという事は、ある業務がある者達にとっては極めてしんどくて、きつくて困難であるにも関わらずある者にとっては極めて朝飯前である、其処迄行かずともある程度楽にこなす事が出来るという売りとする労働力の差別化に拠って労働の対価が決定されている。もの凄く大勢の人達に拠って容易にはなし得ないと思われる業務が比較的楽に為していける者の持つ労働がそれだけ対価が大きいと言う事は差別化されるべき労働の質から換算すれば仕方のない事である。
 しかし日本ではアメリカよりかなり一度成功を収めた者はどんどん次の仕事が舞い込む仕組みになっており、それは社会全体が過去の業績を信用として受け取るという不文律があるからである。アメリカでは一つの仕事の成功とはせいぜい三年くらいしか次の仕事の保証へ結びつかない。その意味ではどんどんとメンバーや仕事内容が変わっていくという事自体が成立し難い日本の資本主義は小泉構造改革以降さえ、ある程度迄は面子も信用の度合いもそう簡単には変換されない社会だと言えるかも知れない。だが確実にそれさえも安穏としていられない空気には満たされてきているとは言える。それはかつて在った地域社会のコミュニティ自体が加速度的に崩壊してきているからである。
 しかし経済格差、収入格差が極度に開いていく社会では、経済的成功者、つまり経営合理化で成功している人達の業務が画一化されてきつつある、というリアルも浮き彫りにしている。つまり人事部的査定自体が極めて数値主義的になってきていて、それはとりもなおさず絶えず最もいい数値を稼げる人員自体が固定化されず、どんどんと面子が変わっていくというリアル自体をまず容認する処からしかそういった数値主義、成果主義的経営効率化社会では成功者にはなれない。しかし人とは機械ではないので、間違いも犯すし、ある労働業務の果てしない反復に対しては飽きてしまうという性格をどうする事も出来ない。しかし凄く巧く出来ている事には、どんどん社会ニーズも最もある業界で求められている傾向も数年置きに変わっていってしまう。其処でそうなっていったなら信用とか馴染みで構成されているかつての日本式の企業より、リストラさせやすいもっと労働者の面子がどんどん交代していってしまう<とっかえひっかえ可能な>経営効率主義的な会社の方が収益を上げる様になっていく。そしてリストラを出来るだけ差し控えるなら、寧ろ一人の社員を同じ部署にせいぜい三年位だけ置き、後はどんどん配置換えを多くする企業へと変質していかざるを得ない。又そうする事に拠って従業員全体に馴れ合い的人間関係を育み難くして、且つ常に新たな業務へチャレンジする意気込みと緊張感を持続させるという方策で企業経営を維持していかざるを得なくなる。
 戦略や方針をその社会情勢に応じてどんどん変えていく、計画変更のしやすい仕組みを企業経営と企業風土と企業戦略自体に組み込んでいくしかなくなる。当然常識とか通念とか、業界の相場といったもの自体の命脈自体がせいぜい二三年しか継続し得ないという有為転変の多い経営と社会内ニーズ対応的なマナーにしてかざるを得ない。
 先程一割の富裕層と九割の貧困層との極度の分断社会が実現していく未来展望が見えると言ったが、それでも尚、経営者且つ大手株主がそうなっている理由がかなり多元的で、その理由とか根拠とか在り方が多様であるなら、それでも尚収入格差的な意味での中間層が確立されていく可能性はある。寧ろどんな経営者でもしている業務が同じという社会では既にニーズ自体が殆ど変りなくなってしまっているという事であり、そういった社会はいずれ落日を迎える。企業収益自体が全くそれぞれ企業毎に異なった理由、異なった性格に拠って得られているのなら、そういった社会では未来展望は、仮に中間層が消滅しかかっていたとしても尚明るいと言える。それは企業毎に求められる業務の性格自体が極めて明瞭に差別化されている、という事だからである。
 サッカーの試合でミッドフィルダーやセンターフォワード、ウィング等が固定化されているケースは多いが、業務自体がどんどんと変わる企業では当然、その配置自体もその都度性格が変更される。つまり戦略変更のしやすい企業だけが生存戦略的に生き残っていけるというリアルが既に真実味のあるフェイズに社会全体が移行しつつあるのだ。これはサッカーに例えればかなり頻繁にルール自体が変更されるという事であり、スキージャンプ等のノルディック競技等にありがちなリアルの経営戦略への適用とも言えるし、資本主義社会全体の社会ニーズの多様化と時代状況の激変に対応した経営戦略の変換スピードの激化に拠る事である。そういった世界の企業実態に於いては経営者も株主もどんどんその顔ぶれから、持ち株の内容に至る迄変わっていくという変化の極めて激しい社会が当然であるという全ての市民の同意を強制する時代へ転換されていく、という事を意味しよう。そしてそれは一人の人間も成功と挫折がかなり頻繁に数年置きにどんどん押し寄せ、そういった変化的リアルにどれだけ疲れを知らずについていけるかという事にも全当事者に突き付けられた課題だとも言える。(つづき)