セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, April 24, 2014

第五十七章 現代人は現代社会の異常さを熟知していながら昔へ戻ろうとしないし、戻れないと知っている②

 アメリカ合衆国内では富裕層が自治体を独立させ、契約社会的コミュニティを形成し、各州でその試みに拠って税収が半減し過疎化し公共サーヴィスを削減させられるエリアが創出され、富裕層コミュニティとスラム街とに分断されているというリアルが全国的問題となっているらしい。しかしもしこの侭唯この二分化を放置しておけば、いずれスラム街化してしまった地方自治体では疫病やエイズが蔓延し、犯罪も多発し、次第に富裕層コミュニティに迄影響を与えずにはいないだろう。
 つまり富裕層コミュニティの治安維持に次第に莫大の予算を富裕層がつぎ込まなければいけなくなってしまい、そのリアルに富裕層自体が憂慮し、中間層を創出するニーズに目覚めるだろう。従ってアメリカ合衆国の富裕層エゴイズムだけで国全体を維持し切れない臨界点を通過すれば、逆に富裕層が公共性を自覚しだし、中間層を創出する努力をして、あるレヴェルではスラム化したエリアからアルカイダ等へスカウトする様な動向自体を封鎖すべく国が動くだろう。
 日本人も活性化しているアルカイダの要員として隠密裏に参加していないという保証もない。日本からもアメリカからもスパイ的要員が本国へ送り込まれている可能性は否定出来ないし、中には富裕層でそれに資金提供している者さえ絶無であるとも言い切れない。
 そして我々は既に東京でもロンドンでも北京でもNYでも何処でも、カフェテリアでもバーでも隣りに座る紳士淑女が第三国のスパイであるかも知れない、或いはイスラム原理主義者の送り込んだ先進国VIPを狙うスナイパーであるかも知れない可能性を否定し得ない都市空間自体にある解放感と憩いさえ見出している。何故なら本当にそういったスパイだとかスナイパーであるなら、あくまでスリーパーとして自分がそうであるという事を表面上は示すことはないだろうし、それを誰しもが知っているからである。
 現在の世界経済では誰しもが二重スパイとして活動しているかも知れないというリアルに逆らう事が出来ない。多国籍企業であればある程そうである。そして都市空間固有のそういったリスクを却ってスリルを味わう為の怖いもの視たさでもある事はかつてのNYでもそうだったし、しかし余り危険になってしまうと治安維持を求める様になり、日本の新宿の歌舞伎町でも一斉にヤクザを放逐しようとする様になる。勿論その煽りを食らった当のヤクザ達は何処かに潜伏して合法的ビジネスでマネーロンダリングをしているかも知れない。
 しかしその様に何処迄もアメリカの現今の富裕層とスラムの二極分離が進むとも思えない。と言ってそれを模倣する世界各国の分断構造もある時点迄は加速化するだろう。そして資本主義の経済循環の様にその様に景気と不景気とを繰り返すシステム自体は今の処どうすることも出来ない。それは核兵器保有のリアルと同様だ。 つまり完全に世界中から軍隊も核兵器も絶無になることはないし、資本主義がインフレとデフレを反復する事も消滅することはないし、何か余程人類全体を究極の食糧危機へと陥れない限り、人類全体は一致団結することもない)だろう。
 つまりそういう様相を維持しつつ、常に一方向にだけシフトし続ける世界構造にもならなければ、と言って常に安定して平和で殺人一つない世界にもならない、と世界中の市民がイスラム原理主義者であれアメリカのトップ富裕層であれ、中国の少数民族であれ、ドバイの富裕層であれ、フィリッピンの最下層の貧困層の市民であれ、全世界的にこの変わりなさへどうする事も出来ないという思いだけが共有されている。そしてその合間に空ろなウェブサイトの液晶画面だけが明滅している、それが二十一世紀というものの実態であると言える。WikiLeaksもエドワード・スノーデン氏もワシントンポストとガーディアン紙がピューリッツァー賞を受賞するリアルとNSAとコンサヴァ的WASPとが抱き合わせでアメリカアズナンバーワンを維持し続ける為の共犯関係を誰しもが黙認していく様な空ろさを北朝鮮市民さえ消滅させ様とはしないのだ。何故なら適度の敵対者に拠る性悪的リアル自体が、敵対者のレゾン・デ・トルを鮮明化させている、と知っているからである。
 人類は旧石器時代に既に価値が一元化される事に拠って闘争のない世界構造にはならないと決定されていたのかも知れない。つまり意図論にも示した様なツールとディヴァイスの進化過程自体に武器の携帯というリアルが必要だった様に、世界に国連憲章を創設させる為にアメリカ合衆国に広島、長崎に投下する核兵器を使用させたのかも知れなかった、と過去形に対してなら言い得る。しかし未来の不確実性も確率的には、今迄だってそう変わる事など無かったのだから、これからもそうであろうと、どんな立場の人達さえ何処かで自覚していなければ日々を過ごす事は出来ないと知っているのだ。時計の針を元へ戻しガンジー首相を生き返らせる事もジョン・レノンの殺害を防止する事も出来ない。スティーヴ・ジョブズの死去した理由である癌細胞を消去される様に医療的措置を今から施す事は出来ない。
 だが今の処隣りに座る紳士淑女がイスラム原理主義のスナイパーかも知れないし、北朝鮮のスパイかも知れないし、ロシアが米国政府へ送り込んだスパイかも知れないそのスリル自体をまるで映画を鑑賞する様に楽しむ都市空間での他者との場共存を、今後も維持していく為に、原理上では二極分離社会を臨界点迄は推し進めても、臨界点を超えてしまった時点からは、引いていく潮の如く、一定程度の公共性の名に於いて分配する理論に追随する様にして、合衆国の撲滅だけは阻止するという方向にシフトしていくだろう。そしてその反復の変わりなさへの自覚に於いてのみ中国の少数民族もジャスミン革命以後の中東市民も、北朝鮮人も皆共通しているというリアルだけはどんな立場の世界市民も既知であるという現実を、後何十年継続していくのだろうか?
 その反復的継続を阻止し得る事は、何等かの形での自然災害の頻発に拠るカタストロフィからの食糧危機的状況だけであろう、とはあくまで私の推測ではあれど可能性としては最も高いものであるとだけは言い得る様に思われる。(つづき)

Saturday, April 12, 2014

第五十六章 現代人は現代社会の異常さを熟知していながら昔へ戻ろうともしないし、戻れないと知っている

 我々は既に自分自身をかつての地域社会がほのぼのとしていた時代へ戻れないと知っている。日本でも地域社会の地縁性を利用する部分は確かに今でも残っているが、それはあくまで隙間である。かつてはそうではなかった。葬儀も祝いの儀式も共同体ぐるみに行っていた。しかし今はそうではない。それよりは対人関係はウェブサイトの登場に拠ってありとあらゆる他者と知り合える可能性に満ちていて、決して閉鎖的地域社会の成員としてのみの生活を潔しとしない。他にも他人は大勢居るし、知り合う機会も凄く多いからだ。
 そしてある時は確かに50年代から60年代迄は辛うじてあったけれど、70年代以降急速に失われ、80年代以降はその先行きの傾向が決定的になって以降今迄は、最早かつての共同体社会を復活させたいとすら思わなくなっていった。
 確かに文藝の世界、出版界、学術界等は閉鎖的コミュニティとしても機能している。しかしそういった閉鎖性を唯一価値として生活していこうと其処の帰属成員さえ考えている訳ではない。誰しもが多層的な対人関係のネットを維持して、それを一々家族にも親友にも報告する必要もないと割り切っている。そしてそういった相互不干渉主義的個人性維持可能な生活を心地良いとすら思っている。最早昔に戻りたいと誰も思ってなどいない。
 だからこそ『四丁目の夕日』シリーズの様な映画が一種のノスタルジーを提供するのである。しかしその憩いもあくまで一時のものであり、継続的にああいった時代へ戻そうとその時代に育った者さえ思う事はない。私が生まれ育ち生きてきたこの半世紀と数年の間でもそうでない他者とは一人として出会わなかった。そしてそれは欧米の何処の国でもそうであり、アメリカ合衆国の言う事をことごとくかつての様に聞く事もなくアメリカがスーパーパワーから衰退していったとしても尚、世界はかつてのアメリカを模倣する様に追いつけ追い越せで国を維持しようとしている。その点ではウクライナもアフガニスタンもロシアも中国も韓国もそうである。
 世界は各学術界が専門毎に自己閉鎖的にアカデミズムが相互不干渉主義である様な意味で国家自体が各公用語で自己閉鎖的に個別的にGDP数値を競い合い、勿論一部では凄く民族主義的嵐は吹き荒れている。中国国内の漢族以外のウィグル族もだし、クリミア半島やドネツクやルガンスクのロシア人もだし、世界中でナショナリズムも隆盛を極めているけれど、それはかつてどの国にもあった地域社会の共同体結束的なそれとも性質が違う様に思われる。事実世界中の人々はウェブサイトを止めて素朴なコミュニケーションへ戻そうとは言わないからだ。
 要するに現代世界でのナショナリズムや民族主義的嵐は、実はかつての共同体復活的意識とは性質が異なるものなのである。それらのどの国でも政変や内乱を来している理由とは、却ってウェブサイトを利用して幾らでも自由気儘に「我慢を態々することなく」自分勝手にegoistically結束ゲームを楽しんでいる、そして人類固有のマシーンやツールを利用し捲るある種の道具制御者tool manipulator, controllerとしての快を得んが為に自動小銃を携帯し、その傍らにスマホを携帯している訳である。それは政治や経済活動(それも資本主義ゲームである)に拠る格差(個人もそうだし、国家やや地方や民族もである)が生じている事への不満、鬱憤をシューティングゲームをし合う様に実現させているのである。
 我々は便利なツールを利用する事に於いて過去へは戻れないのである。だからこそその過剰なる利便性の中から、幻想的な価値としての過去の像を追い求める事へ中毒化、慢性化しているのだ。つまりそれは政治を変える事、経済活動での落差をそれで埋めようとする現代固有の世界全民族に拠るゲームなのである。そのゲームはそれを維持し続ける為に固有の過去の幻影をおかずにしているのだ。この現代固有のゲームは、社会ゲームであるし、コミュニケーションゲームであるし、テロリズムもその為の方便だし、メソッドなのだ。
 人類全体が共時性を獲得していった経緯は確かに60年代から80年代へかけて構築されてきた人類の共同意識であるが、それがウェブサイトの完成に拠って加速化した。そして現代人にとっての共有価値とは権利に伴う義務以上に、グローバリズムが所詮アメリカの資本家の画策する世界戦略の貢献する形での従属でしかないと世界中の市民が覚醒していく中で求められている「誰しもがアメリカの富裕層の様になる権利がある」という認識に拠って誘引されているのだ。その権利を我慢する必要性を現代人は全世界的規模で持てなくなってきたのだ。だから誰しもがアメリカ合衆国カリフォルニア州のビヴァリーヒルズの様な高級住宅街に住みたい訳ではないが、恐らくマカオ人も香港人も台湾人もタイ人もブータン人もネパール人も個々固有の理想の富裕層的生活(それは広大な土地を持ちプールを所有する事ではなく、個々異なった性格の理想である)があって、それを誰しもが世界的経済ゲームの中で自己主張していいのだ、ということ、そしてそれこそが最初アメリカが仕掛けたゲームであり、アメリカだけがその成り行きに自分達自身で仕掛けたのにも関わらず狼狽している、という事が今の世界情勢なのである。
 人類にとって生活でも人生観でも全ての重要な価値とは、そういう風に民族性や国民性や地域社会性に拠って維持されているけれど、それはかつての様に戻る事では決してない。何故なら仮にそうして過去の再現をしても現在は既に二十一世紀の十四年という年である事を変えられないからである。価値は過去にどんなに栄華に包まれた時代を持っていた民族であれ国民であれ更新させていくべきものであり、改変させていくべきものなのである。それはそういう風に語り合って我々が同意しているのではなく、生きている以上全ての世界市民にとっての暗黙の了解事項なのである。それは凄くリアリスティックに各個人にとってプライヴェートなのである。しかし誰もが同じ様にプライヴェートである事を了解し合うという事に於けるプライヴェートだと知っている。それが野生ではない、ということだからだ。
 人類は社会的インフラのテクノロジーを価値を再編、価値を更新する為にリニューワルし、進化させてきたのか、それともツールやディヴァイス等全ての社会生活上でのインフラを進化させたくて、その為に価値の方を更新していかざるを得ないのかは分からない。恐らくどちらでもあると言い得て、どちらかでもないとも言い得るであろう。(つづき)