セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Friday, September 13, 2013

第四十八章 媒介価値とは行為のことである/現代、そして未来を思想する・第一部

 永遠不変を観念としては理解しつつも、人生は短く、生きている間に何かアクションを起こしたいのが我々の願望である。にも関わらず我々は惰性的に押し流されやすく、そのことを我々は昔から承知で、哲学ではそのことをアクラシアと呼んできた。それは不変の価値とは対極の「生まれ変わり難さ」のことである。
 それを告発することで打破しようとしたのがエドワード・スノーデンであり、情報摂取をネット空間に拠って当たり前のこととしている我々の日常への批判行為としてスノーデンの告発を認識する必要がある。彼は一面では凄くオーソドックスな愛国主義者であり、だからこそ通信傍受の実態を無視してうっちゃっておけず、国家犯罪を告発したのだ。それはオリヴァ・ストーンの言葉を借りればもっと高いレヴェルでの倫理的な使命感だったと言えよう。
 何かに受け流されていくことの最たるものこそスマホの過剰利用である。最早中毒症状を呈していて、nomophobiaという語も定着した。その為にデジタルデトックス(digital detoxification)を現代人は求める様になった。アメリカと韓国で顕著な現象も次第に日本をも蝕んできている。そして次第に一過性の流言飛語へ飛びつきやすい性格を現代人へ醸成させている。そしてその事実への反省もしないという習慣も身についている。
 ネット帝国主義はある意味では無思考的にツールを利用し、その中毒性を歓迎する。人間が無思考的に文字情報のみを信頼すること、図式とグラフの数値に拠るフラグで示されたデータ参照のみに自己理性を預けてしまっていることが、よりネット空間を支配するコングロマリットの世界制覇と資本帝国化を加速化している。しかし恐らく後三百年の間人類は20世紀以降我々に拠って生み出されたスティーヴ・ジョブズ型の天才を持て囃すかも知れない。
 しかしある日人類は情報摂取の為だけのネット空間を全て捨てようと言い出すかも知れない。勿論そうなる前迄に多くのサイバービジネス定着以前に確立していた既得権益的コングロマリットの解体作業を人類が模索して、その為にサイバービジネスの方を肯定し、益々ネット帝国主義は巨大化していくだろう。
 しかし前回から述べている媒介価値へと常に目線をシフトさせる我々にとって、それは行動である、という想念が我々の中でサイバービジネスの帝国主義化の加速に伴って醸成されることも確かである。そして行為は既に価値的創造以外の過剰創造を忌避していく方向へと収斂されていくのではないだろうか?
 スマホの登場に拠ってどういう情報をどういう方法に拠って摂取するかということ自体を考える心の余裕を我々はある部分では捨てた。つまりスマホ一つあればそれでこと足りるとしたのだ。しかし本当にそうだろうか?真に価値ある情報は本からでもネット空間からでもなく、直に人と接したりする為にも、イヴェントや実際のランドスケープを体感する為にあらゆる現場へ自己の身体を伴って赴くことに拠ってである、と既に我々はスマホを片時も離すことのない日常の中で個々人では密かに気づいているのではないだろうか?
 つまりスマホの携帯とは言ってみれば、そのことに気づいているのに、容易に誰しもが世界中を旅して回る時間的余裕も経済的余裕も、そういった機会を得る為に必要な社会的地位も獲得出来ないということへの諦めが生じさせている現象とも言えるのだ。
 人間は創造されたものの上に胡座をかくことを自らに許さない。故に創造と真に言えるものとは、一度創造されたものを破壊することに拠って、やっと創造の基盤を得たと言えると知っている。伝統というものも実は一つの行為のパターンの読み直し、組み換え(それを現在、歌舞伎<花柳界>ではしようとしている)に拠って初めてその基盤を得ることが出来る。
 しかし今はどんなにnomophobiaが深刻化して社会問題であろうと、既存の既得権益コングロマリットへの批判勢力拡充に人類はイエスを言い続けねばならない。そこで優雅に雄大な風景を眼前にして過ごす時間の余裕を得るだけの金銭的循環を一般市民が得ることが容易ではない以上、スマホ携帯に拠って、その欲求実現不可能性に拠るフラストレーションを解消させようとするだろう。かくしていよいよネット帝国主義は加速化する。時には情報操作に拠って非革命的精神を植え込むことを画策する天才的なアジテーター、ネオナチ的な情報操作に拠って国家主義を定着させようとするハッカー集団、それを軸として政権迄樹立する時期も我々人類は経験するだろう。要するに全てのネット帝国主義の精神的弊害を訴える輩を既存勢力(ネット空間拒絶的感性の世代の人達に拠る保守主義)打破の為に人類が結束することを邪魔する勢力と見倣す国家主義的扇情的右翼(ネオナチ的な情報操作集団とそれを結託した政治勢力)が再度人種問題、世界の宗派別闘争を加速化する時期も到来しよう。
 勿論見かけ上ではイスラム教文化圏とキリスト教文化圏、ヒンドゥー教文化圏等は巧く懐柔策を見出していくことだろう(今現在のシリアを巡る米露その他の関係の様に。尤も未だこの問題も未来の行く末は不確実ではあるが)。しかしそのことと人種間対立感情とか、宗教別の倫理的感性のずれは深層意識の上では深刻となっていく可能性の方がより強い(その兆候は既に日本の温泉に先住民族のマオリ族の人が入浴出来なかった最近の事件でも物語られている)。
 上記のネオナチ的サイバービジネスはSNSのゲシュタポ化に拠って加速化される恐れは大いにある。要するに凄く魅力的ツールを通して凄く魅力的ワンフレーズで民族主義的相互監視空間へとSNSが変貌する兆しは既に現在でもある。それはSNSの利用者が既に自己主張より、SNS固有のコミュニケーションメソッドへの追随的中毒者化しているからである。そこでは身のあるツイートや情報より型通りの挨拶の常習化、より大企業的新製品のツールの宣伝と、それに阿った上級ユーザーとしてのナルシシズムの有効な活用者のみ大勢の友達やフォロワーを獲得するという無思考的なユーザー間のゲームと化しているからである。
 スマホ利用とSNS利用の過剰的な頻度に拠って、より無思考的、無思想的な大勢追随者の群れを作っているのが現況の社会である。その実態の平均化に拠って表面上は確かにイスラム教文化圏もキリスト教文化圏も差がない様な幻想も作り上げられていこう。しかし言語的壁も相互に払拭されていないし、イスラエルとパレスチナとの間の感情も解決してはいない。そこでアルジャジーラの様なメディアとYoutubeとの連携の様な現在でも既に確立されているトライアルが部分的には世界中のインテリとか特定の思想信条的な人々をこれからも結びつけていくだろう。しかし恐らく行為を媒介価値として最大のパワーと自覚する人類はネット空間、サイバースペース利用自体を建前化させ、真実には相互に暗号を送信し合う便利なツールでよいということにしていくだろう。
 何故なら今は未だスマホもタブレット端末も目新しい段階であるが、あと数十年後にはそれは使い古されたものと化し、暗号通信的傍受を専門とする知の体系が世界中で進化していくことに拠って既存のグローバリズムともインターナショナリズムとも無縁の極めて特殊なバイアスのかかった思想集団や利権集団に拠ってネットが利用されていく、それも合法的に国境の枠を超えて結束してネオナチ的な排他主義と閉鎖的特権的集団となり、SNSに拠って未通女い(おぼこい)ユーザーを誘惑したりして、多少未来へのヴィジョンを持った者を潰しにかかる監視集団となっていく可能性は充分にあるからである(ブラック企業の現今の社会現象もその兆しであるし、ブラック企業自体も消滅することなく維持されていくだろう。規制すればするほど地下化、SNS化することに拠って)。
 人類から悪が消滅しないのは、振り込め詐欺(例の母さん助けて詐欺とかいう呼び名は定着していない)からも理解出来る。
 そして私自身の予想では三百年後に人類はやっとサイバースペースという媒介自体に支配されることを捨て去ろうと意志する集団が登場するのではないだろうか?そしてそれより早く非核化(エネルギー戦略的にも軍事戦略的にも)が実践し得ていたなら、サイバースペースは有効利用されている可能性があるが、そうでなければまずサイバースペース自体を破壊しようという動きが顕在化する様に思えてならない。
 今回は行為とはまず悪への誘惑から出発する、そしてそれでも尚アクラシアよりましだと人類は志向するという観点からと、SNS利用者の無思考性、無思想性から捉えたが、そのことが前回示したエロスの問題とどう関わるかに就いて次回は取り組んでいこう。(つづく)