セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Monday, May 23, 2011

第三十三章 自己同一性という価値は実感であるよりは認識である

 私たちは一見実感的であることだけを哲学的現象性であると捉えがちであるが、実はそうではない。悟性、判断、認識もまた一つの実感であり、衝動であると捉えるなら、寧ろ私たち個々の自己同一性は一方では羞恥によって証明され、他方それは他者が自己に対して規定する「~があなたらしさだ」とか「~があなたの良さだ」という指示性や、志向性がまるで自己にとってのそれと異なるということに纏わる齟齬に対する苛立ちや価値的不一致を巡る違和感によって証明されるのである。
 しかし哲学で言うところの論理的構成説によって自己同一性を実感し得るということの方がより正当であるとP・H・グライスは指摘しているし、そのことをシューメーカーは引用している(「自己知と自己同一性」より)。だからもう一方の純粋自我説から自己同一性を実感するということにおいて、より私たちは勘違いとか思い違いがあるのだ、ということを示してもいる。これはある意味では記憶の不確かさとも関係があるだろう。つまり自我と言うことは、或る意味ではかなり茫漠とした印象であるとか、まさに原義としての衝動、つまり未充足の欲望によって高められた願望とか焦燥感に近いかも知れないという憶測があるからだろう。だからこそ自己同一性を実感からのみ判定するということは認識論的にも存在論的にも甚だ危険であるということが判明すると言える。
 しかしこのことはシューメーカーによって引用された次のグライスの記述と、ウィトゲンシュタインの更にその次にここで記載する記述によっても読み取れる。(孫引き、「自己知と自己同一性」シドニー・シューメーカー、菅豊彦・浜渦辰二訳、180ページより、勁草書房刊)続いて(「9ウィトゲンシュタイン全集 確実性の問題」 黒田亘訳、74ページより)。

PA〔純粋自我〕説が正しいと仮定したうえで、私は昨日頭痛がして、今朝歯痛がしたのを知っているとしてみよう。そのとき、二つの体験をもっていたのは一つの自己であって、非常によく似た二つの自己ではないことを私はどうして知っているのか、と問われたとする。PE説の上にさらにPN〔固有名〕説を採るとすれば、「私はそれを今知っている」という以外にどんな答えを与えることができるか、私には分からない。これは不満足な答えだと思う。しかし他方、同じ問いに対してLCT〔論理的構成説〕は、「それらの体験は互いに、『~と同じ自己に値する』ということを構成するような関係にあるのだ」と正しく答えることができる。例えば、「なぜなら、私は二つの体験を覚えており〔あるいは二つの体験が起こったのを知っており〕、また私が覚えている(あるいは、起こったのを知っている)どの体験も同‐人格的でなければならないからである」と私は答えるであろう。この答えは、自己は論理的構成体であり、記憶によって定義されることを含意している、と思われる。

二八八 私は、地球が私の誕生の遥か以前から存在することを知っているばかりでなく、それが大きな物体であるということ、人びとがすでにそれを確認しているということ、自分も含めて人間には祖先があるということ、こうした事どもに関する書物があるということ、そういう書物には嘘がないということ、その他もろもろのことを知っている。だが本当にすべてを知っているのか。私はそう信じている。これらの知識の総体は私に伝承されたものであり、私はそれを疑う理由がなく、反対に無数の経験がそれを確認している。
 それなのにどうして、これらすべてを私は知っている、と言ってはならないのか。皆そう言っているではないか。
 それを知っているのは、あるいは信じているのは私だけではないのだ。というより私がそう信じていると信じているのである。

 つまりここで重要なこととは、価値が既知の実感によって齎されるのではないという直観こそが我々に価値を認識せしめているのであり(それこそが地球の誕生についてさえ我々は自分の内的世界において認識的価値として実感し得る)、それは既知の実感に忠実に生きること自体が他律的であるというもう一つの直観(実感と言ってもよい)があるからである(それはある意味では既知の実感的に実感的ではない形での理想を価値に見出そうとしている我々のもう一つの実感を実在的なものにしている)。このことを示しかのように、リチャード・マーヴィング・ヘアは次のように述べている。(「道徳の言語」小泉仰・大久保正健訳、38ページより、勁草書房刊)

(前略)一種の超感覚的な観察によって知りうる、事実的な現存する善に代えて、アリストテレスは「行為によって実現されるべき善」、あるいは彼の通常の言い方に従えば「目的」を置くのである。つまり、もし何かが善であると言うことが行為を指導することであるなら、それは世界についての事実を単に記述しているわけではないことを、彼は暗黙のうちに認識している。彼の倫理学がプラトンと違うほとんどは、この原点に遡ることができる。

 ヘアのこの謂いが正しいとすれば、とりもなおさずプラトンは存在自体を善であるような真理を信じており、しかしアリストテレスはそうではない、つまりまさに彼の言う通りに解釈出来る「行為によって実現されるべき善」つまり意志的な志向性であることになる。それは事実として確固として存在としての命脈を与えられているのではなく、あくまでそれを善として我々が価値的に意味づけるということを意味している。つまり端的にアリストテレスはプラトンのイデアを否定したわけだ。
 このことを永井均は次のように述べている。(「倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦」28ページより、産業図書刊)

 第一は、なんといってもまず、アリストテレスがプラトンのイデア論を否定したことです。(中略)つまり、イデアについての知識は永遠不変で普遍的なものについての知識ということになりますが、倫理が必要としているような知識は、われわれの現実の行為の指針となるような、可変的で個別的な知識でなければならない、ということです。アリストテレスによれば、倫理学における普遍的な知識は、個々の状況においてわれわれが獲得する個別的な知識を一般化することによってできあがるのであって、その逆ではないのです。
 そこから第二に、倫理に関する知識、倫理学的知識は、科学的知識のような厳密な普遍性は要求されない、ということが出てきます。倫理学においては、問題にふさわしい程度を超える正確さや厳密さを求めてはならない、とアリストテレスは言っています。たとえば、大工が必要とする「垂直」や「平行」の正確さは、幾何学者が必要とする正確さとは違うでしょう。そういうように、それぞれの分野には、それぞれふさわしい精密さや厳密さの程度と基準がある、というのです。これは傾聴に値する見解であると思います。つまり、倫理学が必要とする普遍性は、日常生活で行為の大体の指針となりうる程度のものであればよく、それ以上のことを求めるのは、まとはずれで不必要な要求だ、ということになります。

 つまりヘア並びに永井の論説を手がかりに考えるとすると、倫理とはそれ自体が一つのその都度の判断とかその判断全般を反省的意識において統括しようとするそれ自体で一つの思考価値として炙り出されて来るものであり、それは実在的な永遠性を確保されているわけではない、ということになる。
 シューメーカーは端的に自己同一性を他者Aと他者Bを観察するような比較によって認識するものではないという形でグライスその他の考えを自己なりの仕方で捉え直しているのだが、その自己同一性自体が既に既知の実感として感得させられる私たちの自分の他者とは決定的に異なる固有の感じ自体から引き出された概念として捉える時、固有の感じを言説化すると途端に認識となって立ちはだかるということをここで私は拘ってみたいのである。
 つまり自分に纏わる他者全員とは決定的に違う固有の感じは、今このように固有の感じと言った途端に形骸化してしまう運命を逃れられない。つまりこの言説化不能な感じ自体を言語化する時、そこには自己同一性と仮に言ってみたところで、最初に私がこの身体と記憶と感覚とによって感じていることは終ぞ伝達し得ない。つまりその伝達し得なさを全部余すところなく寧ろ伝達すること自体を断念することによってのみ「自己同一性」という語彙によって我々は理解をする。それは理解という心的作用自体が一つの大いなる断念によって成立しているからである。だからこそプラトンのイデアがイデアとして真理化された途端にそれが固有の感じを失うこと自体を延々とアリストテレスもウィトゲンシュタインもシューメーカーもヘアも永井も感じ続けてきてそれを言説化してきたわけである。従ってこれら全ての哲学者たちによるプラトンへの否定(この系列にはカントやニーチェも含まれる)こそが、実は固有の感じを言説化し得ないこと自体に内在する既知の実感から逃れていくことを何とかそれ自体として捉えようとする際に齎された認識そのものなのである。
 端的にシューメーカーが拘った自己同一性という言説もまた一つの認識であり、実感ではなく実感の言説化である。まさに引用のウィトゲンシュタインの言葉を借りるならそのように実感があると信じていること自体を伝達する時不可避的に認識が誕生する。その認識自体が一つの既知の実感から常にずれ込むという感じを拭えない一つの未知以外のものではない。だからこそ私は「価値が既知の実感によって齎されるのではないという直観こそが我々に価値を認識せしめているのであり、それは既知の実感に忠実に生きること自体が他律的であるというもう一つの直観があるからである」と言ったのである。
 つまりこのことを言い換えれば価値とは一つの言葉であり言説であり、イデアと言っても良い、だからこそアリストテレス以降の多くの哲学者がそれを躍起になって実在ではないとして否定してきた類のものである。しかし我々が感得する私とか意識とかクオリアとかの自分にだけ感じられる固有の感じとは端的にそれ自体は言説化し得ないものであると誰しも知っている。その誰しも知っている言説化不可能性こそがその不可能であることを示すと、途端に価値となってしまう。その価値に転換する時例えば本章で拘った「自己同一性」とか永井均的<私>とはそのように語られる瞬間、アリストテレス以降の哲学者が躍起になって否定したイデアそのものと化してしまうということの内に、私が価値とは認識であると主張するような意味で、固有の感じもまた認識化される。それこそが本章を「自己同一性という価値は実感であるよりは認識である」と命名した所以である。そしてそのことは、同時に価値とかこうした認識とかその際に必要とされる悟性とか一切の価値判断自体もまた一つの実感であると最初に言ったようなこととの内に位置づけ可能となるのである(しかしことのことは結論においてもっと深めていく必要がある)。