セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, February 5, 2015

第七十章 時代は作られるPart7 現代社会に固有の時代性を乗り越えるには?①

 年間の自殺者数は恐らく交通事故より今も多いであろう。鉄道へ飛び込み自殺するケースが多い。それはある意味では現代社会の全ての矛盾に現代人の確実に一部を生きていくことを辛いと思わせる何かがあるということを意味する。
 現代社会はあらゆる意味で昔なら残存していた友愛的共同体の名残がない。和気藹々自体が成立し難い社会となっている。結婚も人に勧めることが出来ない。何故ならLGBTの差別問題等も表面化しているからだ。日高パーティーの様なものは今後も復活しないだろう。又監視社会化され盗聴されているかも知れない恐怖心は必要以上の自然な他者への感情表出を差し控える事で抑圧されている事の方が発散する事より多くなってきていると誰しもが自覚し得るので、その抱え込まれたストレスがどう処理されていくかの方策もなかなか見出し難いのだ。ちょっとした発言が失言として受け取られかねない社会様相では、閉鎖的なコミュニティが無数に林立する状態を社会に生む。
 情報摂取の欲求より使命感が益々加速度的に増し、ウェブサイトと各種電子機器利用の日常は徐々に自然状態というもの自体の像をぼやけさせ、消滅させる方向に人間精神を持って行く。
 それは営業成績でもサーヴィスでも従業員を成果主義へと翻弄させ、そのビジーネスに順応しきれない成員を必ず一定数産出する。だから2008年の秋葉原通り魔殺人事件や片山祐輔遠隔操作事件でも、前者は鬱憤の晴らし方で幼稚さを見せつけ(幼稚さが極端な暴力へと発展したケースである)、片山事件では他人に罪を擦り付けるというやはり動機的な幼稚さが異様に目立っている。つまり野々宮龍介元議員の統合失調的応対会見に観られる現代人固有の我慢の出来なさが顕在化したケースが昨今ではメインとなっている。それが栄光を求める形であれば佐村河内守と新垣隆のケースとなっていくし、ある意味では功を焦ることが小保方晴子ケースの様なものになっていく事が必然性である様なある種の現代社会の成果主義と秒刻みの社会的ニーズの変化に拠る虚実の混淆した社会様相を形作る。
 だがもし現代人が其処迄幼稚化せざるを得ないとしたなら、それは現代の情報化社会と電子機器の利用全体へ未だ完全に慣れきっていない感性を合わせるしかないという使命感から生み出されている現象として、その幼稚性を認識することは容易いであろう。事実自殺者はこの格差社会で独楽鼠の様な生活状況を強いられている精神性への回答として自殺を選び取っているのであり、その不可避的社会状況を逆用するしか其処から精神的苦悩を脱する可能性は見出せない。
 率直にSNSにもろに下品な本音を書き込む様な幼稚性を逆利用するしかないのだ。つまり正式とか本格的とかきちんとしたという体裁ではない幼稚な本音を吐き出す機会に異様に恵まれた現代人は最早その幼稚性を逆利用するしかないのだ。
 極度の暴力という意味では湯川氏と後藤氏を殺害し、ヨルダン人パイロットを焼殺したISILの行動こそ世界的レヴェルでのテロリズムの方法論的幼稚性を示している。それは大義的行動ではない。しかもその人質殺害がウェブサイトで知らされると、即座にヨルダン政府はサジダ・エルシャーウィ死刑女囚を処刑するという国家装置の機転にも、それが読み取れる。報復的な応酬の連鎖が世界的規模で垣間見られる。
 正式なる、正統なる、正当的なということ自体全体へ感性的に懐疑的になっている現代人には既に非正統的な、非正式なものだけをメソッド的にも頼りにするしかない。何故ならそれ以外の社会インフラやシステムの全ては厳格に科学主義的にそれを援用しなければ社会が運営されない様に管理されているからである。
 感性的な意味での逸脱への欲求を仕事やビジネスにも応用していくしかない。それはいい意味での幼稚性と、ISIL的暴挙の幼稚性を厳密に峻別する意志と努力にあると言ってもいい。昨今頻発する多くの殺人事件も衝動的な現代人の感性を表出させていると言えるし、人類全体が統合失調的な様相を呈していると言える(その点では国家指導者層、つまり政治家や為政者自身さえもがそうである。彼等はリーダー的態度と言うより、大勢の無力の市民の欲求の代弁者にしか過ぎない)。
 道徳に関して日本教育界では大きな変革を為すと言う。その際に私が提案したいのは、SNSの持つ本音吐露的な容易さの中から、汲み取るべきいい意味での下らなさ、つまりジョークやブラックユーモアと、他者への誹謗中傷の識別的感性を磨く事こそ求められている。シャルリ・エブドは確かに自由友愛を標榜するフランスでは正統かも知れないが、恐らくそれはイスラム教徒全般迄含み込むユニヴァーサルな正統性では無かった可能性はあるのだ。何故ならフランスでもドイツでも異様なる移民排斥デモ等の空気に満たされているからである。政教分離自体が欧米先進国モデルの理念なのだ。教室ではスカーフを外せという訓戒自体がアラブ社会やイスラム教世界の文化を無視した主張なのだ。
 次回はSNSツイート的な容認され得、しかも表現の可能性を進化させ得るものとしての下らなさ、つまりフランクさとは何かという言葉の使用の仕方に就いて考えていってみよう。(つづき)

Monday, February 2, 2015

第六十九章 時代は作られるPart6 未完成は悪の魅力である

 前回述べた様な不完全性にリアリティを感知する現代人にとってもし仮にウェブサイトにだけ本音メッセージを求め過ぎるとしたなら、それは社会全体が素直な欲求を他者に示す事を憚らせる固有の歪な禁欲的空気が蔓延している証拠である。発信し難さが、一方でウェブサイトで幾らでも本音を書き込めるにも関わらずリア充的対人関係では支配的な証拠である。
 だがそれは危険である。つまり情報発信力と本音吐露的な自由さ自体が却ってリア充的な抑制的空気を醸成しているのなら、ウェブサイトに過剰に依存することを悪しきバロメータとする様な倫理観とか生活感情を持つべきである。ウェブサイトの有効利用とは、ウェブサイトの利用に依存し過ぎないということに尽きる。
 ウェブサイトで余りにもいい子ぶって演技し過ぎても、それはそれで策略的なメッセージしか発信出来なくなるので控えた方がいいが、余りにもその都度の突発的な情動に従順にメッセージを発信し過ぎると、リア充的対人関係や社会生活で、その鬱憤晴らしの反省から偽装的態度に陥りやすくなる。リアル社会生活で欲求を圧殺し過ぎても、逆にウェブサイト上で良い子ぶり過ぎて偽装的態度を取り過ぎても危険なのである。
 実は我々がある部分では心地良い本音的メッセージに惹かれるのは、ある種本音的な原初的メッセージ自体に、社会的通念や常識や良識といった検閲されたものではない生の欲求、つまり悪も多く含む本音が控えているからなのだ。
 無修正の未完成メッセージこそ、あらゆる意味で善も悪も一緒くたになった混沌とした原始的パワーを秘めている。それは無修正ポルノを一人密かにPCの画面で観るのと似た迫力を感じ取れるのだ。
 出版社とは言ってみれば検閲機構の最たる存在である。社会一般で受けるとか、社会一般で良識ある意見しか出版させない。それは用意周到な検閲機構なのである。校閲といった所業は生なメッセージの毒抜き作業である。それはあらゆる層に万遍なく伝達されるメッセージが共感されることを旨としている。しかしロングテールビジネス定着以降の現代社会のメッセージ伝達は各層にそれぞれ全く異なったメッセージコンテンツを配信する事に拠って成立している。西松屋は子供服専門のホームセンターであるし、薬局から大型スーパーに進出したウェルパークもマツモトキヨシもダイエー商法も参考にしてきただろうし、その店舗形態の多様性にビジネス的命運を賭けてきただろうと思われる。
 ロングテールビジネス的な展開は恐らく全分野で応用されている(何もアマゾン商法だけではない)。
 この多様化と一部の消費者のニーズに拠って細分化させて多層的に経営する戦略は完成という形態が社会全体に適用されないということを意味している。勿論日本の場合伝統的な地方毎の産業基盤は存在する。だがその地方毎の特色を維持する為にもあらゆる新機軸的なイノヴェーションを要求されている。つまり稲作であれ畑であれ農業全般が減反政策的な範疇から逸脱する様に展開していくしか生き残りの道はない。
 完成とは例えば先述の出版物での完成形態のタイプだけでなく世界、社会全体のインフラにも言えるのだ。何故なら検閲された前例踏襲主義的なタイプの商法やイノヴェーションを作為的な欺瞞を感じ取ってしまうということが現代人類の顕著な特徴だからである。
 矯正的威圧から解放されたいと感じているのは個人の感性だけでなく消費者自身が各人サーヴィスに対しても感じていることなのだ。
 そのアイディア的な発見を我々はSNSで仕入れている。これは確かである。其処ではあらゆるタイプの情報が発信されている。当然自分が理想とするものばかりでなく玉石混淆なのだ。その雑居、同居性に意味がある。端的に怪しげな情報やガセネタ的に悪辣なもの、如何わしさや危うさも沢山閲覧出来る。その雑多なリアルから掴み取る自己にとって真に重要な情報という選択努力に意味がある。
 この不完全性、未完成性こそ悪の履行をも可能とする人類の感性の磁場となっている。何故なら本当に説得力ある善とは観念的な善ではなく、小さな悪とも共存している。悪の一滴も含有されていない善は偽善的なるもの、欺瞞的なるもの以外ではないと我々は充分承知しているからだ。魅力とは不良性にある。率直に検閲される時削除される要素こそが魅力なのだ。
 もっと言えば魅力ある何かとは小さな悪を含有している。これをSNSでは読み取れるからこそSNSは無くならないのだ。校閲、検閲とは言ってみれば小さな悪を根こそぎ欠点のないものにしていく志向がある。つまり小さな悪や多くの欠点もあるけれど、何か一点凄く魅力があるという事態から、悪も無ければ、欠点も一切無いけれど大いなる魅力も一切感じられないものこそ検閲済みのものである。善を一切損なって迄も一切の悪を除去しようとする校閲、検閲自体は律儀な官僚のする最も一般的な作業である。
 迫力ある魅力ある何かとは必ず凡庸な正しさにはない悪があるのだ。これをまず認めていく必要がある。これは精神的な意味で必要不可欠な必要悪なのである。詰まらないものは無性格なものである。それは悪がなく健全かも知れないが、それだけなのである。
 本格的な長所や大いなる魅力とは必ず悪と抱き合わせであると認める所からあらゆる商品やメッセージやサーヴィスを考えていくべきである。勿論此処で言う悪とは社会的な意味でインモラルな何かである訳ではない。
 要するにある意味では不首尾で微々たるクレームに対しては確かに欠点も多いが、一部の徹底的に絞られたニーズでは最大の価値である様な何か(世間ではスリムやグラマーな女性、イケメンの男性だけがニーズがあるとは限らない)を個々別箇のアイテムとして用意しておくべきなのだ。
 不完全性、未完成性に魅力を感じる現代人は一方ではアート抽象絵画作品等で極めてスキルの高い完成度を求める感性と実は抱き合わせである。そういうものを一方で求めるなら、逆にそれ以外では不完全で未完成なものを愛好するという感性でもある。音楽で完全性を求める者はアートでは荒削りなものを感性的に求めるということもあり得る。そういった相互転換的な完成思考と未完成思考の共存は無限なヴァリエーションがあり得る。価値は多元的であり、多層的なのである。(つづき)