セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, October 3, 2015

第七十二章 言葉は作られるPART1 日本語接合語(爆~)の応用の仕方から読める驚嘆感情への向き合い方

 (爆)という語彙は日本人にとっては明らかに歴史的には太平洋戦争の空襲と爆撃に拠って定着したものであろう。それ以前でも爆弾という語彙は在っただろうが、爆撃、つまり空襲の物理的事実をこう呼ぶことはこの時期だったと思われる。事実日清戦争と日露戦争は本土空襲という事態は無かったからだ。そして日本は終戦直前に広島と長崎に原爆が投下され、水爆実験がその後、戦後レジームの中でアメリカ、フランス、中国等に拠って盛んに行われた。
 だが他方で日本人は言葉遊び的感性をどんどん拡張してきた。その一つは明らかに70年代以降、80年代バブル期を頂点とした(爆笑)という語彙である。つまり自分達の民族的記憶の中でトラウマとして君臨する爆という語彙を積極的に肯定的な雰囲気の語彙に適用してきたのだ。90年代にはその流れの中でテレ朝の深夜番組でエロス的雰囲気を振りまいた<トゥナイト2>等の影響もあり、(爆乳)という語彙が(巨乳)という語彙に連続して定着した。巨乳がウルトラ級だとすれば爆乳は超ウルトラ級だということだ。
 その当時にそれと連動して定着したもう一つの語彙が(爆睡)である。これも我を忘れて熟睡することの極致で(熟睡)も、その語彙が出来たての頃はそれなりに衝撃度があったと推察されるが、(爆睡)はより過激に夢さえも見ないで眠り続けるイメージを大きく打ち出した。
 そして昨今より定着しつつあるものとして(爆買い)がある。これは巨大な経済大国化してきている中国人が来日にして日本のマーケットで日本商品を買い走る姿を揶揄して使われている。
 これ等の例から鑑みて、実は意味というものは語彙使用を中心に考えれば、明らかに内的理解ではなく、外部に規約として、時代のモードを反映すべく我々が示し合わせて使用するという実態も浮かび上がる。つまり哲学で考える意味とは理解して我の心へ植え付けることというニュアンスが強いが、語彙使用に関しては決してそうではなく、自由に個々人が使うものではなく、あくまで使用規約と使用状況選択はきっちりと決められているということだ。そして皆で協働してそれを使用するという意味では共同注意的な使用の仕方と言ってよい。つまり語彙を使用し意味を伝達する分では明らかに外部的なものとして意味は規定されている。それを個々で念頭に入れて、例えば中国人観光客に拠る爆買いを巧く誘導して、或いは商品が巧く流通する様に取り計らうという時には、意味は決して内的ではない。その語彙使用を促す状況や事態自体を反省的に振り返る時初めて意味は内的になるだけだ。
 本章で私が提示した~爆という悍ましい歴史的記憶を呼び覚ますこの語彙を、片や完全に軽いノリで(爆笑)(爆乳)(爆睡)(爆買い)と使用する日本人。日本民族にとっての言葉選び、語彙選択の感性は明らかに連動的、協働的、慣用的な規約を軽い、従って気安く使え普及しやすく、言いやすく、一挙に同時代的な共時性を呼び覚ます語彙の発明に長けていると言うことが出来る。勿論他方では哲学的認識論は重要だし、人類にとって必要なのだが、その本質論とか要点主義に対してディテール印象主義的な語彙の使い方を好む民族性は、語彙文化自体を活性化させ、サブカル的アイディアや商法を普及させるのに大いに役立ってきているということも紛れもない事実なのである。
 それは幾分日本人が笑い的センシビリティで驚嘆的事実をも取り込もうという意識が在ることを証明してもいる。つまり笑いや笑う日常生活上での軽いノリを、よりシビヤなビジネスや競争社会での潤滑油にしようという殆ど自動的な配慮が社会全体に漲っていると捉えることが出来る。