セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, December 19, 2013

第五十三章 顔の見えない文字オンリーのメッセージの本質とは?No.2 ツール・ディヴァイスを使いこなす万能感/判断力と行動力のテスト

 今多くの役所では電子ファイル化が進み次第に職場はスペース的に簡素化されてきているし、そもそも全ての国家試験的な大きなことから大学受験等もペーパーテストにしている昔ながらの方式自体が大きく変貌と遂げていく未来展望は今既に垣間見られる。
 マシーン、ツール、ディヴァイスを利用することへ快楽を抱く人類にとって、その魁的な悪の誘惑として前回銃器の発明を挙げた。拳銃は今日益々老若男女分け隔てなく利用しやすいものへと改良されてきている。この事実はそれ自体は人類の悪そのものであり、悪を認める形での性悪的ニーズに応じて銃器メーカーがアメリカ、タイ、フィンランド、ブラジル等には存在するということだ。
 銃器の発明の前はその扱いに訓練を異様に要する剣、弓矢等が古代からずっと部族社会では存在し続けたし、それらの利用には体力的な鍛錬を要した。その訓練の最小限の簡素化こそが拳銃の発明であり、これによって体力の衰えた老人、そもそも非力の多くの女性や子供でも容易に暴漢から防備可能となっただけでなく犯罪、つまり殺人殺傷も可能となった。
 しかしそういったネガティヴなリアルも今も存在するが、もっとずっとグローバルな形で、そしてユニヴァーサルな形で情報摂取と通信的な送受信を可能とさせたものこそスマホ(PDF端末)やタブレット端末の進化であり、PCの多種多機能、ロングテール的なニーズに対応した各種分化である。
 しかしもっと心理学的にも人類学的にも人類を認識的な価値規範、価値考察的な哲学を一足飛びに飛び越した実用性の猛威は、寧ろ人類を非哲学的に推し進めている。要するに現代のマシーン、ツール、ディヴァイスの過剰利用こそ、コミュニケーションの各自に拠る権力をリアルに持てなくても、あらゆる大勢の個人とネット上で繋がっていられると幻想し得るし、事実そのリアルな出会いをも既にかなり広範囲へと拡張しているし、時間的にも短縮させられる。人類は既に万能感をマシーン全般を日常的なコミュニケーションの武器とすることで快楽的にも得てしまっているのだ。
 ウェアラブル端末がもっと普及し進化すれば(文字オンリーのコミュニケーションももっと進化し、グラフ、数値参照的なものとなって瞬時の判断と選択を個に可能とする様になることが実現すれば)、既に出回り切っているとスマホ全般さえ衰退し、その内姿さえ消すだろう。そうなれば今は未だ権力のない人でも大勢の他者と交信し得るし、その際にリア充的な人格査定や社会的地位を問われることを他者へ気を遣う必要がなくなっているだけのことが、もっと受動的にウェブサイト上での交信をリア充以上に選択している部分さえ消滅し、その内アグレッシヴに自分自身の主観にだけ忠実に全ての他者を選択する様な交信を非リア充的に電子機器にだけ依存させるマナーが徹底化され、あらゆるペーパーテストが不要となり(従って不必要な記憶力重視の教養主義も影を潜め)、会社の入社試験も完全にウェアラブル端末利用をベースとした瞬時判断力速度テストとか行動力のテストをビッグデータを利用して行う時代はもう直ぐ其処迄来ている。
 銃器の進化とコンパクト化に拠って各人の強さの定義を一変させてきたテクノロジー人類学的な人類全体の時代的移行で既にスピリチュアルな部分でマシーンとマインド自体を共存させるというベクトルを人類は選択している。この様に無差別的(いい意味でも悪い意味でも)なコミュニケーションを実現させた人類は、個の世界へ沈潜するということ、個の好き嫌い的な選択をこそ優先させ、公共性の遵守は最低限のレヴェルに押し留め、日常生活の大半の時間を孤独空間(其処に大勢の他者が居合わせてさえ)を独り占めするスピリチュアルな独我論を完全に実現させてしまっている以上、そのデジタルコミュニケーションの一人遊び的中毒性は、万能感の無差別的全人類的個に拠る所有と、フレックスタイム選択的な行動アスペクトに拠るパンドラの箱を開けてしまったのであり、過去へ遡行することは、私の予想では既に何度か述べたが、今の流れが三百年くらい持続していくその後でしかないのではないだろうか?
 何らかの極めてネガティヴな事態の到来、つまりビッグデータ利用に拠る極度の独裁政治や恐怖政治に拠って19世紀迄の植民地が経済的パワーその他に拠って履行されることで人類のヒューマニティに深刻な影響を与えでもしたなら、全ての電子機器を葬り去ろうという気運が人類を突き動かす時代も到来する可能性は充分にある。しかしその時にはこのブログの文章を目にしている全ての来場者も私もこの世界には存在しないだろうし、又余程の奇跡でもない限りこのブログも世界中の誰からも存在すら気に求められなくなっている。本ブログをはじめブログなるものさえ、その時の人類には全く無関係のものとして事実凄く過去にそういう時代もあったであろうと一部の歴史家によってのみ記述されているに過ぎまい。(つづき)

Monday, December 16, 2013

第五十二章 顔の見えない文字オンリーのメッセージの本質とは?No.1

 国家それ自体は、そして国家権力自体が我々一人一人の人間の孤独の弱さや虚栄心を代表し(ある意味では反映象徴し)その個自体の弱さ、無力さを暈す為に用意周到に支えられ(それを助長しているものこそマスコミ、マスメディアである)、その装置の直接運営者である為政者はその孤独を一手に請け負っているわけだが、為政者の孤独はマスコミの無性格的集合性によっても支えられていて、その内実は極めて常に脆弱である。対しマスコミ、マスメディアの無性格性は強靭である。
 一方個人としての性格は、我々一人一人が全く無責任で責任転嫁であり、メッセージ的交信行為をダイレクトに為政者へは向けられず、一方では為政者による政府、他方では野党とかマスコミ、マスメディアに担わせている。その無責任性と無性格を助長しているものこそ実は現代のウェブサイト、サイバースペース上でのコミュニケーションだと言える。あらゆる青少年のいじめを可能にして、相手を自殺へと追い込めるこのネットコミュニケーションは実はその基本が文字情報オンリーであることによって完遂されている。つまりメッセージの送り手本人の顔の見えなさ、その顔を確認することの無意味さに於いて既に我々による現代生活が送られている以上、文字オンリーの交信手段は如何にFacebookによって写真画像が多種交信されても尚Line上で即時的な文字のやり取りが頻繁となれば、瞬間的幻想へと後退する。
 個人内部の野心も虚栄心も全て一瞬で文字化されることによってメッセンジャー自身の持って生まれた固有のアウラが雲散霧消される。この匿名性は既に人類では銃器の発明によって殺傷手段がその暗殺者とか殺人実行者の腕力によってではなく、あくまで機械の有効な使用の仕方によって実現するという歴史的快挙(?)によって可能となっていた。しかし銃器の発明とは、それ自体現代社会では最期手段へと後退し、既にロボット兵器によって国家権力レヴェルでの実力行使を可能としているし、個人のメッセージ投函的欲求は完全にあらゆるディヴァイスの利用によって充足されていて、それは文字自体のアウラの雲散霧消によって可能となっている。
 お前が嫌いだ、という一言は特定の個人によって発せられた場合、それを言われた本人は確かにいい気持ちはしないけれど、そう言った相手の人格とか日頃の行動によってその言葉の意味を理解しようとする。しかしそれが液晶画面の内部に点滅する文字情報によって示された場合、その相手が全くリア充的に顔の見えない場合は、匿名性を帯びて相手の性格や人格は全く理解出来ない。そしてその無性格性にも関わらず相手の悪意だけは充分伝わる。つまりそれは無言電話とか2ちゃんねるでの悪意ある書き込みに性格的には相同の性格を帯びているのだ。これはマスコミ報道に振り回される現代人の無性格性、つまり群集心理、集合性の無性格行動選択と同様の性格を付与されているのだ。
 しかもLineではそのタイムラインのリアルタイム性が相手の悪意の無責任性、迎合的無性格性をより助長し、そうメッセージを伝えられた者をより孤独へと突き落とす。
 つまり文字情報オンリーの無記名性とは、それ自体それに参画するゲームプレイヤーもその文字メッセージの裏の悪意に対して贖罪心理を抱かせ難く、それでいてそれを突きつけられた者へは固有の意気消沈を助長する。それは偏に文字の持つ観念的な意味読み取り誘引装置性に拠る。要するに文字とはそれ自体その文字を入力する行為者の虚栄心を生な形で伝えることを避けさせ、言葉と感情とが結びついている実在的発話と異なり、そういったリアルタイムの表情読み取りを不可能とさせ、メッセンジャーの感情を無化させる。思想家や批評家の思想表明の言葉の散文から読み取れる主張や感情さえ、短文メッセージにはない。それでいて短歌や俳句の作者の短文へ込めた感情も混入されていない。悪意ある短文による書き込みは、文学でも批評でも時代的メッセージコピーでもない。要するにそれらは明らかに無性格、無責任の垂れ流し的な液晶画面内部の落書きである。
 この液晶画面内部の落書きの受信者へ齎す精神的な鬱とは、現代を生き抜くことが、固有の孤独感、つまりそれくらいのことは誰も深刻になんか受け止めないという現代のネットユーザー全般による総意、暗黙のノンシャランス的同意の前では個人内部の処理を求められている。従ってそういった文字情報の悪意ある書き込みで精神的に消耗することは、そのメッセージ受信者の日頃の精神的ストレスの解消の仕方が悪いだけだというリア充的な健康維持の怠慢と受け止められてしまうし、そうならざるを得ないとも言える。そこで猛烈な勢いで似非的なネット上の勧誘を受ける全てのネット受信者達は、そもそもリア充的な意味での本物の(?)出会いをサイバースペースでは求めるべきではない、という暗黙の現代人の同意の中で、全ての無責任な悪意とは受け流すしかないと判断する。
 しかし精神的に病苦にある人間はそう容易に全てを受け流すことは出来ない。精神的病苦とは、即ちリア充のストレス解消によって無責任で無性格な落書きを一切受け流すということを困難にすることそのものだからだ。とりわけ青少年期、思春期ではそれは困難である。大人の様な健全なストレス解消手段をそもそも境界人とは持ち難いからだ。
 確かに現代社会は北朝鮮の様な特殊な国でない限り、価値とは多元的である。しかし価値自体があまりにも近代迄と異なって多種多様化してしまっている以上、選択するということがかなり受け流し能力をリテラシー的な意味でもツールやディヴァイス利用の俊敏さに於いても向上させなければ履行不能である。つまり現代人とは、要するに自分自身とは無関係で居てもいい全てを適当にミーハー的に短小軽薄に受け流す為の固有のスキル、つまり考え込み過ぎない、と言うことは便利さそれ自体に懐疑的な問いを持ち込まないという無知性性を求められているのである。
 つまり非哲学的存在者であることを積極的に求められている現代人は無性格な悪意ある書き込みの衝撃を大都会の駅のトイレの落書きの様に現代固有の都市現象同様受け流し、全く意に介さないという文字情報オンリーの弊害を巧みに自己責任に拠って回避することに於いてのみ知性と哲学を要求されるという状況を生きている、と言えるのである。生物の世界では弱者程いじめられ虐殺される。ネット空間上では相手へ弱みを見せないはったりだけが精神的平衡維持に求められていると言えよう。
 付記 今年日本で起きた広島市の少女暴行リンチ殺人死体遺棄事件、そして中学生監禁性的虐待事件の背後には全てLine上のネットコミュニケーション、サイバースペースカンヴァセーションがある。しかしこの種のディヴァイス依存度の強い青少年の生活を改善する為にも積極的に幼少時から雑多なことへ慣れる、純粋培養ではない鈍感力を価値とする人間教育が求められている(現代の大半の大人は既に雑多な不純な真理に就いての教育を受けていない)と言える。又現代人の悪意ある書き込みに逃避する行為の常習化とは、言ってみれば深層では偶像へ逃避することと同じだ、と言える。その逃避それ自体を一々悪として駆逐することを考えるより、受け流しに慣れることへ心身を鍛えるという鈍感力がヒューマニティを損なう形ではなく持てるか否かが現代人に突き付けられた固有の哲学と思想を見出すのではないだろうか?