セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, November 26, 2009

第十八章 人間は他者の不幸に感動し、幸福に嫉妬する動物である

 この文章を書いている最中にある有名女性芸能人が覚醒剤を使用していた嫌疑で逮捕されたニュースが各報道メディアでトップニュースとして大きく取り上げられ、高視聴率を獲得した。さてこの騒動で私が実感したこととは、端的にメディアでスターとなっている人は皆作られたイメージに酔いしれているのであり、本人もその要望に只応えているだけであるということである。そして本人がそのギャップに益々戸惑っていたのなら、却って逮捕されてしまったことでほっとしているのではないか、ということである(そもそも三十代後半で既婚者、子持ちなのに清楚なイメージで大衆が追っかけていたということ自体に既に無理があったのである)。
 しかも興味深いことには、その芸能人が清純なイメージで若い頃から売っていたということが逆にそれを裏切ったということでメディア全体がまるで実際に高額であるだろう覚醒剤などをどういうルートかは定かではないものの、闇のルートで入手していた事実が、清純な若い頃のイメージとかけ離れていること自体を視聴者に対して興味を掻き立てていたことである。まさに高視聴率を獲得し得たのだから、容疑者となったその芸能人にメディアは感謝すべきであるが、その芸能人のそれまでに出したCD他関連商品全てを回収したというプロダクションの措置自体もかなり掌返し的行為であるが、それら一連のメディアの扱いや、視聴者の関心の実体とは端的に成功した人が自堕落な生活を確保することが可能なくらいの経済力を持っていること自体への嫉妬感情をメディアが煽り、視聴者はそれに乗せられているということであった。つまりメディアは当該の容疑者がかつては清純なイメージであればあるほどそのギャップにおいて視聴率を稼げるし、しかもマスメディアの公正さ、つまり成功者であれ過ちを犯したなら様々な措置を講じられ糾弾され制裁を受けるということを見せしめ的に示すことで正義を保つことが出来るということである。
 人間は要するに成功している当該の対象に対してその成功に酔っている姿に対して醜悪さを感じるが、その実体とは嫉妬でしかない。そしてそこまで成功していないで健気に頑張っている姿に感動するということは、端的に他人の不幸には寛容になれる、そして応援したり、激励したり出来るということ自体が、自分より上位である者に対して嫉妬するのとは裏腹に下位にあることを目撃して安堵するくらいには残酷である、ということを示している。
 感動の本質が下位にある者に対する憐憫であることは間違いないのだから、逆にそれまで成功してきた者が転落することを「ざまあ見ろ」という風に溜飲を下げるためにメディア報道を見ているのである。それが厭であるならそういう報道に辟易している筈である(事実そういう人も大勢いたことであろう)。
 つまり我々が無意識にメディア報道を利用している時には、自分とはまるで関係のないニュースを見て、気分転換していて、自分の実生活上での苦悩を一瞬忘れている。しかもその安心出来るニュースにおいてより溜飲を下げられるものとは、誰かが偉業を成し遂げたことよりも、人気のある偶像が落ちていく姿を野次馬根性で見ることである。だからそれまで羨まれる存在であればあるほどその対象が転落していく姿を「してやったり」と感じながら見る楽しみを得ているのである。マスメディアのトップニュースとそれほどではないニュースとの差とはそのような新聞であれば購読者層の、あるいはテレビなら視聴者のえげつない好奇心を引くものであるか否かなのである。
 そしてその事実は、受け手の心理には明らかに誰しもが潜在的には他人の不幸を喜び、他人の幸福を嫉妬するという性向があるということを送り手が意識的に利用しているということを意味する。人間は犬や猫をペットとして可愛がるのは、それらの存在を愛おしく感じるのは明らかに彼らが知性において人間よりも劣っているからである。しかし成功者である人間は自分たちよりもいい生活をしているから嫉妬の対象以外のものではない。そこでそれらの存在が転落していく姿を報道して伝えることによって、一般市民に欲求不満を解消させてやろうという目論みがメディアには確かにある。
 つまり私たちが日頃色々な出来事を耳にしたり、悲劇を観劇したりして感動するのは、本質的にはこの他人の不幸を見て喜ぶ心理と寸分も違わない。だから今度は感動を与えてくれた功労者は彼らにとって成功者(自分たちとは違う)であるが故にその転落に、何だ、あんな偉そうにしていたって、自分たちとそう変わりないただの人間じゃないか、と安心することが出来るのだ。だから逆にマスメディアが報じる様々な視聴率を取りそうな番組や特集を挙って見ようとする行為が内実的にはその種の屈折した心理が介在していることを自覚的な人間はなるべくマスメディアに得をさせることを慎みたいという気持ちになることだろう。しかしついそういった報道を見て楽しんでしまうのである。これがメディアの伝える我々の好奇心を擽る戦略に進んで騙されることを選択する私たちのえげつない本音、成功者の転落を見て楽しむという惨めであるが唯一の確固たる欲求不満解消法なのである。それは安倍首相が突然辞任に追い込まれた時にも多くの視聴者が感じ取った心理である。首相さえ只の普通の人間である、ということをメディアの報道が立証して見せてくれた、というわけである。それは政権初期には期待をさせただけにそのギャップを見て好奇心を充足しているのである。期待をされた人の転落を見て他人の不幸に喜んでいるのである。それは安倍首相の前の小泉首相の時には氏がそれほどトントン拍子で成功した人ではないことを多くが知っていたから味わえないことだったのだ。
 このことを価値的に考えてみると、メディアを好奇の目で接するという行為自体が一時自己に纏わる現実的な苦悩を忘れることが出来るという存在理由しか見出せない。それは実質的価値ではなくて、副次的価値でしかない。つまりメディアの報道は政治や経済の動向を伝えるニュースであれ犯罪を報じるニュースであれ、世相とか社会の変化や動き自体を確認することを通して自分もその同じ社会の中で生活を保守しているのだ、という実感を得ることなのである。そして他人の成功を見て羨ましいと感じること自体に、既にその者が慢心していれば嫉妬して、いつか転落してしまえばいいのに、とそう感じることの萌芽があるのだ。そしてメディア自体はそれらの成功者の姿を報じると同時に、どんなに成功している存在であれ、転落したのなら差別することなくそのことを報じるという公正さをアリバイにしているのだ。それを私たちは知っている。つまり全てのからくりを知っていてそれに同意しているのである。そしてそうしながらマスメディアがそれを視聴する側のプライヴァシーを守ってくれるとそう信じているのである。しかしいつ何時自分が問題の渦中に巻き込まれ、逆に糾弾される立場に立たされるかも知れないということをどこかで知りつつも、それは滅多にあり得ることではないと高を括っているのである。
 つまり私たちは倫理的に他者の幸福や成功を祝う気持ちを持っているということを盾に逆に、いざとなったらそれまでどんなに贔屓にしてきた対象に対しても幻滅する権利を持っていることを実感しているのである。つまり税金を払っているのだから、当然その市民としての権利を享受し得るのだ、というわけである。これは選挙権にも顕著に示されている。あれだけ支持してきてやったのに裏切られたということになると、違う政党に投票するのだ。しかしいつまで経ってもそれでは同じことの繰り返しであることを薄々誰しも感じ取っている。しかしそうは言っても政治はその時その時のニーズと問題点に対する処方という形で進行しているものなので、その都度態度を我々は容易に変えられ得る。つまりそのイデオロギー的な意味で態度を固定化する必要のなさに自由を感じ取っているのだ。それはお金を払って観劇している者のような心理なのである。だから政治家に対しても、周囲からあまり相手にされていなかったり、強力な敵に相対したりしているという事実に対してある政治家を贔屓にして、支持するのだ。これも他人の不幸に感動することの本質に適っている。しかし一旦強大な権力を手中に収めると途端に今度は批判の眼差しを注ぐようになる。要するに他人の幸福に嫉妬しているのである。批判とは端的に嫉妬が一点も介在していないとは絶対に言い切れないのである。勿論批判自体にある誰に対しても分け隔てなく賞賛すべき時はして、そうではない時には批判するということが一方で言い得よう。しかし相手があまりにも相手にされていないような場合批判するだけの価値がある、と我々は通常思うだろうか?つまり多くの支持を得ていたり、成功の美酒に酔っていたりする状態の人間に対して批判的眼差しを注ぐのである。従って批判する対象に対する感情という意味では明らかに批判の仕方自体が公正であることとは裏腹に嫉妬が介在している。しかもそういった皆から羨まれている存在をこき下ろす行為自体を賞賛する人たちもいるに違いないという目算も手伝っているのである。つまり偶像を転落させることで溜飲を下げる嫉妬者同士の共感と運命共同体意識を獲得しようと試みているのである。
 しかし重要な真理はもう一つある。どんなにセンセーショナルな報道内容であっても繰り返し報道されることで次第に全ての視聴者から飽きられるということをメディアは知っている。だからそうならない内に先手を打ってもっと衝撃的なニュースを、そうでなければほのぼのしたニュース(あまりセンセーショナルな内容が続くと逆に新鮮に感じるから)を用意するのである。だからこそトップニュースであったものは徐々に第四、第五のニュースへと降格していき、常にその日その時に多くの関心を集めるニュースに座を明け渡させるのである。それはある偶像に対する批判にしても同じである。一度は徹底的にこき下ろした後は逆に「しかし批判はしたものの」という口調で始まるようにさせて、今度は批判したものに対する存在理由を評価しようと画策するのである。そうしなければたちまち批判者の方の真意、つまり嫉妬感情が読まれてしまうからである。そこら辺の駆け引きの巧妙さこそが全てのケースで求められるというわけだ。
 しかし重要なこととはニュースの価値のタイムリーさであれ、そこには他人の不幸を喜ぶ、即ち自分の幸福を感じて安堵するという心理を我々が最大限に利用しているものこそメディアの報道内容の取捨選択であるということなのである。ここにも我々が価値として認めるものには本質的に悪が控えていることが了解されよう。

Tuesday, November 17, 2009

第十七章 倫理的であることは人間的であることに対する考えである

 第十二章における「倫理的なこととは倫理的でないものに対する規制である」としたことについて考えると、倫理的でないものと我々が考えることとは、曰く人間的ではないことと意味づけているように思われる。人間的ではないこととは、理性的であり、道徳的であり、責任論的であるというように、要するに人間社会の生きるということはどういう意味があるのかということに対する価値から外れていくことを意味するように思われる。例えばあと何年しか、何ヶ月しか生きられないということが分かっている人にとって残された時間をどう過ごすかということは、常に生とはいつ死が到来してもおかしくはないということに対する今更ながらの覚醒によって自分独自の回答が出されるだろう。だから今人間的ではないということを敢えて規定すれば、その自分独自である回答を考えずに生きていくこと、あるいはそういう回答を個人が得ようとすること自体を容認しないような理不尽さを言うと考えてもいいだろう。価値から外れるということは、何らかの回答を自分なりに用意すること、そういう心的な作業を怠ることであり、他者のそれを侵害することである。そしてそれは直観的に私たちが理解してきていることでもある。
 だからもうあまり長く生きられない人にとって生きること自体が分析的価値であり、その分析的価値を全うするために、ではどういう風に残された時間を過ごすかということにおいて、何か特定の遣り残したことをしようと考える時、そのためにどう計画を立てるかということが綜合的価値であると言えるだろう。

 学界という場所はかなり徒弟制度的不文律しか通用しない世界である。例えば哲学などは一定の人生経験を要する学問のように一般には思われている。しかし実際には哲学固有の論理に対してマナーを習得するようなタイプの学問なので、よく言われる三十四、五歳くらいまでに准教授のポストに尽かなければ出世は覚束ないような閉鎖的なサークルなのである。つまり職業ということから言えば、日本以外の国の事情はよく知らないが、やはり若い世代の頃からずっと続けてきていなければその世界で大成することは極めて困難であり、転職とか再出発があったり、別の分野との交流によって相互に批判や別分野の専門技術を応用したりする可能性がかなり低い。この現実は、本来学問や専門分野とは広く一般に門戸が開かれているべきである、というのはあくまで建前であり、内実的にはその狭い世界で生活を成り立たせている一部の人たちの利権確保だけが目的である、という価値における狭い綜合的目的だけで成り立っていると言うことが出来る。
 あるいは結婚自体を職業的地位とか、社会的地位を維持していくためのものであるという価値判断から考えると、例えば結婚前に難病を抱えていたことを隠蔽して結婚した場合、恋愛とは違って離婚する時に、そのことが難病の事実を隠されていた側は考慮されるかも知れない。その難病を隠されていた側が両親から継いだ経営をしていかなければならないというような場合、難病を隠蔽してきたことがたちまち愛を獲得するためだけではなく、夫や妻の経済力を期待するという目論みという形で理解される可能性があるからだ。
 本来愛ということを動機的なことからだけ言えば、相手の難病という事実は労わり合うべきことなのかも知れないが、結婚生活という現実の前ではその克服すべき難題に対してそれを対処していく責任が求められるので、巧妙にそのような難題を隠蔽してきたという事実(難病以外にも借金というようなことも考えられる)は結婚生活の維持を困難にするために仮に離婚へと縺れ込んだ場合、かなり隠蔽された側の正当性に対する証明という意味では考慮されて然るべきである(特に難病を隠されていた側が自分がその難病で子供が得られないことを承知でいる配偶者に、子供を後継ぎとして必要であるから結婚したいということを事前に報告していたのなら完全に考慮されるだろう)。
 つまり人間の愛情とか倫理といったものさえ、現実の社会生活では法規的、規約的な契約の公平性という考えの下では総合的価値となって判定される。つまり確かに難病を抱えている人とか、両親から受け継いだ莫大な借金という事実は人間学的には相手に対して配慮したり、援助すべき性格かも知れないが、現実問題他人の受難に対して援助したり、介護したり、結婚して配偶者として難題を分かち合うということ自体はあくまで理想であり、要するにその実現ということを前提に考えると、それを可能に出来る成員とはかなり経済力や社会的地位が求められるということがあり得る。だから恋愛してその結果結婚するという場合と、そうではなくあくまで何か特定の現実、例えば両親から受け継いだ事業をしていかなければならないというような目的のためにしなければならない結婚の場合とでは明らかに相手に対してしておかなければならないことの内容は変わってくる。これは恋愛と結婚とがどちらに価値があることであるかということの人間的な判断にまで縺れ込むこともあるが、常識的にはそういったことは机上の空論として見捨てられ、本来人間的な判断とか、倫理的判断とは現実の対処能力、個人に付帯する現実的な生活能力を前提とするのである。だから責任倫理的には慈愛よりも先にまず実現能力が求められるのだ。
 つまり人間的であることとは、ただ単に相手に対する同情とか憐憫とかにおいて持たれる感情を寧ろある部分では積極的の排除していく責任倫理において実現されることなのである。だからこの責任倫理を慈愛といかに結びつけることが出来るかという部分に我々にとって最大の苦悩がある。またそういう風に考えざるを得ない。何故なら責任倫理は時として相手に対して冷酷非情であることを積極的に求められるからである。従って慈愛とは全てのこちら側の損失を覚悟で相手に尽くすことであるので、責任倫理とは対立していくこともある。ある責任ある地位にある人間が自分の社会的地位をかなぐり捨てて遠地へと赴いたり、家庭を放り出したりすることは、その遠地やそこに住む人々との出会いにおいては慈愛に満ち溢れていても、捨てた社会的地位によって損失を蒙る人たちや家庭の人たちにとってはただの裏切りでしかないからである。
 つまり全てに対して私たちは責任を取ることも、全ての人に対して慈愛をかけることも出来はしないのである。従って「倫理とは人間的であることに対する考えである」と言う場合、それはあくまでケース毎に異なる結論を導き出すことを求めるその苦悩を背負い込むことを意味する。倫理とは苦悩に他ならない。
 それは何を取り、何を捨てるかということに纏わる選択の苦悩であるし、ある時には苦悩せずに瞬間的に迷わず選択してしまうことに纏わる冷酷非情に対する呵責でもある。だから人間的な決断とか人間的な選択と言う時、それは必ずしも人情味溢れるということを意味しない。それどころか人情味溢れる選択こそ最大の誤りであることの方が多いのだ。
 つまり「私は慈愛を持ちたい。しかし全ての人に慈愛をかけることなど出来ない。従って私はその慈愛を殆どの人に対してかけられない無能力を宣言することこそ責任であると心得ている」ということ自体が、人間的である場合そこには人情味を一切排除するという決意であることになるからである。従ってこの場合自分の無能力を知りながら相手に慈愛をかける人情味は無責任以外のものではないことになる。それは人間的でも倫理的でもないのだ。
 
 ここで個人の幸福感情ということから言うと、価値自体が悪を含有しており、感動も他者に対する徹底した不干渉と自分とかかわりさせないことから、相手に対して憐憫を感じることを言うのだとしたら、その感動させる相手の苦悩をそれまではあると知っていながら実際自分の能力の限界から助けることが出来ないでいる自分の不甲斐なさを承知で得る感情であるから必然的に感動には感動する時点で身勝手がある。感動をしたいと思っているのならその時点でエゴイスティックなのである(本質的に全ての人間が幸福であることを望むのなら悲劇を見て感動するということを諦めなければならない)。そういう意味では個人の幸福とはその幸福を得られないでいる段階で必死にそれを掴もうとしている場合は周囲から応援され、激励されるし、それは美として判断されるが、一旦それを獲得すると成功と同様、周囲から嫉妬の対象となってしまい、丁度人間がものを食べる時の仕草はどんな美女であれ、幻滅させてしまうようなところがあるような意味で、幸福の享受は周囲から見て美的に判断すれば醜以外のものではない。つまり人間は不満を感じるのは未充足であることを覚知しているからだが、一旦その欲求が充足されてしまえば、享受することで得る倦怠が待ち構えている。では一体そのようなことを知っているから逆にそういう充足を求めることを慎む、節制するということが美徳となっていく。それが一つの価値となってしまう。しかしその価値を認め、節制し、欲求を慎むこと自体が周囲から賞賛されることもあると、今度はそのように周囲に節制的美徳実践をアピールすることで得るメリットを求めてそういう態度でいることは醜以外の何物でもない心性となる。カントの言う根本悪となってしまう。つまりこの態度は十五章で述べた価値の孤絶性から言えば極めて矛盾してしまう。つまり他者に価値として認められることを前提にしてしまうとそれは既に価値ではないということだ。特に日本人に見られる周囲に不平を漏らさないことによって欲求充足にあまりにも貪婪ではないということを暗にアピールしていることにもなるし、そうすることで利発であると認識されることを権利上暗に容認して貰うということ、つまり十三章における倫理的価値自体を悪用することでもあるからだ。日本ではこれさえも悪であるとは通常認識され得ない。これはあくまでキリスト教文化圏での話である。しかし私たちにもこの考えは十分理解することが出来る。すると成功者につきものの周囲からの嫉妬に対して、「それは自分で努力して掴み取るしかない」という冷たい突き放しにある特権的な優越的快楽が成功には付き纏うから、十四章における成功者の復讐を遂げたことで得る「あなたは苦労したのだから、それくらい享受してもいいのですよ」という周囲からの認可という既得権を根本悪として認識することもたやすい。だから十六章での一般的価値を志向するものには、最初からこの既得権を容認し合う紳士協定が介在している。しかしそうではなく個人的価値を追求することは、ある意味では個人の幸福享受以外に何か価値があるか、とか、それが周囲から見れば幸福を、快を貪ることであるから醜と映ってもそれは自分自身が満足しているのだから一向に構わない(気になんてしない)という宣言性も要素として秘めている。
 つまり若い頃私が苦しめられた実際はかなり俗物根性旺盛で、処女であることだけを武器にして教条的に異性を訓育しようとする女性のような態度もまた、ある意味では個人的価値を追求することに極めて素直な生き方である、と言ってよいだろう。つまりこういうタイプの人間の真意は幸福感情や快を貪ることを真意レヴェルでは完全に理想としているのである。「女は経済力」と言って好きな異性に肉体関係を絶対に結ばせないままにしておき、それでいてその異性が自分以外の異性に関心を持つと急に未練を持つのである。常に禁欲を強いる相手の異性の存在を宙ぶらりんにしておくことによって、いいように利用されることを未然に防止するのだ。つまり担保としてその異性がいい働きといい稼ぎをしてきた時に少しだけ肉体を提供するという娼婦性こそが、男女同権になったはいいが、その娼婦性を兼ね備えている女性が多く昔ならそういう職業に就くところを、一般職業人に中に紛れ込んでいると思わずにはおかないような態度を一般女性に取らせてしまうのだ。全ての売春を廃止すれば必然的に自己防衛を女性に抱かせることになるのだ。
 だから逆にそこには精神的な意味では全く節制も禁欲的美徳もない。美徳がないから正直ではある。つまり相手が、簡単に自分が肉体を提供してしまうことを知っていいように利用されることを承知で悪辣な男性に奉仕してしまうようなタイプの男運の悪い女性であることを逆アピールしてしまうことを未然に阻止するタイプなら、この損失回避という意味では正直であるが、逆に相手がそういう悪辣な男性である可能性を薄々感じつつもその男性に惹かれていく感情に正直であることもまた別の意味で正直であると言える。つまり一切の保険と担保を拒否する選択もまたあり得るからだ。尤も女性の場合対男性ということになると、どちらが節制的であるかは俄かには判断が尽かない。精神的にはガードを緩くして自分の肉体を奉仕してしまうタイプの後者の方がずっと節制的であるが、肉体的にはそうではないし、逆に前者の(私が苦しめられたタイプの)女性の方がより精神的には正直であるが、肉体的快楽は将来に持ち越された快楽や幸福のためにとっておくという意味では節制的である。
 尤も愛に関してもそれは幻想であるから最初からあまり貪婪に求めないという決意もまたあり得る。これが女性なら相手に簡単に肉体を許させないということも、容易に関係も結ばないということでもない、一切異性を求めないという選択肢もあり得るからだ。

 だから完全に節制し、既知の真理の実践者として、あくまで欲求を大きく抱くからこそ、それが未実現であることから失望感を得ると考え、予め少なく欲求することを心がけていることが倫理的に正しいとしても、それは他者には強要しないし、自己信条を他者にひけらかすことがない限りで確かに正義論的には倫理に適っているが、ではそれだけで生活を成立させていることは、ある意味では前記の女性のような正直さは一切ないのであるから、ある意味ではかなり冷徹であり他者に対して一切の真意を隠蔽しているから、確かに前記の責任倫理レヴェルでは正しいにせよ、それは心情倫理レヴェルでは冷淡であり悪である。(賢者固有の悪)従って責任倫理的に正しいことは心情倫理的には冷淡である悪を内包し、そうではなく逆に心情倫理的に正しいことは責任倫理的には無責任な悪であるが、他者に対する接し方に関しては友愛的であり人情味もありそういう対他的感情という観点から言えば正直であるから人間的である、というここでもまた二つに乖離した価値の葛藤が持ち出される。だから完全なる倫理的正しさとか善などというものは所詮幻想以外の何物でもないということになる。完全なる悪もだから当然存在し得ない。価値は全て他方で悪があり、そしてこちら側から完全なる悪であると思えるものにも必ず善や倫理的正しさがあることになる。倫理的であることは完全ではないことの別名であり、人間的であることは善悪両面を引き受けること以外のものではない、ということになるのである。

Saturday, November 14, 2009

第十六章 価値はそもそも一般的なものとして志向するものとそうではないものとの間に最初から差異がある

 何か必死に仕事をしている人の間は何らかの想定され得る価値を支柱にして行為に勤しんでいるわけだが、全ての仕事に、私には一般的に認められ得る価値を支柱にしてする仕事と、そうではなくほんの一部ではあるが、そして自分の仕事を理解してくれる他者が極めて少ないことを承知で敢えてその価値を認めてくれる人が少ないということを承知でする仕事の二通りがあるように思えるのである。そのいずれが後世に長く語り継がれるかということになると、それは一概にどちらのタイプであるかとは言い切れないだろう。
 しかしその仕事をしている人自身はどこかで恐らくそのどちらのタイプの属しているかということだけに関しては自覚的であるように私には思えるのである。
 例えば私の信条とはたった一人でも私がしていることに対する理解があるのなら、生涯私はその仕事を辞めないという意図があるのである。
 私は若い頃私のことを誰よりも理解している、とそう私に常に伝えようとした女性と知り合っていた。しかしにもかかわらず、私は少しでも肉体的に彼女に関心がある素振りを示すと、彼女は私に経済力だけが女性に対して男性が接する権利を持つ指標であるようなことを強調し頑なに接触を拒絶した。そんな彼女の私に対する態度から私は他の女性に積極的に接しようとすると、彼女自身は一度も私と何の関係もないのに、必死に私が別の女性と接しようとすることを諫めようとしたものだった。私はその女性の、ある女性特有のエゴと、自分自身の肉体的欲望を持て余しているのにもかかわらず、それを躍起になって否定しようとする醜さが忘れられない(その女性は大学院まで進学した人だった)。たった一人の凡庸なる悪女に振り回された青春こそ私が過ごした若かりし頃である、と言ってよい(もう二度と会わないと決心するまでに費やした年数は実に八年にも及ぶ)。
 そしてその女性から逃れるように一時期、別の女性と友人となったがその女性は私よりも一回り以上年長だった(大学講師だった)。私の方の欲求を一切理解してくれないその女性は、私がそのことで覚めていった頃、今度は向こうから何故私を求めないのか、とそう尋ねたのだ。女性とは恋人にもなり難いが、友人同士にもなれない、私はその時ほどそう思ったことはない。
 私は面食らってしまった。男性の側からの女性への欲求と女性の側からの男性への欲求が如何に異質のものであるかをはっきりと悟った。私はそれから多く商売で体を売る女性たちと泡沫の快楽を求めた。そういう時期もかなり長く続いた後に、再び本気で恋愛したいと思った。そして今振り返ってみると、先に述べた醜い女性たちとの遣り取りよりは刹那的であり泡沫の快楽の時間の方が遥かに貴重だった、と言ってよい。そしてその後に出会う女性との出来事は確かに現在にまで精神的に継続するものを植えつけた。しかしそのことは未だ語らないでおこう。
 渡辺淳一氏の好む清楚という言葉が私は大嫌いである。広辞苑によると、「きよらかでさっぱりしたさま。飾り気のないさま」とあるが、私から言わせれば女性とは貪欲な性欲に取り付かれた女性と(尤もそれはそれで結構可愛い)そうでなければ、処女性だけを売り物にする俗物根性でありながら自分だけが清らかであると信じて疑わない醜い悪女の二種類しかいない。その中のいずれかにたまたま結婚していい妻として収まっているタイプの女性もカテゴライズされるだけのことである。特に一生男性とかかわりを持たなかったと言われるある女性政治家によって売春禁止法が施行されてから、日本男性の運命は変わった。そして続いて男女雇用機会均等法である。
 尤もそれらが悪法であったとまでは私も言わない。しかし根本的に男性が男尊女卑である精神的傾向はそうたやすく根絶やされるものではないとだけは言っておきたい。これは生物学的に仕方のないことなのである。

 話を最初の醜い女性へと戻そう。
 つまり端的に私自身、あるいはその信念にその女性は関心があったのである。しかし終ぞ彼女のようなタイプの女性は、私にとっての信念である男性にとって生涯命を賭ける仕事の意味ということを理解することは出来ないということを意味した。しかし人間とは自分にない要素自体に、積極的に自分自身を同化させたいと願う変身願望もあるのである。いや自分とは全く縁のない相手を手練手管で所有したいという悪辣な欲望さえ人間にはあるのである。しかし女性の方がより男性よりもその欲望を聖人ぶった装いの下で展開させることが巧いということは言えると思う。
 私はだから相手が娼婦であるとか、異性経験が豊富であるとか言うことが倫理的に正しくないと思っていたその女性の肉体関係を持たない前に既に母親化した態度に憤るほど醜さを感じ取ったのである。母親など腐れ縁の実の母親一人でいい。男女の仲とは端的に倫理など関係がないのである。端的に極めて悪女である処女も大勢いるのである。だから私は渡辺淳一氏が男性は清楚な女性を先天的に欲情する、というようなことを述べる(「欲情の作法」幻冬社刊)と、何故か反発を覚えるのである。清楚であることに如何程の価値があると言うのか?
 しかしそれすら私が私固有の経験から得た真理であるに過ぎない。全く逆の経験をなさっている方も大勢おられるであろう。だからその常に相反する真理がある、という一点に関心があって、記述する もの書き がいたとしたら、それは私とは正反対のタイプである、と言える。少なくともそういった価値観とか、経験から得た真理ということにおいて、私は自分が経験していないことに対しても理解を示すような書き方が一切出来ないし、そのことに対して正直でいたいのである。
 だからこそ私は私が書くものの性格は、ある意味ではかなり少数の人からしか共感も、理解も得られないのではないか、ということに対して常に自覚的なのである。そういう意味では私はどちらかと言うと小浜逸郎氏よりは中島義道氏にスタンスは近いと言えるかも知れない。しかしスタンスが近いからと言って、私は自分の良心に対する非難とか、家族に対する中傷などを中島氏のようには一切したくはない。勿論父はとっくに亡くなっているし、母は未だ健在であるが、そのことを取り立てて書きたい(どんな家族にも葛藤くらいは存在する)とも思わない。幾つかの蟠りがあったとしても、それは死ぬまで心の奥底に秘めたままにしておきたい。それが書くことにおける私の価値観と言えば価値観とも言える。 
 十二章から本章までかなり主観的な流れで書いてきたが次章ではそれらのことを今度は少し第一章で触れた分析、綜合的観点から、意図的に体系的に捉えて考えてみたい。

Wednesday, November 11, 2009

第十五章 孤独に強くなっていくことの価値

 私たちにとって成功者とは、端的に自らの復讐に共感者をつき合わせているということなのである。そしてそのような成功者に対していつまでも偶像崇拝している必要などない。成功という価値自体が極めて脆弱な幻想でしかないからである。成功とはそれ自体が価値であるとした瞬間にただの権威主義に脱落する運命にある。だから逆にあまり他人を信用し過ぎないということ、そして他人を信用しないで孤独に生きていくこと自体に寂寥感を一切抱かないで生活していくということを心がけることを一つの価値としていくことには意味があるように思われる。つまり私たちにとって一番問題なのは、端的に他者からあまりよく思われないこと自体に恐怖することなのである。勿論必要以上に悪い印象を与えたり、敵対していったりする必要など更々ない。しかし必要以上に他者から好印象を得ようという気持ちになることはないどころか、そのような心理は自己を常に追い詰めること以外には何も得させない。価値とは他者との間に相互にあるというのは常に社会の側から個に対するお題目でしかない。端的に価値とは自分にとってそう思えるものだけである。その中には既に自己とはどういうことかと述べた箇所で言ったが、他者からすれば自分の内部の切実なことでさえ一般的な事例でしかないのである。と言うことは既にその段階で価値とは孤独の中からしか生まれないし、他者からの期待とか、共有とかを求める時点で迷妄であることを知るべきであろう。だから逆に自分の中の切実な価値を他者一般に、あるいは特定の親しい他者に対してでもいいが、そもそも理解して貰おうという下心自体を全て除去すべきなのである。と言うことは極論すれば全ての個人にとって価値あることとは、誰とも共有し合えないという事実だけが一般的価値であるとも言えるだろう。
 つまり価値とは他人、他者に容認して貰うような筋合いのものではない、ということなのである。その共有不可能性の中にこそ価値が価値たる所以がある。それは私にとっては切実だし、唯一のものであるが、他人にとっては恐らくどうでもいいものである可能性の方がずっと大きいということに対する覚醒だけが価値を意味あるものにする、ということである。これは真理である。だからある価値が真にある個人にとって価値があるということは翻って考えてみれば、誰にも理解出来ないことなのに自分の内部ではずっと維持し続ける自信がある、ということに尽きる。
 何故そうなるのか?それは端的に価値自体とは、どの成員にとっても他者の価値と比較しようがないからである。従って価値とは個人的に大事にするものであって、公的なものではないということをどんな公権力でさえ知っているのである。だから逆に一般的価値とはそのように他者の価値をそう容易に踏みにじるものではないという公共精神だけである、ということになる。そこにある意味では社会全体の個に対する不干渉の徹底という態度が生み出されるのである。だから孤独に強くなっていく価値と私が本章を名づけたのは、他者には他者の価値があり、それを侵害出来ない以上、価値同士を突き合わせることが不可能なのだから、価値自体を他者に説得したり、共有を強いたりすること自体を一切放棄することから価値を考えるしかないのであるから、孤独に強くなっていく価値とはイコール価値は自分の内部に留めておくこと、それだけが自らの価値を守ることが出来るという意味なのである。

Saturday, November 7, 2009

第十四章 社会的成功という価値

 社会的成功という事実は、実は全ての成功した人間にとって没落の兆し以外のものではない。それは何故か?何故なら成功自体が極めて脆弱なモティヴェーションから成立しているからである。
 例えば出版界で流行作家的地位にある人の多くは、自身の挫折体験を告白したり、自らの最大の人生の失敗を売りものにしたりしているからである。それは端的にそう告白することを通して何ら自分のような挫折体験のない人たちに対して、そんなことだから成功しないのです、と宣言することを通した復讐を意味するからである。つまり成功とは何物かに対する復讐をやり遂げるという要素が極めて強いのである。
 それは数年前まで人気があり長く権力の座にいた宰相にも言えることである。端的に政界で彼のことを真剣に相手にする政治家など一人もいなかった。また人を愛することが出来ないと言って多く本を出版している哲学者もそうである。氏は若い頃に人生に受けた挫折感を共有し得る読者層だけを相手にして出版界の成功を勝ち得ている。あるいは変人を受け容れる素地のあるイギリスの学問的風土を称揚しつつ、それでいて変人にはある厳密なルールがあるなどと言う脳科学者もそうである。誰からも相手にされなかった自身の青春とその時に受けた差別的眼差しをした人たちに対する精神的復讐において成功を勝ち得ているのである。
 だからそのようにして勝ち得た成功とはそもそも成功しないままでいる人たちから次第に疎んじられる。そんな被害妄想にいつまでもつきあってなどいれないとそう徐々に判断されていってしまうからである。しかし予想外に成功がそのような自分が疎んじられたことに対する復讐という要素が皆無であることの方が実は少ない。だから仏教的な言説から言えば、そのように成功をしようと思い、成功出来ないままでいること自体が特定の人々が自分を疎外しているのだと考えることがあったなら、既に仮に成功をしたとしても、長くその地位を持続することが困難な脆弱な復讐的要素の濃厚な成功者でしかない、ということを意味するのである。
 だから成功とか不成功とか考えること自体を放棄すること、あるいは他者を妬むこと自体を放棄することが一番対自分ということでも、対他者ということでも問題なく生きていける精神的状態である、という仏教的考えは正しい。価値はだから宗教倫理的に言えば、獲得することに執着することによって無価値になってしまうと考えた方がよい。元々必要以上に望まなければ決して失われてしまうという気持ちになどならないからである。
 となるといっそ生きていること自体が既に無価値である、とそう考えることも一つの方便である。と言うのもこの社会には私自身気づいたこととして、必要以上に他者の中の成功欲求に敏感な者がいるものである。その種の成員は自分には一切の未来がないことを知っていて、未来に希望を抱いている成員に対してただ嫉妬をし、その希望を打ち砕くことだけが生き甲斐だからである。例えばあまり成功していない五十歳の中年が野心満々の十九歳の青年より倍以上人生を生きて来たのだから、何とか相手を説き伏せることが可能だと思ったり、凡庸に生きて来た七十五歳の老人が未だ人生に一花咲かせようと目論んでいる五十歳の中年に対して何か人生の役に立つようなことを言って、感謝されたいと望んだりしてもそんなことは一切巧くいく筈がない。何故なら人間という生き物はそういう下心を読むことだけは他のことがあまり得意ではなくても誰しも備えている能力だからである。
 人間とは自分が生まれてからのことを全て見抜くことが出来る他人など一人もいないということを誰しも知っているからである。親でさえ自分のことを百パーセント理解しているわけではない。ましたや他人なら尚更である。だから私もそういう素振りや口ぶりで接近してきた大勢の年配者をずっと警戒してきた。つまり自分の親でも自分の子供でも百パーセント理解しきっている者など一人もいない。ましてや他人なら尚更である。それを知らない愚者は一人もいない。
 つまり人の心をどうすることも出来ないということに対する諦念だけが全てをあまり失望させることなく運用させていくものであるとも言えるのだ。だから成功者が真にそういうことを心得ているのなら、いっそ自己の成功を疎ましく思う筈である。しかしそのようなタイプの殊勝な成功者というものはとんと見かけない。従って多くの成功者は運よく復讐を遂げて悦に浸っているだけのことなのである。だからこそ成功をしたという事実は既にそれだけに没落の兆し以外の何物でもないのである。

Thursday, November 5, 2009

第十三章 倫理的価値自体を悪用することの器用さを暗に認める人間の狡さ

 日本社会には日本社会の、恐らく同じようにアメリカ社会にはアメリカ社会に固有の器用に生きることを暗に認め、そういうタイプの人間を憧れ、真剣に生きる人を小馬鹿にする風潮はいつの時代にも散見されることである。小器用に振舞い、問題を起こさずしかしいざとなったら、即座に問題にかかわりたくはなく逃げて行ってしまうような小狡い人間が何と多いことか。それはこういう問題は真剣に討議すべきことであるが、それ以外のことはとるに足らず、問題にしてしまうとその処理に追われ、仕事量を増やすだけであるとする管理者側の惰性的、怠慢的エゴイズムから発生する態度であるに過ぎない。
 しかし日本人はそういうタイプの小狡い器用な人間は決して告発せず、そうではなく不器用に、苦情を訴えるタイプの人間を逆に差別するのである。
 日本人はそれが苦情を言わない美徳として罷り通っており、アメリカでは苦情を言う美徳として罷り通っているだけのことである。苦情を言ってまず損をするのは日本人であるから日本人は苦情自体を誰か別の人にさせておこう、とそう思う。アメリカ人は恐らく逆である。何もかも苦情を言うことで、苦情を言わないことで発生する損を回避して生活しているのである。しかしそのどちらとも理想的な社会の通念であるとは言い難い。要するにただ社会に存在する不文律を承知で、損をしないで、建設的であろうとしないだけである。いつの時代でも建設的であろうとすればするほど、衝突が大きいことになる。しかしそれは厭だから、日本人の場合には常に沈黙することで権利を守り、アメリカ人は常に衝突することで、こちらに非がある場合ですら声高に主張するサイドの方が得をすることを承知で、沈黙を破ることだけを不文律としているのである。
 この二つの例は社会通念全体が価値観にまで影響を与えている好例である。それは端的に価値自体を創造的に捉えようという態度ではない。価値は規制されていて、その範囲内で落ち度なく生活すればよいという判断である。私がこのようなタイプの論文を執筆した一番大きな理由はそこにある。
 つまり価値自体を与えられたもの、自ら作り出すのではなく、あくまで規制の枠組からしか考えられないままでいることに平然としていること、これこそが最も忌むべき価値観なのである。しかし実際はこのような生き方で甘んじている人はかなり多い。価値は創出するべきものである、という考えで生きているということ自体が齎す他者との間での衝突自体を回避しようという態度だけがどの国にも支配しているのではないだろうか?
 確かニーチェかエマニュエル・レヴィナスだったと記憶しているが、強い人が結局のところあまりにもその能力に対する周囲に嫉妬とか、警戒感によって弱くされてしまうという現象が津々浦々に及んでいるように私には思える。端的に責任を負おうとするタイプの態度の成員全体に対する暗黙の排斥意識が日本人も強いし、恐らく他の国民にも同様の心理が張り巡らされていることだろう。それは責任を負うことによる精神的負担を未然に防止しようとする自己防衛心によるものである。そしてそのような極度の全体的な責任転嫁が次第に弱いように振舞う狡猾な態度の、しかも用意周到に他者からの一切の要請を遮断しているのに、あまりにもその逃げ方が巧妙なので知性を醸し、一見紳士的なタイプの成員だけが巧妙に難事に関わることなく安泰でいるという事態が招聘される。
 そのように巧妙に真意を隠蔽し、何か心底に意志を秘めているかの如く振舞うその柔らかい物腰だけが倫理であるかのように倫理的価値を悪用し、不器用に衝突を繰り返すタイプの成員に対して、要領が悪いということで敬遠していく、その蓄積が真意を次第に人間から奪っていく。そして適当に倫理を悪用する成員の言葉巧みな戦術にただ乗せられていくようになるのである。
 ちょっと気弱で他者に対して何も、緊張してしまい、言えなくなる人に一言、人間社会では大物である必要などないのである。そもそもこの者が大物であると決められる者がいるとしたら、それは神だけである。だって人間は常に対立している立場がどの成員にもあり、その対立においてどちらかに味方すればその敵が悪ということになるだけだからである。従って完全に正しい者、つまりそれを采配出来る大物というのは全てまやかしなのである。それは特に私のように神を一切信じないタイプの成員にとってはそうである。しかし人間はどこかで大物を尊崇する、そういう部分がある。だからこそ大物ぶる、と言うより自然に他者全般からあたかも大物であるように錯覚されるように自分を持っていくことが社会を巧く渡っていく秘訣である。大物である必要などない、そもそもそんな価値判断自体が幻想なのだから。従って大物のように思われるように自分を見せかけること、それくらいに許容される悪を十二分に行使することだけがあまり他者から激突されずに済む方法ではないだろうか?だって倫理的価値を遵守しているように狡猾に振舞って巧妙に責任転嫁してきている人が周囲に大勢いるのである。従ってそれくらいの悪の行使を悪いなどと思わない方が良いのである。それが出来たならあなたも立派な倫理的価値の悪用者である。

Wednesday, November 4, 2009

第十二章 倫理的なこととは倫理的ではないものに対する規制である・人間の残酷さについて

 私たちは通常倫理的である、と言う時、それが倫理的であることが適切な場合には価値的倫理としてそれを称揚する。人類が何らかの種全体の生命維持の危機に瀕した時明らかに人類全体が結束することは価値的倫理である。しかしそういう非常時だからこそ、結束し合った人たち同士で時にジョークを言い合ったりすること自体もまた価値的倫理である。そしてそういう気の利いたジョークを倫理的価値があると言うこともまた正しいだろう。
 一方私たちは公共の新聞やテレビのインタヴューなどで「今あなたは何が一番したいですか?」とか「あなたの最大の望みとは一体何ですか?」と質問されて、「多くの女性と肉体関係を結ぶことです」と返答することは通常あまり適切ではない、いや絶対あってはならないという意見も含めると、そう返答することは憚られる。しかし結婚している人が浮気を時にはしたくなる、と考えることはよくあることだし、事実宗教的な教義とか信仰上の理由からそういう行為はおろか、願うことでさえいけないことである、として拒否することも含めて、そのように敢えて忌避しなければならないということ内に、既にそういう願望は誰しもある、ということを社会全体が容認していることを意味する。
 男性は生物学的にそういう願望は誰しも持っているということだけではなく、見得的な意味からそういう状態を維持したいと考えることは、少なくとも願望においてそう考えることは、それを直接公共の紙面とか電波で言わなければ別に構わない、と少なくとも宗教的信仰を一切持たない人はそう考えるかも知れない。
 と言うことは心からそういう願いを持つことはいけないと考えて、それを問うこと自体もはしたないとそう考える向きも含めて、実際倫理的なこと、つまり倫理的な社会通念自体が、そのように一瞬でも考えてしまうこと自体に対する戒めとして作用していることを意味しないだろうか?
 つまり倫理的である、ということ自体が、私たちの願望とか、心理においてどうしても逃れなれないようなタイプの生来的な悪の本能に対してそれを抑制する意図で設けられている、意図的に設定されてきた、とも言える。そればかりではない。人間は他人に対してその言葉がおかしいと思う時、その言葉が自分を笑わせようと意識して言うジョークに対してのみ反応するわけではない。無意識に何か言い間違いをした時に思わず噴き出してしまうものである。これは他人の失敗を見て喜ぶということだから、生来の部分に人間は他人の不幸を見ておかしいと感じる部分、つまり悪の部分が誰しもある、ということを意味する。これは感動自体が、感動する対象が誰からも相手にされない境遇に対してなされるということが、その境遇をでは自分が率先して取り除こうとまで誰しも思わないという例の真理とも相通じる。
 つまり倫理的価値を必要とするということ自体に既に非倫理的、と言うより、そもそも倫理など一切ない状態、それは言葉とか言語がない状態の人類に対する仮定なのだが、そういう状態では何が起きてもおかしくはない、という事実に対する覚醒を意味しており、言語を通して、倫理的規範を設けていること自体に既に我々が我々の内部に残酷な部分、端的に他人の失敗を見ておかしいと思うこと、あるいはパートナーに対する配慮とは関係なく他のパートナーに対しても性的に関心を持ってしまうという性向を認めている、端的に自らの悪に自覚的である、ということを意味する。
 それは価値自体にもまた、悪をも容認する、つまり社会全体が無秩序に陥らない限りで必要悪的に個人の自由を認めること、あるいは仕事上で常に完璧ではない態度と仕事振りでもずっと永続的にその仕事に従事していけそうなタイプの人を重視するとか、世の中はそのような価値的枠組のフレクシビリティを求めてさえいる。
 つまり倫理的であるとは、全く倫理がない状態に対してなら、価値的に捉え得るも、一定の倫理的秩序を維持し得ているような状況では、殊更声高にそれを叫ぶこと自体をあまり価値的には見ないということ、例えば管理職になっている人が部下たちに対して、一定の許容的態度で接するべきである、と言う時、明らかに部下の小さなミスに対しては寛容であるべきなのであり、言うべき時には言わなければならない、つまり倫理的価値を重要視しなければならないが、一定のレヴェルで部下たちがそれを履行し得ているのなら、振り翳すべき倫理が価値的倫理であるか否かの判断を持ち、ある時には倫理的な言説を控えるというような態度の採り方を学んでいく必要がある。
 何故そう言えるか、と言うと、人間はどんなに犯罪に走るようなタイプの人間でさえ、「倫理的なこととは倫理的ではないものに対する規制である」ということを重々承知であるからである。そして何故それを承知しているか、と言うと、誰しも自分が他人の小さな失敗を見ておかしいと感じ、端的にそれは喜んでいることなのだが、つまりそういう自分の性向を承知しているからなのである。それが小さな内ならいいが、度を越すと確かに差別へと繋がる。事実そういう風にして差別は作られていく。つまり倫理的価値が何かに対してある、と規定し得ること自体に既に我々は自らの悪、残酷さに対する自覚がある、と見てよい。

Sunday, November 1, 2009

第十一章 価値的倫理と倫理的価値

 私たちが倫理的な意味において価値を考える時、前章で触れたように、他者もまた自分と同様運命の固有性を生きているとそう考えることが出来る能力こそが自己だ、と捉えたが、そのように自分だけが特殊な存在であることを誰しも考えるが、そのように考えること自体はかなり一般的なことである、とすること自体が極めて倫理的発想のものである。
 そしてそのように考え、他者との間で協調したり、譲歩したり、協力したり、相手からの要請に応じたり、あるいは逆に他者を遠ざけたり、相手の要求を拒否したり、相手からの要請を断ったりすること自体に対して、その行為の正当性を問うこともまた、倫理的な問いであると言えるだろう。つまりあらゆるケース毎に何らかの倫理的価値付けが可能だからである。
 一方倫理的な問い自体をそれがでは一体本当に意味のある問いであるのか、そう問うことも可能である。例えば今言った相手に対してポジティヴに接するか、ネガティヴに接するかということに対して「それはいいことである」とか「あまり適切ではない」とか「改善の余地がある行為であった」とか反省的意識を持ったり、適切性において判断したりすることそのものは、それ自体倫理的問いであるとは言えるものの、そのように倫理的に問うこと自体が果たして有効であるか否かは、そのケース毎に異なると言える。するとその時倫理的に何もかも問うことだけが全てではない、というもう一つの価値判断も成立するから、当然価値的倫理とか、無価値的倫理といった判断も成立することになろう。
 つまり倫理ということに対する問い自体は、有効である場合もあるし、そう問うこと自体が無意味な場合もある、ということである。従って倫理的価値があるもの自体に価値がある場合もあるが、却って倫理的価値があるがために、そのもの自体がある場合には無価値になってしまうということも十分あり得ることになる。
 実際にそういうことというのは多々日常的にはある。お笑いの番組を見ていたり、相手のジョークを受けて笑ったりする時そのお笑い番組でタレントたちが言っているギャグを聴いて、笑った時、その笑いの意味を解析し、「でもそれはこういう時に言うのはおかしいのではないか」とその番組を見て笑った家族を見て、批評すること自体は家族内友愛という観点から言えば建設的であるとは言えない。笑うこと自体に意味があるのだから、笑いそのものの適切性を批評することはお門違いである。また相手が咄嗟にジョークを言って、それを理解しているのに、「それはどういう意味なのかな」と考えるふりを相手に示したとしたら、それは他者の言うことをよく聞くべきであり、その真意をよく考えるべきであるという訓示を誤って理解していることになる。ジョークを言っている時にはジョークを聞く体勢でいるべきなのであり、ジョークではない時の話し方とそういう時の話し方は異なっている筈だから、逆にジョークを言われている時にはそのジョークを言っているという相手の真意を汲み取る必要があるからだ。勿論そのジョークを言う状況か否かという判断の適切性というものがあるから、ジョークだからいつどのような状況でも許されるというものではない。
 だから今言ったことから言えば、ジョークを相手が言っていることをその状況下で判断することの適切性において、倫理的価値を求めても仕方がないケースとしてお笑い番組を見ている間の家族団らんや相手からジョークを言われた時の反応の適切性というものが位置づけられ、それはお笑い番組のタレントのギャグを笑うためのものであると理解することを理解したと明示するのではなくただ笑えばよい、ということ自体は倫理的価値であるが、ではそのようにある状況においてお笑い番組を見て笑ったり、相手にジョークを言ったりして笑わせること自体に意味があるのかどうかということ自体は、価値的倫理、つまりある状況において笑う行為自体が倫理的であるとする判断自体の適切性について正否を言うことが出来る。「その時笑ったのは、倫理的であったり、それは倫理的に判断したりすることが適切だから、従って価値的倫理である」ということになる。尤もそのように小難しく言うわけではない、例えばある人が別の彼からジョークを言われたりした時に、そのことを変に悪くとって気に病んでいた場合、そのことを相談した相手から「その時そうジョークを君に言ったこと自体は彼も大人気ないけれど(倫理的ではないけれど)、それを特別に気にし続けるという君の気持ち自体も(そういう風に倫理的な判断を持ち出すこと自体も)あまり意味のあることではない(価値があるものではない)」と言う場合、明らかに彼がある人に言ったこと自体は倫理的価値の範疇で判断され得るけれど、その判断自体をあまり大きなものとして考えること自体に対しては、価値的倫理の正否で判断されている。「それをそれほど大袈裟に考え過ぎること自体は無意味である」ということは「それは価値的倫理ではない、つまり無価値的倫理である」と言ってよいだろう。