セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, November 1, 2009

第十一章 価値的倫理と倫理的価値

 私たちが倫理的な意味において価値を考える時、前章で触れたように、他者もまた自分と同様運命の固有性を生きているとそう考えることが出来る能力こそが自己だ、と捉えたが、そのように自分だけが特殊な存在であることを誰しも考えるが、そのように考えること自体はかなり一般的なことである、とすること自体が極めて倫理的発想のものである。
 そしてそのように考え、他者との間で協調したり、譲歩したり、協力したり、相手からの要請に応じたり、あるいは逆に他者を遠ざけたり、相手の要求を拒否したり、相手からの要請を断ったりすること自体に対して、その行為の正当性を問うこともまた、倫理的な問いであると言えるだろう。つまりあらゆるケース毎に何らかの倫理的価値付けが可能だからである。
 一方倫理的な問い自体をそれがでは一体本当に意味のある問いであるのか、そう問うことも可能である。例えば今言った相手に対してポジティヴに接するか、ネガティヴに接するかということに対して「それはいいことである」とか「あまり適切ではない」とか「改善の余地がある行為であった」とか反省的意識を持ったり、適切性において判断したりすることそのものは、それ自体倫理的問いであるとは言えるものの、そのように倫理的に問うこと自体が果たして有効であるか否かは、そのケース毎に異なると言える。するとその時倫理的に何もかも問うことだけが全てではない、というもう一つの価値判断も成立するから、当然価値的倫理とか、無価値的倫理といった判断も成立することになろう。
 つまり倫理ということに対する問い自体は、有効である場合もあるし、そう問うこと自体が無意味な場合もある、ということである。従って倫理的価値があるもの自体に価値がある場合もあるが、却って倫理的価値があるがために、そのもの自体がある場合には無価値になってしまうということも十分あり得ることになる。
 実際にそういうことというのは多々日常的にはある。お笑いの番組を見ていたり、相手のジョークを受けて笑ったりする時そのお笑い番組でタレントたちが言っているギャグを聴いて、笑った時、その笑いの意味を解析し、「でもそれはこういう時に言うのはおかしいのではないか」とその番組を見て笑った家族を見て、批評すること自体は家族内友愛という観点から言えば建設的であるとは言えない。笑うこと自体に意味があるのだから、笑いそのものの適切性を批評することはお門違いである。また相手が咄嗟にジョークを言って、それを理解しているのに、「それはどういう意味なのかな」と考えるふりを相手に示したとしたら、それは他者の言うことをよく聞くべきであり、その真意をよく考えるべきであるという訓示を誤って理解していることになる。ジョークを言っている時にはジョークを聞く体勢でいるべきなのであり、ジョークではない時の話し方とそういう時の話し方は異なっている筈だから、逆にジョークを言われている時にはそのジョークを言っているという相手の真意を汲み取る必要があるからだ。勿論そのジョークを言う状況か否かという判断の適切性というものがあるから、ジョークだからいつどのような状況でも許されるというものではない。
 だから今言ったことから言えば、ジョークを相手が言っていることをその状況下で判断することの適切性において、倫理的価値を求めても仕方がないケースとしてお笑い番組を見ている間の家族団らんや相手からジョークを言われた時の反応の適切性というものが位置づけられ、それはお笑い番組のタレントのギャグを笑うためのものであると理解することを理解したと明示するのではなくただ笑えばよい、ということ自体は倫理的価値であるが、ではそのようにある状況においてお笑い番組を見て笑ったり、相手にジョークを言ったりして笑わせること自体に意味があるのかどうかということ自体は、価値的倫理、つまりある状況において笑う行為自体が倫理的であるとする判断自体の適切性について正否を言うことが出来る。「その時笑ったのは、倫理的であったり、それは倫理的に判断したりすることが適切だから、従って価値的倫理である」ということになる。尤もそのように小難しく言うわけではない、例えばある人が別の彼からジョークを言われたりした時に、そのことを変に悪くとって気に病んでいた場合、そのことを相談した相手から「その時そうジョークを君に言ったこと自体は彼も大人気ないけれど(倫理的ではないけれど)、それを特別に気にし続けるという君の気持ち自体も(そういう風に倫理的な判断を持ち出すこと自体も)あまり意味のあることではない(価値があるものではない)」と言う場合、明らかに彼がある人に言ったこと自体は倫理的価値の範疇で判断され得るけれど、その判断自体をあまり大きなものとして考えること自体に対しては、価値的倫理の正否で判断されている。「それをそれほど大袈裟に考え過ぎること自体は無意味である」ということは「それは価値的倫理ではない、つまり無価値的倫理である」と言ってよいだろう。

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