セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, November 4, 2009

第十二章 倫理的なこととは倫理的ではないものに対する規制である・人間の残酷さについて

 私たちは通常倫理的である、と言う時、それが倫理的であることが適切な場合には価値的倫理としてそれを称揚する。人類が何らかの種全体の生命維持の危機に瀕した時明らかに人類全体が結束することは価値的倫理である。しかしそういう非常時だからこそ、結束し合った人たち同士で時にジョークを言い合ったりすること自体もまた価値的倫理である。そしてそういう気の利いたジョークを倫理的価値があると言うこともまた正しいだろう。
 一方私たちは公共の新聞やテレビのインタヴューなどで「今あなたは何が一番したいですか?」とか「あなたの最大の望みとは一体何ですか?」と質問されて、「多くの女性と肉体関係を結ぶことです」と返答することは通常あまり適切ではない、いや絶対あってはならないという意見も含めると、そう返答することは憚られる。しかし結婚している人が浮気を時にはしたくなる、と考えることはよくあることだし、事実宗教的な教義とか信仰上の理由からそういう行為はおろか、願うことでさえいけないことである、として拒否することも含めて、そのように敢えて忌避しなければならないということ内に、既にそういう願望は誰しもある、ということを社会全体が容認していることを意味する。
 男性は生物学的にそういう願望は誰しも持っているということだけではなく、見得的な意味からそういう状態を維持したいと考えることは、少なくとも願望においてそう考えることは、それを直接公共の紙面とか電波で言わなければ別に構わない、と少なくとも宗教的信仰を一切持たない人はそう考えるかも知れない。
 と言うことは心からそういう願いを持つことはいけないと考えて、それを問うこと自体もはしたないとそう考える向きも含めて、実際倫理的なこと、つまり倫理的な社会通念自体が、そのように一瞬でも考えてしまうこと自体に対する戒めとして作用していることを意味しないだろうか?
 つまり倫理的である、ということ自体が、私たちの願望とか、心理においてどうしても逃れなれないようなタイプの生来的な悪の本能に対してそれを抑制する意図で設けられている、意図的に設定されてきた、とも言える。そればかりではない。人間は他人に対してその言葉がおかしいと思う時、その言葉が自分を笑わせようと意識して言うジョークに対してのみ反応するわけではない。無意識に何か言い間違いをした時に思わず噴き出してしまうものである。これは他人の失敗を見て喜ぶということだから、生来の部分に人間は他人の不幸を見ておかしいと感じる部分、つまり悪の部分が誰しもある、ということを意味する。これは感動自体が、感動する対象が誰からも相手にされない境遇に対してなされるということが、その境遇をでは自分が率先して取り除こうとまで誰しも思わないという例の真理とも相通じる。
 つまり倫理的価値を必要とするということ自体に既に非倫理的、と言うより、そもそも倫理など一切ない状態、それは言葉とか言語がない状態の人類に対する仮定なのだが、そういう状態では何が起きてもおかしくはない、という事実に対する覚醒を意味しており、言語を通して、倫理的規範を設けていること自体に既に我々が我々の内部に残酷な部分、端的に他人の失敗を見ておかしいと思うこと、あるいはパートナーに対する配慮とは関係なく他のパートナーに対しても性的に関心を持ってしまうという性向を認めている、端的に自らの悪に自覚的である、ということを意味する。
 それは価値自体にもまた、悪をも容認する、つまり社会全体が無秩序に陥らない限りで必要悪的に個人の自由を認めること、あるいは仕事上で常に完璧ではない態度と仕事振りでもずっと永続的にその仕事に従事していけそうなタイプの人を重視するとか、世の中はそのような価値的枠組のフレクシビリティを求めてさえいる。
 つまり倫理的であるとは、全く倫理がない状態に対してなら、価値的に捉え得るも、一定の倫理的秩序を維持し得ているような状況では、殊更声高にそれを叫ぶこと自体をあまり価値的には見ないということ、例えば管理職になっている人が部下たちに対して、一定の許容的態度で接するべきである、と言う時、明らかに部下の小さなミスに対しては寛容であるべきなのであり、言うべき時には言わなければならない、つまり倫理的価値を重要視しなければならないが、一定のレヴェルで部下たちがそれを履行し得ているのなら、振り翳すべき倫理が価値的倫理であるか否かの判断を持ち、ある時には倫理的な言説を控えるというような態度の採り方を学んでいく必要がある。
 何故そう言えるか、と言うと、人間はどんなに犯罪に走るようなタイプの人間でさえ、「倫理的なこととは倫理的ではないものに対する規制である」ということを重々承知であるからである。そして何故それを承知しているか、と言うと、誰しも自分が他人の小さな失敗を見ておかしいと感じ、端的にそれは喜んでいることなのだが、つまりそういう自分の性向を承知しているからなのである。それが小さな内ならいいが、度を越すと確かに差別へと繋がる。事実そういう風にして差別は作られていく。つまり倫理的価値が何かに対してある、と規定し得ること自体に既に我々は自らの悪、残酷さに対する自覚がある、と見てよい。

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