セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, January 31, 2016

第七十五章 意味と意味の使用は全く異なる PART1

 前回は次の様なことを述べた。言葉に於いて語それ自体だと意味の持つ情動喚起的側面を我々は常に受け取ろうとする。だが、意味使用は長い文章であればある程個々の語の意味を通り一遍の認識の一部へ摩り替える。それは一つの事実確認である。事実確認は冷静沈着を我々に齎す。客観的思惟は全てそうだ。だから文章というものは報告することを通して、報告される者の精神を鎮静化させる様に成立する。文章とは従って情動の高まりを調節し、高揚し過ぎることを抑制させる作用を齎す。文章に内在する論理的構造がそうする。
 俳句が情動喚起を大きくさせるとすれば、それはより一語の持つ比重が大きく、それ故に意味自体が喚起する情動を引き出しやすいからだ。語の意味とは語という文字に意味を通して意味を作っている我々の情動を吹き込み、内在的な意味を感知する心を、語を聞き、語を言うことで確認する際に認知されるものである。
 文章は個々の意味を高次の次元で再認する為の一つの配列を通した報告秩序の数式と言える。数式とは何も数字に拠るだけではない。そういった配列が顕現された秩序全体を言う。だから意味はその配列=数式の持つ構造が生み出しているとも言えるし、個々の情動喚起的側面が意味を担い、配列=数式の構造を成立させているとも言える。
 文章は事実関係の叙述を包摂する配列=数式だが、語はその要素でもあるが、文章が方や存在しているからこそ、その配列=数式の中で示される指標として認知される。だがそれは文章で伝えるという前提が行為として存在しているから認知されるものなのか、それとも語で示される認識が意味として存在しているから文章が伝えるという行為形式を存在させているのか、どちらかである、とは言い切れないが、語自体の意味認識へ誘う我々の心的作用と、語を包摂した伝える為の文章を成立させる統語秩序を誘う我々の心的作用は、恐らく別箇のものとして把捉されているけれど、それは絶えず相互に侵食し合う様に隣接してもいる、と考えてもいいだろう。
 意味と意味使用とはそういった心的作用の環境に取り囲まれている。意味は情動喚起、意味使用は事実確認(報告促進)を旨とする。言語には絶えずこの二つの異なった志向性を持つ心的作用を我々は集約させる。個々のエレメントでは情動喚起を齎しつつ、エレメントの集合(∨)では事実確認(再認。経験則からある事態を理解している以上、常にある出来事の認知とは再認である)を齎す。言語自体に性質的に相反する志向性を両立させるという事が在ると言える。
 だから個々の語彙は配列=数式が一つの関数とすれば、変数であり、その捉え方自体は言語を何かの為の写像と認識してのことと言える。何かの為にとは理解・伝達・報告等と考えてよいだろう。
 ところで意味は意味自体、社会的記号として社会的事実として認識されたツールだが、意味使用はその意味を使用することを通して意味使用者、つまり文章作成者、報告者の意図を顕示する意味合いがあるから、情動を抑制する意図である文章を使用した一つの内在的な野心の顕現だとも言える。つまり語彙自体は受け取る者は情動喚起的だが、語彙提示は一番即物的であり、「火事だ」「殺人だ」(人殺しだ)と告げることに自己意図顕示性は精神的には強くない。それは緊急の伝達意図以上の精神性は無い。
 だが「あの火事は放火だった様だ」「あの殺人事件から犯罪の流れが変わった」と告げること、つまり文章化されると、それを受け取る者は受け取る者の自己を控えさせ、理解しようと努めるが、その文章の伝達者・報告者は自己意見を告げる伝達意図の顕示が最大となる。それは精神的な意味で内在的野心の行為だからだ。
 この反転現象がもう一つの言語の性質である。つまり緊急伝達意図は社会奉仕であり、文章提示は野心的な社会投企と言える。
 その意味で一つの結論としては緊急伝達は発信者が受け身であり、受信者が能動的であるが、文章提示は発信者が能動的であり、受信者が受け身であるということが言える。
 この構造は重要な真理を含んでいると思われるので次回もう少し深く掘り下げてみたい。

Wednesday, January 27, 2016

第七十四章 言葉は作られるPART3 意味は単独と接合とで在り方を変える

 語とはそれ自体の意味と、その意味を使用して一つの文を構成する時とでは意味の在り方を変える。存在する意味を変えると言ってもいい。
 殺人は語としてはネガティヴな意味だ。社会的に人類的に殺人は人類発生以来最も典型的な悪であり、にも関わらずずっと継続して無くなりはしなかったものだ。
 だが我々は他方「彼は売れっ子なので、殺人的スケジュールで動き回っている」等と言う時、その殺人はそういった人類の原罪的な悪の意味合いで使っている訳ではない。彼自身のエネルギーを消耗させ、彼を遂には働き過ぎで死へ至らしめるのではないかという懸念も手伝って言っているからだ。
 語、単語、語彙とはそういった意味では相対的な在り方をしている。一つの語彙がそれ単体で何かを語る度合いは、印象としては強烈だけれど、それが多くの文字の配列の中のほんの一部になればなる程、印象は薄まる。殺人は何時の時代でも存在したし、そういう事実関係へと転落する。実際に特定の時間に特定の殺人事件に就いて報道されていて、それを視聴している場合に抱かれる我々にとっての殺人の意味(それは今という時点が今正に今だと思う時と似ている)と、殺人は昔からずっと在った、と語る場合の意味とでは、前者は哲学、とりわけハイデガー的にアクトゥアリテート等と言ってもいいある種の生々しさとしての、リアルな感情が殺人ケースを目の当たりにした時に持てるのが、他方、多くの犯罪事例を紹介する時に殺人を放火や強盗と対置させて語られる時ではまるで言葉の持つ意味の衝撃の度合いは違う。
 言葉の価値は単体としての意味と、それが文字配列の中の部分、要素として機能する時とで大きく在り方を変えるという側面と、今正に殺人事件に就いて報道され、或いは人から聞かされたりして、その様子を知っていく過程で持つ印象と、そういった殺人事件の件数に就いて論じている時の平坦な印象との格差から二つの意味の存在理由の在り方を示唆する。言葉は感情・情動を其処から引き出す装置であると同時に、全く客観的に感情・情動を誘引させない様にさせる装置でもある。
 これは概念の提示、概念の確認という意味合いとして後者を捉えるなら、前者は明らかに概念を通して概念で指示されている事態を想像したり、再現させたりすることと言えるだろう。
 となると意味自体が、事実確認的志向性と、確認され指示された事態への情動的判断志向性という二つの全く異なったヴェクトルを喚起する様に待ち構えているとも言い得る。
 これは自己意識等とも当然関係がある。つまり自分自身がダイレクトに何かにある感情・情動、意味規定的な志向性を持つことと、そういった自分自身の在り方を、それ自体ではない視点から再認する(これを認知科学ではメタ認知と呼ぶ)ということ、つまりダイレクトな志向性と、インダイレクトな志向性とを我々は使い分けもするし、同時に使うことも出来る。自己がダイレクトに何かに向き合っていることと、その向き合っている自己をそういった向き合い自体からすれば外部から観察する様な視点を持つことは、全く違うことでありながら、何の不自然さも無しに我々が同時にも出来ることである。
 ある意味ではそれが両方出来るからこそ、林を縫って歩いている時に虎と出くわし、びっくりしてはらはらどきどきしながら、何とか食われまいとして逃げる方法を考えているという様な場合でも、それはあり得る。虎自体は虎という語彙であり、虎に出くわし、何とか逃げなくてはならない、という文章を心的に我々は同時に介在させることが可能だからだ。
 次回はこの語、単語、語彙の単体性と、文章文字配列の中の要素との両義性を実際の文章から考えていってみよう。

Wednesday, January 6, 2016

第七十三章 言葉は作られるPART2 日本語接合語(爆~)の応用の仕方から読める驚嘆感情への向き合い方2

 1980年代後半以降定着した語彙は(空爆)だ。これは冷戦終結と共に連合軍、つまり英米仏等に拠るイスラム教文化圏の独裁主義国家やその内乱等へ行われてきた。アフガニスタンに侵攻したソ連への抵抗から生み出された語句だった。
 日本ではそれより早く(爆発的ヒット)(爆発的売れ行き)等の語句も多く使用される様になった。これはかなり昔から言われてきたが、恐らく70年代以降定着した言い方だろう。当時の日本は高度成長が極まった時期であり、だが70年代後半から低成長が叫ばれる様になってきた。
 2015年の流行語大賞が中国人に拠る(爆買い)だったのも凄く興味深いけれど、この語彙はそのことで個人経営の店舗等が一兆円以上の収益を上げたことで定着していったが、この様に日本語では既に(爆)を使用する何のためらいもない。空爆と今では言うことが大半だが、太平洋戦争中ではこれはあくまで(空襲)だった。これはだから太平洋戦争の一般市民への無差別攻撃に対してのみ使用される永久欠番的な語句である。
 似た感じの言い方は70年代の池波正太郎の時代劇<必殺仕掛け人><必殺仕置き人>等のシリーズに於ける(必殺)である。これも殺し自体は悪であり忌むべき意味だけれど、それを敢えて使用することで緊迫感を出す一つの言葉の工夫である。でもこの語彙も先に(必死)という語彙があったればこそ発想し得た語彙とも言える。
 つまり否定語や忌み語として使用される語彙を敢えて接合させることで、その臨場的切迫感を出すのは語彙の作り方としては常套手段と言える。 因みに接合されている必は(必見)、(必勝)、(必定)、(必然)、(必聴)、(必読)、(必要)、(必用)等で使用されるが、それをしなければかなり損失するとか、そうでなければ可笑しいという合理を畳みかけて、印象付ける役割の接合語だ。
 これ等のことから価値は是や正とされることでだけ構成される・させるのでなく、非や誤、善だけでなく悪との接合で構成される・させるものだと言い得る。
 (爆弾)(爆薬)はあくまで軍事目的且つ産業目的のものだし、(自爆)は自決や自殺同様異常決心を示す語彙だが、(爆)がそれ等に於いて使用されていることを承知で敢えてそれを日常的な心理に置換させて使用されている(爆笑)(爆発的ヒット・爆発的売れ行き)等はそれ自体肯定的な意味合いなので、否定的な印象を植え付ける語彙を敢えて使用することで、逆説的にその反転した価値を印象付ける目的が我々には暗黙の内に認められていると言うことが出来る。
 今日正に北朝鮮が四回目の核実験を行い、それを水爆実験成功という形で北のテレビが放映した。爆という音の不穏さ、不気味さが原爆、水爆等の語彙が齎していることは確かだが、日本語では爆笑・爆発的ヒット等の語彙が消滅する事は無いだろう。自爆テロと水爆が現況で最大の不安を掻き立てているが、言葉をネガティヴであるが故に逆利用する工夫も無くならず、そのことは我々の思考が常に最大級に避けるべき事態をも、観念上では想定させずにアイロニカルな説明論理を構築し得ない存在であることを教えてくれる。
 つまり我々は一方では自分は誰しも最悪の状況を避けたい思惑を持ちながらも、他者の幾分かはその被害に遭ってしまうだろうという憶測から、それを避けたいという形でアイロニカルに忌むべき意味の語を利用してしまうし、それを悪い事とは思わないのである。
 何故ならそういう風に極端なケースを想定することから想像されることを暗にそういった語を使用することで促進する様に説明論理とは成立しているからなのである。説明論理とは最悪の残酷的状況をも含ませ示すことで説得力を醸成させているのである。