セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Tuesday, August 20, 2013

第四十七章 媒介価値の肥大化とエロスPart1

 前回は媒介的価値の目的に対する優位と肥大化、そして目的を超えた手段とかツールの方の肥大化に就いてスノーデンショックと絡めて論じた。
 それはしかし今年春に東大本郷キャンパス小柴ホールでのスウェーデン哲学者ラビノヴィッツ氏の思想と相反するという訳では決してない。私は次の様に『価値と倫理Part1』で述べた。「もし公共的価値と個人的価値双方で重複している部分を規定するなら、それは真に価値的であり、実現されて然るべきだと誰しも思おう。/従ってそれは極めて実践的、プラグマティックな事であり、具体的な事である筈だ。先月中旬東大本郷キャンパスで行われた国際会議(international conference)でスウェーデンから来日されたWlodek Rabinowicz氏は価値とモラルは別者であり、一致しないとレセプションで私が質問すると返答された。氏の発表ではto be valuable is to be desirableという一節を挿入していた。/この事はモラルとはそれ自体一種の便宜的な(expedient)社会ツールであり、価値化するだけの大仰なものであるべきではないという思想の表明と受け取る事も可能である。」
 つまりラビノヴィッツ氏がそう考えるのは我々が媒介的価値を肥大化させ過ぎることを熟知されているからなのである。
 しかしこの実在こそが切実で我々の生に最大の影響力を齎すと知っていて、それでも尚且つ非実在的媒介価値を重んじてしまう(それは倫理自体もそうだし、何かを価値化して崇拝することもそうであるし、宗教的行いへの自己陶酔的美学的な自己日常習慣への自画自賛とか耽溺でも言えるが)ということは、裏を返せば、実在への我々の本質的な懐疑心の内在的存在を示しているとも言えないだろうか? 我々は本来実在自体がどうであるかより(自然科学に於いてさえ)、どうあり得るのかより、それをどう捉える(べき)かを常に優先している。或いは実在自体が問題であるかの様に思える時でさえそのどう捉える(べき)かの方を優先させている。 だからこそ我々は常に知覚され得る実在とはフェノメノン(phenomenon)として、それを本質的に(真理的に)支えるものをヌーメノン(noumenon,カントの言った物自体)と捉えてきたのだった。
 それはある意味では完全に実在など(と言うことは、その実在への知覚自体もだが)一切が幻想(illusion)であるかも知れない、という我々自身の深層での思いこそが、媒介的価値の方を実在より重んじ、過大視させるべく心の傾向を作っている。
 我々はほんの些細な企業のキャッチフレーズとかコピーとかに印象づけられている様な要するに文学や哲学を待たずとももっと日常的に経験する言葉への愛着の全てもこの実在懐疑に端を発する媒介価値の方の優位と優先的視点と密接に関係している。
 そればかりではない。我々は欲情的エロス、愛欲的なこともそれを示しているのだ。
 中国でも韓国でも整形手術が大流行であるという社会現象を引き合いに出さずともあらゆるファッションセンシビリティがそれを示している。
 例えばファギンズ、レギンス、スキニー、スパッツ、タイツの類は、全てそれを着用する女性の元の体型的なことより、どんな体型の女性が着用しても美しく扇情的に性的刺激をヴィジュアルに異性たる男性へ送るべくデザインされている。このことはどんなに美形の顔の女性と一夜を共にしても、その女性から吐き出される言葉が余りにも陳腐だと男性の欲情が一瞬にして萎え鎮静化されてしまうこととも関係がある。
 つまりどんなに美形の臀部でも腰つきでも、その見せ方がエロスを誘い込むものでなければ魅力が半減するからである。つまりヴィジュアルのアピールとはそれ自体、実在がどうであるよりも媒介的価値認識のものだからである。 異性へ惹かれることは、その異性の人格的(つまり倫理的)善に対してだけでは断じてない。その(自己自身の性的な)見せ方が視線を惹きつけるという意味では常に最大である。
 つまりエロスとはそれ自体媒介的価値のヴィジュアル的、もう少し男女が親密になれば明らかに触覚的(tangible)な媒介的価値(つまり肌と肌が接触する際の指使い、腰の動かし方等の全て)そのものなのである。
 我々が恋愛やセックスでパートナーを惹きつける上で重要なことは言葉であれ仕種であれ絶頂へと至る音声であれ、端的に振る舞い、もっと言えば演技である。それは媒介的価値のものである。
 確かに現代社会では卓越したエロスの名作という文学芸術作品を我々一般市民が模倣するということがあるけれど、起源論的には明らかに全ての文藝、舞台芸術、音楽といった表現の類は、我々自身の生来的に持っているこの異性への惹きつけという作為に内在する演技性、媒介的価値を模倣してきたのである。
 あらゆる文藝、表現はまさに我々自身持ち前のエロス的作為、エロス的な演技的本能を模倣するのだ。だからこそ現代のファッションデザインはそのことを承知して、我々の性的なパートナーを惹きつけるべく、その行為それ自体を演出する様に図られている。
 フルクサス等の20世紀のアート運動とは、ある意味では権威化されたアートの形骸的なアカデミズムへの反抗に拠って作品からでなくパフォーマンスを通した運動に拠って、固定化された権威を瓦解させるべく意図されたものだったのだ。
 そして現象学者であるミシェル・アンリ等はそういったトライアルを、問うことを拒否する哲学として(本来哲学とは問いに対する返答であるというギリシャ以来の伝統に逆らい)エロスをクローズアップすることで(その際、自己触発というレヴィナス用語を巧みに用いた)、学術的営みと表現との間の垣根を乗り越えようとした、と捉えることが出来る。

Sunday, August 18, 2013

第四十六章 価値と倫理Part5 スノーデンショックから読み取れること②

 エドワード・スノーデン容疑者が結局南米へは旅立たずずっとロシアに滞在し、ロシアで職も見出してしまったことで、アメリカは身柄引き渡しをロシアへ交渉すれど、ロシアはそれにダーと言わず、そのことで米露関係がこじれてきている。
 しかし何故そこ迄アメリカはスノーデン容疑者に拘るのか、それは国家自体が情報摂取に血眼となってきていて、その事実へ羞恥を感じているからに他ならない。
 別ブログ『意図論』でも述べたが、人類は言語を習得し、保持した瞬間、そして貨幣を発明し利用した瞬間等幾つかのエポックイヴェントに拠って人類固有の性格と欲望を決定的なものとしてきた。
 現代社会が情報摂取に本文があるとすれば、言葉・貨幣・情報というこの三つが人類が自己に齎した最大の価値となると言ってよいだろう。
 スノーデン容疑者の行った告発が如何に衝撃的なものであろうとも、次第にアメリカの個人情報傍受システム自体が進化していかざるを得ないので、スノーデン容疑者の知る情報自体も無価値となっていくだろう。しかしそれでもアメリカという国家自体は二度とスノーデンの様な告発者を国家の側から出さぬ為に彼を帰還させて罪状をはっきりとさせたいのであろう。
 私がこれら一連の問題で最も関心を抱いたこととは、我々人類は情報それ自体ではなく、情報を傍受しているというリアルの方を常に優先させている、という事実である。
 これは人類が、言葉とはそもそも何か実在の存在しているものへ名付けられている(名詞は特にそうであるが、動詞や形容詞も、その行為、動き、状態を命名しているので、結局実在の現象、事象へ名づけていると言える)のだが、その実在そのものより、実在へ命名し、それを伝える行為の方を優先させてきたと言い換えられる。
 貨幣とはその媒介を通した商品を入手する為のものであるが、その入手する当のオブジェより、そういった一連の何かが欲しい時その欲しいオブジェを入手する為の手段であるお金の方に我々は魅力を持つ。お金に拠って交換されるオブジェそれ自体は替えの利くものであると心得ている。
 言葉、貨幣に並んで情報も、その情報摂取に拠って得られた情報もだけれど、それ以上にそうやって情報摂取し、情報入手する行為それ自体に魅力、魅力と言ってもそれを決してやめられない中毒性のもの、現代の若者が二十四時間スマホ画面に意識が釘付けとなっている依存症をも招聘する行為の連鎖、情報ネットワークと四六時中関わっているというその日常的事実の方を優先させている。
 これら一連の言葉、貨幣(或いは貨幣経済)、情報との関わり合い、それのない社会では生きられない、ネットと緊密に自己を関係させずにはおられない、という事実は、対象それ自体ではなく、要するに対象へと関わる媒介(media)それ自体の方を価値的に見做している証拠である。オブジェとはそれ自体は何でもいいし、替えが利くものでしかない。
 この我々自身の媒介価値のものにしか関心もなければ、欲しもしないという驚くべき事態は、思念とか思想でも言えるし、それは全宗教の本質でもある。哲学的思考がそうである。
 我々は思想・哲学・宗教等に拠って、要するに知の制御、知そのものの取り扱うには膨大過ぎるその観念的なオブジェ(或いはオブジェそのものを支える観念)を追い求めてきている。知の獲得とはとりもなおさず知の制御のことなのである。
 デカルトがコギトと呼んだものとは、ある部分では自己というものの扱い得られやすさの実感出来なさそのものであり、その癖その扱いきれない代物を世界とか、社会とか、要するに関係のネットワークの中で位置づけざるを得ないという事実への驚きを持った、しかしその驚きからミニマルな疑い得なさの獲得への希求、切ない迄の耐え難い欲求である。
 キェルケゴールはそういった自己の扱いきれなさそのもので世界へのあらゆる謎へ対峙するその事実へのデカルトへのそれなりの応答の仕方へ、それを記述する主体の側から記述する者の韜晦的で欺瞞的な心の振る舞いに就いて反省的に語っている。そのベースにはヘーゲル流の主人と奴隷とか正否の関係という安穏では済まされないもっと込み入った対自的懐疑と、そのことへの耽溺それ自体を愛すことを辞さないある種の精神的オナニズムがあり、それはショーペンハウェルの持っていたペシミスティックな迄の世界への希望の持てなさへの共感がある。
 キェルケゴールのシニシズムを受け継いで世界の構図を欺瞞的な悪へ閉じ込めたのがニーチェで、彼が言う超人とはデカルト的主体でなく、そういった懐疑とか反省とかを可能とさせる誠実な自己の在り方などでなく、要するに世界自体の腐敗の変わらなさそれ自体への自然主義の提唱である。
 その点では分析形而上学のデヴィッド・ルイスが最もデカルトコギトから遠ざかっている分、ニーチェ的形而上学の継承者だと言える。様相は実在し、あらゆる可能性は可能性として存在し続ける、未来永劫に。それはニーチェの現代版の腐敗の変わらなさをも含めた無時間化された自然主義、全的に眺望し得る神の如き視点の体系性の復活を旨としている。
 現象学ではメルロ・ポンティもポール・リクールも、もう一度関係の網の目に於ける自己とか主体を模索している。その関係は物自体として意識主体である我々が関係そのものをも関係として自己へ位置づける欲望として存在することはカントに拠って既に指摘されていたし、ベルグソンは純粋持続という形で意識主体こそが時間をも作ると考えたのだった。
 ハイデガーはその様にして手に入れた世界そのものが自己であり、サルトルはその考えを引き継ぎつつ、世界に望まずに放り出された我々の責任はあくまで自己決済にのみ存すると考え、そのことで救済されることの絶対的な無さを訴えた。ガブリエル・マルセルはそのニヒリズムへ存在への感謝の念という形で希望を見出そうとしたのだ。
 こういった一連の哲学的思想とはあくまで世界の実在が主役なのではなく、実在を認識の網の目の中に取り込み、そのことに関する言葉の遣り取り、営み自体が重要であり、そこで得られている哲学的認識も、そういった情報の摂取、哲学的認識自体への情報的価値化とその価値化の止められなさである。
 ある部分スノーデン容疑者の本国帰還を望むアメリカの躍起も、個人情報傍受を国家事止められなさそれ自体への羞恥の隠蔽にこそあり、個人情報という(これも又実在的でありながら観念的な非リア充的なことであるが)実体無き実体への摂取が、好奇心とも猜疑心とも見分けのつかない状態で国家自身が臨んでいる証拠である。
 好奇心と猜疑心の境界を明確に指摘出来る者は居ない。
 アメリカはもっと有効な情報傍受の仕方を進化させていくか(スノーデンの様な裏切り者が出難いもっと何か別の有効なシステムを開発させていくか)、この様な傍受は何もアメリカ一国ではないけれど、アメリカの傍受はそれなりに進化して世界の傍受システムのモデルと少なくとも世界が見做していること自体への明白さを少しでも世界から逸らせたいという国家羞恥に拠ってスノーデン引き渡しをロシアへ打診しているのだろうか?そっちでもそういうことがあれば、こちらも直ちにそっちへ容疑者を帰還させる、とそう約束し得るだろうか? エドワード・スノーデンの行った告発は、媒介価値に魅せられ、それから離れられぬ人類の真の意味での羞恥的部分の暴露そのものであった。しかし彼がしなくても他の誰かに拠ってそれは行われていただろう。
 認識と思考の連鎖へ没入させる言葉、実質的社会生活を成立させる貨幣、生活を保守する為の防衛としての情報それら全ては、それ自体と言うより、それらを援用し得る能力とその能力を保持しているという信用の方に比重が移行しており、それが電子書籍、クレジットカード、プリペイドカード、電子マネー、ハッキングスキル等をより重視させる方向へと我々の意識を固定化させている。それは一々全ての本を読むことを我々に放棄させ、金もそれで買う商品というオブジェ(それはポップアーティストの偉業に任せておけばよい)より、金自体より、貨幣的数値を収支決算的に産出されるだけである。
 信用という一語の為にあらゆる言語行為、貨幣流通、情報摂取が行われ、その過剰に拠って信用から他者への極端な懐疑へと発展していってしまう連鎖を反復してきたのが人類史だったと言えるだろう。
 媒介価値それ自体への比重の移行以上に、人類史にとって重大な事実はない。信用も懐疑もその媒介価値への追認から生まれる。そして80年代に丸山圭三郎等に拠って持て囃されたフェティッシュの原理は、実体より厄介なものとはその実体を追認するシステムという媒介価値だという思想だった。つまりオブジェへのフェティッシュよりある意味で媒介システムへのフェティッシュの方が強く病巣が深い。
 その病巣の深さこそが現代の若者を一日中スマホ画面へ意識を釘付けにして、その危機的状況を察知したエドワード・スノーデンをして国家情報戦略へ謀反を起こさせたのである。