セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, December 10, 2009

第二十二章 貨幣が生み出された瞬間人類の価値は魅力に取りつかれた

 私たちは商品を買う場合に殆ど二秒でそれを決めていると言われる。つまりその商品選択基準とは理性とか合理性とかではなく、あくまでもその商品に惹かれるということであり、魅力に惹きつけられているということ以外のことではないのだ。そもそも貨幣経済において何らかのサーヴィスを得るということから、魅力的な商品を購入するということに至るまで我々は心地よく騙されたいという心理が消費者の側にもあり、また生産者とかメーカーは挙ってそのように心地よく消費してしまうような魅力を商品に付帯させることを心がけるのだ。つまり魅力ある商品、魅力あるサーヴィスを得たいという欲望が価値となっていったわけである。
 私たちは貨幣を通して欲望を買う。これは欲望自体が生きていく上で必要であるからだが、その欲望を満たすこと自体に魅力を感じているからである。しかし貨幣はそれを通して何か特定の欲望を得るために必要ではあると考えていてもそれ自体に価値があるわけではないということを私たちは本質的には理解しているし、貨幣を通して得る全ての欲望も、その欲望自体が価値なのではなく、例えば食事をすることは、生物学的に私たちが生存するために必要であるという意味で食物に価値があるということと、食事を誰かと共にするということに価値があるということの双方から理解している。あるいは食事はそれを取ることによって明日以降の未来において生活する活力となるという意味で価値があると理解している。従って欲望はそれ自体に価値があるのではなく、その欲望を満たすことによってその先に何か行動するために価値があると考える。
 つまり食料を買うために必要な貨幣を、何らかの労働の対価として得ることを通して社会生活を営むということから利用することを通して社会秩序へと同化し、資本主義社会に賛意を示しているのだが、その賛意はそうすることで欲望を満たすことが自然であり、それ以外にいい方法がないことへも同意しているのである。そして消費すること、欲望を満たすために買い物をし、貨幣を支払うことによってお茶を飲み、映画を見たりすることを私たちは選ぶ。行為を実現するために貨幣を使用することを自然なものとして認識している。つまり消費することが食べて生きていくこと自体なのだということを知ることによって消費すること自体が魅力を伴っているということを知ったからこそ、労働へと勤しむわけである。つまり労働は労働の対価として得る報酬によってその報酬たる貨幣によって消費し、食料を取ること自体が魅力ある欲望であると我々は知っているから、労働するのであり、労働自体に価値があるからであるよりは、欲望を満たすことが可能であるから魅力があり、魅力があるから価値があるということになる。つまり欲望それ自体をも、その欲望を満たす行為が魅力的であるからこそ価値を付与しているのだ。貨幣はそれを実現させてくれる最大のツールなのだ。しかし料理はそれを作るための素材を得るためには貨幣が必要だが、後は工夫である。料理は味そのもののクオリアを得るためになされる工夫である。その工夫は、食事を取ること自体が欲望を満たす最大の魅力があるからである。
 つまり最大の欲望である食欲を満たすこと自体が魅力的であるからこそ、一人で飯を食っても、誰かと食ってもそれが楽しいのだ。それを実現させるために我々の祖先は貨幣を発明し、その貨幣を求めるために労働するようになったのだ。
 しかし欲望を満たすために貨幣を得ることが必要だった筈なのに、いつの間にか貨幣を得ること自体が魅力となってしまうことも人類は体験してきたのである。つまりそれを使用することによって欲望を満たすことが魅力であったのが、いつの間にかそれを得ること自体が魅力ある欲望となっていったのだ。それは社会がそのような行為の連鎖を意味あることであるとしてきたからであり、またその社会を作ってきたのも我々なのだ。それらの行為の連鎖が産業革命を起こしたのである。
 しかしそこには人間の生活実現というレヴェルでの不在感があった。そこで人間は哲学し、再び生活実体の方に目を向け始めた。貨幣とはそれを有効に利用して本来の欲望を満たすこと自体に価値があるとしだしたのだ。価値とはそれをすること、そのものを利用することが楽しく、快楽があり、魅力があるということから、与えられてきたものでもあるのである。それは映画や演劇やスポーツを鑑賞したり観戦したりして得るものでもあるし、食事そのものの味や行為が魅力あることであるという意味で価値があるとそれぞれに付加してきたのだ。ここで価値とはそれ自体に魅力があるということから与えられるということだけははっきりした。

 付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇致します。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

Tuesday, December 8, 2009

第二十一章 スキャンダルな出来事を起こした人たちこそ最も私たちの好奇心を煽ったという意味では価値がある

 ここ数年の間にも堀江貴文氏や守屋武昌氏、酒井法子氏といった面々こそマスメディアを最も賑わわせた張本人であり、つまり彼らの存在抜きにある時代さえ語れないという意味ではイチローのような本格的にポジティヴなヒーロー以外では彼らが最大級の貢献をある時代にした、と言っても決して過言ではない。つまり彼らをネガティヴなものとして批判していた学者、文化人、コメンテータ、司会者などに比べれば彼らが存在したからこそ、世相において我々は自分たち自身の社会に対する見方に対して反省材料を得たとさえ言い得る。その意味では私は彼らに対してこそ裏の国民栄誉賞を授けたい。
 つまり何も一切人々を楽しませたり、独創的な行為をしたりしなかった人たちに比べれば彼らの存在の方に遥かに存在理由があるというだけで偉大である。つまり事件を起こしたとしても、それが無名の市民であったなら私たちはニュースになっていることに対して話題にもしなかったであろう。価値というものはそのように懐疑的に見なければいけないものなのである。
 概して日本人は穢れを嫌う感情があるから、自然主義と言った時そこには哲学は不在である。しかし通例欧米社会では自然主義というものは常に懐疑主義と隣り合わせなのである。このことが極めて重要なのだ。
 つまりスキャンダラスであるということ自体が既にその真実の姿がそれまで、つまりスキャンダルになるまでは巧妙に隠蔽されてきた、ということを意味するから、あるいはそれらの存在を偶像として崇拝してきた、つまり大衆であれ、同業界における関係者であれ少なからず彼らの存在自体を称揚してきたからこそ、その期待とか、崇拝行為が裏切られたという形でスキャンダラスであるわけだから、必然的に彼らの存在自体が実はそう安易に偶像を崇拝してはいけない(まるで聖典の謂いのようである)のだと、つまり安易に或る人格を特別ものとして別格視してはいけないということを悟らせてくれるという意味からだけでも存在理由が大いにあると言い得るのである。その他にも薬害エイズ訴訟問題など幾多の問題があったが、それらに比べると、今挙げた三人に私たちは極めて巧妙に騙された、と言うより彼らを尊崇の対象としてきた周囲の事実に決して批判的ではなかったとだけは言い得る。つまりそれだけ彼らの存在があまり簡単に偶像を作り上げてはいけないという風に自戒の念を持たせるために役立っているのである。つまりアイドル視する我々の通俗的心理自体が常に理性と隣り合って存在しているのだ、ということを覚醒させてくれる意味で彼らの存在は大きいと言える。
 もし私たちの社会に一切のスキャンダルがなかったとしたのなら、私たちはそういう社会において何か時代を振り返ることが出来るだろうか?世相というものを感じることが出来るだろうか?無理だろう。私たちは彼らに共通した存在自体がスキャンダラスであるという事実に寧ろ積極的に魅力を感じてしまう、つまり彼らを一定の厳しさを込めて糾弾したり、批判したりすることを世間体的に行いながらどこかで忘れ難いというイメージを彼らに付帯させてしまうのであるが、実はそれこそが魅力というものなのである。魅力とはたとえどんなにポジティヴなものであっても、必ずどこかでは<やばい魅力>と接点があるのである。従って我々は価値と言う時倫理的に正しいというものに対して果たして「だからこそ最大の価値だ」と言い切れるだろうか?そうではないだろう。つまり常に正しいだけのものには実は一遍の価値もないということを誰しもどこかでは了解しているのである。
 つまり魅力自体が内包しているある種の<やばさ>つまりデカタンスこそが私たちにとって尊崇する対象に付帯するイメージとして価値的に捉え得るものなのである。
 それはただ健康的なだけの要素に取り囲まれて生活すること自体へと抵抗とか反発心といったものが私たちには生来から備わっているからである。例えば異性とも一切付き合わない、あるいは酒やタバコの類も一切しないというようなタイプの成員に果たして我々は魅力を感じ続けることが出来るだろうか?それもそうではないだろう。
 そもそも資本主義社会、自由主義社会に付帯する自由のイメージには偶像崇拝的気分をどこかで持ち続けそれ自体を精神的な活力剤にして生活に潤いを持たすということは性格上必然的なことなのである。しかもその偶像とはどこかで人間臭さを必要とされている。つまり最良のものとは常にどこかで悪とも隣接している。だから一歩踏み誤って品行方正な偶像が過ちを犯すということは必然的なことなのである。だから本質的にスキャンダルな報道をして視聴率を稼ぐ学者、文化人、コメンテータ、司会者といった人たちは彼らによって食わせて貰えているという意味ではスキャンダルな事件を起こす大物の存在へ感謝の念を持つべきなのである。そしてスキャンダルとはそれが不在であると退屈であるから時代毎に私たちは恣意的に発見してきてさえいるのである。それがないということは退屈であり、それは時代精神が希薄であるとさえ我々は実は密かに思っているのである。

Sunday, December 6, 2009

第二十章 個人の行動の自由と犯罪、社会自体の在り方の価値

 端的に麻薬、売春といったことはそれ自体憂えるべきことかも知れないが、もしそういった一切の犯罪を抑止することだけを至上目的とするのなら、いっそ資本主義社会、自由主義社会を全面的に撤廃するしか方法などない。端的に北朝鮮のような国家では国家が国民一人一人の行動の自由を保障していないのだから、逆に行動の自由の行き過ぎによる犯罪も起こり得ようもない。従って一切の自由もない。全てを統制的に国家が管理しているからである。だから我々資本主義陣営の国民にとって覚醒剤とか売春、買春といったものがたとえ憂えるべきものであったとしても、中国のように麻薬を所持しているだけで死刑に処せられるという現実自体にはある種違和感を抱かずにはおれないだろう。
 だから生真面目一本のイメージである経済学者が痴漢行為をして地位を失墜したり、清楚なイメージが売り物のアイドルタレントが覚醒剤で逮捕されたりするようなニュース自体に一喜一憂するような社会世相自体は未だ国家によって全てが管理されるような状態からすれば如何に憂えるべき状況であっても救いがあるのである。
 端的に殺人をも含めた個人の激情やら個人の自由放埓への貪婪な欲求によって引き起こされる犯罪の全てが仮に発生し続けていたとしても、それら一切の犯罪が起こり得ようもない社会が存在することに比べたら未だそれらの方がずっと好ましい状態である、と判断してもよいのではないだろうか?
 確かに自由主義経済が金銭的経済力を主軸とした勝敗やら、格差を極端に生み出し、賄賂などが横行していくこと自体は確かに憂えるべき事態であると言えるが、それでもそのような社会には未だ公正であるとか、不公平に対する権利主張とか、社会全体の弱者に対する保護を主張したり、あるいは新たな起業の人材を発掘したりするような気運を生み出す土壌自体は確保されていると言ってよい。しかしもし仮に一切のそのような投機的行動を慎む一切の競争の不在な管理統制経済、管理統制政治しか成立しない社会であれば、それこそ人間精神は自由も創造性も一切が失われるだろう。
 だから最年少の年齢で首相に着任した人が一年程度で政権を放り出したことで国民がその後の与党の成り行きに憂えたとしても、尚完全独裁国家であるよりは遥かにましである、とそう考える人の方が多い筈だ。だからこそあの時も全く自民党の支持者層に対しては失望感を与えたけれど、それでも民主主義が一応機能していることはしているのだ、と考え直した人も大勢いた筈だ。つまりあまり与党が無策であればいつか政権を交代させてやればいいのだから、とそう開き直ることが可能なように社会を見ることが出来るということである。
 つまり資本主義社会とか自由主義社会につき物の弊害として麻薬や売春、賄賂といったものさえ、それらを一掃するためにあらゆる行動の自由、職業選択の自由を奪ってもよいなどと殆どの市民が望んでいない。と言うことはそれら社会の弊害でさえ必要悪として容認したままでいようという認識をどこかで必ず全ての市民が抱いている筈である。従ってそれらの弊害をニュースソースとして提供する容疑者全般に対して、そういった存在全てが皆無になっていくよりは、四六時中そういう容疑者のニュースばかりでも困るものの、そういったニュースさえ皆無であるよりはよっぽど時々そういうニュースがあってくれるくらいの方が社会の自由が実感出来ていいと考えている市民の方が多いということが通常の資本主義、自由主義社会における市民による社会自体の在り方の価値基準なのである。
 つまりあらゆるネガティヴな事件の報道に対する熱狂自体には必ずこの前提が付帯しているのである。だから我々はこう言うことが出来る。一切の行動の自由を奪ってまで賄賂、談合、不正入札、裏口入学、売春、買春、覚醒剤売買と使用が消滅させたいなどと誰も思わない、そしてそういった一切の資本主義社会が発生させる悪さえ成り立たないような不自由な社会になど生活したくはない、ということなのである。いやそれどころか我々は建前上ではそれらを批判しながら、時々そういうニュースが飛び込んで来ること自体を密かに期待し、胸をわくわくさせてさえいるのである。事実ここ数年のことを振り返ってみてもライブドアショックなどの時に様々なM&A用語を覚えたのだし、風説の流布にしたって、そういった事態の一切ない社会の退屈さに既に我々は耐え得るのだろうか?そんなことはあり得ない。私たちは現実にはあらゆるえげつない好奇心まで満喫させてくれるだけの刺激のあるトップニュースを常に期待しているのである。そしてそのような好奇心を充足させてくれるメディアを飼い馴らしているとそう実感し得る社会で生活すること自体に、行動とあらゆる行為選択の自由を保障されている、と実感し得ているのである。

Thursday, December 3, 2009

第十九章 レッテルを貼ること(対他的・対自的)の価値

 例の有名芸能人の覚醒剤使用による逮捕事件に伴ってユーチューブ上では彼女がトランス状態でDJをしている映像へとアクセス数が殺到していることが話題になったが、実はこの種のアイドルのギャップへの関心は、本来マスメディアに乗せられているイメージが全て巧妙なる視聴率獲得のために戦略によって集団によって作られていっているということに対してすっかり忘却してしまっているファン心理に根差している。しかし当人はかなり若い頃からプロデビューしていても普通の女性なのである。つまり我々は何もアイドル芸能人に対してだけではなく、政治家に対しても人気経営者に対しても、文化人に対しても彼らのイメージをその偉業に相応しいものとしてレッテルとして貼り付けているということである。これはファン心理によるものであり、最初からバイアスが掛かっている。つまり必要以上に神聖化してしまっているのだ。だからいざそういう偶像が何らかの過失を犯すと途端に転落というイメージを持ってしまう。しかし本来誰しもそのようなレッテルに百パーセント同化し得る成員などいないのである。
 その点それらの偶像に付帯させてしまうイメージとしてのレッテルとは、しかし対他的なものだが、そのイメージづけを世俗的に自分に付帯させてしまおうということが、俗物根性として発生してしまう。件の私を苦しめた性悪な処女たちがそうであった。端的に自らの処女性を神聖化させてしまうということ自体は実は結婚制度と、結婚が一定の男性の側の経済力に伴った行為であるという通念によって得られているのだ。
 つまりファンがアイドルに対して付帯させるイメージ上の似つかわしい「在り方」は、そうすることを日常化する低レヴェルのファン心理によって支えられているが、そのファン心理が対自分ということになると、途端に自らが勝手に偶像に付帯させたイメージを相手の男性に強要させる、自分たちにとってのアイドルでさえそうなのだから、自分のような存在に対してはそれ以上の配慮を払えと男性に強要するのである。彼女らにとってミーハー的発想とは端的に勝手に自分たちの偶像に付帯させたイメージであり、本来自分に対して周囲の男性に付帯させておきたいイメージに他ならないのである。
 確かに覚醒剤を使用したりすること自体はよくないことだが、彼女らは未だそういう風に逃避行してしまうだけのキャリアはある。だがその偶像を追っかけするファンたちはただ勝手に追っかけをしているだけで、自分自身は何らキャリアを構成しているわけではない。にもかかわらず、その偶像に対して付帯させたイメージ自体は自分たちによる表象だから、その表象は自分のようなアイドルではない通常の存在にも適用されるのだ、という主張自体が、権利上彼女らの心理には支配しているのである。つまり彼女らは自分で勝手に自分たちにとってのアイドルに付帯させたイメージとはとりもなおさず、そういうものとして自分たちを取り扱って欲しいという男性から見られる自分の理想なのである。しかし彼女らには一切の彼女たちにとっての同性のアイドルほどの才能も力量もない。端的にノンキャリアであり、通常人である彼女たちは、だから対自的には完全に客観視を怠っているのである。
 しかし彼女らのこの図々しい心理を我々は笑うことが出来ない。何故なら自分たちは自分たちがマスコミの偶像として取り扱っている存在ほどの日々の緊張を一度も味わったことがないのに、いざ彼らが何か過失を起こしたら、途端に彼らを火炙りにすることを見て楽しむからである。つまりマスコミが与える偶像化された全てのイメージとは、只それを享受する我々自身をあくまで自分のことは棚に上げたままにしておき、勝手に賞賛したり、勝手に貶したりすることが出来る便利なイメージでしかないからである。つまりそこには一切の責任がない。だからマスコミに流通するイメージというレッテル張りには一切の自己の実存に対する問い掛けがないのである。その自己を取り巻く事情を一時忘れさせるという副作用が概ね少ない覚醒剤の役割を我々はマスメディアの流す情報とその情報に乗るタレントのようなアイドルに付帯させているイメージに求めているのである。だからこそマスメディアとは生きもののように振舞っているが、実際は生きた人間でも、我々が飼っているペットでもない全くの無生物であるところの絶対的他者なのである。しかし日常の卑近な話題とはその絶対的他者に対してなされることが多い。そのような話題こそが直接我々の日常生活の利害に絡むことが比較的少ないからである。
 そのように現代社会に生活する人間が絶対的他者である幻想であるメディア自体が流すイメージを利用するということの背景には実は私たちが常に死に対して怯えているという事実が浮かび上がる。マスコミ自体の泡沫のイメージを褒め称えたり、貶したりすることによって一切永続的価値ではないことを一方で認めておくことで、実は自分の人生自体はそれほど簡単に判断することが出来ないという事実を常に問い掛けずに保留にしておくという日常的な目論見こそがメディアに対する責任のない態度として現われているのである。
 従ってメディアに登場する様々な偶像に対して勝手なレッテル張りをすることの価値とは端的に気分転換であり頭休めであり気休めであり生き抜きなのである。そしてそのことは全てのメディアに関わり運営している側が前提として心得ていることなのである。だからこそそのメディアの提供するイメージを裏切るような過失が齎されると本当は私たちの生活に然程重要な出来事ではない事件でもトップニュースとして取り扱うような事態へと発展していってしまうのである。しかしそれももっと我々の生活上で深刻な影響を与えるようなニュースが不在の時に限られるのだ。だが我々はそういった例えば世界同時不況の発端となったリーマンブラザースの破綻から、サブプライムローンの破綻といった深刻な事件がトップニュースとなるような事態を忌避したいと常に願っている。そういったニュースを聞くくらいなら、いっそアイドルの転落とか、有名文化人の犯罪といった事件の方を積極的に好むようなところは実際にあるように思われる。勿論彼らに対して贔屓にしているのなら、より彼らが素晴らしい仕事をしてくれるのに越したことはないのだが。