セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, December 3, 2009

第十九章 レッテルを貼ること(対他的・対自的)の価値

 例の有名芸能人の覚醒剤使用による逮捕事件に伴ってユーチューブ上では彼女がトランス状態でDJをしている映像へとアクセス数が殺到していることが話題になったが、実はこの種のアイドルのギャップへの関心は、本来マスメディアに乗せられているイメージが全て巧妙なる視聴率獲得のために戦略によって集団によって作られていっているということに対してすっかり忘却してしまっているファン心理に根差している。しかし当人はかなり若い頃からプロデビューしていても普通の女性なのである。つまり我々は何もアイドル芸能人に対してだけではなく、政治家に対しても人気経営者に対しても、文化人に対しても彼らのイメージをその偉業に相応しいものとしてレッテルとして貼り付けているということである。これはファン心理によるものであり、最初からバイアスが掛かっている。つまり必要以上に神聖化してしまっているのだ。だからいざそういう偶像が何らかの過失を犯すと途端に転落というイメージを持ってしまう。しかし本来誰しもそのようなレッテルに百パーセント同化し得る成員などいないのである。
 その点それらの偶像に付帯させてしまうイメージとしてのレッテルとは、しかし対他的なものだが、そのイメージづけを世俗的に自分に付帯させてしまおうということが、俗物根性として発生してしまう。件の私を苦しめた性悪な処女たちがそうであった。端的に自らの処女性を神聖化させてしまうということ自体は実は結婚制度と、結婚が一定の男性の側の経済力に伴った行為であるという通念によって得られているのだ。
 つまりファンがアイドルに対して付帯させるイメージ上の似つかわしい「在り方」は、そうすることを日常化する低レヴェルのファン心理によって支えられているが、そのファン心理が対自分ということになると、途端に自らが勝手に偶像に付帯させたイメージを相手の男性に強要させる、自分たちにとってのアイドルでさえそうなのだから、自分のような存在に対してはそれ以上の配慮を払えと男性に強要するのである。彼女らにとってミーハー的発想とは端的に勝手に自分たちの偶像に付帯させたイメージであり、本来自分に対して周囲の男性に付帯させておきたいイメージに他ならないのである。
 確かに覚醒剤を使用したりすること自体はよくないことだが、彼女らは未だそういう風に逃避行してしまうだけのキャリアはある。だがその偶像を追っかけするファンたちはただ勝手に追っかけをしているだけで、自分自身は何らキャリアを構成しているわけではない。にもかかわらず、その偶像に対して付帯させたイメージ自体は自分たちによる表象だから、その表象は自分のようなアイドルではない通常の存在にも適用されるのだ、という主張自体が、権利上彼女らの心理には支配しているのである。つまり彼女らは自分で勝手に自分たちにとってのアイドルに付帯させたイメージとはとりもなおさず、そういうものとして自分たちを取り扱って欲しいという男性から見られる自分の理想なのである。しかし彼女らには一切の彼女たちにとっての同性のアイドルほどの才能も力量もない。端的にノンキャリアであり、通常人である彼女たちは、だから対自的には完全に客観視を怠っているのである。
 しかし彼女らのこの図々しい心理を我々は笑うことが出来ない。何故なら自分たちは自分たちがマスコミの偶像として取り扱っている存在ほどの日々の緊張を一度も味わったことがないのに、いざ彼らが何か過失を起こしたら、途端に彼らを火炙りにすることを見て楽しむからである。つまりマスコミが与える偶像化された全てのイメージとは、只それを享受する我々自身をあくまで自分のことは棚に上げたままにしておき、勝手に賞賛したり、勝手に貶したりすることが出来る便利なイメージでしかないからである。つまりそこには一切の責任がない。だからマスコミに流通するイメージというレッテル張りには一切の自己の実存に対する問い掛けがないのである。その自己を取り巻く事情を一時忘れさせるという副作用が概ね少ない覚醒剤の役割を我々はマスメディアの流す情報とその情報に乗るタレントのようなアイドルに付帯させているイメージに求めているのである。だからこそマスメディアとは生きもののように振舞っているが、実際は生きた人間でも、我々が飼っているペットでもない全くの無生物であるところの絶対的他者なのである。しかし日常の卑近な話題とはその絶対的他者に対してなされることが多い。そのような話題こそが直接我々の日常生活の利害に絡むことが比較的少ないからである。
 そのように現代社会に生活する人間が絶対的他者である幻想であるメディア自体が流すイメージを利用するということの背景には実は私たちが常に死に対して怯えているという事実が浮かび上がる。マスコミ自体の泡沫のイメージを褒め称えたり、貶したりすることによって一切永続的価値ではないことを一方で認めておくことで、実は自分の人生自体はそれほど簡単に判断することが出来ないという事実を常に問い掛けずに保留にしておくという日常的な目論見こそがメディアに対する責任のない態度として現われているのである。
 従ってメディアに登場する様々な偶像に対して勝手なレッテル張りをすることの価値とは端的に気分転換であり頭休めであり気休めであり生き抜きなのである。そしてそのことは全てのメディアに関わり運営している側が前提として心得ていることなのである。だからこそそのメディアの提供するイメージを裏切るような過失が齎されると本当は私たちの生活に然程重要な出来事ではない事件でもトップニュースとして取り扱うような事態へと発展していってしまうのである。しかしそれももっと我々の生活上で深刻な影響を与えるようなニュースが不在の時に限られるのだ。だが我々はそういった例えば世界同時不況の発端となったリーマンブラザースの破綻から、サブプライムローンの破綻といった深刻な事件がトップニュースとなるような事態を忌避したいと常に願っている。そういったニュースを聞くくらいなら、いっそアイドルの転落とか、有名文化人の犯罪といった事件の方を積極的に好むようなところは実際にあるように思われる。勿論彼らに対して贔屓にしているのなら、より彼らが素晴らしい仕事をしてくれるのに越したことはないのだが。

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