セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, November 5, 2014

第六十四章 時代は作られる Part1

 前回のシリーズは再度アート体験を私なりに積み重ねた後に引き続き行っていくこととして、今回はそういった現代アートをも生み出した二十世紀を再度振り返ってみたい。
 現代アートが戦後アメリカ社会でNYを中心にビジネス的に大きなグローバリズムの波を作った事は投資ビジネス等で巨万の富を得たジョン・ピアポント・モーガン等の存在を抜きに語れない。メトロポリタン美術館は彼の寄付等に拠って作られている。
 しかしそういった財閥のパワーがアメリカアズ№1というステイタスシンボルとしてアートの理解者として君臨する事で、様々な現代アート運動が花開く事は、寧ろ財閥自体を多くの若者に拠るムーヴメントが自然発生的に沸き起こった事が触発したと言うに尽きる。つまり財閥が仕賭けたのではなく、財閥はそういったムーヴメントが沸き起こる予感と、兆候を読み取る事で利益を得ようとしただけであり、若者達が新たな価値に飢えていたという事実を見逃す訳にはいかない。勿論全ての若者がそういったムーヴメントに参与していた訳ではない。昨今京都大学の公安の警察官が集会に居て、集会を指示する学生達から逆に質問追及された事件が報じられたが、警察官や行政的任務に就く大勢の若者達も居る。従ってそういったムーヴメントは比較的富裕層の息子や娘達に限られていたとも今振り返れば言える。
 彼等はアメリカではアイビーリーグ等と呼ばれる中流資産家の息子娘達であり、彼等の親の世代から独立しようという機運が色々なムーヴメントを後押ししてきた要素が強い。その中にはアートという特殊なニッチマーケットとは違ってもっと巨大なビジネスとなった音楽シーンがある。ロック&ポップスは未だに多くのファンを惹きつけているが、彼等ミュージシャンの動向がアートの様な特殊なスキルと表現メディアへも影響を与える。演劇や映画もそうだし、日本では特にマンガ等のサブカルもそうであり、アニメ自体が凄く隆盛を極めるのもアメリカではディズニー発であり、それを輸入した日本が手塚治虫、松本零士、宮崎駿、浦沢直樹等の天才達を世に送ったが、それ等全ての起爆剤として戦後民主主義の自由と平等のアメリカ合衆国理念発の若者のムーヴメントが在った。勿論ディズニーも手塚もその世代よりは上である。しかし自分達が仕事をして活躍する中でそれらのムーヴメントから影響を受けなかった訳がない。手塚で言えば「鉄腕アトム」の時期には既に公民権運動も激しくなりつつあったし、その事が後に「ブラックジャック」等の作品に固有のシニシズムを生む事となったと言える。
 日本はよりアメリカのムーヴメントに敏感だったが、実は台湾も韓国もヴェトナムもそれぞれ(とりわけヴェトナムはアメリカと戦争をしたので、戦後はその経緯を踏まえ再建の中でアメリカの若者ムーヴメントに対してはそれなりの意識を持ってきただろう)固有のアメリカのスピリチュアルムーヴメントを咀嚼してきたに違いない。
 しかしアメリカは先程も述べた様な巨大財閥が犇めく世界経済戦略の発信地でもある。その点では常に世界経済の牽引者としての地位と、そういったグローバリズムが齎す弊害へのシニカルな批判者が共存する地だとも言える。その点での屈折は日本では余り無いと言っていい。アメリカ程極め付けの階級社会的なものは日本ではない。全中流化、全小規模資産家的国家である日本では荷重な労働で精神的に疲労困憊しつつ自殺をしたりする例の方が多く、それは下級管理職に集中している。その意味では小泉構造改革が齎した負の部分が今もずっと燻っていると言えるし、自殺者の自殺率もアメリカより日本の方が大分上である(因みに韓国や中国の方がもっと上である)。
 この一国内に世界経済の金融資本主義を後押しする保守層とそれを批判するインテリ、中間層の共存という常に捻じれた構造は先進国全般に固有の精神的屈折を生み、それが多くの若者のムーヴメントを後押ししてきた面もかなり強い。アメリカでは人種差別と戦争、そして経済格差が色々なムーヴメントを生んだが、70年代以降はそういったムーヴメントの牽引者達が巨大な資産家の仲間に入っていってしまい、結局音楽もビジネスとして完成されてしまったのだ。つまりモティヴェーションとは常に人間が若者から中年へ移行していく様な時の流れに拠って徐々に大きく変質していくし、初期のハングリー精神は徐々に磨滅していく運命に全ての表現者があった。勿論世界という事を射程に入れれば今年ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんの国パキスタン等では未だに男女同権ではないし、教育の機会さえ均等ではない。その意味ではかつてアメリカで沸き起こった文化的なムーヴメント(モンタレーポップフェスティヴァルやウッドストックコンサート等のサマー・オブ・ラヴやフラワーパワー、ヒッピームーヴメント)は今後東南アジア諸国で沸き起こっていくだろうことも間違いない。その一つの兆候は選出される議員が殆ど中華人民共和国の共産党本部の人達だという事で学生や市民がデモを起こしている香港が発火点になる可能性も充分にある。今後この香港の政治的ムーヴメントが台湾等とどの様な形で連携されていくかに拠って2010年代以降の文化ムーヴメントの将来がある程度決定すると言える。それは継続されていくのか、無残にも潰されてしまうのか、それは未だ分からない。しかし少なくともかつての文化ムーヴメントを担った人達が全員老齢化している昨今、音楽シーンも完全にビジネス化してしまっている(その発端はビートルズでもあるし、マイケル・ジャクソンに拠って決定的となったが)現代で、その中でどれくらいのモティヴェーションを構築し得るか、それは当然かつてのムーヴメントとは異質の時代性格と異質の根拠のものとなるに違いないが、それを担うのは既に若者も含めた全人類でもあるとは言えるだろう。