セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, March 17, 2010

第二十七章 価値の固定化とその不安

 私たちはある意味ではかなり惰性的に常に新たな価値の再考を億劫がるので、価値を固定化しておこうと思う。と言うより価値自体に対して一定の固定化可能なもののみを選別しようとする。しかしそれはそうしなければならないくらいに常にその価値判断が誤っていたのではないかという不安も付き纏っているということも意味している。人格とは端的にその最たるものである。つまりある重要な自己にとっての他者の人格を、そしてそういった他者たちに示し得る自己の人格とは陶冶された形で固定化を常に求めている。しかし常に人間には苦悩とか疑問が付き纏っているから、必然的に固定化された価値自体への懐疑も払拭しきることは出来ない。つまりその二つの相反する志向性を常に拮抗させる形で共存させているのが私たちだ、ということである。価値の固定化に帰するところの多い行為は記述であり、言語行為はその都度の価値の固定化を求めているとも言える。思考そのものは寧ろ常に試行錯誤的である。従って不安を払拭する観点からも思考というものの在り方を考えることは可能である。しかし思考とは常にそれを通して「思考されたもの」という固定化を提出すべく用意している。
 ある部分では恋とか恋愛もこの価値の固定化に似ている。理想的相手とか理想的恋人とか異性ということでは、我々はかなり日常的な気安さとは別の価値を求めている。だから意外と結婚相手とは手堅く理想とは違っていても生活力とか日常的な親しみやすさとか、要するに観念的理想価値とは離れた実在に対して選択することが多い。つまりこのように理想の恋愛相手ということと、堅実な結婚相手を二重に価値して背負うことが出来るというところに人間の価値自体への捉え方の多義性がある。そして理想の相手という観念的存在の方がより不安を掻き立てることもあれば、逆に手堅いと考えていた存在の方に不安を感じることもあるだろう。あるいは理想自体かかなり堅実に変更不可であるような固定化された価値となっている場合もあれば、逆に理想というものが常に安定性を欠く現実離れしたものの方に視線が向けられるような価値判断も在り得よう。また堅実で現実的な他者こそ友人としても結婚相手としても真に理想であると認識する理性もあれば、そう思っていること自体へ変更や心変わりすること自体を人生の転機として理解する見方、つまり価値転換自体を価値的に捉え得る瞬間も人生にはある。それらは双方とも実は価値自体が固定化され然るべきであるという思想があり、またその固定化され得るからこそ、慎重に選別する必要性も感じ、その二つが常に不安という名の心理によって付かず離れずに内的に存在し続けているということが私たちの精神であると言ってよい。
 つまり価値とは一定程度に揺ぎ無いものであるべきであるからこそ、ある時には一大決心において価値転換すべきであると同時に、価値選択には常に不安が付き纏い、また一切不安の付き纏わないものを価値として容認することが出来ないということが私たち多くの一致した観念であろう。
 価値自体に対してそれが正当であるか否かを巡る不安があるということは、ある意味では価値自体が一方で自己独自の判断に起因するも、他方それだけではなく、他者の裁量をも合意として仰ぐという要素が心的に我々に備わっているということである。従ってカントが「実践理性批判」や「判断力批判」で示したことはある意味では他者存在そのものであったとも言える。つまり格律に関しても、美的判断に関してもそこに関わるのが他者だからである。
 それに不安とは価値の正当を巡る判断の問題だけに留まらない。つまり価値自体が誰しも自己独自の判断をするということを通した共通関心領域として公に設定され得る故、我々は価値を語る時、個々の成員が孤独の内にいつかは死ぬということを忘却出来る。つまり死を巡る個々の弧絶性に起因する不安を相互に除去しようという無意識の内に起きる配慮こそが価値を共通関心領域としてたとえ二人でいたとしても公に設定することの深層心理的理由かも知れない。つまりそれこそが思い遣りの発生根拠である(だからこそ思い遣りとはややもすると甘えへと繋がりやすいとも言える)。つまり公に共通関心領域を設定し得るということの内には基本として親しくなるということがある。その心的作用とは実は個々の成員の死を巡る運命論的弧絶性が潜んでいる。それは共通関心領域に意識を集中させている間は少なくともその不安から除去され得るというところに親しくなる者同士の配慮があるのだ。 
 その背後には他人の気持ちになって考えるということが我々は想定上容易になし得る一方、実はでは自己同一性とは何かと問われれば、それに返答することの困難に直面する。それは次のシドニー・シューメーカーによる記述に顕著に示されている。(「自己知と自己同一性」前出と同じ)
 
 (前略)昨日のある時点から現在のあいだ中断されない記憶を私が持っているとしよう。また、今私は昨日起こったある「観念」、例えばイメージを覚えており、その観念をもった、あるいは知覚した実体ないし主観をも覚えており、さらにそれがこの観念をもった時点以来、この実体を「見失って」いないことをも覚えている、それゆえ、何もそれと置き換えなれなかったし、それは私の現在の観念を知覚している実体と同一であると確信できるとしよう。私がこのことを覚えていることがありうるとすれば、逆に、ある時点で別の実体に置き換えられたのを覚えていることもありうるし、それが私の現在の観念を知覚している実体と同一ではないのを知ることもできることになろう。私がある事物を知覚できるとして、もし昨日から現在までに観察した(知覚した、覚知した、意識した)ことの記憶が、いま観察している事物が昨日存在していたのを覚えているものと同一であると教えてくれるならば、それは逆に、両者が同一ではないのを教えてくれることもあろう。第二章で述べたように、ロックは、われわれが常に同一の実体のままでいるという考えを疑う根拠として、よく過去の自己を「見失う」という事実に訴えるが、それを通して彼は、ある実体が別の実体によって置き換えられることは可能であり、もしわれわれの意識が中断することがなかったとすれば、この置換が生じたのを見つけることになろう、という考えを示している。というのも、そうした置換が見つかることなく起こるかもしれないと彼が考えるのは、ただ意識が中断するという理由のみによってだからである。だが、もしこの置換が生じたのを見つけるとはどんなことであるかをわれわれが知っているならば、たしかに、いつかそれを見つけるということは想像可能であろう。しかしながら、ここで、昨日その観念をもった(そのイメージを見た)実体が別の実体に置き換えられ、私の現在の観念をもっている実体と同一ではかったのを私が覚えているとしよう。もし人格の同一性が実体の同一性にあるか、それを本質的に含んでいるならば、この例において、覚えている観念が私とは別の誰かに属していたと言わねばならないことになろう。だが、ロックも了解していたように、これは不合理なのである。というのも、私がこのイメージを覚えているとすれば、それをもったのは私だったからである。したがって、われわれはロックと同じ結論を導いて、人格の同一性は実体の同一性を含意しないと言うか(この見解が理解不能ないし自己矛盾であることはすでに論じた)、それとも、物質的対象や他人が一定の期間同一であったとか、そうではなかったとかをわれわれが観察したり覚えていたりするのと同じ意味で、心的実体や自己同一であったとか、そうでなかったとかを観察したり覚えていたりすることはありえないと言うか、どちらかである。(第四章 自己同一性と記憶内容、164から166ページより)

 このシューメーカーの記述から読み取れることとは、我々は恐らく皆他人に対してその行為を観察してそれを記憶しておくような意味で自分の行為を記憶するのではないということである。だからこそある物体が昨日見たものと今見たものが同じであるということが証明されることで人格の同一性が判断されるのではないという、内的自明性がここで語られているのである。それは自己同一性とは、他人を観察するようなある種の客観性を基準に判断することによって示し得る同一性では決してない(それは寧ろあなたと私が見たリンゴが同じであるかどうかということの査定にしかならない)ということ、即ち例外的、特殊的、超越的、唯一的なことなのだ。この考えはデカルトの考えを基本としているように思われる(ロックはそれを引き継いでいる)が、ラッセルによってもある部分では継承されてきていることをシューメーカーは明示しており、シューメーカーの考えをある部分で引き継いでいるのが永井均であると言える。
 つまりだからこそ価値とは本来判断的には純粋に個人のものであるが、誰しもが自分以外の者に判断を価値的に委ねることが出来ないという事実において他者存在を浮き上がらせる仕組みにもなっている。それは哲学固有の二面性でもある。
 つまり他者の判断など価値においは採用すべきではないという個の価値判断の持つ個の責任という考えが実は価値を常に不定であることを忌み嫌い固定化を必然的に自己内において求めるように作用するのである。自己内で作用する固定化はしかしそうすることによって他者に示すこともその気になれば出来るという性質を獲得する。価値を固定化しているのが本質的に自分だけではないことを個は既にとっくに覚醒しているからである。そして個におけるそのことの覚知こそが不安を生じさせてもいるのだ。だからこそこの不安の除去が勢い余って価値を権威付けるという挙に我々はつい出てしまうのだ。そこに法とかあらゆる価値基準が先験的に外在物であるかのような錯覚を我々は持つのだ。つまりだからこそ「あなたと私が見たリンゴが同じである」という外的観察可能なことと、価値をどこかから混同してしまうこともあるというわけだ。シューメーカーによって示されていた前述の記述からその誤謬に対する戒めを読み取ることは可能である。