セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, March 7, 2012

第三十四章 自信論

 公共的価値と個人的価値との間の齟齬から我々が得る不安は我々を一挙に奈落へと突き落とす。従って我々はどこかでその不安を払拭したいと願う。しかし案外その時虚勢を張って自信を持とうとしても、それは自己欺瞞的なことである。第一それを自分自身は一番よく知っている。不安が自信を作ることを知っているのだ。しかし本当に自信がある時には案外声高に何かを叫ぶことはない。何か常に信念として、あるいは価値判断として正しいと思っていること自体を懐疑的に他者から捉えられると、我々は依怙地となってそれを違うと言いたくなる。そうすることによって不安を持つまいとするのだ。
 しかし自信とは一面では「そんなことはない」と誰かから一蹴されてしまうと一挙に失われていく。だから却って自信とはそれほど最初からない方がより、慎重になるということから逆に発生するとは言えるし、また却ってその方が脳自体は安定した考えが出来るのではないか?脳科学者に聞いてみたい気がする。
 ただ単に自信がある内はいいけれど、自信過剰になりやすくなる瞬間も我々にはある。だから本当に自信がある時に、それが違うと否定されると、案外そんなことはないと逆上することもなく「そうかも知れないですね」と相手に適当に合わせることも多いかも知れない。寧ろ本当はあまり自信がない時こそ依怙地に相手から否定されると、その否定を
頑強に否定しようとする。だが案外我々はこの空元気のようなものを自信と勘違いしていることが多い。それは他者に対する優越感自体がかなり他者に対する劣等感と抱き合わせで、その自信のなさを払拭したい心理が優越性を意識したいと気がついた時にはそう構えている。
 自信とは端的に大きな選択をする時に躊躇しないで実行出来ることから生れる。すると大きな選択をするためには我々日常で小さな躊躇をしていくべきであり(そうしなければ大きな選択は出来ない<余程経済力の或る人でなければ、いや経済力のある人でさえ大きな選択をするにはそれが必要である>)、且つ大きな躊躇を回避するためには、日頃から小さな選択(つまり些細な努力)を躊躇しないということが求められるのだ。
 その二つを両立しないままでいると、いつまで経っても大きな選択も可能とならないし、大きな躊躇もしなくてはならない、つまりあらゆる可能性を諦めていかざるを得なくなる。
 つまりしなくてはならない小さな躊躇とは端的に危険を回避するためにするのであり、逆に小さな選択をしなければならないのは、努力して何らかのことを乗り越えていく必要があるからだ。つまり小さな危険を回避することにおいて躊躇することが、強いては小さな選択を潔く豆にするということである。それは努力に他ならない。
 又本当に信じて貰いたい相手から信頼されていないということがあれば、確かに本当にあることを自信を持って信じていても、それを声高に叫ばなくてはならない局面も人生にはある。
 そもそも人間は死ぬのに生れてくるのだ。いつか死ぬのなら、いっそ生まれてこなければよさそうなのに、偶然我々は生れてきた。だからこの理不尽、不条理、不合理に対して何らかの折り合いをつけるために我々の祖先の一群の人たちが原罪という観念を拵えたのだ。全ての宗教が志向することとは、端的に死を恐れない心理を作るという必要性である。この不合理性に対する決着である。その決着自体に対して自信があるということは、ある意味ではいつでも死ぬ覚悟が出来ているということに他ならない。それは得てしまって失うことが恐ろしいことではなく、得ないで失うことがないことを通して恐れないということに尽きる。それはある部分では仏教の歴史そのものであると言ってよい。
 しかし我々は残念ながら、自らの成功とか虚栄といったものを得てしまう。つまりだからこそ得ないでいることを価値と見ることも出来る。その一つが財産であり、知識である。
 例えば我々はどこかで縦の遺伝という「死する生命」における合理性を担って生れてくるが、実は生れてきたある限定された時代を生きるということが、他者と出会うことを運命づけられていることを知る時、横の遺伝もまた重要であることを知る。だからこそ仏教ではかつて輪廻転生とか因果応報と言ったのだ。
 しかしユダヤ教でもキリスト教でも壮大なフィクションを拵えた。つまりその壮大なフィクションそのものが我々に近代合理主義とか自然科学による恩恵を齎した。その一つが論理である。しかし一旦獲得した文明が一段落すると、心の余裕がポジティヴな意味でもネガティヴな意味でも出て来て、そこからは逆に仏教的死生観の活躍する場が与えられる。
 要するに縦の遺伝と横の遺伝の縦横の座標系における交点こそが私たち一個一個の個であると言ってよい。そのことをかつて仏教の偉い思想家たちが輪廻転生とか因果応報と呼んだのだ。
 それは私にとって馬の合う仲間や友人に対して、私の祖祖父も、その又曽祖父においても、似たような他者間での経験を持っていたかも知れないということが、逆に現代の遺伝学では証明出来ることなのだ。だが勿論証明とは部分的にしか出来ないだろう。つまり完璧には解析出来ないということを知ることで、またそこに神秘性を我々は抱くことが出来る。その分からなさ自体へと着目することが存在者としての自信を我々に植え込むことになるのかも知れない。それは知ることの根拠を巡る問いである。
何故私たちはもっと何かを知りたいと願うのだろうか、あるいは何故我々はある異性に対しては惹かれ、それ以外の異性に対してはあまり惹かれないのかということも一定の線までは解明出来たとしても、それは完全にではない。何故なら個々ある一定のタイプに惹かれるということだけでなく、全く相反するようなタイプ二つに同時に惹かれていくということもあり得るからである。まさにそれこそが私たちはもっと何かを知りたいということなのだ。
しかしその一定までしか解明出来ないということが逆に個々の存在者に個を生きることの価値を教えてくれる気も私はするのだ。その解明出来ないということは人類全体にとってもそうだし、私という一個の存在にしてもそうである。しかし逆にそのような不可解な個であることから我々は生きる自信を得ることが出来る。何故なら生涯をかけて何故この自分として生れてきたのかという問いは確かに私たちにとってポジティヴに自分自身の可能性を探ることだからである。その問いを生涯抱き続けることが出来ると思える時に私たちは自信を得ることが出来る。
 つまり私は恐らく全ての他者よりもよく知らないままであることを多く持つだろう。そのことは終ぞ生涯一定の線以上の知も理解もないままで死んでいくことを私に運命付けるが、その事実こそが実は全ての私にとっての他者には終ぞ知ることの出来ない多くを私だけが知ることが出来るという可能性(それは実際に事実である。私しか知らないことは確かにある)を私が見出すことを可能にする考えだからである。
 画家の横尾忠則は「自分というものは一番神秘的です」とテレビアートヴァラエティで述べていたが、まさにその通りである。それこそが自信論の結論として相応しい言説ではないだろうか?