セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Monday, August 2, 2010

第三十章 無の壁

 我々は目標設定をし、意志を明確化し、意志決定の合理化のために多くのデータを参照する。その際に確定的な真理に対してそれを価値として設定する。そして一旦設定した価値はそうたやすく設定基準もそうであるし、それ自体も解除することは出来ない。だからこそそれを価値と我々は呼ぶわけだ。しかしある意味では価値とはそれを基軸に、価値に相応しいこと、価値に近づくような行為や思想、言動、決心といったことが考えられていき、それは要するに「~らしさ」とか「生き方」を固定化させていく。つまり「あなたには~であることが価値であるのだから、それを心がけていくことが大切です」という言辞には確かにそれなりに有り難いものはある。しかしそういった物言いにだけ縛られていくことも往々にしてある。つまり言葉による規定(プリンシプル)が我々の行動意志を呪縛していくのである。その時我々は自由を疎外していく運命にある。これはかなり厄介なことなのである。何故なら我々は日常的にかなりの度合いで言葉によって全てを決定し、決心しているとも言えるからだ。だから言葉外的な決心というと生物的な野蛮な本能的判断という風に評定されかねないからだ。
 しかし言葉、言語行為全般に対して我々はあまりにも過大な価値を、しかもそれも人間的価値、人間学的基礎的な価値として見過ぎているということを悟ることが出来る。
 つまり言語自体がある意味ではかなり動物的行為でもある、という側面からの判断を一切忘れ去ってしまっているからである。つまり意思疎通欲求という側面から考えれば言語行為以上に本能的なことはない。しかしにもかかわらず、その本能的欲求がかなり大きなものであるために、それを自己正当化するために、それを人間学的最高の知性とか、理性という名において美化してきた、ということがある部分では哲学史の本質でもあるのだ。
 つまり欲求が過大であること、そしてその欲求へと向けた未来を投企する場として設定して日々を送る我々にとって「~らしさ」(自分らしさでもいいが)、「生き方」といったこと、そういった全ての「心がけ」自体が一つの現実の現在的時点での我々にとって我々の内的欲求によって設定され、作られた無である。しかもその内発的欲求によって動因された設定基準自体が我々の未来へと差し向けられた行動の足枷となってしまうのである。
 これは無自体の壁に我々が日々苛まれているということである。
 このことは養老孟司氏は「バカの壁」と呼んだわけだ。あるいはマックス・ヴェーバーはそういったスタンスを理念型と呼んだわけだ。だから逆に我々はこの壁自体を切り崩すことを寧ろ諦め、それを活用することを考えた方がよい。つまり壁自体に自分自身を救って貰うように計らうのである。つまり自分で設定した意味の呪縛であるところの無の壁という設定基準自体に対してまるで神に対する姿勢であるかのように、「これ以上は今の私には出来ませんから、今後の成り行きを見守り下さい」と呼びかけるわけである。
 だからその時寧ろその設定された「~らしさ」や「生き方」を否定するのではなく、自分自身がそこまでは到達し得ない無力を悟るために利用するわけだ。そしてその理想的設定基準よりも少し低めであり、もっと現実的で現時点での自分に相応しい基準をもう一度設定し直すわけである。そこから実存型とも言い得る知恵が発生するのである。
 有り難い無の壁によって壁を乗り越えるための処方を見出すのではなく、ただその壁に寄り添って、とこまでも歩いていくということを考えるのだ。そうすれば、壁のない方向にこそ自己の進むべき地点が見出されるということもあり得る。それは別種の価値を見出すために、諦めるために設けられた取り敢えずの価値であると言える。つまり次のように無の壁を定義しておこう。無の壁とは壁を避けて別方向へと意識を差し向けるための方便である。