セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Tuesday, April 13, 2010

第二十八章 真理・欲求・親しくなること

 人間とは何故他者と親しくなるのかと考えると、意外とそれは言葉を知って、言葉を利用してあらゆる思考をしているのに、その言葉の無力を感じた時、そのことに対して共感したということかも知れない。何故なら私たちの言葉とは端的にあるのかないのか本当は分からないのに、あるものとして「世界」と名づけたものに対して、それぞれ、個物に対して、あるいは現象に対して命名して、意味づける。つまり何物、何事に対してもそれを「あるもの」としてそういう枠組みの中に位置づけることこそが言葉の力である。すると我々は世界の実像を知る以前に言葉の力によって既にある程度の目星をつける。つまり世界を一つの性格とか性質の下で理解しようとする。その段で既に我々は意味づけられた秩序の下で全てを理解しようとしている。しかしそうすることはある意味では実(そんなものがあったとしての話しとして)自体と常にどこかでずれてもいることを我々は直観的に知っている。例えば異性に対して惹かれるということは、ある部分では相手の実に対する勝手な思い込み、要するに誤解からである。しかしある時自分が惹かれる異性が自分にとっての理想であることを感じていたことを裏切るような態度とか言動をその異性が自分に突きつける。その時私たちは自分勝手な相手に対する意味づけそのものが挫折したことを知る。つまりその意味づけに対する挫折体験の共有事実こそがある他者と共感し合うことであり、親しくなることなのだ。ふられた者同士が親しくなるような意味で、友人というものは理解し合うようになるという要素がある。
 その意味では従来から哲学では真理とは不変なことであり、それに対して欲求とは常にころころと変わると、まるで真理を理想であるかの如く扱い、逆に欲求を低位に位置づけてきたと言える。しかしよく考えると常にころころと変わるという現実自体に我々が翻弄され続けてきたからこそ、我々は不変のものをどこかで求めてきたのだ。従って我々にとって真理とは求めるものである。つまり真理とは欲求であり、欲求が生み出しているものである、とも言えることになる。それに欲求というものが心の中に実際の実在物と同じようにではないにしても、存在するということを取り敢えず我々は真理としている。つまり真理と欲求とは実はかなり親縁的関係にあることが了解される。
 つまりここで言う理想とか真理とは一つの価値である(例えばただ生きていたっていいのに中島義道+香山リカによる対談本のタイトルのように「生きているだけでなぜ悪い」と言いたい気持ちもあるが、どういうわけか我々は「生き方」を求めてしまうが、これもそうかも知れない)。そしてその価値は自分内部の勝手な思い込みでもある。だからこそその思い込みの度合いが気になるということそのものは他者存在自体への私内部の意識である。
 例えば人間のすることで100パーセント正しいことなどあり得ない。しかし私たちはその都度最良の、あるいは最適な判断とか行動というものがある、と固く信じている。勿論その判断とか行為とは別の状況では成り立たないこととしてである。それはある意味ではかなり個々の状況自体が独立していて、まるで私という存在が他者とは一切違って感じられるということと似ている。このことを唯今論とか独今論と永井均は言っている。
 しかしその都度正しい判断、適切な言動というものがあると信じていても、我々は同時に常に適切で正しい判断だけをする人間を信用するであろうか?寧ろ我々は積極的にそのように公平無私な人間を信用したくはないという気持ちを持つ。これは実は我々が理想とか真理を一方で信じていながら、実はそれは全く完全無比であるが故に現実離れしており、そのものが全て実現されたら、息が詰まるということをどこかで直観的に知っている証拠である。それら一切が幻想じゃないかと薄々知っている(そう疑っている)証拠である。
 つまり完全とか完璧とか無誤謬ということ自体が実在的には一つの幻想であると私たちは皆知っているのである。個々の状況において正しいことは「全体的には正しくはない」ということを我々は知っている(だからこそ個々の人格としては素晴らしい官僚を指導していく政治的能力はかなり大変なものなのであるが)。
 自分が何故存在するのか、何故あらゆる条件が付与されているということの存在理由(説明的理由、外在的価値、公共的原理)とは別個の私が存在し得るのかという疑問が永井均の哲学命題であるが、その疑問の解決の端緒となり得ることを敢えて探ろうとするとこうなるのではないか?
 存在と無とか、意識存在とゾンビとかそういう意味づけ自体が既に一つの幻想であるとしたら、またその幻想をそれなりに理解していると自分で思っているのなら、その幻想の体験者が自分であることになる。しかしその幻想を気づくのは常に自分だけではないと私は思う。しかしそれを知っているのも自分だけである。つまり全ての自分以外の他者が自分と同じようにそう幻想しているということ自体も幻想であり得る。しかし少なくとも表面上では私にとって親しい他者は私の感じている不思議、つまり「世界」という枠組み自体が幻想であると感じることに共感している。いやそれどころかこの自分にだけしか理解出来ない固有の感じさえ説明すれば理解して貰えるようにも思う。しかしそれは相互に共感し合っているという幻想を持っているだけかも知れない。只の錯覚である可能性も常に残される。
 そうなると我々はある地点から必ず他者が自分の言っていることを理解してくれていると「信じている」ことになる。つまり相手の言っている「君の言うことは理解出来るよ」という言葉を信じることが一つの私を作っている要素であるとは言える(永井均なら「それは公共的私」であり他者ではない私ではないと言い張るかも知れない。しかし実際のところそういった私自体もまた、実はそうやって相手を信じることにする私によって生み出されているのではないか?)。勿論相手はただ社交辞令でそう言っているだけかも知れない。しかしそれはそう疑えばいつまで経ってもきりがないことでもある。そのことにも我々は気づく。そしてある時決意する。相手を信じようと。しかしその決意とはもしそれが間違いであっても、自分は後悔しないということである。つまり「あの時相手を信じていなければこんなことにならなかった」と騙されたことを悔やむよりも、騙されても相手を信じてあげたことは間違いではなかった、少なくとも自分にとってはいいことであった、という決断、価値判断である。
 しかしその価値判断はやはり誰かのためにすることではない。あくまで自分のためにすることである。だから相手が宗教的に悔い改めをすることを期待出来るから、一度は信じてあげるのではない。つまりあくまで「そう信じることはいいことである」という自分にとっての真理を価値とした判断である。その時そのように信じられる(それは私が見ている赤も、あなたの見ている赤も概ね同じである筈だという信念と同じであるが)という独在論、純粋自我論として我々は「信じる」という決断が一つの諦観、諦めであることを知る。だからこそそれは価値というものが自分にとっての価値であるという第六章の問いへと戻る。
 つまり私とは何故他者と違うのかという問いは、永遠の問いであるから答えられない。故にそれをある一つの答えだけで答えようとすることには確かに欺瞞がある。それはあたかも世界があるかのように「世界」と命名することと同じであるが、その命名行為自体が大いなる一つの諦めであることを知る。そして諦めることを出来る、つまり「今自分が諦めている」と言えるのは私を置いて他にはいない。そこで私はデカルトの言説をこう言い換えることも出来る。「我諦める故に我あり」と。
 つまり我々はある部分では問い続けることを諦めないが、一語で、一つの説明だけでは決してその永遠の問いに答えることなど出来はしないということを知り、尚且つ問い続けることだけは止めないという反復を決意する。その決意がまた一つの「信じる」である。
 つまり私は私自身内部で抱えた問いを、他者と共感し合い、理解し合うということのために一旦問いに対して何らかの答えを出すことを諦めることによって全ての意思疎通を成立させるのだ。その時全ての局面、状況で私は私にしか理解出来ずにいて、しかしそれを誰か他者に告げても一切本当に理解し合えているかどうかは確かめらないということを知っていて、その自分にしか理解出来ないことを他者と分かち合うこと自体をどこかで仕方なく諦めていることを自分で知っている。そしてその気持ちも他者とは分かち合えない。
 しかしその分かち合えなさ自体は恐らく他者にとっても恐らくそうであろう、とここでも信じることに「する」のだ。
 実はこの「する」という決意自体が、その時々での真理であり理想と我々は位置づけているもののことだ。勿論無意識的にではあるが。そうなるとこの「する」ということ、つまり決意自体もあるものとして「世界」と名づけることと同じメカニズムであることになるし、また他者と親しくなることとも同じメカニズムであることになる。つまりあくまで「我諦める故に我あり」となる。そしてその諦め自体の自分にとっての固有の本質はやはり説明不可である。説明し尽くそうと思っても、それはこの世に完全無比が存在しないような意味でやはり不可能である。しかしそのようには行かなくても、どこかで我々は親しくしたい他者との間では手打ちに「する」。
 ここで 「する」=決意(する)=信じる=親しくなる=親しくする=完全などこの世(世界)にはないと諦める=命名する(言語行為をする、参加する)という図式が成立する。すると実は言語行為をするという決意は、一方で言語の無力を知り、だからこそ相手(親しい人と)としているのに、その言語の無力自体を確かめ合うためにやはり言語以外のものでは表しようがないことを相互に覚醒することだから、「相互に諦めることを承認し合う」ということになる。
 しかしここでも実は永遠に相互に理解し合うことに「する」わけだから、永井均の問いには答えられないことになる。つまりデカルトは出発点を用意しただけで決して私を解明したわけではないように、やはり「我諦める故に我あり」自体が他者との間で一般化されてしまう。しかしだからこそ我々は相手も「恐らく同じ気持ちでいるのだろう」と「信じる」ことに「する」のである。
 しかし私には永井均のゼロ次元の問いをある部分で解決し得るのは、「信じる」ということ、つまりそれは「諦める」ことでもあるのだが、その心の決意からしかあり得ないように思われるのである。何故ならそうでなければ、いつまで経っても永遠に私とは解明され得ないということを誰よりも永井氏が知っておられるだろうからだ。つまりこの問いとは実は私とは誰かという問いであると同時に実は自分にとって他者とは一体何か、という問いと同じこととなる。つまりそれはある部分ではトートロジーなのだ。
 それはあたかも真理と欲求を分けることが不可能なように、あるいはある人と親しくすることが、別の誰かとは疎遠となるということを意味しもするようにである。