セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, January 31, 2010

第二十六章 人格という価値とは他者間で育まれる理解に根差す・記憶の書き換えとは人格の固定化への優先による

 シドニー・シューメーカーは「覚えている思考や体験の主観が現在の体験の主観かどうかは疑うことができるが、覚えている思考や体験が私の思考や体験であったのは疑うことができないのであるから、人物の同一性は主観や実体の同一性ではありえず、人格の持続は実体の持続を要求しないということになる」と述べている(「自己知と自己同一性」菅豊彦・浜渦辰二訳、162ページより、勁草書房刊)。これは主観自体がかなり変動が大きく、信頼性がないということと、実体としての、あるいは生物学的事実と人格が異なっているということからこの言説が生み出されたということが言えるが、私はそれだけではないと思っている。それはつまりこういうことだ。つまり人格それ自体は生物学的事実とも、行為事実とも食い違う、それは自分ということに対する認識が、常に未来へと開かれていると考えると、行為事実やそれら全体から判断されるものと、自分自身が自分と感じるものとが絶えず一致しない、つまり少しずつずれている、それは自己内の願望や希望が常に現実と一致していないということと相関があると思われるが、それと同じように私にとってある他者に対する認識は、その他者の人格に対する認識全体の陶冶によって齎されているが、それは只単に行為事実の集積だけではなく、それら全般から我々が自己の主観によって読み取るものなのである。つまり人格とは他者間で育まれる他者に対する理解そのものが構成するものであり、そこには必ず評価、評定、判定ということが介在しているのである。それは端的に決意の一種である。
 だから時として記憶していることと、実際にあったこととの間の乖離状態を発見したとすると、ある人格によって語られたことを「それは思い違いだ」と記録されていることと違うことを本当のことだと言い張る場合明らかに人格の方を固定化させて、記録された事実を誤りであるとすることによって、人格の方を守ろうとしている。つまり些細な記憶事実に拘るよりも人格の統一性を守ることの方が大事であると咄嗟に判断して、我々は実はこれがかなり自己欺瞞的であると知りつつ、記憶の書き換えを行っている。それは勿論些細なミステイクを弁護する場合などによってである。
 つまり「こうあったこと」よりも「こうあるべき(筈)だったこと」(そんな筈はない)の方を優先するという権威主義的発想が対自的にもあり得るし、対他的にもあり得る。だからこそ「本当は過去においてこういう行為事実、発言事実があった」ということは只単なる言い違いでもそうであるし、ちょっとした人格的な意味では粗相であるような発言や行為においてもあり得る。それを直視する必要がある場合もあるが、そういう些細なことは敢えて直視せずに済ます必要がある場合もある。そのどちらを優先すべきかという判定そのものが前章における経験によって判断されていく。勿論そこには誤りもあるし、適切な場合もある。そしてその判定自体もまた個人間の主観に根差していると言える。そしてその些細な差異が次第に大きな差異になっていった時人間関係的に葛藤が生じることもある。
しかし重要なことは、人格的査定が事実的な行為としてその人格に相応しい行為や言動を生むということである。即ち我々はある他者を最初いい印象を持っていい人格を付与していても、ある行為事実によって怪訝な思いを抱くに至ると、逆にその以前に設定していた人格的査定を反故にして、人格的認識を再考しようとするだろうし、揺ぎ無い信頼を抱いている他者に対して我々はたとえ不遜な行為や言動の事実を知っても尚、それはその時の些細な気紛れであると見做し、依然設定した人格的査定を変更せずにいると、逆にその者がそういう査定をする自分に対して、一層自分のその者への査定に相応しい形で接してくるものである。自分に対してそれ以上に敵意を抱いていない場合には通常は。勿論そのことに胡坐をかいて悪を発動する場合もある。しかしこれらはその時々に偶発であり、必ずしも一般化出来ない。
 つまり人格的査定とはある他者に対する自分の側からの交流、対人関係的決意と表裏一体なのである。だからさして自己にとって重要ではないタイプのある社会成員に対しては人格的に曖昧な査定に終ったとしてもそれを公言しない限りで別段非難されることはない。
 しかもあまりに実際の行為事実や言動的傾向性と人格的査定が乖離していると、その査定者当人の人格的な査定能力に関して他者から芳しくない評価を得る結果を齎すし、その乖離があまりにも尋常ではない場合我々はその査定者に対して精神疾患的要素を発見してしまうことすらあるだろう。
 しかし極めて些細な気紛れ的行為や言動自体を殊更重要視しないという決意は、ある部分では行為事実と言動という実際と人格の間に介在する乖離に目を瞑ることであるが、知覚レヴェルでは確かに我々はそれを積極的に必要な「捨て去ること」として認識出来よう。つまり我々は自己に対して一定の統一された人格を保全するために敢えてそういうことのための記憶の些細な書き換えを日頃疑うことなく行っている。それは必要悪と言うにはあまりにも小さな悪である。もしそういった知恵が一切排除されると著しく我々は日常生活において支障を来たすことになろう。何故そうするかと言うと、我々はある意味ではある行為を全て如何なる場合でも真理的に事実を冷厳に査定しているのではなく、もっと大筋で行為者の人格的目的として見る必要が対自的にも対他的にも必要だからだ。それは対人関係的な意味で社会生活上での信頼とか人格的査定における決意であると言える。つまり我々は真実に他者の像を常に取り結んでいるとは限らないどころか、寧ろ常にその他者のシャイネスとか臆した態度を悪く取っている場合もかなりあり、必然的に我々は真実の他者の像を常に見誤っていると言える。つまり自分に対して威嚇的なある他者は只単にその者が自分に対して「私」からあまり正当に査定されていないと敏感に察知して畏怖の感情からそうしている場合が多い。つまり案外自己にとって齟齬を感じる他者とは一番自分と内面では似通っているということもあり得るのだ。だからこそ我々は理性論的に他者の像を些細なミステイクとか些細な気紛れを過大に評価せずに、寧ろ大筋の人格とかそれに伴う行為目的を論うことによって、相互の信頼を勝ち得ているとも言えるのだ。
 だからこそ「あんないい人だったのに」と非礼な言動をするようになっていった人に対して我々はその人が老人であるなら、老化したのだとか、認知症的査定を施すことになる場合もある。だから後はその者をどれくらい愛せるかと許せるかということに尽きる。だから私が「人格という価値とは他者間で育まれる理解に根差す」と言ったことの真意とは実は人格とは人間相互の愛の成せる技である、ということである。記憶の書き換えも人格的な陶冶において些細な行為的気紛れとかミステイクを補うという愛による決断であると言える。
 勿論ここで言う愛こそは憎しみも同時に生む。本能的に憎しみを抱くことを回避することが出来るタイプの人格者はいる。しかし彼(女)がそうだからと言って必ずしも彼(女)が際立った善良な市民であるとは限らない。つまり危機を察知して、憎しみによる弊害を回避する知恵者だからと言って直ちに彼(女)が愛情深いとは言い切れない。そういう場合も勿論あるが、逆にそこそこの愛情を示すことが出来ても、本質的に愛情深い場合かなり嫉妬も大きくなるし、相手に対する失望や怒りも大きくなるのだから、却って愛情深い人とは危機を回避することが下手とも言えるのに、彼(女)の場合かなりそれが巧いということは、愛情も打算的な部分がある場合もあることになるからだ。しかしこれも一般化は出来ない。
 要するに人格に対する信頼の優先に伴う記憶の正しさの歪曲、あるいは記憶違いに対する正当化といったことは、端的に権威主義的な追随心から来るものである。従って一層そういった決意を持続するか、それともそんなことを一切これからは止めようと思うかということは、端的にその査定している人格を付与している人に対する信頼と好感情に依存する。つまり人格とは対人感情に基づいた価値査定的対人認識であり、一つの決意に他ならない。ただそれまで持続してきた人格的査定の変更に伴ってそれまでの信頼が高ければ高いほど一旦相手の行為事実に幻滅することで逆に憎しみが募ることもあるが、本来憎しみとは精神的に消耗を来たすので、あまり信頼を憎しみに転化すること自体に価値を見出さないくらいに冷厳に見つめるということも一つの決意である。そしてそういった決意はある意味ではあまり対人的に信頼の度を越すことが得策ではないということもあるが、それ以上にどんな人格でも持ち上げ過ぎると人間は慢心してしまうということに対する今更ながらの覚醒ということであろう。
 今私が今更ながらと言ったことは極めて重要である。何故なら我々はしばしば極当たり前な真実を忘れ、自己によって偶然見出した些細な真理(それは決して重要ではないものの方が圧倒的に多い)の虜となり、暫くしてから再び「そうだよな、やはり真実とはある」と気づくからである。それでも尚我々は贔屓筋の対人関係において盲目の信頼を抱きがちであり、そうするが故に可愛さ余って憎さ百倍となりやすいのだ。しかし仮に期待が裏切られてもそれはそれでそういうこともある、と諦観を即座に持てるように常日頃から心がけておくということはある意味では人間とは常に完璧な存在ではないという当たり前の真理を忘れずにいるということである。
 私たちは対自分において何らかの自分を統一させるために記憶を固定化させる意味で、自己正当化的にも、他者に合わせる意味でも欺瞞的な記憶の書き換えも行うし、些細な事実の正確さよりも、大枠でも未来へと向けた行為目的に沿う形で例えばあまり楽しくなかった会合でも意義深かったという風に思い込もうとする。そしてそれは他者に対しても相手が些細なことで自分にあまり適切ではない態度や言動をとったとしても尚相手の些細な過ちを許す気持ちになることもある。それは端的に理性論的な意味でも良心的にも一つの慈愛の決意である。しかしそれもまたある意味では自分の過失を犯すことも時にはあるからその時他者から許して貰いたいという心理が他者に対する慈愛を引き起こすのであれば、それもまた一つのカント的根本悪と言ってもいいだろう。だから些細な知覚事項に対して一々感動しないで既知のものとして情報を処理するような具合で我々は自分にとって著しく損失とならない限りで些細な自己のミステイクを認めることも、逆に他者の過ちに目を瞑ることもあるだろう。そういった意味ではそれらをカント的根本悪として認識することは適切ではない。つまりそれは必要とされる生活上での本能的知恵の惰性だからだ。しかし我々は同時にある人生上での重要な決意とか反省(哲学的意味合いからではない通常の意味で)においては根本悪的認識を採用して、真摯に記憶の用意周到なる書き換えを罪として告発することが求められることもあろう。そして人格的査定性そのものに内在する感情論的であり、打算的な我々自身の惰性に覚醒することが必要なこともある。
 つまり深刻に受け止めるべき状況と、そうではなく些細なこととして記憶にとどめておく必要がない(積極的に忘れてもいいと判断する)ことの双方が常にあり得る。そしてその査定自体もまた記憶と経験の関わり、つまり前章での真理と密接に関わっている。

Friday, January 15, 2010

第二十五章 経験と価値

 価値として何かを特定したり、何かを高く評価したりする行為は、実は私たちの日常的な経験に多く拠っている。しかも私たちが経験によってある出来事を印象深いものとして記憶したり、取るに足らないことであるとして忘れていったりするというその都度の判断の傾向、その時々での大いなる関心とそれほどでもないことの間の差異を構築している。その意味では記憶全般に対して経験の持つ意味が大きいのは言うまでもなく、しかも経験全般が価値観に対して大きな寄与をしていることに注目しないわけにはいかない。
 しかし興味深いことには、経験自体もその都度において既に決定されている価値に対する見方自体から誘引されることも多いということである。しかし人生におけるごく初期にはやはり恐らく経験が価値を構成していくという要素が濃厚だろう。
 つまり言語習得と期を一にして次第に行動することを通して価値に対する意識が芽生えていく。それは端的に自分のした行為が他者から承認されることを通して、ある行為を得がたい存在理由があると知ったり、逆に別のある行為をした後で他者からひどく非難されたりすることを通して、出来得る限りは二度と繰り返すべきではないと知ったりするのだ(そのような経験の中では幼くして既に取り返しのつかない行為をしてしまう者もあるだろう)。
 しかしそれらの経験を通過した後では我々が概してある行動とか創造的思惟などにおいて規範的な枠組み自体を所有するようになるから、必然的にそれらの規範に照応させて自分の行動や未来に対する展望自体を持つようになる。そして規範と実際に経験を反復することが重層化されて人生そのもののキャリアが構成されていくことになるのだ。
 そして興味深いことには、私たちは自分にとって専門ではないフィールドに対する見識さえいつの間にか抱くようになる。それが世間一般の通念とか常識である。それらはある意味では専門的な仕事とか一定の特殊技能的な才能や技術、力量の前では寧ろ弊害になるようなものが多いのにもかかわらず、自分にとってそれほど大きく深刻さを齎さないような趣味とか、世間一般の人間関係的な交友関係においては極めて有効に作用する便利は知の体系でさえある。つまり気休め的な会話材料となるような話題をする時に円滑に人間関係を維持するために利用されることの中には決して真理ではないことでさえ、自分にとってあまり関係のないことに対しては素気無い態度を採っていても非難されることはない。少なくともそれが親しい者同士の会話においては、それが公言されない限り。
 例えばアーティストとか科学者にとって創造性とか発明や発見ということにおいて、幼い頃に抱いた興味や関心自体を大人になっても失わないでいるということは素養的にも素質的にも資質的にも必要なことであるにもかかわらず、それらの才気とかそれを伴った人格が例えば政治とか、自分が住む地域社会での人間関係などにおいてはやはり弊害になることの方が多い。つまり天才によく見られる変人的要素は通常の社会での通念や常識からは逸脱するからこそ高く評価され得るということ自体が、既に世間一般とかずれている専門的なフィールドで求められる力能であることが了解される。
 例えば世間一般の判断において最もよく考えられることとして、短距離走者にとっての順位やタイムと、マラソン走者にとっての順位やタイムとではいささかその意味するところが違うということは仮に判断する者がスポーツを専門にしている者ではなくてもある程度理解することが可能であろう。短距離走において一秒の差は極めて大きいが、マラソンにおいて二三分の差とは勝敗自体の意義からすれば短距離走に比べればそんなに大きなものではない。勿論世界新記録という観念のレヴェルでは勿論二三分ということはかなり大きなものかも知れないが、こと勝負とかマラソンがその時々の天候や気候といった条件によってその克服度ということがその都度かなり振幅があるという意味では、やはり短距離走のような判断とか異なると誰しも了解出来る。
 つまりそのような判断こそが実は専門的フィールドで求められるプロフェッショナルな能力とはいささか異なっている通念とか常識的判断の世界なのだ。そしてそういった通念とか常識といったものはある世界において専門的に優れた技能を持つということとは少し違うレヴェルの判断であり、一定の評価すべき仕事を積み重ねてきたのであれば年配者であればあるほど信頼出来る判断が期待出来るという側面も大きい。
 従ってプロフェッショナルとしての力量において求められる特殊技能とか能力一般にある種の固有の経験が求められるのと違って、これら通念とか常識といったことは、エリート的能力とはいささか質の違うものであることも多い。だからと言ってそれら通念や常識が一切の知性を必要としないかと言ったらそうでもない。要するに一定の人生経験を要するという意味では専門的な知識や教養だけではなく、それらをどのような世界の専門家も携えて言えることはあったとしても、それ以外(専門外のことについても判断しなければいけないことは社会生活では多い)の判断力として社会的生活能力としてそれらは確かに存在する。
 だからそれは例えば小説家とか文学者と言った時、例えば日本人であるなら日本語を特殊能力的に文化的特質として理解しているようなタイプの作家と、日本語の文体とか固有の伝統的精神を一方では認めつつも、もっと国際的視野において、例えば日本だけではなくどのような言語を持つ国でも成り立ち得るようなタイプの物語やテーマとか、文体そのものさえ予め翻訳されることを前提して組み立てるという意識がある作家とではある部分ではかなりな相違が生じることもあり得よう。勿論一流の作家であれば、その種の相違さえどちらのタイプにおいても克服可能であろう。つまり両面的であり両義的であり、それでいて自分の資質を活かす部分をも失っていないということだろう。
 つまりプロフェッショナルであるという事実において、日常生活において恐らく昼と夜の生活が逆転しているようなタイプの通念や常識を覆す部分が仮にあったとしても、そういった事実と小説とか彼らの作り出す作品世界がごく一般に理解され、説得力を持つという事実との間には実は何の関係もない。だから逆に最近芥川賞を受賞した作家のように、プロフェッショナルとしては生活上での収入を得る手段として一流のビジネスマンである場合は、作家としての一流であることと、生活人として一流であることが両面で充足されている稀有な例として見ることも可能であろう。そして仮にある作家において彼が作る小説世界が優れているのであれば、日頃ビジネスマンのように朝早く起きて、身嗜みを整えることが極度に下手であれ、その事実は一切小説家としてプロフェッショナルであることとは何の関係もない。
 そういう意味では最近起きた著名芸能人による薬物汚染的事件においてさえ、本来彼らに対する判断を芸能人としての能力や業績と犯罪やそのことによる一般的市民に対する(特に若い人たちに対する)影響力ということははっきりと峻別して然るべきであると私は心得る(しかし日本ではとりわけ仕事の能力とか業績をその人間の日常生活態度とか人格に求める部分が通念上、社会常識上あると言ってよい)。
 
 ところで概して本当は権威主義者であり、内的に穢れを嫌う性善説信者であるのに、世間一般ではそういう「いい子」ぶった態度が嫌悪されているのを知っているものだからそれを隠蔽したいと策略上心得ている者ほどある部分では極めて巧妙に悪ぶる、つまりアウトローやアンチヒーロー的態度を取るものである。しかし彼らが演じる反逆児とはどこかぎこちないし、極めて欺瞞的である。しかしこのようなタイプの成員は多くなってきたというのが私の印象だ。つまり世間一般のアンチ・エリート的感性に阿るような態度の文化人によく見られるこういったポーズはそれだけ「価値自体が大勢の人たちによって共有されるべきである」というレヴェルになると多様化しており、そう容易には一つに纏められ得ないということに対する自覚が多くの成員にとってあるということを示している。しかし個々の成員にとってそのような思いはだからと言って決して価値が多様なものであるというわけではなく、あくまで自分にとっての価値とは自分に対して偽るような気持ちにならない限りはっきりしているのだが、外部ではそれをそう容易には認めない多くの価値とされているものがあるということを知っているということを意味するに過ぎない。
 しかし人間は自分の思想や本心をそう容易に誰にでも告げることは足を掬うような悪辣な成員もいることを知っているから未然に自己に対して阻止している。つまりそのような自己防衛本能的な対他的態度こそが実は経験によって得られる知恵であると言ってよい。そして価値の枠組に対する考えが自己内部でかなり明確に纏まっていても、その事実をどこかで悟られまいと注意するような態度そのものが経験によって得られているので、価値自体が経験によって構成されているとしたら、実はその経験とは自らが価値と考えてきたものの中で真実に他者から共感を得られたものの方が予想外に少なく、逆にあまり他者から快く認可されてこなかったものの方にこそ寧ろ自己にとっては執着があるようなものもかなりあると自分で知っているので、その価値の他者からの是認に関する挫折感情こそが実は経験によって価値を構成させる時内的には極めて重要なものとなると思われる。

Sunday, January 10, 2010

第二十四章 価値とは判断の固定化と同意を他者に求めることである

 ここで価値の発生論として一つの結論が出たように思う。それはつまり価値とは判断そのものを固定化しようとする試みによって成立するということ、そして価値の固定化とは必然的に他者に同意を求めることであるということである。価値自体はある意味ではかなり固定化されてはいるものの常に絶対ではなく変更可能性を含んでもいる。従って常に価値であるためには他者間での同意が必要だし求められてもいる。価値が価値であるためには、必要な手続きがあり、またそれを経たものであるなら同意せざるを得ないということでもある。同意すること自体があるものや行為を固定化された価値の下で見ることを意味するからである。価値が客観性を有しているのは、同意することを通してそれが真理普遍化されるからである。価値とは従って常に先験的なことではない。それは形成されるものである。ある行為が美徳があり、他者間で共有されるだけのものであるということの価値はそれ自体真理普遍化されて然るべき性質を有していると考えてよい。
 しかし何故そのように判断を固定化されなければならないかと言うと、それは一重に判断とはその都度のフィードバック的な反射的行動であると同時に、その都度いつ何が来てもおかしくはないということから来る構えだからである。しかしある部分では常に流動的ではない形ででも何らかの習慣的な到来はあり得る。その習慣的到来において私たちはそれに対する固有の構えをすればよいのだとしたなら、それはフィードフォワード的な構えであると言える。つまりそのような固有の構えをその都度の反射的構え以外にも所有するということは、常に固定化させずにいることをある部分では放棄した方がよりスータブルであるということを意味し、そこで価値として固定化された状態を私たちは望むこととなるのだ。従って価値による判断の固定化とは、そのように固定化された形で概ねは巧くゆくということを意味しても、必ずではなく例外も常に存在し得るということの表明でもあるのだ。そしてこの概ねそれに付き従っておればよいのだが、時としてそれでは巧くゆかないこともあるという二つの事柄に対する同意が価値には常に付帯しているということになる。つまり固定化されているが故にスータブルであることと、そうであるがために障害とならないようにするという二つの相矛盾する真理の同居こそ価値に付帯する条件である、ということになる。
 だから価値とは常に相対的であるということだ。それは絶対ではないということを意味する。しかしそれだからと言ってそれはどうでもいいことなのでは絶対になく、やはり固定化されて然るべき性質のものである。そしてそのために一定以上の同意を常に他者間において必要であり、しかしその決定には変更可能性を常に含ませておかなければならないのである。真理普遍化されていくべき資格が価値には確かにあるが、同時にそれは変更可能性も含んでいるということだから、必然的に価値は真理そのものではない。しかしそれは真理ということであれば何も問わずに問答無用であることを意味しない。そもそも価値自体に恣意的に変更可能性が求められているわけだから、真理でさえも翻され得る余地が常に残されていなければならないということを価値の相対性は訴えている。
 つまり価値とはそれ自体が存在を賭けて真理が限りなく絶対に近いものの、絶対と言うことが何にあってもそうはあり得ないし、また真理であってさえ絶対であり得なさを念頭に入れておくために求められているものであり行為であるということである。つまりそのためにこそ強制ではなく他者間の同意であるべきなのである。つまり主体的にそれを待ち望むということにおいて価値には固定化された判断であり、判断し続けることに対する保留の意図があるのである。つまり他者の同意ということにはそれが絶対ではなく常に相対的な固定化であるという意味合いがあるのである。しかし勿論価値が価値である意味においては、それは概ね正しく、概ね信頼出来るということでもあるから、しかしそれでも尚そこに絶対間違いはないとは言えないと敢えて価値自体が自己に対して主張することを通して真理の絶対性に対する無自覚で安易な依拠を未然に防止するような意図が価値にはあるのである。それは恐らく自然物理法則から人間にとって最高のモラルであれ、何であれ例外などないということでもある。勿論だからと言って真理自体が価値の最高の水準において君臨していることには何の変わりもない。
 要するに諸価値という信頼に足ることと、真理という概ね絶対的事実とのコンビネーションを維持していくために常に存在自体にも誤りはあり得るということの内に、他者間の同意が必要であり、しかもこの場合他者と言っても、その同意がありさえすればほぼ完璧に近い判断が下せるという意味で求められているものなのだ。つまり存在とは思惟可能である存在者を必要とする、つまりたった一人でも存在者が存在することによってのみ存在が存在である、つまり意味化されたもののミニマルなものとして存在が規定し得るということである。そのためにこそ存在自体さえ誤り得るという一つのほぼ絶対的真理において、私たちは他者間の同意を必要とするという意味で価値自体が他者からの同意を常に求めるということが価値自体を出来る限り誤りから救う只一つの方策であると言える。

Sunday, January 3, 2010

第二十三章 価値と魅力

 そもそも私たちの祖先は何かを得るための貨幣を生み出したのだが、貨幣を必要としたくらいには欲望が全ての生存している市民にとって等価なものとして存在するということを認可していたことを意味する。そして価値自体が魅力を生み出したのか、それとも魅力があったからこそ価値がそこから見出されたのかということ自体も一つの難問である。
 つまりある行為、ある事物、ある存在するもの全てには何らかの存在理由があり、だからこそ行為として事物として存在するものとして把握されてきているのだ。価値自体はそれが存在理由を保持しているからこそ価値なのだが、価値があるとしたからそれが魅力的に映るのか、それとも魅力的であるものを価値としてきたのかということを一つ考えてみよう。
 価値であると何かを規定する時明らかにそれが認識上で、それ以外のものよりも良い筈であり、あるいはそれ以外の行為では、方法では適切ではない、つまりそれこそが適切である、理に適っている、存在理由があり、意味があると思っている。またそう思えるからそのものや行為は価値があると考えることが出来る。一方そのように意味があるし、行為やもの自体が魅力的に思えるから価値があるとも思う。勿論その魅力的であることは、誰にとっても正当であると思える魅力から、きっとそう多くその魅力に気づくことなどないだろうと宛ら思えることの両方があるだろう。すると魅力には価値と規定されることによって醸し出されるという側面があると同時に、先験的に魅力あるものや行為に対して価値付けていくという私たちの規定の仕方があることになる。
 価値として規定されるということの内には自分以外の他者がそこに絡むということが言える。規制の価値を信用しているわけだ。それに対して魅力あるものを価値付けていこうと言う時そこには主体的に自分から働きかけていこうという気持ちがある。故に前者は幾分権威主義的な見方も加わる。しかし後者には権威にしていこうということでは権威主義であるが、予め他者によって権威づけられているわけではないから、信用という形で意味づけているのではない。自らの感性に忠実である。
 しかしこの二つの捉え方は常に相手との間で相補的である。何故ならあるものや行為自体が、自分にとってもそうだが、他者にとっても存在理由を問えるものだからである。所詮我々が自分と言う時明らかに他者を前提にしているし、他者と言う時それは私たち一人一人の自分にとってのそれでしかない。だからある時には価値だけ共有し合えるということがあり、一方魅力に関しては個々違いがあるに違いないと誰しもそう思う。つまり誰しも他者は自分と同じように規制の価値として信用出来るものや行為と、自分自身で価値があると思えるものに対して魅力を感じ取っているのだろう、と思うのだ。
 するとあるものや行為における魅力が価値があると思えるということとは常に自分にしか理解出来ないかも知れないが、それがかなり可能性としてある場合、少数ではあるが、自分に対する同調者を求めることになるだろうし、一方既にそれを認可している者が大勢いるだろうとする価値に対して、それはそれで認めておこうという考えの下で、自分を前者に関しては魅力があるので価値があるとし同調者も求める心理になり、後者に関しては価値があるから魅力があるする。故に必然的に価値と魅力の関係は前者の自分で思えることを少数かも知れないが、同調者を探す中で自己を形成するということと、後者の他者に対して自分を位置づける自己を自分ではどう思えるか、つまり他者全般が価値と認可したものや行為をそのまま受け入れるか、それとも自分は別の価値を内的には追求するかということにおいて、自分を自己と他者の関係に組み込むということが成立する。つまりそのような内的心性を実現するものとして価値と魅力の二項は利用されている、ということだ。
 価値自体に魅力がある場合私たちは幾分他者全般の意見に対して配慮しているということと同時に、その価値自体を容認している自分を他者全般に同化させているという実感を得ることが出来るが、そういった価値を知る以前に自分でそのものに魅力を感じ取っていたということであるなら、魅力があるので価値があるのではないかと考えていたら、既にそれは他者全般によって認可されていたものとか行為だったということが多く、逆に価値があると認可されていた筈だと思っていたが、実際には誰によってもそのように認可されているということをいつまで経っても知ることが出来ないようなものや行為に対しては、私たちはそれが既に公認済みであると思っていたのにただ自分だけが惹かれていることを知るということになる。
 だから価値があるとされていても、それに納得出来ないとか実感し得ないということがある一方、逆に魅力があり価値があるとしたいのに多くの自分以外の他者はそれを容認していないという状況もあり得る。前者の場合どこかで価値一般に対する世間の風評に対して抵抗の意欲を促進するし、後者の場合自分の判断の正当性に対して他者全般に対して主張したいという欲求を促進する。だからこそ価値にとって魅力が価値を価値として自分の内的世界において認可することにおいて重要な役割を演じ、逆に魅力にとって価値はそれを魅力あるもの(私がものと言う場合それは存在する者も含まれる)や行為であると自分にとって思えること全般に対する正当性の認可を求める自我的、自己主張的指針ということになる。