セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, January 10, 2010

第二十四章 価値とは判断の固定化と同意を他者に求めることである

 ここで価値の発生論として一つの結論が出たように思う。それはつまり価値とは判断そのものを固定化しようとする試みによって成立するということ、そして価値の固定化とは必然的に他者に同意を求めることであるということである。価値自体はある意味ではかなり固定化されてはいるものの常に絶対ではなく変更可能性を含んでもいる。従って常に価値であるためには他者間での同意が必要だし求められてもいる。価値が価値であるためには、必要な手続きがあり、またそれを経たものであるなら同意せざるを得ないということでもある。同意すること自体があるものや行為を固定化された価値の下で見ることを意味するからである。価値が客観性を有しているのは、同意することを通してそれが真理普遍化されるからである。価値とは従って常に先験的なことではない。それは形成されるものである。ある行為が美徳があり、他者間で共有されるだけのものであるということの価値はそれ自体真理普遍化されて然るべき性質を有していると考えてよい。
 しかし何故そのように判断を固定化されなければならないかと言うと、それは一重に判断とはその都度のフィードバック的な反射的行動であると同時に、その都度いつ何が来てもおかしくはないということから来る構えだからである。しかしある部分では常に流動的ではない形ででも何らかの習慣的な到来はあり得る。その習慣的到来において私たちはそれに対する固有の構えをすればよいのだとしたなら、それはフィードフォワード的な構えであると言える。つまりそのような固有の構えをその都度の反射的構え以外にも所有するということは、常に固定化させずにいることをある部分では放棄した方がよりスータブルであるということを意味し、そこで価値として固定化された状態を私たちは望むこととなるのだ。従って価値による判断の固定化とは、そのように固定化された形で概ねは巧くゆくということを意味しても、必ずではなく例外も常に存在し得るということの表明でもあるのだ。そしてこの概ねそれに付き従っておればよいのだが、時としてそれでは巧くゆかないこともあるという二つの事柄に対する同意が価値には常に付帯しているということになる。つまり固定化されているが故にスータブルであることと、そうであるがために障害とならないようにするという二つの相矛盾する真理の同居こそ価値に付帯する条件である、ということになる。
 だから価値とは常に相対的であるということだ。それは絶対ではないということを意味する。しかしそれだからと言ってそれはどうでもいいことなのでは絶対になく、やはり固定化されて然るべき性質のものである。そしてそのために一定以上の同意を常に他者間において必要であり、しかしその決定には変更可能性を常に含ませておかなければならないのである。真理普遍化されていくべき資格が価値には確かにあるが、同時にそれは変更可能性も含んでいるということだから、必然的に価値は真理そのものではない。しかしそれは真理ということであれば何も問わずに問答無用であることを意味しない。そもそも価値自体に恣意的に変更可能性が求められているわけだから、真理でさえも翻され得る余地が常に残されていなければならないということを価値の相対性は訴えている。
 つまり価値とはそれ自体が存在を賭けて真理が限りなく絶対に近いものの、絶対と言うことが何にあってもそうはあり得ないし、また真理であってさえ絶対であり得なさを念頭に入れておくために求められているものであり行為であるということである。つまりそのためにこそ強制ではなく他者間の同意であるべきなのである。つまり主体的にそれを待ち望むということにおいて価値には固定化された判断であり、判断し続けることに対する保留の意図があるのである。つまり他者の同意ということにはそれが絶対ではなく常に相対的な固定化であるという意味合いがあるのである。しかし勿論価値が価値である意味においては、それは概ね正しく、概ね信頼出来るということでもあるから、しかしそれでも尚そこに絶対間違いはないとは言えないと敢えて価値自体が自己に対して主張することを通して真理の絶対性に対する無自覚で安易な依拠を未然に防止するような意図が価値にはあるのである。それは恐らく自然物理法則から人間にとって最高のモラルであれ、何であれ例外などないということでもある。勿論だからと言って真理自体が価値の最高の水準において君臨していることには何の変わりもない。
 要するに諸価値という信頼に足ることと、真理という概ね絶対的事実とのコンビネーションを維持していくために常に存在自体にも誤りはあり得るということの内に、他者間の同意が必要であり、しかもこの場合他者と言っても、その同意がありさえすればほぼ完璧に近い判断が下せるという意味で求められているものなのだ。つまり存在とは思惟可能である存在者を必要とする、つまりたった一人でも存在者が存在することによってのみ存在が存在である、つまり意味化されたもののミニマルなものとして存在が規定し得るということである。そのためにこそ存在自体さえ誤り得るという一つのほぼ絶対的真理において、私たちは他者間の同意を必要とするという意味で価値自体が他者からの同意を常に求めるということが価値自体を出来る限り誤りから救う只一つの方策であると言える。

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