セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, January 3, 2010

第二十三章 価値と魅力

 そもそも私たちの祖先は何かを得るための貨幣を生み出したのだが、貨幣を必要としたくらいには欲望が全ての生存している市民にとって等価なものとして存在するということを認可していたことを意味する。そして価値自体が魅力を生み出したのか、それとも魅力があったからこそ価値がそこから見出されたのかということ自体も一つの難問である。
 つまりある行為、ある事物、ある存在するもの全てには何らかの存在理由があり、だからこそ行為として事物として存在するものとして把握されてきているのだ。価値自体はそれが存在理由を保持しているからこそ価値なのだが、価値があるとしたからそれが魅力的に映るのか、それとも魅力的であるものを価値としてきたのかということを一つ考えてみよう。
 価値であると何かを規定する時明らかにそれが認識上で、それ以外のものよりも良い筈であり、あるいはそれ以外の行為では、方法では適切ではない、つまりそれこそが適切である、理に適っている、存在理由があり、意味があると思っている。またそう思えるからそのものや行為は価値があると考えることが出来る。一方そのように意味があるし、行為やもの自体が魅力的に思えるから価値があるとも思う。勿論その魅力的であることは、誰にとっても正当であると思える魅力から、きっとそう多くその魅力に気づくことなどないだろうと宛ら思えることの両方があるだろう。すると魅力には価値と規定されることによって醸し出されるという側面があると同時に、先験的に魅力あるものや行為に対して価値付けていくという私たちの規定の仕方があることになる。
 価値として規定されるということの内には自分以外の他者がそこに絡むということが言える。規制の価値を信用しているわけだ。それに対して魅力あるものを価値付けていこうと言う時そこには主体的に自分から働きかけていこうという気持ちがある。故に前者は幾分権威主義的な見方も加わる。しかし後者には権威にしていこうということでは権威主義であるが、予め他者によって権威づけられているわけではないから、信用という形で意味づけているのではない。自らの感性に忠実である。
 しかしこの二つの捉え方は常に相手との間で相補的である。何故ならあるものや行為自体が、自分にとってもそうだが、他者にとっても存在理由を問えるものだからである。所詮我々が自分と言う時明らかに他者を前提にしているし、他者と言う時それは私たち一人一人の自分にとってのそれでしかない。だからある時には価値だけ共有し合えるということがあり、一方魅力に関しては個々違いがあるに違いないと誰しもそう思う。つまり誰しも他者は自分と同じように規制の価値として信用出来るものや行為と、自分自身で価値があると思えるものに対して魅力を感じ取っているのだろう、と思うのだ。
 するとあるものや行為における魅力が価値があると思えるということとは常に自分にしか理解出来ないかも知れないが、それがかなり可能性としてある場合、少数ではあるが、自分に対する同調者を求めることになるだろうし、一方既にそれを認可している者が大勢いるだろうとする価値に対して、それはそれで認めておこうという考えの下で、自分を前者に関しては魅力があるので価値があるとし同調者も求める心理になり、後者に関しては価値があるから魅力があるする。故に必然的に価値と魅力の関係は前者の自分で思えることを少数かも知れないが、同調者を探す中で自己を形成するということと、後者の他者に対して自分を位置づける自己を自分ではどう思えるか、つまり他者全般が価値と認可したものや行為をそのまま受け入れるか、それとも自分は別の価値を内的には追求するかということにおいて、自分を自己と他者の関係に組み込むということが成立する。つまりそのような内的心性を実現するものとして価値と魅力の二項は利用されている、ということだ。
 価値自体に魅力がある場合私たちは幾分他者全般の意見に対して配慮しているということと同時に、その価値自体を容認している自分を他者全般に同化させているという実感を得ることが出来るが、そういった価値を知る以前に自分でそのものに魅力を感じ取っていたということであるなら、魅力があるので価値があるのではないかと考えていたら、既にそれは他者全般によって認可されていたものとか行為だったということが多く、逆に価値があると認可されていた筈だと思っていたが、実際には誰によってもそのように認可されているということをいつまで経っても知ることが出来ないようなものや行為に対しては、私たちはそれが既に公認済みであると思っていたのにただ自分だけが惹かれていることを知るということになる。
 だから価値があるとされていても、それに納得出来ないとか実感し得ないということがある一方、逆に魅力があり価値があるとしたいのに多くの自分以外の他者はそれを容認していないという状況もあり得る。前者の場合どこかで価値一般に対する世間の風評に対して抵抗の意欲を促進するし、後者の場合自分の判断の正当性に対して他者全般に対して主張したいという欲求を促進する。だからこそ価値にとって魅力が価値を価値として自分の内的世界において認可することにおいて重要な役割を演じ、逆に魅力にとって価値はそれを魅力あるもの(私がものと言う場合それは存在する者も含まれる)や行為であると自分にとって思えること全般に対する正当性の認可を求める自我的、自己主張的指針ということになる。

No comments:

Post a Comment