セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, January 31, 2010

第二十六章 人格という価値とは他者間で育まれる理解に根差す・記憶の書き換えとは人格の固定化への優先による

 シドニー・シューメーカーは「覚えている思考や体験の主観が現在の体験の主観かどうかは疑うことができるが、覚えている思考や体験が私の思考や体験であったのは疑うことができないのであるから、人物の同一性は主観や実体の同一性ではありえず、人格の持続は実体の持続を要求しないということになる」と述べている(「自己知と自己同一性」菅豊彦・浜渦辰二訳、162ページより、勁草書房刊)。これは主観自体がかなり変動が大きく、信頼性がないということと、実体としての、あるいは生物学的事実と人格が異なっているということからこの言説が生み出されたということが言えるが、私はそれだけではないと思っている。それはつまりこういうことだ。つまり人格それ自体は生物学的事実とも、行為事実とも食い違う、それは自分ということに対する認識が、常に未来へと開かれていると考えると、行為事実やそれら全体から判断されるものと、自分自身が自分と感じるものとが絶えず一致しない、つまり少しずつずれている、それは自己内の願望や希望が常に現実と一致していないということと相関があると思われるが、それと同じように私にとってある他者に対する認識は、その他者の人格に対する認識全体の陶冶によって齎されているが、それは只単に行為事実の集積だけではなく、それら全般から我々が自己の主観によって読み取るものなのである。つまり人格とは他者間で育まれる他者に対する理解そのものが構成するものであり、そこには必ず評価、評定、判定ということが介在しているのである。それは端的に決意の一種である。
 だから時として記憶していることと、実際にあったこととの間の乖離状態を発見したとすると、ある人格によって語られたことを「それは思い違いだ」と記録されていることと違うことを本当のことだと言い張る場合明らかに人格の方を固定化させて、記録された事実を誤りであるとすることによって、人格の方を守ろうとしている。つまり些細な記憶事実に拘るよりも人格の統一性を守ることの方が大事であると咄嗟に判断して、我々は実はこれがかなり自己欺瞞的であると知りつつ、記憶の書き換えを行っている。それは勿論些細なミステイクを弁護する場合などによってである。
 つまり「こうあったこと」よりも「こうあるべき(筈)だったこと」(そんな筈はない)の方を優先するという権威主義的発想が対自的にもあり得るし、対他的にもあり得る。だからこそ「本当は過去においてこういう行為事実、発言事実があった」ということは只単なる言い違いでもそうであるし、ちょっとした人格的な意味では粗相であるような発言や行為においてもあり得る。それを直視する必要がある場合もあるが、そういう些細なことは敢えて直視せずに済ます必要がある場合もある。そのどちらを優先すべきかという判定そのものが前章における経験によって判断されていく。勿論そこには誤りもあるし、適切な場合もある。そしてその判定自体もまた個人間の主観に根差していると言える。そしてその些細な差異が次第に大きな差異になっていった時人間関係的に葛藤が生じることもある。
しかし重要なことは、人格的査定が事実的な行為としてその人格に相応しい行為や言動を生むということである。即ち我々はある他者を最初いい印象を持っていい人格を付与していても、ある行為事実によって怪訝な思いを抱くに至ると、逆にその以前に設定していた人格的査定を反故にして、人格的認識を再考しようとするだろうし、揺ぎ無い信頼を抱いている他者に対して我々はたとえ不遜な行為や言動の事実を知っても尚、それはその時の些細な気紛れであると見做し、依然設定した人格的査定を変更せずにいると、逆にその者がそういう査定をする自分に対して、一層自分のその者への査定に相応しい形で接してくるものである。自分に対してそれ以上に敵意を抱いていない場合には通常は。勿論そのことに胡坐をかいて悪を発動する場合もある。しかしこれらはその時々に偶発であり、必ずしも一般化出来ない。
 つまり人格的査定とはある他者に対する自分の側からの交流、対人関係的決意と表裏一体なのである。だからさして自己にとって重要ではないタイプのある社会成員に対しては人格的に曖昧な査定に終ったとしてもそれを公言しない限りで別段非難されることはない。
 しかもあまりに実際の行為事実や言動的傾向性と人格的査定が乖離していると、その査定者当人の人格的な査定能力に関して他者から芳しくない評価を得る結果を齎すし、その乖離があまりにも尋常ではない場合我々はその査定者に対して精神疾患的要素を発見してしまうことすらあるだろう。
 しかし極めて些細な気紛れ的行為や言動自体を殊更重要視しないという決意は、ある部分では行為事実と言動という実際と人格の間に介在する乖離に目を瞑ることであるが、知覚レヴェルでは確かに我々はそれを積極的に必要な「捨て去ること」として認識出来よう。つまり我々は自己に対して一定の統一された人格を保全するために敢えてそういうことのための記憶の些細な書き換えを日頃疑うことなく行っている。それは必要悪と言うにはあまりにも小さな悪である。もしそういった知恵が一切排除されると著しく我々は日常生活において支障を来たすことになろう。何故そうするかと言うと、我々はある意味ではある行為を全て如何なる場合でも真理的に事実を冷厳に査定しているのではなく、もっと大筋で行為者の人格的目的として見る必要が対自的にも対他的にも必要だからだ。それは対人関係的な意味で社会生活上での信頼とか人格的査定における決意であると言える。つまり我々は真実に他者の像を常に取り結んでいるとは限らないどころか、寧ろ常にその他者のシャイネスとか臆した態度を悪く取っている場合もかなりあり、必然的に我々は真実の他者の像を常に見誤っていると言える。つまり自分に対して威嚇的なある他者は只単にその者が自分に対して「私」からあまり正当に査定されていないと敏感に察知して畏怖の感情からそうしている場合が多い。つまり案外自己にとって齟齬を感じる他者とは一番自分と内面では似通っているということもあり得るのだ。だからこそ我々は理性論的に他者の像を些細なミステイクとか些細な気紛れを過大に評価せずに、寧ろ大筋の人格とかそれに伴う行為目的を論うことによって、相互の信頼を勝ち得ているとも言えるのだ。
 だからこそ「あんないい人だったのに」と非礼な言動をするようになっていった人に対して我々はその人が老人であるなら、老化したのだとか、認知症的査定を施すことになる場合もある。だから後はその者をどれくらい愛せるかと許せるかということに尽きる。だから私が「人格という価値とは他者間で育まれる理解に根差す」と言ったことの真意とは実は人格とは人間相互の愛の成せる技である、ということである。記憶の書き換えも人格的な陶冶において些細な行為的気紛れとかミステイクを補うという愛による決断であると言える。
 勿論ここで言う愛こそは憎しみも同時に生む。本能的に憎しみを抱くことを回避することが出来るタイプの人格者はいる。しかし彼(女)がそうだからと言って必ずしも彼(女)が際立った善良な市民であるとは限らない。つまり危機を察知して、憎しみによる弊害を回避する知恵者だからと言って直ちに彼(女)が愛情深いとは言い切れない。そういう場合も勿論あるが、逆にそこそこの愛情を示すことが出来ても、本質的に愛情深い場合かなり嫉妬も大きくなるし、相手に対する失望や怒りも大きくなるのだから、却って愛情深い人とは危機を回避することが下手とも言えるのに、彼(女)の場合かなりそれが巧いということは、愛情も打算的な部分がある場合もあることになるからだ。しかしこれも一般化は出来ない。
 要するに人格に対する信頼の優先に伴う記憶の正しさの歪曲、あるいは記憶違いに対する正当化といったことは、端的に権威主義的な追随心から来るものである。従って一層そういった決意を持続するか、それともそんなことを一切これからは止めようと思うかということは、端的にその査定している人格を付与している人に対する信頼と好感情に依存する。つまり人格とは対人感情に基づいた価値査定的対人認識であり、一つの決意に他ならない。ただそれまで持続してきた人格的査定の変更に伴ってそれまでの信頼が高ければ高いほど一旦相手の行為事実に幻滅することで逆に憎しみが募ることもあるが、本来憎しみとは精神的に消耗を来たすので、あまり信頼を憎しみに転化すること自体に価値を見出さないくらいに冷厳に見つめるということも一つの決意である。そしてそういった決意はある意味ではあまり対人的に信頼の度を越すことが得策ではないということもあるが、それ以上にどんな人格でも持ち上げ過ぎると人間は慢心してしまうということに対する今更ながらの覚醒ということであろう。
 今私が今更ながらと言ったことは極めて重要である。何故なら我々はしばしば極当たり前な真実を忘れ、自己によって偶然見出した些細な真理(それは決して重要ではないものの方が圧倒的に多い)の虜となり、暫くしてから再び「そうだよな、やはり真実とはある」と気づくからである。それでも尚我々は贔屓筋の対人関係において盲目の信頼を抱きがちであり、そうするが故に可愛さ余って憎さ百倍となりやすいのだ。しかし仮に期待が裏切られてもそれはそれでそういうこともある、と諦観を即座に持てるように常日頃から心がけておくということはある意味では人間とは常に完璧な存在ではないという当たり前の真理を忘れずにいるということである。
 私たちは対自分において何らかの自分を統一させるために記憶を固定化させる意味で、自己正当化的にも、他者に合わせる意味でも欺瞞的な記憶の書き換えも行うし、些細な事実の正確さよりも、大枠でも未来へと向けた行為目的に沿う形で例えばあまり楽しくなかった会合でも意義深かったという風に思い込もうとする。そしてそれは他者に対しても相手が些細なことで自分にあまり適切ではない態度や言動をとったとしても尚相手の些細な過ちを許す気持ちになることもある。それは端的に理性論的な意味でも良心的にも一つの慈愛の決意である。しかしそれもまたある意味では自分の過失を犯すことも時にはあるからその時他者から許して貰いたいという心理が他者に対する慈愛を引き起こすのであれば、それもまた一つのカント的根本悪と言ってもいいだろう。だから些細な知覚事項に対して一々感動しないで既知のものとして情報を処理するような具合で我々は自分にとって著しく損失とならない限りで些細な自己のミステイクを認めることも、逆に他者の過ちに目を瞑ることもあるだろう。そういった意味ではそれらをカント的根本悪として認識することは適切ではない。つまりそれは必要とされる生活上での本能的知恵の惰性だからだ。しかし我々は同時にある人生上での重要な決意とか反省(哲学的意味合いからではない通常の意味で)においては根本悪的認識を採用して、真摯に記憶の用意周到なる書き換えを罪として告発することが求められることもあろう。そして人格的査定性そのものに内在する感情論的であり、打算的な我々自身の惰性に覚醒することが必要なこともある。
 つまり深刻に受け止めるべき状況と、そうではなく些細なこととして記憶にとどめておく必要がない(積極的に忘れてもいいと判断する)ことの双方が常にあり得る。そしてその査定自体もまた記憶と経験の関わり、つまり前章での真理と密接に関わっている。

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