セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, September 30, 2009

第三章 愛という価値・恋愛と結婚①

 恋愛をするということは、その人間の精神的なスケールを向上させる、とよく言う。しかし安定した収入と、安定した家庭ということは、恋愛とはまた別の価値であると通常多くの人はそう思う。勿論必ずしも結婚生活自体が潤いとか幸福感情を齎すものであるとは限らない。しかし恋愛は確かに不感症的な性愛に対する関心のなさに比して精神的に充実させるということがあっても、一歩間違えるととんでもない痛手や、周囲に迷惑をかけることになるケースもしばしばあるということも殆ど全ての人にとっての共通認識だろう。
 一方片思いであるなら、それは相手に対して不快な感情を喚起しない限りで本人に誠心的充実を与える価値であるとも多くの人は考えるだろう。
 すると価値的に幸福であるということの自覚が、一定のレヴェルの不安定を抱え込むことになる恋愛感情が、自分の精神的充実を得てしかも迷惑にならない限りで、それはいいことである、と価値的に私たちが判断していることになる。しかしそれは実際に実を結ばない恋愛によって大きな痛手を蒙らない限りでのことである。つまり立ち直ることを前提とした考えである。しかし恋愛感情はややもすると、男性の側から女性の側へも、その逆でもストーカー的な状況を作りだすこともしばしばあり得る。しかもほどほどの恋愛であるなら私たちはそれを心の養分であるとは思わない。多少好感を持つということなら誰にでもあることだからである。するとどこかでアヴァンチュールを期待したりする危険な恋に憧れるギャンブル的感性から私たちが価値的に判断しているのが、恋愛の効用であると言ってもよい。
 しかし恋愛がただ単にプラトニックな間柄であるならまだしも、性行為を伴うとやはり様相を変えていくことは必至だ。しかもどちらかが、あるいは双方が結婚している場合には尚更である。情動的な感動を得たいがためにする恋愛であるなら、相手の家庭とか、社会的地位とか収入による安定といった要素は大した意味を持たないだろう。
 しかし安定を求める人間は結婚をして身を固めるという表現をするだけあって、不安定なギャンブルを回避するために結婚する場合、明らかに恋愛を害悪と決め付けている。つまり恋愛を心の養分として価値的に認めるということと、結婚を家庭生活の安定を希求する意味での価値として認めるということの間には二者択一的な葛藤が存在することになる。そしてある者はその葛藤を、結婚適齢期以前とその時期、そしてそれ以後という風に区分けして考える。しかし通常家庭を持った人間は、その家庭の平和と安定を突き崩さない限りで恋愛感情を容認するに留まる。しかし他方そのような安定的な平凡そのものを悪と決め付けるタイプの恋愛に対して非実利的な意味での存在理由、あるいは恋愛動機を、恋愛による結果よりも重視する考え方も存在する。この二つは永遠に交わらないようにも思える。しかしそれも結果的に家庭を崩壊させてまで突き進んだ恋を選択したことが、後々までそうしてよかったと思えるかどうかにかかっているが、仮に不倫関係に陥って、家庭を崩壊させてまで突き進んでしまったが故に、それを自己正当化しようとする心理が「やはり恋を成就させたことは間違いではなかった」と思い込むということも十分あり得ることである。人間は過去を吹っ切ったり、清算したり、正当化しつつ総括することが好きだからである。
 しかし逆にそのような冒険一切を極力回避してきて、それで心の平静と家庭の安定を構築し続けてきた人にとって、不安定要因である(それは経済的な意味合いでも、時間のロスという意味合いでも)恋愛を危険視して、あるいは価値的にも認められないということがあり得るが、一方自分はそういう恋愛の不安定さを一切避けてきたけれども、他人がそういう生き方をしていることは、自分の選択とは別に価値的に認めるということはあり得るだろう。その場合価値論的にはⅡの選択であるとも言える。そしてその者は自分に対しては自由恋愛の不安定要因を避けるということがⅠの選択として価値があるということになる。それは丁度逆のケースにも当て嵌まる。つまり自分は不安定要因を抱え込むようなタイプの波乱万丈の恋愛をしか出来ないが、客観的に他人全般に対しては安定した家庭とギャンブル的感情を回避している姿を肯定して価値と認めるというケースである。つまり双方ともに共通していることとは、端的に自分とは異なったタイプの選択をしている人の考え方やら思想、生き方をそれはそれで認めるということ自体を価値的に認めているということだ。だからもし自分とは違う生き方や選択を容認したり、あるいはもっと積極的に肯定したり、高く評価したりする場合、その丁度逆の選択や生き方をする二者は極めて対他感情という意味では似た価値観であると言ってよい。また逆に相互に絶対自分とは違う選択、生き方をしているタイプの成員を認めないとするなら、それはそれで相互に似通った価値観であると言ってもよい。
 つまり結婚生活の安定と持続を選択するか、恋愛の自由さと情動と、動機的純粋さを、結婚の持つ妥協やら建前とかそこで要求される忍耐を避ける形で選択するかという二者択一からではなく、自分と同質の選択、生き方のみを価値的に容認するか、あるいはそうではなく相手(他人)が自分と正反対の選択、生き方をしていてもそれはそれで価値的に認めるかという二者択一において、価値観の在り方の違いは顕在化している、と言ってよいだろう。つまりそのように自分と違う相手、他人の価値観を尊重するということ自体が一つの愛なのである。つまりこの後者の二者択一には明らかに相互に差異を認め合う隣人愛がある。つまりそれこそが違う者同士の愛の価値なのである。
 すると自分とは異質の選択、生き方をしている人を絶対認めないという形での価値観とは、自分の選択している価値観以外の一切を認められないということだから、必然的に単一の価値主義者(絶対主義者)であることになる。そしてそうでなく他人の差異を尊重する価値観の人は端的に価値の相対主義者であることになる。
 しかしこれとて感動の心の持つサディズムと同じであり、一定の相手を引き離した相対主義が、相手が自分と隔たっていればいるほど自分に対して干渉してくる機会は少ないわけだから、必然的に正反対のものに向けられる好奇心も手伝って軽いサディズム、つまりかつてイギリス人の女性が日本人の男性を前にして平気では裸になったような意味での憐憫までは行かないが、無縁の他人に対する接し方で利他的であるわけではない。
 すると価値的に相手が自分と隔たっていることを承知でそれとして認可するスタンスは尊重という心的作用自体に軽いサディズムが混入していることを示してもいる。
 つまり私たちは自分と同質のものに対して何らかの形でそれが正しいものであると知っていても、逆にそうではないと知っていても(寧ろ後者でこそ)それを贔屓しようと思う。それは逆に言えば、特に後者の場合尊重とは言えない。だから前者の場合は尊重の中でもほっとするタイプのものか、あるいは贔屓していることの中でも良心の痛まないものである。と言うことは尊重とはそれ自体あまり贔屓することが出来ないもの、つまり自分とは資質的に同質ではないものに対して、しかしそれが優れていることを承知なので、贔屓は出来ないが、賛同したり、評価したりする必要があるので仕方なく賛意を示すような心的作用である。従ってそれは端的に形式的責任遂行の面がある。と言うことは尊重する相手に対してそういう気持ち抱くことを正しいと自分に言い聞かせているということは、相手に対して尊重し得ない、つまり相手の言うこと、することがあまり高く評価出来ない場合には、容赦出来ないということを意味する。真に贔屓な相手に対して我々は寧ろ仕事自体があまり芳しくない場合にこそ、その落ち度を容赦なく責めることだけはしたくはないと思う筈だ。勿論そのあまり芳しくない結果を庇うことはいくら贔屓の相手でも出来はしない。しかし少なくとも容赦のない追及をすることだけは差し控えたいということである。 と言うことは逆に贔屓の心を一切持てない相手に対してその行為の優れていることを認めざるを得ない場合、明らかにその仕事の質が落ちた時には容赦出来ないという、一旦認めざるを得なかった立場の者の卑屈なリヴェンジ心が控えているとも言い得るのである。つまり尊重ということが贔屓と重なっている場合とそうではない場合とでは天と地ほどの違いが横たわっている。

Monday, September 28, 2009

第二章 価値には悪も含まれる

 感動的な演劇やテレビドラマや映画において、主人公が苦悩し、懊悩し、迫害され、理不尽な扱いをすることからドラマティックな展開から応援したり、殺されないで、と願ったりすることで、ドラマは感動を呼び起こす。しかし鑑賞している視聴者や観客は、既にその感動が巧く演技する悪役たちの果たす役割によってクローズアップされている、ということを知っている。受難、差別といった一切が描出される時、そこにはサディストたちによるアグレッシヴなヒーロー、ヒロインたちに対する悪辣さこそが、ドラマを盛り上げ、感動を誘うということを知っている。
 それは既に美とか、正義を確定するために、積極的に撲滅すべき悪、不正が必要であることを物語っている。あるいはこうも言える。悪の立場から見れば、迫害される側に全く落ち度がないということも現実にはあり得ないのだ。ただ総体的に見て、出過ぎている側を悪と取り敢えず決めつけるだけである。そのように裁定するあなたは既に詳細な相互に対立する側の事情を斟酌することを止めて、ただ漠然とマクロ的視野という安全地帯にいるだけに過ぎない。
 あるいはある感動的ドラマを鑑賞している全ての視聴者、観客は熟知している。つまり正義とか善に対して不正や悪とは相対的なことでしかないということを。
 だからある行為が善であるのは、その行為によって潤う立場の成員に限られるわけだから、感動するドラマが蹂躙され、応援されるヒーローやヒロインたちにのみ立脚しているわけではないことを知るような意味で、私たちが幸福で平和であることは、その影で不幸のどん底に突き落とされ、平和を乱される現実を敢えて目を瞑っていることであると薄々全ての成員は知っている。従って価値とは、価値ありとする立場に付帯する価値を認める人たちによる授受であり、授受され得るメカニズムであるということを私たちは知っている。だから価値の存在理由にはあらゆる肯定的ではない無価値、あるいは害毒自体を含有するのである。つまり他方で逆説的存在を積極的に必要とするのである。もし他方にそういった悪が一切なく、害毒もないとすれば、それまで善であるとしていた存在もまた、善ではなくなる。あるいは価値さえなくなる。
 悪や不正が善や正義を際だたすということ自体に既に価値には、無価値、価値を剥奪するような害毒を必要としているということを意味する。つまりそのように蹂躙されることによってのみ価値は価値としての命脈を保つこととなるのである。
 まただからこそ悪自体に魅力を追求すること、あるいは美を求めることすら私たちは価値として無意識には全ての成員が認めている。
 既にあるスター性のあるタレントとかアクターたちをクローズアップさせるための引き立て役や悪役は憎まれるためにのみ参加させられている。それを承知で演じる方も工夫する。第一私たちの社会は人相のいい人、顔つきの整った人を好み、その人格がどうであるかという判断は常に二の次である。つまり面相の好感の持てる人に対してそれに相応しい人格を付与し、そういう人がスターであるならそれに相応しいドラマティックで視聴者や観客が感動出来る脚本が注文を受けて書かれるのだ。それはロックシーンにおいてベースギターが縁の下の力持ちであるのと同じである。尤も確かにポール・マッカートニーやジャコ・パストリアスたちはベース本来の美で、リードギターと引けを取らないタイプの名演奏で楽しませてきたわけだが、ベースだけがヒーローになるということはないだろう。
 しかし価値はないもの強請りであることも多く、従っていいベースプレイヤーがいないバンドではそういう骨のある奴を探そうということになる。しかし大体そういう存在は②の綜合的価値であり、①の分析的価値にはなり難いとは言える。と言うことは理性論的に判断するような男性脳的な傾向としてのシステム化志向性から言えば、Ⅱの理性論的価値から言えば確かにベースギターやベーシストはヒーロー足り得るのだが、Ⅰの価値を感情論的には私たちは優先する傾向があるので、悪役を真に応援することは控えるだろうし、それはあくまでアンチヒーロー志向的な意味で批評的高次の判断であり、即座に好感を持つという判断ではない。ベーシストが主役になってそれが普通である状態が来ないのと同じである。
 すると価値とは価値ありとする直観的判断を優先する傾向が我々にあるから価値は直観的には見誤りやすいとも言える。
 しかし長い目で見ればやはり第一印象で価値ありとしたものの方がずっと正しかったという判断もしばしば私たちは経験する。人も見かけで判断するな、という不文律と共に、百聞は一見にしかずとも不文律的に言い得るわけだから、どちらの判断が正しいかということもその都度異なるとだけは言える。
 だから逆に悪はどんなに直観的には価値がないと思えるけれど、よく考えると、主役を引き立てる悪役同様、それはそれで必要だ、何故なら悪が存在しない世界では善も価値もあり得ないのだという哲学的判断が成立してしまう以上、ニッチなりに確固たる地位を獲得しているとも言い得る。つまり意外と安易な善や価値よりは、悪、それだけは別腹で私たちに確保された価値判断だと言える。
 マフィア二つの組織に掛け持ちで雇われた殺し屋がいたとしよう。それぞれの組織は彼が掛け持ちで雇われていることを当然知らない。彼はこの二つの組織が対立していった時、双方から腕の立つ殺し屋が対立するその殺し屋が掛け持ちで雇われている組織にいると知らされ、そいつを殺してくれと依頼される。要するに彼は彼自身を殺してくれと双方の組織から依頼されるのだ。この時彼が取るべき行動は一体どういうことになるのか?
 それは悪そのものではなく、政府の組織にしても同じである。この殺し屋のような存在は恐らくどの社会にも存在し得る。全ての人に対してその存在理由が善であるような人間はこの世にはいない。もしそうするとすればこの殺し屋は自殺するしか方法がない。しかし仮に自殺したとしても彼がそれまでしてきた双方の組織から依頼された殺人は、全て対立する組織双方にとってデメリットであった筈だから、どんなに八方美人的存在であろうとしても、その時点で双方にとって善たる存在ではないことになる。また自殺すればそれまで依頼出来た双方の組織に少なからぬダメージを与える。しかしそれも結局どちらの組織もダメージを受けるし、また彼の存在に対する実を知らないがために受けるダメージを双方が回避し得ることになるから、プラスマイナスゼロであるとも言える。
 つまり全ての人間はこのような状況にあると言ってよい。従ってドラマで受難を得るヒーローやヒロインたちは、そういう観点からすれば、素直に自分がつき従うべき相手とか、味方したり、共感したりするサイドが決定されているという意味においては、決して世間一般的な意味合いからすれば善良ではない、それどころか鼻摘み者である場合の方が多い。しかしその鼻摘み者の存在自体を我々は知っているのに、その弧絶状況自体に、ドラマティックな感動を得るのだから、感動する側も極めてサディスティックな態度で鑑賞していることになる。従って感動するということ自体も極めて善良な感情ではないということになる。そして感動するという心的作用がそのようにサディスティックな様相を含んでいるということが、脳科学的なセレンディピティーのような意味で感動することが脳にとっていいことであるという価値自体が、悪を容認していることになる。いやそれくらいなら悪とは呼ばないということがそもそも自己欺瞞以外の判断ではない。感動される側の鼻摘み者をあなたは決して現実社会で発見した時、自己保身のために個人で救済しようとなさらないであろう。だからそれが出来ないと知っているから、受難を得るヒーローやヒロインをドラマで見て感動するのである。「気の毒にね」と。ニーチェもきっとあなたが感動することが脳にとって価値あることであると言ったなら苦笑していることだろう。
 この事実一点を取ってみても、価値とはそれを価値であると見做す時点で心的には悪の作用を含有していることが分かる(我々は普段は自分からは助けられない気の毒な鼻摘み者を美化し、周囲の者を悪に仕立てドラマ=価値を作る)。

Sunday, September 27, 2009

第一章 価値とは一つの技術である

第一章 価値とは一つの技術である

 価値には幾つかのタイプがあるように思われる。つまりそのタイプを総称して取り敢えず私たちはそれらを価値と呼んでいるということである。
 まず二つに価値は大別されるように思われる。

① 特定の目的のためではなく、それ自体が一つの価値であるように思われる価値→分析的価値
② 何か特定の目的のために役立つこととしての価値→綜合的価値

 しかも②には更に二つに大別される価値があるように思われる。

Ⅰ 幸福感情、快の獲得といった個的な価値
Ⅱ 公共的、公的な倫理(道徳)、道義的、責任論的な価値

 概してこの最後の二つにおいて女性が直観的にⅠを、男性は直観的にⅡを選ぶことが多いということを脳科学者である茂木健一郎氏は述べている。(「女脳」講談社刊より)

①の価値とはそれ自体が美しい風景とか光景、あるいは絵画とか音楽といったものに対して素直に感動する時に我々が理屈ではないという形で理解するものなども含む。一方、②の場合私たちは何か特定の目的のために努力している際に、苦労した末に何かいい目的遂行のためのアイディアを思いついた時などに、「それはやってみるだけの価値があるな」などと言う。つまりそれは方法であるとか、選択であるとか、要するに一定のプロセスを通過したものの中でそれをチョイスしたり、採用したりすることに価値があるように思われる価値に対する見方である。①自体は既にその中にⅠもⅡも含まれているが、あまりのも分析的な真理であるので、そのように二つの大別する必要を我々は通常感じない。
例えば母親が病気になった時看病をするために実家に戻るといったことはあまりにも当たり前のことなので、実家へと急ぐ行為自体は価値があるが、それを一々価値であるとなど我々は通常認識しない。母親が病気から直って欲しいと思うこと自体は幸福感情であるからⅠは内包されているし、あまり仲のよくない母親と子どもという関係でも母親が病なのだから有無を言わず駆けつけるということは正しいという言い方においてもⅡの考えが内包されている。一方②において我々はその目的に向かっている途上で色々なアクシデントとか思惟に放り込まれることがあるがために、一つ一つの思いつき自体に対して価値評定しやすいということが言える。そこで自分で見出した価値であるのに、それ自体を分類することもたやすいと言える。旅行に行く時にどういうルートで、どういう移動の手段で行くか、電車で行くか、バスで行くかとか、途中で下車する駅を設けるか、一直線で目的地に行くかというようなことは明らかにⅠの価値であるし、一方観光地に設けられた名所案内の立て看板に示された地図が風雨のために塗料が大分剝げ落ちてしまっているから、市の観光課の職員がそれを修正しようと提案すること自体は、Ⅱの価値である。
しかし価値が私たちにとって必要であると思えることの内の最も重要なこととは、それが失われていくことをどこかで私たちが知っているということではないだろうか?
 つまり一つには人生は価値があると誰でもそれを論理的にではなく直観的に感じ取っているとしたら、それは私たちが死ぬからである。従って価値ありとするものとは、人生自体という最上位から次第に端的に死ぬまで私たちにとって必要なもの、例えば健康とか、健康を保つために必要な栄養とか運動といったものへと徐々に格下げされていく運命にあるのである。そして次いで思考することとか、鑑賞することとかである(勿論職業として思考することとか鑑賞することをしている人も大勢いるが、それはまず生活することとか、人生を生きることという大前提と、その行為が職業に結びつく、社会的需要があるとか、自分自身に職業として定着させ得るくらいに才能があるとかという条件が必要となる)。
 そのように失われていくことを知っているから価値ありと感じられるということは、逆に今現在は獲得していないが、生きている間には是非獲得したいと願うことが、例えばそれまでは挑戦していなかった、自分の中にそういう能力があるということを意識したことがなかったが、中年以降になってから挑戦してみたいと思うこと、例えば子育てが一段落ついた段階でやってみようと思う趣味とか、あるいは一度も食べたことがない美味しい料理とかは獲得していないから価値があると思える。
 勿論その中でも絶対必要であると思えることと、経済的余裕さえあれば欲しいということのランクはあるだろう。人生において最大の価値のある私たちにとっての存在である食料ということを考えてみると、私にとって野菜、茄子とか大根とかキャベツが食べられないということは耐え難いことだが、フォアグラとかキャビアが食べられないということはランクとしてはずっと下である。つまりそれら高級食材といったものは、必要最低限であるからこそ最高度に必要度の高い、つまりランクの上の日用品とか、必需品に比較すれば、金銭的余裕とか、精神的余裕のある時に必要になるもの一般、つまりランク的に言えば下のものなのである。
 だから必然的に価値とはまず生きていけること、生活が成立することという大前提の上で、そのために絶対欠かせないものという価値と、それ以外のしかしその欠かせないものの獲得が安定してくれば、必然的にもっと別の獲得していなかったからこそ価値があると思えるようになるという、要するに段階的なことが存在するわけだ。そのことに関しても分析的な意味で最大の価値とは人生であり、人生の幸福であろう。そしてその幸福を高次の価値判断から言えば、自分に向いた職業に就くということが最良であるけれども、まず食べていける、つまり現実問題として需要があり、その需要において自分が供給し得るという条件に適合したものが人生において最大級も総合的価値ありとなる。しかしそれは精神的意味合いからのものであり、またそういった最低限の人生を成立させることの出来る食料こそが物理的な意味では綜合的な意味での最大の価値のものということになる。だから食膳ということとか、食べること自体を精神的な文化にまで高める意識というものは当然現代人には付帯しているのだが、それは端的に食料が確保出来るという次元のランクからすれば、かなり低ランクのものであると言ってよい。だからこそ逆に「いや一人で食事するよりも愛し合う人と一緒に食事した方がずっと幸福だ」という価値判断が成立し得るのである。つまりそのような意味で最高度のランクである価値は、最低限の生活が成立し得るという条件を成立させるという意味での最高度のランクはまず必要とされて、然る後に要求されてくる、と考えればよいだろう。そうなると、精神的価値を充足させるための価値ということから考えればやはり価値自体とは技術的なことである、ということは真理であることになる。技術を伴わない真理はないし、幸福もないし、精神的価値もないということから言えば、価値の不可欠の要素とは物理的条件を成立させる技術であることになる。
 勿論それは人生そのもの、生きることそのものが最高ランクの価値である、ということを常にア・プリオリな真理であるから除外した場合の思惟の結果であるということは当然のことである。だから逆に愛する者との間で育まれる愛さえあれば、飢えて死んでもよいという価値判断も当然成立する。しかしそれはやはり現実問題としてみれば、かなり無理がある考えということになる。あまりにも満たされた生活から徐々に落ちぶれ果てていくことを恐れて自殺するという例は確かに現代社会では多く存在する。しかしそれはあくまで例外的なケースであろう。何故なら殆どの人はそういうトップの地位とか財産を得ることなどないからである。勿論貧困の中でも愛を最高級のランクに位置づけることは出来る。しかしそうしながらも愛する者同士何とか人間は飢えずに済むように工夫しているわけだから、やはり需要に対する供給となり得る職業と、家族などに代表される人間関係、食料の確保という現実的三本柱が価値的には常に並存し得るということになりはしないだろうか?
 そしてこの三つには専門的技術、対人関係技術、調理といったように全て技術が関係してくる。その意味でやはり価値とは技術そのものである、ということが演繹されるのである。私は技術というとどこか唯物的イメージを抱く人もいることを承知で敢えてこの考えに固執するのだ。つまり技術とは考えることの基本にも横たわっているし、また手を使って何かを作るということにも利用される人間の生活、人生において最大の武器である。それ自体が価値であると考えることも出来るが、敢えて価値そのものもまた技術であると私は考えてみようとしているのである。そしてスポーツを喩えに使えば、それは勿論勝敗があるし、プロとなると勝たなくては生活が成り立たない。しかしそれでも尚、すること自体が最大の価値であると考える。それは分析的価値である。しかしやはり勝つために努力するだろうし、そのために筋力トレーニングをするとか、そのために水泳をするとか、ランニングをするとか細かな技術が要請される。従ってそれはランク的に言えば、それぞれ綜合的価値のものである、ということになる。

価値のメカニズム 序章

 私たちは生活する上で、自分の行為を目的化したり、意味づけたりする。これは私たちが生を意味あるものにしたい、価値あるものにしたいということの表れである。
 しかし意味化された行為は一旦それが行うに値するものであるとされると、その意味について問うことは次第に等閑にされていく。つまり価値的な規範自体に対する検証とは、価値あるものを選ぶ行為においては邪魔なものだからである。
 私たちは何か世界の中で存在するものを見つめる時、その見つめて理解出来ること自体、つまり知覚行為自体に対しては検証し得ない。知覚自体がどういう傾向のものであるかとか、観察するとはどういうことなのかということ自体に対する検証とは、端的に何らかの目的を帯びた行為の中ではなし得ない。それらは判断を中止した上でなされる思惟だからである。従ってそれは丁度どんどん注文が来てその注文に応対して生産を捌いていく立場の人間が注文を受け付けて生活するとはどういうことなのだろう、と考える余裕がないことと同じである。
 しかし人間は時として反省意識に放り込まれ、それは自発的にそうであるし、ある時突発的衝動においてもそういう気持ちになるものであるが、そうなると今度は徹底的に目的化されてきた行為自体を検証し始める。その時価値ありとして判断してきたことは果たして正しかったのか、とか判断するとは一体どういうことであるか、とか要するに行為全般に渡って行為や行為連関自体が有する価値を見つめ直す。そして終には価値判断とは何かとか、価値そのものとは一体何なのかということに思惟を巡らせる。
 本テクストは価値を問うことを本論とする。あるいは価値を行為や生活、信条、思想、哲学一切に対して付与すること自体を検証してみよう、という試みである。
 価値がないということを考えることが出来るのは、価値があることはこれこれこういうことだという判断が成立しているからである。価値とはしかしそれ自体に縛られることを性質的には有している。つまり一旦価値があるとすると、価値転換し難いものとしても考えられる。すると価値を問うことは価値を一つに収斂させていこうとする私たちの保守的な性格自体を検証することを強いる。
 つまり価値ありとする判断自体が既に価値に呪縛されることを承知で行われている。と言うことは価値がないということに対しても既に判断する以前に何か漠然としてではあるが、私たちがその原型として何かを価値として理解しているということを意味する。
 価値にはそれだけではなく倫理的価値とか幸福的価値とか、要するにそれぞれに付帯するための宿主を要する。その宿主自体の性格によって価値の在り方がその都度変更されてもいる。と言うことは、価値それ自体は一つの機能を持っていると考えることが出来る。だからこそ私は本論を「価値のメカニズム」としたのである。
 本論では価値自体を検証するために行為を中心として倫理的、正義論的、道義的な立場から考える傾向のものと、美的、幸福論的、感情論的、感覚授受的な立場から判断する傾向のものとを常に対比させて考えていこうと思う。実はこの二つはこのように二分することが本来不可能なものとして存在しているのだ、という私の考えがあるのだが、そこら辺にこそ本論の主旨があると思うのである。