セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, September 30, 2009

第三章 愛という価値・恋愛と結婚①

 恋愛をするということは、その人間の精神的なスケールを向上させる、とよく言う。しかし安定した収入と、安定した家庭ということは、恋愛とはまた別の価値であると通常多くの人はそう思う。勿論必ずしも結婚生活自体が潤いとか幸福感情を齎すものであるとは限らない。しかし恋愛は確かに不感症的な性愛に対する関心のなさに比して精神的に充実させるということがあっても、一歩間違えるととんでもない痛手や、周囲に迷惑をかけることになるケースもしばしばあるということも殆ど全ての人にとっての共通認識だろう。
 一方片思いであるなら、それは相手に対して不快な感情を喚起しない限りで本人に誠心的充実を与える価値であるとも多くの人は考えるだろう。
 すると価値的に幸福であるということの自覚が、一定のレヴェルの不安定を抱え込むことになる恋愛感情が、自分の精神的充実を得てしかも迷惑にならない限りで、それはいいことである、と価値的に私たちが判断していることになる。しかしそれは実際に実を結ばない恋愛によって大きな痛手を蒙らない限りでのことである。つまり立ち直ることを前提とした考えである。しかし恋愛感情はややもすると、男性の側から女性の側へも、その逆でもストーカー的な状況を作りだすこともしばしばあり得る。しかもほどほどの恋愛であるなら私たちはそれを心の養分であるとは思わない。多少好感を持つということなら誰にでもあることだからである。するとどこかでアヴァンチュールを期待したりする危険な恋に憧れるギャンブル的感性から私たちが価値的に判断しているのが、恋愛の効用であると言ってもよい。
 しかし恋愛がただ単にプラトニックな間柄であるならまだしも、性行為を伴うとやはり様相を変えていくことは必至だ。しかもどちらかが、あるいは双方が結婚している場合には尚更である。情動的な感動を得たいがためにする恋愛であるなら、相手の家庭とか、社会的地位とか収入による安定といった要素は大した意味を持たないだろう。
 しかし安定を求める人間は結婚をして身を固めるという表現をするだけあって、不安定なギャンブルを回避するために結婚する場合、明らかに恋愛を害悪と決め付けている。つまり恋愛を心の養分として価値的に認めるということと、結婚を家庭生活の安定を希求する意味での価値として認めるということの間には二者択一的な葛藤が存在することになる。そしてある者はその葛藤を、結婚適齢期以前とその時期、そしてそれ以後という風に区分けして考える。しかし通常家庭を持った人間は、その家庭の平和と安定を突き崩さない限りで恋愛感情を容認するに留まる。しかし他方そのような安定的な平凡そのものを悪と決め付けるタイプの恋愛に対して非実利的な意味での存在理由、あるいは恋愛動機を、恋愛による結果よりも重視する考え方も存在する。この二つは永遠に交わらないようにも思える。しかしそれも結果的に家庭を崩壊させてまで突き進んだ恋を選択したことが、後々までそうしてよかったと思えるかどうかにかかっているが、仮に不倫関係に陥って、家庭を崩壊させてまで突き進んでしまったが故に、それを自己正当化しようとする心理が「やはり恋を成就させたことは間違いではなかった」と思い込むということも十分あり得ることである。人間は過去を吹っ切ったり、清算したり、正当化しつつ総括することが好きだからである。
 しかし逆にそのような冒険一切を極力回避してきて、それで心の平静と家庭の安定を構築し続けてきた人にとって、不安定要因である(それは経済的な意味合いでも、時間のロスという意味合いでも)恋愛を危険視して、あるいは価値的にも認められないということがあり得るが、一方自分はそういう恋愛の不安定さを一切避けてきたけれども、他人がそういう生き方をしていることは、自分の選択とは別に価値的に認めるということはあり得るだろう。その場合価値論的にはⅡの選択であるとも言える。そしてその者は自分に対しては自由恋愛の不安定要因を避けるということがⅠの選択として価値があるということになる。それは丁度逆のケースにも当て嵌まる。つまり自分は不安定要因を抱え込むようなタイプの波乱万丈の恋愛をしか出来ないが、客観的に他人全般に対しては安定した家庭とギャンブル的感情を回避している姿を肯定して価値と認めるというケースである。つまり双方ともに共通していることとは、端的に自分とは異なったタイプの選択をしている人の考え方やら思想、生き方をそれはそれで認めるということ自体を価値的に認めているということだ。だからもし自分とは違う生き方や選択を容認したり、あるいはもっと積極的に肯定したり、高く評価したりする場合、その丁度逆の選択や生き方をする二者は極めて対他感情という意味では似た価値観であると言ってよい。また逆に相互に絶対自分とは違う選択、生き方をしているタイプの成員を認めないとするなら、それはそれで相互に似通った価値観であると言ってもよい。
 つまり結婚生活の安定と持続を選択するか、恋愛の自由さと情動と、動機的純粋さを、結婚の持つ妥協やら建前とかそこで要求される忍耐を避ける形で選択するかという二者択一からではなく、自分と同質の選択、生き方のみを価値的に容認するか、あるいはそうではなく相手(他人)が自分と正反対の選択、生き方をしていてもそれはそれで価値的に認めるかという二者択一において、価値観の在り方の違いは顕在化している、と言ってよいだろう。つまりそのように自分と違う相手、他人の価値観を尊重するということ自体が一つの愛なのである。つまりこの後者の二者択一には明らかに相互に差異を認め合う隣人愛がある。つまりそれこそが違う者同士の愛の価値なのである。
 すると自分とは異質の選択、生き方をしている人を絶対認めないという形での価値観とは、自分の選択している価値観以外の一切を認められないということだから、必然的に単一の価値主義者(絶対主義者)であることになる。そしてそうでなく他人の差異を尊重する価値観の人は端的に価値の相対主義者であることになる。
 しかしこれとて感動の心の持つサディズムと同じであり、一定の相手を引き離した相対主義が、相手が自分と隔たっていればいるほど自分に対して干渉してくる機会は少ないわけだから、必然的に正反対のものに向けられる好奇心も手伝って軽いサディズム、つまりかつてイギリス人の女性が日本人の男性を前にして平気では裸になったような意味での憐憫までは行かないが、無縁の他人に対する接し方で利他的であるわけではない。
 すると価値的に相手が自分と隔たっていることを承知でそれとして認可するスタンスは尊重という心的作用自体に軽いサディズムが混入していることを示してもいる。
 つまり私たちは自分と同質のものに対して何らかの形でそれが正しいものであると知っていても、逆にそうではないと知っていても(寧ろ後者でこそ)それを贔屓しようと思う。それは逆に言えば、特に後者の場合尊重とは言えない。だから前者の場合は尊重の中でもほっとするタイプのものか、あるいは贔屓していることの中でも良心の痛まないものである。と言うことは尊重とはそれ自体あまり贔屓することが出来ないもの、つまり自分とは資質的に同質ではないものに対して、しかしそれが優れていることを承知なので、贔屓は出来ないが、賛同したり、評価したりする必要があるので仕方なく賛意を示すような心的作用である。従ってそれは端的に形式的責任遂行の面がある。と言うことは尊重する相手に対してそういう気持ち抱くことを正しいと自分に言い聞かせているということは、相手に対して尊重し得ない、つまり相手の言うこと、することがあまり高く評価出来ない場合には、容赦出来ないということを意味する。真に贔屓な相手に対して我々は寧ろ仕事自体があまり芳しくない場合にこそ、その落ち度を容赦なく責めることだけはしたくはないと思う筈だ。勿論そのあまり芳しくない結果を庇うことはいくら贔屓の相手でも出来はしない。しかし少なくとも容赦のない追及をすることだけは差し控えたいということである。 と言うことは逆に贔屓の心を一切持てない相手に対してその行為の優れていることを認めざるを得ない場合、明らかにその仕事の質が落ちた時には容赦出来ないという、一旦認めざるを得なかった立場の者の卑屈なリヴェンジ心が控えているとも言い得るのである。つまり尊重ということが贔屓と重なっている場合とそうではない場合とでは天と地ほどの違いが横たわっている。

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