セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Friday, October 2, 2009

第三章 愛という価値・恋愛と結婚②

 例えば相手が自分と同世代でその天賦の才を持ち合わせていて、しかもその才が自分を脅かすものであり、しかも自分にはない全く異質の才である場合と、その相手がかなり自分より年少の場合では自ずと相手に対する接し方に違いが生じてくるだろう。勿論相手の年齢に関係なくそういう差別を行動上ではしないにせよ、心理的には随分違うと言い得る。
 そのことは端的に男女の恋愛感情にも、結婚生活での配偶者に対する態度でも同じではないだろうか?
 つまり愛の価値とは相手を自然と愛せる、つまり贔屓出来る感情が、相手がそれをするのに相応しいと思える立派な行為であるとか責任を自分に対して果たしているということ自体が、愛=贔屓と、愛=贔屓ではなく理性論的に相手を認める ということが重複していることこそが相手に対する気持ちにおける幸福であると人間が感じる以上、私たちはそれが重複していないことの方がかなり多いと知ることを通して、愛が自分の恋愛とか結婚生活においてなら、重複を望むが、そうではない場合には相手に対して公平な目を持とうという気持ちになるわけだから、必然的に恋愛でも結婚生活でも、相手が自分が贔屓にしている面以外の意外な一面を自分に対して覗かせたなら、即座に応用する考えとして重複しない場合でも相手を尊重しなくてはいけないという気持ちである。
 従って重複しない場合の、つまり贔屓にはなれないに対して相手を認めざるを得ないという理性論的判断こそが尊重であるとすると、必然的に相手を尊重するということが、その相手が尊重するに値しない立場に立ったと自分が判断したのなら、即座に味方をすることを止めるということを常に決心的にも持ち合わせているということを意味するのである。
 だから逆に相手を尊重するということが贔屓心と重複している場合は、相手が自分に対して道義的に理に適った行為をしないようになっていった場合、その失望感は、ある意味では贔屓心と重複していない場合よりも激しいと言える。可愛さ余って憎さ百倍である。
 だから必然的に愛の価値とは、贔屓と評価とが重複していることが最も望ましいと誰しも思う。そして恋愛初期とは贔屓の心の方が強いことの方が殆どであるが、それが長期持続することとなると、途端に相手に対して贔屓出来ない側面も多く併せ持つことを知ることとなるから、必然的に道義的に贔屓心を殺してでも、相手を評価しなければならないことも多くなっていく。その端的な例こそが結婚生活である。
 だから尊重という心的作用は公平な目で贔屓心を殺そうと努める感情が生み出す潜在的には相手が期待を裏切った場合には容易に見捨てるというサディズムを保険として持ち合わせた微妙な心理を本質とする、と言えるだろう。
 しかしそのことと、感動の本質が、実は無意識の内に日頃は決して相手を庇ったりすることがない相手に対しても、本質的には差別しない(嫌悪感を示すこともしない代わりに、庇いもしないし、助けもしないし、味方にすることもしない)が、決して友好的ではいないという意志を履行しているからこそ、いざ極端な例を、例えば「レ・ミゼラブル」を読んで感動するような意味で、盗人を容認しないけれど、その境遇を知ると共感してしまうという、それが実は憐憫と隣り合わせであることを気づきもしないでいる、ということであるのとはいささか異なるかも知れない。
 何故なら感動の本質がドラマとか小説で描かれているヒーロー、ヒロインに感情移入する場合には、その相手がフィクションの世界での登場人物であればこそ感動するのであり、それが実際に存在しているのならあまり親しくしたくはないと思えることを感動している際に我々は気づいている。そしてその実際とドラマではなくてもノンフィクションノベルであってもそこで描かれていることの感動的共感が現実で起きた場合の自分の行為選択と乖離していたとしても、いやそうであればあるほど感動の度は強化される、ということとは違うからだ。感動の場合我々はその乖離を消滅させようとすらしない。それがあった方がいいとさえ思っている。しかし実際の恋愛とか結婚生活とかでは、少なくとも別離したり、離婚したりする行為選択以外のケースでは必ずその贔屓と、評価の間の乖離に対して折り合いをつけようと努力する筈だからである。
 だから恋愛とか結婚の場合には、仮に尊重という心的作用が自己欺瞞的であったとしてもそれは、どこかで必ず責任倫理的な信条と結びついている。つまり安易に離婚は出来ないとか、一度でも愛した相手を素気無く出来ないということ自体が既にその責任倫理的心的作用と結びついている証拠である。しかし感動の場合はかなり気まぐれなケースも多いのだ。それが人生を左右するくらいの、例えばある行為とか作品と出会ったことで、職業を選択したり、転職を決意したりするようなケース以外では、それは気まぐれであるからこそ真に感動に浸れるという面もあるからである。つまりその感動の重大さと気安さの同居に何かまた大きな意味が控えているようにも思われる。

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