セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Tuesday, October 20, 2009

第八章  価値を認めることと感動するものを必要とすること①

 既に述べたことだが、私たちは感動するものに対して、それが虐げられ、あらゆる努力が無視されていればいるほど感動の対象とする。と言うことは即ち感動を与えるものを必要とするということの内に感動するものを作り出すために必要なあらゆる感動出来ないこと、つまり凡庸で、素晴らしい行為や努力を一切認めない平凡で死ねば誰も顧みないにもかかわらず、生きている間は結構巧く他人とやっていける大勢の人間を容認していることになる。感動するものを価値と認める一方、感動出来ない多くの無価値を同時に常に必要としており、そのコントラストを作り出すために積極的に世の中にある差別一切を黙認しているのだ。だからこそ人間はそれが自分たちにとって必要なものであるという認識である最高のものとしての価値の中に既に価値と言い出す瞬間に既に悪を不可欠の要素として含ませているのである。と言うことは価値を存在し得る最高の認識として容認する段において既に私たちはあらゆる悪や、あらゆる無策、あらゆる不平や不正に対する無関心を容認し、それら一切に対する解決を常に先送りして、自分がそれらを解決することが出来るくらい能力を備えてはいないということを価値と言うことを通して宣言し、価値を認めることに吝かではないという宣言を通して自分の無力を世間一般に是認させているのである。それは責任を一切負わないということに対する世間一般からの是認を得ることだけのために人間が生きていく上で価値を求めるということを既に自分でも気づいているということなのだ。
 ショーペンハウアーは「存在と苦悩」において「苦悩とは天才を育てる条件である」と言っているそうである。と言うことは天才を必要とするという段階で既に、天才が価値あるか否かはともかく一人の天才を作り出すためには天才ではない大勢の、そしてその天才を一切認めない凡庸な市民を必要としている、と言っていることと同じである。しかし恐らくそういうショーペンハウアー自身も、では一体誰が隠れていて、本当は素晴らしい行為をしているのに天才だと誰しもが見損なっている人なのか、それを言い当てることが出来ないということに対しても自覚的だったのではないだろうか?つまりだからこそ天才にとっては苦悩が生み出される条件として必要だということになるのだ。いや天才は予め天才なのではなく、ある苦悩によって生み出される、苦悩に苛まれているという状況とか状態の中でそれを除去しようと必死になって努力する中のほんの一部だけが天才になり得るということをショーペンハウアーは言いたかったのだ。
 だから必然的に天才とは偶然が生み出すということにもなる。その天才という部分こそ人類にとっての財産であり、天才が生み出されること自体が人類にとっての価値であると言うのなら、価値とは常に後付的に偶然を必然化する思惟こそが生み出していることになる。つまり価値とは既にあるものに対する命名なのではなく、生み出されてきたものに対して「それこそが価値だ」と発見し得るような状況においてのみ規定され得るものということになる。

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