セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, October 17, 2009

第七章  パフォーミングアーティストにとっての生きている価値・スポーツパーソンにとっての生きている価値

 私自身は仕事上でのリアルなライヴ感という意味で最大のものはパフォーミングアーティストであると思っている。確かに運動を伴った躍動という意味でライヴ感の最大のものはスポーツである。しかしスポーツの場合、スポーツマンの死とは端的に競技からの引退以外のものではない。引退後かつての名選手が死去するという事実は、ただ単に普通の人の死であるに過ぎない。
 しかしパフォーミングアーティストたちは、ミュージシャンであれ、芸人であれ、落語家、コメディアン、ダンサーたちは全て死ぬまで引退ということがない。従って死んだ時の空虚感はスポーツパーソンより以上であると言ってよい。スポーツの熱狂は価値的にはやはり生きている人間の人生という位相ではなく、肉体的躍動であり、精神活動である以上に身体活動である。勿論試合そのものには全て心理的要素が濃厚にある。しかしそれにもかかわらず、彼らに求められているのは、メンタルに負けることでなくあくまでも勝ち続けること、つまり自らの肉体をスポーツ的美のサイボーグにすることなのである。だからどんなに苦境に追い込まれてもそれを克服し得た時にのみ評価される。
 しかしパフォーミンングアーティストたちにとってアーティスティックなスタイル、様式、芸風といった全ては実は、克服とか、技能的に精神的苦境に打ち勝つことではない。そもそもアート的傾向のあるもの、それは伝統芸能も含んでだが、それらは負けていること、あるいは打ち勝っていないこと自体もまた一つの表現なのである。
 その意味で囲碁や将棋の世界、あるいはチェスといった世界は明らかにスポーツに近い。つまりゲーム性のある勝負事においては、精神的にまず勝者であること、しかもどんなに苦境があってもそれを乗り越え理性を平素のように保つこと自体が技能となっている。しかし文学とか芸術と同様パフォーミングアーティストたちにとっての技能は、苦悩自体を表現することにあるのである。それは克服して健常である状態で(あるいは近づけて)勝負するのとは違う。
 だからこそ逆にスポーツには一切のデカタンスがない。スポーツには端的に平常人としての理想が常に求められている。病的な天才というものはスポーツ選手にはいない。勿論病をおして試合に出ている人はいる。しかしそれらは端的にそういう風にチャレンジングであること自体として評価される。そして克服した状態であること自体として評価され得るのであり、パフォーミングアーティストたちがそれ自体を日常として引き受け、表現しているわけではない。しかしこのように全く相反する価値を双方が引き受けているという事実自体が、世界が別個の価値の理想を常に共存させ、双方を必要としているということを殆ど多くの人たちが認めているということ自体が一つの価値自体の奇蹟である、と言えないだろうか?
 勿論パフォーミングアートの特定の分野にしか興味のない人は大勢いるだろうし、逆にスポーツのある競技だけにしか関心のない人も大勢いるだろう。しかし彼らとて自分にとってあまり関心のない分野が消滅してしまえばよい、とまでは思わないだろう(それは中にはいるのだろうが)。

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