セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Friday, October 9, 2009

第五章 実在の価値、言葉の価値③

 これは哲学などによる独我論における二分法といった論議自体を生理学的には容認出来ないという方向へと議論を持っていく。「自分しか愛せない」と言っている哲学者もいるが、実際このニューロンの発火現象自体を捉えると、恐らくそう言っている哲学者の脳内でも彼にとって嫌いな他者に対しても発火しているのである。つまり論理的な真理性と、実在の生理的な作用とは必ずしも一致しないということがあるのである。それは即ち意味の世界自体が、論理的な真理性と、実在的な生理作用においてでは異なった見解があることを示してはいないだろうか?例えば机はどんな机でも同じである。それは機能的な意味合いとか、しっかり床にフィットしていて、崩れなければそれでいい。しかし実際机の形状とか色彩とか、物質感そのもののクオリアの差異が齎すその机で仕事をしたり、本を読んで寛いだりする時の脳内の作用は恐らく違っているだろう。つまりそれは乗り心地のよい車とか、使い心地のよいボールペンといったものと同じで、意味世界において論理的には「これで十分である」としても、作業能率的にも精神衛生的にも生理的実在感という観点からは同じ机同士でも隔たりを持っているだろう。すると必然的に意味=公平の原理もまた、論理的な意味世界だけでなく、実在生理的な意味世界というものから価値評定すべき局面も出てくることになる。 つまり論理的認識において公平である意味世界も、一歩実在生理的レヴェルへと位置をずらして見ると、ちっとも公平ではない、机毎に全く異なった精神作用を、それを使用する者に与えるということが現象として出て来る。

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