セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Tuesday, October 6, 2009

第五章 実在の価値、言葉の価値①

私たちは何か特定の人による行為を価値的に評価する時明らかに行為の仕方のスムーズさとか巧みさとかいうレヴェルではなく、寧ろ意味的に、あるいは倫理的な位相から素晴らしいことだ、と判断する。尤もテニスやゴルフで名プレーをすること自体は、確かに価値的に素晴らしいが、それは同時に巧みさでもある。それは名演奏でもそうだし、名画を描く画家の筆触にしても同じだろう。しかし少なくとも人間の日常の行為に関して我々はそれが例えば政治家であるなら道義的に素晴らしい、価値ある実践的処理、実務だと言うことがある。尤も近頃では政治もパフォーマンス的な魅力を湛えたものでなければ支持率も上昇しないので、なかなかそこら辺も矛盾はあるだろうが、少なくとも例えば夫婦の愛の表現は、性行為をすることさえ含めてそれは巧いとか下手ということだけではない、勿論巧みさも要求されるが、それは寧ろ付随的なことであり、それだけがクローズアップされてしまうといかがなものかと倫理的には考えられ得る。
 しかし一方言葉の価値というものを考える時私たちは明らかに時節を弁えたこと、状況判断の適切なことという風にかなり技巧的な実現性に重点を置いて判断しているとも言える。つまり逆のケースから考えれば、仮に心を込めて言った一言でもそれがあまり表現的な適切さとか、TPO的な所見から吟味するといかがなものかという評定さえ得てしまうのが普通である。つまり言葉の価値とは内的な動機ではない、寧ろ結果主義的な言葉自体の適切性において判定される。その意味でかなり言葉を通して特定の人とか、特定の集団、国民とかに向けて説得したり感動させたりすることはパフォーマンス的な巧みさが要求される。それに対して行動という規範においては、行動自体の巧みさも勿論だが、それ以上に行動をしたこと自体を評価するに値すると言っている場合、意外とその行動自体が当初はあまり芳しい評定を得なかったのだが、少し時間を置いてみると、その評定の得ないことを顧みずに起こしたことという風に逆に巧みであるかどうかということよりも、その行動事実自体に注視されることになり、倫理的評価という形では行動的巧みさ、迅速さとか美的な動きとかそういうことはあまり大きく考えられることがない、と言えるだろう。
 それは行動という動作とか、動作されて結果する行為事実が、スポーツなどの技の巧みなどの場合を除いて(実はそれらだって弛まぬ努力、練習ということの一つの結果でしかないことなのだが)大半が行為自体が実在化されたことによる意味、その成果の齎す意味に我々は注視する。
 しかし言葉ではそこが違う。言葉自体が巧みに説得力を持たなかったり、言葉自体にそこから意味とか倫理的美を読み取ったりすることが不可能であるものを、そういう言葉を齎すその意志を高く評価するとまでは言わないのが通例である。
 これは一体何故であろうか?
 それは恐らく言葉が実在としての存在、あるいは存在事実ではなく、それ自体が既に意味だからである。言葉とは実は敢えて実在的に捉えれば隙間だらけである。それは端的にものとか動き自体とは完全に異なっている。それは言葉自体の美がそれをどういう美しい声で発しようが、そうではなかろうが全く何の関係もないということ、あるいは悪筆家が書く文字自体には一切の美がなく醜だけであったとしても、言葉の示すところにこそ実在と等価の美が感じられればそれでよいのである。
 それは実在の価値に対して言葉の価値が極めて特殊であることを意味している。

No comments:

Post a Comment