セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Tuesday, October 13, 2009

第五章 実在の価値、言葉の価値⑤

 このことは論理的実証性の二分法に水を差すものではない。つまりこれからの倫理学はこのような中間的感情とか苦渋の決断とか真偽に二分され得ない価値をこそ見据えればよいのである。
 もし実在の価値に対して言葉の価値が極めて特殊であるということが真実であるなら、恐らくそれは言葉自体がある部分では極めて論理に加担している、と言うより論理を頼りにしている、という事実に起因する。しかし言葉とは本来この私たちの不条理的ないつかは死ぬという身体とか肉体に宿るものである。そして私たちの情動(生理的なものを中心とした)や感情と共に他者に対してという体裁をとって、外部に出力されるものである筈だ。となると必然的に言葉の価値とは実在の価値の模倣であるべきであり、それが理想であるということになる筈である。にもかかわらず決断における中間的感情を判決自体は無効化するかの如く、私たちは言葉をそれが伝達のツールであるために必要以上に、その言葉の効果(例えば数年前のある人気のあった宰相によるワンフレーズポリティックスのように)から優劣が判断されがちである。従って誠意とか真意よりも、その言葉を(巧みに)操縦すること、そして何よりその言葉自体が意味的、論理的、倫理的、説得力ある言葉自体の美を求めているということになる。
 恐らく実在としての価値の一部であるという意識さえ言葉に対して我々が抱いていてさえ、言葉を固有の魔力として感じ取っていることの根拠はここにある。つまり言葉以上に人々を魅了する説得力あるツールはなかなか他には存在し得ないということなのである。
 すると理想的には次のようになる。言葉とはそれ自体に対して魅力を感じ取ることの可能な対象であるが、それは実在的価値にフィットしていて、その価値を称揚して、実在に対する感謝に満ち溢れている必要があるということになる。つまり言葉の価値とは実在に対する模倣であり写像でありながら且つ象徴であり、鼓舞である必要があるのである。
 でもそう言い得るためには言葉自体が一つの独立した実在としての価値があるということをまず認めなければならない。

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