セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, October 28, 2009

第十章 自己とは何か

 行為が既に他者との関係を有しているということから、私たちは自己に関しても、他者に関しても行為を倫理規定的にしか捉えられないという運命を知った。しかし倫理とはでは一体何かと問うことは本質的命題だが、直接そこへ行くには少し早い。そこでまず自己とは何かということを問わねばならない。
 この問題に関しては発達心理学者の浜田寿美男氏の「「私」とは何か」においてかなり詳細に論じられており、そこでは他者を前にして自己‐他者の能動‐受動関係を得ることがあっても、それは一人でいる時には直接成り立たない。だがやはり一人でいる時にも我々はその関係を内的に抱え込むと浜田氏は考えているが、これは全く正しい。つまり自己とは端的に他者が目前にいないのであれば、その代わりに自分自身の中にも他者を作る能力のことを言うのである。と言うことは私たちは自己という実質的他者を自分の中に抱え込んで生きているということになる。
 倫理とか価値のことを言う時この問題に触れないわけにはいかない。そしてそれは私的価値と公共的価値が二重にある、ということ自体を、実はそのように考えてしまうこと自体から検証する必要性を訴えている。何故私たちは私的なことを公的なことと区別して考えるのだろうか?それは私的なこと自体が本当に自分だけの問題ではないということを知っているからである。
 確かに独我論的には私たちは私自身のことからしか世界は開けていないとそう言い得る。しかしそれは私が一人でそう思っていても、そう思っているということが恐らく私だけではないだろう、という観点を私が抱え込まないということを意味しない。それどころか独我論という問い自体が既に他者を前提している、つまり自分の目、自分の気持ちからしか世界というものを把握することが出来ない、とそう言った瞬間に、実はそれが自分自身に固有の問題なのではなく、そう言えること自体からして公的な問題でもある、とそう言う自分が一番よく知っているということなのである。だから自己とはある意味では自分の中に目前に他者、他人がいなくても他者を主体的に作り得る能力であると同時に、自分自身でしかないように思われること、独我論的世界観自体が既に他者に語りかけている、つまり「これだけは自分自身でしかあり得ない」と考えること、あるいはそれを他者に語ること自体が既に、語る能力において、あるいはそれ以前の考える能力において、世界は自分の側の見えでしかないということではない、本質的に世界の見えとは私以外の誰にとっても大事なものとして携えているものであるという歴然とした事実を内包しているということなのである。だからもっと簡単に言えば自己とは自分の内に他者を作る能力であると同時に、どんなに自分自身でしかないと思っても、実はそう思うこと(能力)自体が他の全ての存在者とそう変わらないということを気づく能力でもあるのである。
 と言うことは自己とは自分という存在が他者から見たら、私にとっての他者と同様のただの一般的他者でしかないということに対する覚醒でもあるのである。
 人は皆自分だけが特殊だ、と思っても、実際他の人たちは皆酸素を吸って生きているが、私だけは二酸化炭素を吸って生きているわけではない、と知ることも出来る。確かに自分の運命とは固有なものだ。しかし自分以外の誰しもがその固有なものを抱えて生きているのなら、自分の運命の固有さとは一般的なことでもあるのだ。つまり誰一人固有ではない者などいない、という意味において。だからこそ逆に自分の固有さとは却って一般的なことでしかないのである。とりわけ自分以外の他者にとっては。そしてそれは誰しもそうなのである。私だけがその固有さを一般的なこととして見られているのではないのだ。つまりそのことに対する自覚こそが自己ということを獲得することである、と言い得るであろう。

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