セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, October 4, 2009

第四章 価値を区分けする本能的判断

 私たちはこの理性論的恋愛、結婚における責任倫理的判断、相手を公平な目で見ようとするその決意が、それとは対極のただ贔屓のままでいていい、つまり道義的なことなどどうでもよいとする判断と対立していくことを経験している筈だ。従ってこの二つはある決意においては対立するけれども、私たちの生活では別のものとしてそれぞれ使い分けていると言える。ではそれは第一章における①ということになると、必然的に理性論的に相手の人格を公平な目で見ようという決意に該当し、②の判断は趣味なのだから、あるいは生き抜きとか娯楽なのだから、あるいは余暇での過ごし方での一つの潤いなのだからという意味で明らかに気軽な気持ちで臨む感動ということになる。すると倦怠期に差し掛かった夫婦が意図的に結婚記念日にどこか思い出の場所を訪れようとどちらかが、あるいは相互に思案し合うというような場合、それは②であるが、Ⅰであることが本来である筈だが、心情的にはⅡが混入している、と考えていいだろう。またサスペンス映画とかホラー映画を鑑賞して、休日に午後過ごすという選択は②のⅠに属すると考えていいだろう。それこそが要するに気楽に感動出来ることを選ぶことである。
 つまり私たちは価値自体を相互に別のものとして心的に共存し得るものとして、あるいは相殺されることがあるという意味では真剣に時には考えるべきものとしても、その二つの相異なった考えの下でその都度判断すべきものとして理解している。
 この種の価値の区分けそれ自体は、実はそれをたやすく判断し得る内は、人生全体を潤いのあるものにしたいという気持ちで生活全体の潤滑剤にするという気持ちに揺らぎはない。しかし一転それが深刻な様相を帯びる時も人生にはある。価値を一つに収斂すべきではないかと考える時も人生には到来するということだ。相互に相殺するような価値を別々に持ち合わせること自体に対してカントの根本悪的な要素を嗅ぎ付けることもあるからだ。
 しかしそれは確かにあり得る苦悩だが、価値を一つに収斂していくということは、意図的な決意を得る時とか、意図的に行動に踏み切る時が多いのではないか?そもそもそのように一つに収斂させていくこと自体は実は、かなり決心が固まっていて、その決心を行動に移す時である。そしてそういう時の心的な様相はある意味では排他的であり、決別する対象に満ちている。だからある意味ではかなり慎重に事に当たらなければ後々後悔することも多い。一度捨て去ったものを取り戻すことは容易ではないからだ。それは特に人間関係に言える。決別して後悔する人間関係もあれば、決別してよかったと思える人間関係もある。そして決別してよかったと思えても、懐かしい気持ちになれるケースとそうではないケースとがあると言える。懐かしい気持ちになれる場合にはあっさりと去っていっただけであり、それは決して決別の意図を示していない場合である。決別して後悔している人間関係において懐かしさはある意味ではかなり辛辣に心に響いてくるだろう。つまり後悔の念が相手に対する非礼とか、相手に対する思い遣りの欠如に忸怩たる思いを払拭し得ないということである。だから逆に決別してよかったと思える人間関係の場合には、私たちはそれが決別の仕方がさっぱりしたものであれば、然程忸怩たる思いに沈み込むこともないだろう。寧ろもう一度復活し得る可能性を残している場合には、それは暫定的な決別であったからである。
 しかし意外とこの二つを容易に峻別し得るものでもない。つまり私たちはこの二つを、つまり決別してよかったと思えることと、そうでなく後悔していることの間を常に行ったり来たりしている、というところに生きることの困難さがある。それは同時に価値自体が常にこの二つの間を行ったり来たりしている、ということでもある。
 或ることを価値であると認めることと、その考えから決別すること、それもそうであるし、そのようにある異なった価値同士を共存させること自体に対して、ある場合にはそれでよいとし、別の場合にはそれを潔しとしないというケース毎の判断の違いが横たわっている。それは①と②、ⅠとⅡの区分けに関しても全く該当するのである。この区分け自体私による恣意的なものなのだが、案外誰しもこのような区分けを一度は想定してみたことがあるのではないだろうか?
 そして何らかの領域での判断において価値を一つに収斂していった方がいいと判断すること自体と、そうではなく寧ろ共存させていった方がいいと判断すること自体は常に別のものとして私たちは自分なりに介在させている。それが本能的な判断である。だから逆にもしそれが本能的なものではないとすれば、理性論的に修正し得ると思えるのであれば、それは一つには自己意識、世界に対する接し方を変えるという決意に満たされているのであり、逆にそうではなくそれは問うこと自体がおぞましいと思えるのであれば、本能的判断に委ねることに対して惑いがないということを意味するだろう。

 例えば経済学は管理の問題である。つまり経営(尤も経営そのものだけであるなら経営学がそれに該当するが)、経済政策全てに渡って経済学は行為の妥当性に関する問いであると言ってよい。しかし哲学は行為をその外面からだけではなく内面から決心の構造も含めて考える。だから本能的判断がいい意味で功を奏することは経済学の原理を忠実に履行するというような場合でもある。それは国家政策だけではなく、例えば個人においてはどういう内容の商品を、どれくらいで消費するかということにおいてもそうである。 
 しかし一方行為の妥当性とは別に、行為自体の価値、つまりこういう場合にはこういう判断で行為すべきであるが、あまりいいとは言えないような行為自体を出来る限り回避し得ないものかとか、もしそういう妥当な行為をすることなく終えた場合どうなるかということになると哲学の出番であると言えるだろう。しかし本能的判断はその行為が決して理性的ではない場合でも利用されるが、一方行為の正当性自体を問うことも含めて、理性的論及そのものもまた一つの本能であると捉えてもいいだろう。つまり本能を抑制しようと試みること自体もまた一つの本能的判断であるというわけである。その意味では行為の妥当性を論じる経済学自体を内心の価値判断から哲学で考えてもそれもまた一つの本能であると捉えていいことになる。

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