セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Friday, October 23, 2009

第八章 価値を認めることと感動するものを必要とすること②

 そして私たちは価値あるものを求めるということの内に、その価値あるものに対して感動したり、そのように感動させるものが人間である場合には、天才と呼ぶようになる。しかし私たちはその人間に感動しているのではなく、その人間の行為や作品、仕事、業績に対して感動しているのである。所謂人間性に魅力を感じているわけではないのだ。価値があるものを生み出す、あるいは価値があるものを見出す力量とは、その人間をある意味ではそうではない人間よりは世間的には全うではないというイメージを与え続けることだろう。それは奇行というよりは、寧ろ何もならないことに精を出す変人、無意味なことに拘り続ける偏屈という命名を与えられることになるものの方にずっと近いだろう。それでもそのようなタイプの人間の行為や思想が認められない内は誰も相手にしないが、一旦そこに価値があると触れ込まれる(それは大体権威ある人による発言が多い)と、途端に手のひらを返したようになってしまう。つまりそれまでは積極的に価値ある行為や思想を見抜けず烏合の衆であったのに、その瞬間から悔い改めるように心がける、しかしその実そうすること自体で既に自分は価値があるものを一切見抜けないただの凡人であることを証明してもいるということに大概私たちは気づこうとしないのだ。
 すると価値のメカニズムの第一の条件とは、価値とは、それを容認しないままでいることが権威主義であること、つまりあるものの価値を見抜けないということが既に価値として容認されている範囲内でしか全てを判断し得ないという多くの無能力を価値として認められる以前において価値を価値あらしめるために必要とするということだから、価値あるもの自体は最初から一度として規制の価値、つまりあらゆる権威に反抗していく、規制の価値や権威を一切認められないという資質を要求されることになる。
 すると既に認められている価値自体も新たな価値が見出されても尚、価値が剥奪され得ないのであれば、尚のこと、価値とは林立してしかも相互に価値同士は衝突し合うという運命を引き受けており、しかし価値同士の対立自体は致し方ない現実であるとされながらも、ある価値にとって対立する別の価値は、そのことによって価値ではないとその地位を剥奪されることがないのであれば、全ての価値は相対的であるということを認めることになり、また同時にある価値が主張することそのものも決して万能ではないばかりか、別の価値にとっては害悪以外の何物でもないということを価値が価値である段で既に意味してしまっている。しかしある価値にとっては自分だけが最高のものであり、それ以外は決して容認し得ないのであるから、相対論を容認するわけにはいかない。すると或る人にとっては価値とは常にあらゆる林立するものの中から選択するものでしかなく、一旦選択してしまったなら、それを反故にすることが出来ないという一点でのみ他の価値を排斥していかなければならないということをも意味する。もしそうではなく相互に対立する価値を双方認め得るのであれば、それは自己欺瞞的な考えにしか過ぎず、本当に個々の価値に対しては見誤っているとしか言いようがなくなってしまう。しかしその手のタイプが圧倒的に多いにもかかわらず、困ったことには殆どの人間が自分だけはそうではない、とそう思い込みたいのである。
 一人の人間にとってある瞬間においては一つのことにしか感動出来ない筈である。しかし人間は常にそのある瞬間のためだけに生きているわけではない。そして瞬間は常に移ろいゆく。つまり感動の質も、価値として容認し得るものの質も推移していく。その推移という現実に対する認知こそが私たちを自分だけは相対主義者でもなければ、個々の価値を見誤っているということに対して「そうではない」と思いたいようにさせているのである。

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