セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, October 15, 2009

第六章 公共的価値と個人的価値

価値を論じる際にどうしても避けて通れないものに価値には公共的なものと、個人的なものという区分けが個人的にも公共的にも存在している、ということである。価値ある者と言った場合、それは公的には全ての人にとって便利なものであるとか、全ての人に心の潤いを与えるもの、例えば観光的な人気スポットであるとか自然の遺産、あるいはあらゆる利便性を我々に齎すインフラ、自動車、パソコンといった存在が挙げられる。
 しかしそれらは一々価値であると個人的に感慨に耽るように実感し得るものではない。従って個人的な価値とはそういった当然権利として享受し得るものではない、もっとある個人史において切実なものということになる。
 しかし興味深いことにはこの二つの価値を誰しも使い分けているという事実自体に誰しも異論はないのではないか?寧ろそちらの方に私は人類の考えの奥深さを感じる。勿論ある意味では公共的価値が一切破壊されて喪失した状態で私たちは個人的価値云々を言う心の余裕はない。それは戦争を体験された全ての人々に理解しやすいことであろう。あるいは天災においても、私たちは個人の家が破壊されて悲しいということがあっても、未だ生き残っているということがある内は、それほどでもない。つまり全てのインフラ、全ての公共的価値として認可されている事物が破壊されている状態で得られる個人的価値とは人間同士が助け合うような気持ちだけである。そしてそれがあって、初めて個人的価値が生彩を持つ。独裁者による私物化された国家などの場合には個人的価値全体が国家の価値となっている。しかしそういう例外を除いて我々一般の市民にとって個人的価値はそれを維持し得る社会環境を前提としている。公共的価値自体が問われ得るのはそれらが破壊された状態においてで、そういう状況にならない限り、我々は個人的価値だけを常に心に抱いて生活している。引っ越ししたばかりの頃に初めて知り合った人たちとか、行き着けた店といったものは、そういった人たちや店がそこから立ち退いたりした場合固有の感慨を私たちは持つ。
 しかし個人的価値は公共的なものに対しても向けられるが、そうではない本質的に個人的な価値とはやはり人生に対する、生に対する考え方、仕事とは何か、愛とは何かといった世界観の問題である。ある意味ではこれらにさえ公共的価値というものがあるが、それこそ、つまり自然や社会インフラや我々にとって欠くことのできぬツール以外の公共的価値としての人生の在り方とか、愛に対する定義といったものだけが却ってそれが公共的であることを心理的には拒むというところが我々の実感であり、本音である。つまり公共的価値とは外的な環境においてなら賛意を示すことが我々には迷わず出来ても、それが内的世界になると途端に強制と感じてしまう。これはファシズムが心を統一しようとしてきた歴史とも関わっている。
 しかし意外と個人的価値であるように思っている内的世界の心のありようも、多くは他者と共有し得る様相であることにある時期から、つまり思春期以降我々は覚醒していくのである。しかしそれでも尚個人的価値として輝きを内的世界における心のありようが失わないのは、それが他者と比較することが本質的には不可能だからである。
 比較することが出来ないことというのは内的世界だけでなく個人史ということもそうである。つまりどんなに似た境遇、どんなに似た職歴であっても、本質的に人間が違えば、その本質は異なる。その個人の経験や体験に根差した価値観だけは比較出来ない。よってそれらの個人の経験とか体験から得た価値観こそがその者が死去した後価値となる場合も稀にはあるだろう。しかしそれは生きている内は公的な価値として対象化することは出来ない。それは生きている個人の人権もあるし、行動の自由もあるからである。従って個人の価値観を共有しようとすることが冷徹に出来る人たちとは本質的にその者と生前親しかった人たちではない。個人的交友関係というものはその相手に対する公共的価値において交際しているわけではない。それは個人的価値において触れ合っているだけである。そのこと自体は相互に個人的には価値がある。しかしある偉大な業績とか人生に対する考え自体は、あくまでその業績や考えを抱いていた人と親しくなかった人たちによってのみ、価値を守ることが可能である。それは親しい友人同士では事業は巧くいかない、ということからも明白である。
 価値とはそれ自体どんなに個人的なものであっても、公共的意味を持っている。それは普遍や一般化を志向する。だから逆に公共的価値が大上段に存在すると触れ込まれると、それは幻想ではないかと我々は疑う。つまり公共的価値自体が実は個人的なものではないのか、と。確かにどんなに有名な祭でも、祭自体に行きたいと思わない限り、それは個人的な価値ではない。従って日本全国の有名な祭に参加するということがあったのなら、それこそ個人的価値である。それは日本全国の観光地や、湖や、山や、海岸に訪れるということと本質的には変わりない。つまり公共的な価値自体は、そのいずれを選択しようがそれこそ個人の自由であるが、個人の価値の方は、それを他者が容易に侵害することが出来ないのである。その意味では本質的に人間社会において守られねばならないものとは、個人の価値の方である。それを蔑ろにした社会があるとすれば、それはテロリズム国家であるかファシズム国家である。つまり公共の価値だけが全てであるような、そしてそこには行動や思想の自由は一切保障されていないといったような状態を想像すればよい。
 だから当然祭に参加しない人たちを排斥するような空気を作る社会が有ればそれも同じようにファシズムである。

No comments:

Post a Comment