セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Tuesday, February 2, 2016

第七十六章 意味と意味の使用は全く異なるPART2

市街地を歩くと看板が多く目に入ってくる。それはその看板で示された商店や役所等の建造物の目的を示している。それは文章ではない。標示(表示)である。目的がこれ以上に明確な在り方の文字は無い。駅なら必ずその駅名と駅とが接合されている。
 だが一つの纏まりとして文章の体を為すものは、全て伝達者の意図が示されている。緊急の場合の走り書きはブラックな智恵で相手を騙そうとするものでない限り、伝達者は受け身である。被伝達者が能動的にそれに対応する必要がある。
 しかし著作物は違う。それは完全に著者が能動的に自ら書いた文章を読んで貰おうと画策している。読む人は読む行為自体が能動的であるという解釈は成り立つが力関係的には選ぶという行為を通して受動的である。自ら受動的立場に身を置くことを選ぶことが読書である。
 最近では(水曜日のカンパネラ)(ゲスの極み乙女。)(水中、それは苦しい)といった文章や名詞節を其の儘ユニット名にしている人達が多くなった。それはTwitterのユーザー名でも言える。(フォローからはずしてください)(使われていません)等の命名にはあるアイロニーがある。ネガティヴに自己を示しながら、そのことへの共感でフォロワー数を増やそうという戦略を隠しもしない所がユニークである。(猫になりたい)という人も居るが、これもユーモラスで面白い。
 これ等はキャッチコピーからの影響であろう。キャッチコピーは商品を宣伝する為の文句(それは看板の目的に近い)でありながら、同時に商品セールスに一役買っているコピーライターの感性を選んで貰おうという戦略なので、当然著作物的要素も在る。
 つまりキャッチコピーは看板の文字と著作物との中間に位置すると言える。 
 現代社会は文字使用自体に目的のはっきりしたものと、文字はあくまで思想を伝達する為の要素でしかなく文章全体を読まそうとするものとが両極だとすると、その中間的なものが異様に増殖した時代と言える。SNSの遣り取り自体が既にそうである。ブログはSNSと著作物との中間に位置している。
 文字自体は記号であるという解釈を最初に示したのはアウグスティヌスだった。エラスムス等を経てソシュールに至る言語学の系譜では我々は記号をどう解釈すべきか、ということが主題であり、我々は記号をどう活かすかへ直結させたその後の歴史を歩んできたと言える。言語学は古代ギリシャのヒエロニムスに迄遡れるが、一つには記号に対してどう向き合うかという哲学的思索と宗教的要請をどう受け止めるかということから発生してきていると言える。
 だが現代社会は基本的に国家宗教に於いてはどの国でも慣習・習慣に堕しているとも言えるが、個人の心ではどんな考えを人が持っているのかという関心に尽きる。しかし著作物は出版ビジネスに一定の収益を上げられるものだけが選ばれている訳だから、かなり部分的なことだと現代人は知っているので、完全に受け身的に自己を持っていき読書するところ迄は行かないが、その手前でキャッチコピーや看板とは明らかに性質の違う文字を使用した行為を現代人は不特定多数の世界市民へ求めている。其処で成立しているのがSNSであり、ブログは更に無料で立ち入ったことを知りたいと願うニーズに支えられている。
 しかし重要なことは資本主義社会インフラである所のあらゆる金融機関でも銀行でも、或いは資本主義社会経済活動の一旦を為す各種商店や機関も又一つの強制的に社会人を束縛する仕組みだということだ。それを我々は何処かで重々承知していて、しかし社会インフラとしての看板の文字直撃的な機能を受け入れて生活している我々は、心の余剰に強制的に都市空間に従属するだけでない何かを求めているからこそ、と言って詩集や句集を買うのはお金もかかるし、かなり立ち入って色々な教養を身に付けなければいけないので、態々そこ迄しなくても済む安価で日常的に容易にコンタクトが持てる意味合いでSNSが隆盛を極める訳だ。
 著者に拠る読者の独占を自発的に選択する読書の持つ著述活動のスピリットを受け継ぎつつ、しかし著者が完全支配することではない、もっと安易にコンタクトを取れるささやかな日常的娯楽としてSNSでの文字を目で拾うという行為が成立している。それは看板の様な知覚直撃的な強制ではない、内在的な心の余剰に侵入してきているツイートの文句、それは精神的な共産主義を何処かで現代人が暗黙に世界市民性の上で求めているということも言える。SNSにアップするツイートや投稿内容は収入を得る為のことではない。そういう仕方で収益を上げることも可能だが、少なくともSNS自体は前提として収益を上げる為に参加するものではない。
 この点でコピーライターが一見看板表示にはないある強制的ではない一つの街頭歩行者の選択に委ねられていても、それは都市空間では巨大であり、かなり知覚的には強制的なものである。又大きな看板で示されるキャッチコピーは都市空間で雑居ビルが密集しているエリアしか成立しない。その点これ等の文字は明らかに経済活動上での政治性に根差している。
 看板の不可避的存在理由と違って、其処に展開するキャッチコピーは世相や時代的な潮流全体への市民の同意ということが前提されている。従って其処にはアナーキズムは成立し得ない。しかしSNSやブログはその点ではアナーキズムさえ成立し得る。この違いから読み取れるものの差異は大きい。
 意味は確かに語彙の辞書項目的な全体的な成立基盤での階層や意味規定の役割分担に支えられている。しかし愛とか恋とか憎しみといった語彙自体が個人に直撃する<個人的>意味は概念的意味とは違う性質が必ず在る。誰しもにとってそうであることから、その意味が個人的に違うという部分での主張は著作物で示される。そしてこの基本的な差異、つまり意味それ自体と意味を使用して文章が成立し、その文章が集合するものとしての文章執筆行為との中間地帯に心の余剰を見出す現代人がSNSで匿名的性質をユーザー全員が同意する形でウェブサイトヒューマンネットが成立している。それは東浩紀の言う様な動物化と言っても行為規定としては正しいかも知れないが、その文字を拾う行為に内在する性質としては全ての権威主義からの逃避と、シェルター的役割があることは見逃せない。
 この点を次回は考えていきたい。つまり逃避とかシェルター的意味合いに於ける言葉の遣り取りから意味と意味の使用、つまり語彙概念的意味と、その意味の使用に就いて考えていってみよう。