セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, September 15, 2012

第四十一章 価値と判断Part2

 価値は常に偏見と隣接しており、相補的でもある。それは感動と残酷が隣接しており相補的であるという第二章 価値には悪も含まれる で述べたことである。
 つまり価値自体が既に偏見を含んでいるのだ。それは価値が偏見と結託して共犯関係にあることを物語っている。
 ある人間が正常であり、健常であるということ自体が既に別のある者が異常であり障害を抱えているという認識ともなっている。これは初歩的な哲学的真理だ。
 例えば日本では精神科医とは医師免許があれば誰でも開業も出来る。しかし麻酔医だけは別の資格を要する。精神科医とは一日中精神疾患とセッションに明け暮れている。そういった職務から彼等以上に精神的に困憊する医師はいないであろう。それはフィジカルな面で治癒に当たる外科医や内科医とも本質的に違う。
 従って精神科を訪れた人なら誰しも感じることであるが、精神科医とは精神科で診療してもらっている時にだけ人間味がある様に思え、それ以外の日常で彼等と対峙した時、こちらが精神的病を抱えていることを知ったなら、一番差別的眼差しを注ぐ。つまり彼等は日頃から精神疾患ばかりを相手にしているから、彼等を日常生活では警戒しているのだ。
 これは検察官が被疑者に対して対等な人間として相手を扱えないのと同じである。或いはもっと極端に言えば死刑執行ボタンを押す公務員がその瞬間には死刑囚を人間だと思わない様にしているのと同じである。  
ある精神障害者が障害者となるのは、端的に障害認定によってである。それは最初にカルテを書いた医師の裁量に拠る。医師という職務は自分のところに診せにきたクランケに対し、前にかかりつけの医師があった場合、そのカルテを見たいと望む。従ってどの様なタイプの疾患者にとっても医師から見れば治癒対象でしかなく、そこに心の交流はない。これは真理である。何故なら、そうしなければ彼等は職務を遂行出来ないからである。
 各種依存症の人も全く同じである。彼らも一旦精神科の門を叩いたら、再依存率という統計的データの餌食になる。中には完全に依存から脱した人もいるだろうが、そういった人達も再依存率の網の目という偏見から自由にはなれない。  
これは統合失調症でも何でも同じである。或いはもっと分かりやすく言えば犯罪者となってしまった者が刑期を終えて出所しても尚再犯率というデータの網の目から自由にはならないということである。これは保護観察などの制度からも語られている。
 これ等は一重に統計的数値データ主義という科学主義の神話に拠る。科学的データの信憑性こそが人をデータ的な対象としか見ない習性を彼等に与えている。
 前章でも述べた様に所轄の警察ではそれぞれ固有の不文律があり、たとえ憲法や法律(特に刑法)に遵守していたとしても、極めて微妙な判断は全て個々の警察官に委ねられている。その時々での警察官の気分から職務質問から逃れようとして(別段悪いことをしていなくても)逃走する者を追う警察官は逮捕特権がある。公務執行妨害という名に於いてである。
 これは個人レヴェルの裁量権であり、要するにその時々での警察官(彼等も人の子である)の気分に委ねられている。青年警官などは前日に恋人と喧嘩してむしゃくしゃしている時には、厳しい眼差しで一般市民を監視する眼差しに変貌するかも知れない。
 個人レヴェルでなくても集団組織レヴェルでも気分というものは大きく左右する。ビートたけし氏が「テレビタックル」で述べていたことらしい(又聴き)であるが、自分が税務署の批判をテレビですると途端に税務署員が彼の自宅を調査しようとするということらしい。つまり集団組織レヴェルでも何となく虫の居所が悪いと、そういう決裁になっていくということは充分にあり得る。これは大阪地検特捜部の書類改竄と証拠隠滅事件でも明白ではないだろうか?
 警察などは特に一斉手入れとかをすることがあるが、これなども警察組織全体のその時々での一般市民からの警察への眼差しに影響を受けた状況的な気分に左右されている。今の時期これこれこういうことは少し取り締まろうという決裁は全て警察上層部によってのみ委ねられている。顕著な例が風俗営業法に関する取締りである。
 精神科医は科学的データ主義の神話に拠って、警察官や警察組織は個人や集団レヴェルでのその時々での気分(世論からの彼等への期待などもそうである)で偏見を巣食わせながら彼等固有の価値観を構築している。
 これはアーティストが一般市民よりも反体制的考えを抱きやすいということにも言えるし、文学者がモラル的にアンチ的生き方をする人を称揚しがちであるということにも言えることである。これ等は一重に職務とか職業的行為性格的な習慣が齎す固有の思考法に拠る。つまりそういった行為習慣による思考法とはある固有の方向へと傾きやすいのだ。これこそが偏見を巣食わせやすいことなのである。従って価値観とは端的にその人に固有の偏見と共生していると言うことが出来る。

Sunday, September 9, 2012

第四十章 価値と判断Part1

 マスコミは今年新たにプロに仲間入りした野球選手から、ゴルフの選手にしても、離婚した芸能人でも全てイケメン面、イケ女面にだけ焦点を当てて報じる。それが「俗がある」ものとして前提された社会の実相である。イケメンもイケ女もそのことをロールプレイングとして意識しているし、それを追っかけるマスコミもロールプレイヤーである。
 しかし本質論とは常に俗とは別地点にある(或いは我々自身でそう思うことにしている)。それを知っていればこそ俗はいい意味で保たれる。俗が俗として生存し得るのは、世界が清いこと、我々の脳内で思い描く理想とは別地点にだけ実在や実存があると我々が妙に真理論的に、公理論的に納得しているからである。しかしそれは当然である。一人一人の脳内に思い描かれる理想や理想的世界とは必ず個々でずれていて、それを統轄することは実質上不可能であると皆知っているからである。
 この世界には多くの障害を持って生まれる、或いは後天的に障害を背負わされる人達もいる。しかし障害が一体何処から何処までなのかという判断は常に恣意的である。時代的にも地域・地方毎にもそうであるし、認定者の裁量や個人的見解に於いてもそうであるが、実際は逮捕される時は何らかの個人的決裁でそうなるのだし、病院に入退院することも全てそうである。身体的・知的・精神的いずれの障害認定もそうである。
 我々は仮に一つの障害が何らかの形で克服されても、その障害の克服から生じる新たな難題に直面するだろうし、仮に一切その障害が生涯克服されずにいたとしても、その事実と現実自体への受け入れに対する難題が待ち構えている。
 だから社会で各大学で毎日頻繁に行われているワークショップやシンポジウムが学的な純粋培養主義なのは、法律セミナーやアーティストやミュージシャン、デザイナーの養成機関の教育方針が純粋培養なのと同じ理由に拠る。それは端的に医療の現場でも教育の現場でも法曹界でも画壇や画商の世界でもCD制作業界でもウェブデザインの世界でも何でも社会が、或いは世界が俗でしか運営されていないからである。
 それは行政に於いても障害者として認定されるとか、前科のある人として認定されるとかのレッテルづけ、要するに名指しによってある個人のアイデンティティが明確な形を示されて、それが社会で通用してしまうという運命的事実に於いても立証される。
 ある警察組織の末端である所轄区域では伝統的にある犯罪に対しては他区域と違って目くじらを立てるということはあり得る。各地域、地方毎に微妙に不文律は異なる。するとそういった地域、地方には固有の社会的判断が成立する。それはある行為事実に対して、それは犯罪にまでは至らないという決裁と判断が成立する臨界点が各地域、地方毎に微妙にずれ込む。そこに当然時代性も混入する。するとある時代の犯罪は別の時代に於いては美談とか正義になり得るし、逆にある時代の正統的行為は別の時代にはモラル論的非常識となり、犯罪にさえなり得る。
 それはある行為事実への判定に於いても精神異常であるか否かの判断にも直結する。そしてそれらの総括的事実世界に我々は直観的にあざとい。であるが故にせめてワークショップやシンポジウムに於いては純粋培養を標榜するのだ。
 俗とは地域や地方での不文律と、その中を掻い潜って我々が生活していかざるを得ない現実の強制に対する暗黙の容認、それは当然その現実を我々が変えていくことが途方もないことであると予め予想し得るし、だからこそそれをおおっぴらには公言し難いという心理に根差す。
 それは端的に人間社会がどの社会でも出世競争社会であり、その勝利者と敗者が常に共存しているが故に、管理職的成功者の目線と、その目線自体への批判をも含め上から目線と、管理される立場の下から目線との共存に於いて、その共存事実自体を俗と受け取る我々のもう一つの目線が、安易な批判とか安易な共感、反感を表明し難くしているのだ。
 この二重の目線の交差は権力者、非権力者、管理者、被管理者、それらいずれにも属さないタイプの成員全員が持っている。つまりある部分では権力者ほど非権力的である。それは弱者性に於いてそうである。或いは被管理者でも出世コースに乗り将来が約束された立場の人とそうでない人の間にも落差はある。又その様な約束された将来自体も出世コース、非出世コースとの間に内実的に然程の落差はないとさえ言い得る。 
 障害に就いて触れたが、障害自体を少年少女期から携えている人や青年期から携えることとなる人以外の全ての社会成員はいずれ身体障害を老いという形で背負わされる。或いは精神的にも死への恐怖や不安に苛まれる。
 その点に於いて各個人間に差別はない。この非情なる無差別性こそが生や性の実相である。
 確かに障害者というレッテル、前科者というレッテルは生涯付き纏うかも知れない。しかし全ての何らかの形でのレッテルに於ける当事者達は、そう名指されることで、外部と緊密に連絡を取り合えるとも言える。或いはそういったレッテルの一切ない者は、その一切のレッテルづけの拒否とか社会全体から見忘れられているという事実に於いてレッテルを頂戴している。そこにはあるレッテルを生じさせる社会的要請が何らかの形で作用してレッテルとして機能せしめられている事実自体が、我々は固有の価値を常に設定せずに生存し得ないことを物語っている。そしてその価値と価値に包含される内容の選択と設定という判断が常に各自に委ねられている。
 つまり権力者であれ非権力者であれ、当事者性としては常に単一であり、その逃れられなさに於いては平等である。或いはこうも言える。俗受けすることを狙うマスコミが一般大衆という完全に各自の意識に於いては不在な対象に向かって放つメッセージの杜撰なクローズアップ性、つまりこれ見よがし性は、そうされることに常に忸怩たる思いを抱く成員にとってさえ、自己保身的なステイタス保持にはなくてはならないものなのである。
 それが俗が一方で存在し得ることで自己を非俗的位置に押し留めることを可能化しているのだから。
 当事者の気持ちが理解出来るわけがないと決めてかかっている者がいたとして、それに対してそれではいけないと言い放つ者と、言い放たれる者、つまり障害者とか非差別者に対して、障害認定や差別実態への告発であるとか、社会参入と社会復帰というリハビリテーション自体の存在理由が一つの大いなる差別であると捉える者と、否それは違う、やはり何とかその当事者とそうでない人達との間の壁を突き崩す必要性の主張は真っ向から対立している様で、実はそうではなく相補的であり、相互依存的である。或いは何らかの当事者であること自体が、その当事者ではないという事実に於いて、全て何らかの形で何かの当事者であること自体が、どの世界で名指されカテゴリー化されるかということで、内部と外部を各自に認識される段で既に俗と純粋培養との間の相補的締結、取引が成立している。
 ある時はある事実が俗となり、しかし同じそのものが別の時には純粋培養的対象と見做される。その逆もまた化なりである。最初から資本主義社会の競争原理に晒されているある行為が逆に極めて聖職的なこと、或いは純粋社会福利厚生的原理の名の下で理解されることもある。そもそも法曹的現実自体がそうであったし、教育現場もそうであった。
 教育も法律的決裁も、一定の俗的現実が純粋性と峻別される以前的には無法状態と、無教育状態が存在した筈なのであり、だからこそ三十八章でのドライヴァーとしての快に於いて我々はアウトロー性を蘇らせているのである。それはインターネットやツイッターやブログ、フェイスブック、WikiLeaksなどの利用に於いても、権力者も非権力者も無力で平等である利用実態からしてそうである。
 しかしドライヴァーの快はドライヴァーとしてのポジションを獲得している者、或いはそうしたいという欲望を抱く者にしか訪れない。
 ユーザーの快が非ユーザーにとって快不快の規準になり得ないということでは、テニスに関心のある者にとってのウィンブルドンの動向も、ゴルフに関心のない者にとっての全米オープン、全仏オープン、全豪オープンとかの動向も、サッカーに関心のない者にとってのワールドカップやアジアカップの動向も無関心者にとって<存在しているのに存在していないのと同じ・性>で世界の大半が埋め尽くされているという事実があり、その意味で全人類は平等である。だからある者が被差別者であったとしても、その差別は別の世界では成立し得ないし、ある者がある世界で優位にあり、権力や管理義務も遂行権や決裁権があったとしても尚、それはその世界に於いてのみである。そういった一個一個のコミュニティの価値が犇き合っていて、林立していて、隣接していて、或る一個のコミュニティに帰属していたり、参加していたりする事実は一重に単なる偶然でしかない。それは全ての世界で平等である。出会いと別れの偶然性に於ける徹底的平等が世界の実相である。
 これはある意味では極めて低次元の俯瞰主義かも知れないが、紛れもなく真理である。従って差別する側もされる側も、それは差別しながら差別され、差別されながら優位に立ち、その言説的な名指し、レッテル付け自体の持つ意味合いは狭いコミュニティでの止むに止まれぬその時点での判断にしか過ぎない。
 ここに価値に参入すること、つまり一個のコミュニティに帰属、参加、参入、参画すること自体の偶然的出会いとそれを一定期間永続的に持続することの判断と、その判断を誘引する価値認識ということに於ける世界の平等的均一性がここに持ち出される。Part2ではその価値認識を誘引するものとは何かに就いて考えてみたい。

Friday, July 20, 2012

第三十九章 俗とは何か?俗としての価値

 我々はある部分では俗なものを常に共存させ続けてきた。つまりそれを「そういうものがあってもいい」という形で。しかしこれはある部分は上から目線的発言である。いやそうではないかも知れない。何故なら我々は一個の人格の中に上から目線であることと、下から目線であることの二つを常に共存させてきているからである。
 若手プロスポーツ選手の誰それが年間ギャラランキングで一位を取ったこととか、有名芸能人同士の結婚のニュースが週刊誌や写真週刊誌やワイドショーネタになる一方そういったことには一切無関心なエリートとかインテリたちは実はそれらの大衆ネタ的情報が飛び交っている現実自体を歓迎しているのである。何故ならそれらがなければエリート階級とかインテリ的知性が差別化され得ないからである。
 日経平均株価や東証株価に一喜一憂したり、自社株とか個人所有の株価の推移に一喜一憂したり、株式市況ニュースや日経新聞を、目を皿のようにして眺め入るビジネスパーソンたちにとって寧ろそういった一切のビジネスサークル的現実外の大衆マスコミネタに一喜一憂している大衆という存在(実はそれ自体が最も実体があるようでいてない存在でもあるのだが)を一方で積極的に必要としている。つまりこういうことだ。俗っぽいこと、スポーツとか芸能ネタとは端的にそれを軽蔑しているインテリ層やら、それらは大衆のニーズであるとして上から目線でそういった一喜一憂を見守り、その大衆の安寧を祈願するようなタイプの管理者たちにとって積極的に自己の優越性を大衆に対して誇示するために必要なアイテムなのである。
 もし仮に毎日多くの購読者が目にする新聞のトップニュースが常に論理学や言語学、哲学などの最新情報であったなら、概して学者一般はおまんまの食い上げである。あるいはこうも言える。全国に放映される全てのニュースのトップニュースが常に株式中心であり、全てが企業経営者とか株式投資家のための内容であるなら、率直に言って彼等の存在理由はなくなるのである。時にはあまり極端に悲惨なニュースも深刻な経済状況は政治状況のニュースのない時には昔活躍したマスコミで著名な人物の訃報がトップニュースになったりするからこそ、経済通とか専門家がその存在理由を保持し得るのである。
 だから俗とは実は俗な内容のニュースソースに一喜一憂するような大衆のためにあるのではなく、端的に管理者層、中間管理職層、経営者層、あるいはインテリ層のためにあるのである。その証拠に俗なニュース自体に対して最大のアレルギー反応を示すのは今列挙した層に属さない普通の市民たちだからである。一般の市民たちの大半が自分自身は大衆であるとも、庶民でもあるとも一切考えてなどいはしない。つまり彼等は自分自身のことを大衆であるとか民衆であるとか庶民であると上から目線で見られることを欲するわけがない。もし自分自身で他者に「私のような庶民は」などと言辞したとしても、端的にある種の社交辞令的建前主義的慎みというマナーにおいてであり、真意ではないのだ。それはその人間の本当の資産とか経済力とは一切関係のないことである。それらは自己本位を巧妙に包み隠すこと自体を美徳とするようなタイプのある種の儀礼的慎ましさの表示行為でしかないのである。それをそう儀礼上言われる立場を人間の不文律的に心得ていなければならないというところにある種の現代都会人的儀礼上の建前的自己欺瞞がある。
 俗とは俗ではない自分を各個人が発見するために設けられたマスメディアを、そういうものを流通させる存在としてマスコットのように存在させる我々全ての現代人的存在者にとっての必須のアイテムなのである。それはそういう風に常に自分とは無縁のものとしておくためになくてはならない子飼いのアイテムなのである。

Saturday, June 9, 2012

第三十八章 ドライヴァーにとっての快という価値

 かつて私はある論文風エッセイ、エッセイ風論文に次のように書いたことがある。 「スピード狂の心理には、どこか無意識の自殺願望、死への止み難い憧れがあるように思えてならないのだ。例えば飲酒運転による悲惨な事故死が多くなったために飲酒した場合運転出来ないような車の制御システムが開発されたりしている今日であるが、例えば自動車事故を全く起きないようなシステムが開発されたとしよう。すると私たちは概ね安全である電車を使って場所の移動をするのと同じような感覚を車に対して抱くようになるだろう。しかし私はこう思うのである。もし百パーセント車が安全な乗り物になったとしたら、寧ろどうしても生活をするために必要な地方とかの地理的な条件で車の免許を取る人は別として、それほどではない人は車の運転免許を取らなくなる人も多くなるのではないだろうか?あるいはもし車の免許を必要に応じて取ったとしても尚、それ以外に多少危険度の伴う別の乗り物を運転、あるいは操縦することを志向するのではないだろうか?私は専門の心理学者でも、脳科学者でもないので、これは私の直観的な観測にしか過ぎないのであるが、何故かそのように思われてならないのである。」
 私たちは不確実な未来に対してある種の不安を抱く。その最たるものはいつか自分も死ぬということである。しかしどんなに不安でも未来において自分がどうなっているかということを全面的に知る術はないし、仮にそういう術があったとしてそれを知りたいと我々は願うだろうか?例えばギャンブルとはそれが勝利するかどうかということにおいて不確実であるからこそすることがスリリングであり楽しいのであり、全て結果が分かっているのならそれはギャンブルとは呼べない。
 また我々は脳科学的にも既に毎回餌を貰える時のマウスよりも、数回に一回しか餌を貰えない時の方が、レヴァーなどを押して餌を請求するマウスの実験からも脳内によりドーパミンが放出されることが分かっているように、我々自身も恐らくそのように何らかの形で未来事象そのものの不確実性を兼ね備えたものにおいて挑戦し甲斐があると認識している。そういう意味では交通事故が多発しているということを現実として受け止めていながらも、その危険な乗り物を操縦するという部分に何らかの快楽を我々は得ているかも知れない。特にそれは乗り物に乗っている時に感じるスピード感である。これはスピーディーな乗り物の機能性と、それに乗っている時の爽快感から一切その感覚をなくしてしまえば、乗り物自体への乗ってみたい快楽とか欲求はなくなってしまうだろう。
 ところで私たちは通常警官とか警察官とか言い、警官さんとか警察官さんなどとは言わない。またさん付けしないでいることの方を普通だと思う。それは職務的呼称だからだ。
 一方私たちは通常「お巡りさん」とは言うが、「お巡り」とは言わない。そう言うと俄かに特殊なニュアンスを帯びてしまうからだ。何か警察官の存在そのものを宿敵としているようなニュアンスである。しかし我々はドライヴァーの立場に立って何か話しをしている時には彼等のことを「あそこの道は結構飛ばせるのに、制限速度が厳しくって、ポリ公がネズミ捕りをしているんだよね」などと言う。つまりドライヴァー同士の会話とは端的に相互に別段犯罪者同士ではなくても尚、その共有感覚とは反体制的なものなのである。要するにスピードを出したいドライヴァー全般にとって警察官という取締りをする側とはあくまで「抵抗すべきお上」以外のものではないのだ。
 そういう会話の時に「いやあ、やはり制限速度を超えて走るのは公序良俗に反しますよ」などと言うものなら、その場のドライヴァー同士の共有感覚、ある意味では運命共同体的な感覚に水を差すこととなるし、決して適切な言辞ではない。
 つまり我々はそういう風に犯罪者ではなくても、取り締まる側のお上性に対するアンチヒーロー意識をどこかで必ず抱いている。車を運転している時に聞くのに相応しい音楽というものもある。それは端的に音楽そのもののクラシカルな芸術性とは全く関係ない。快適にハンドルを握ってスピードを調節することのしやすい雰囲気に持っていく「ノリのいい」音楽である。
 例えばビリー・ジョエル、シカゴ、マンハッタン・トランスファー、イーグルス、アース・ウィンド&ファイヤーなどが私から感じる「聴いていて心地よく運転出来る」のではないかと思われる音楽である。上原ひろみ とかチック・コリアなどもそうかも知れない(勿論楽曲にも拠る)。

Friday, June 1, 2012

第三十七章 願望の実現と幸福の実現

 人間は一定の欲望を常に携えているが、それは自らの中に欠乏感があるからである。それを穴埋めしようとすることが行為である。その中に努力もあるし、意志もあるし、それらを促進させるものとして反省がある。さて欠乏感とは端的に物質的な自己に纏わる豊かさに対する実現とか精神的充足感といったものの両面がある。だから通常欲望を充足することは個々の願望が実現することであると考えてもいい。つまり願望そのものを実現させるための対象を我々は常に創出しているのである。そこにはある意味では限界がないが、その限界のなさは実はかなり自己能力としてたやすく実現し得ることの範囲が狭いということに対する自覚があるからである。そして願望が実現することの内には実現しそうにないと高を括っていたのにもかかわらず予想外に想定を超えて実現してしまったということの幸運と、実現しやすいと想定していたにもかかわらず、予想外に難航して実現には覚束ないまま終えてしまったことの両方が常に付き纏う。その結果によって我々はその想定を育んだ自己の裁量自体に対する反省を強いられる。つまりこうすればこうなる、ああなればああなるという想定を育む磁場であるところの知性とか悟性とか、要するに鑑識眼、あるいは計画性といった判断の全てに纏わる自己能力の度合いをまざまざと見せ付けられるのである。つまり私たちは計画を立ててどれくらいの計画通りであるかということと、どれくらい計画以上の成果を挙げられたかということにおける判断そのものにおいて充足感と達成感とか、あるいはその逆で後悔と消沈を味わうのである。
 しかし願望が常に想定通りには実現し得ないということに対する覚醒自体が私たちにある意味では欲望通りになることに関する幸福感情とか快自体の価値への再考を育む。つまり予定通りに行くこととか、計画通りに行くこと自体に対する懐疑も生れるし、又逆に全てが予定通りにならないとか計画通りに行かないこと自体に魅力を発見することも可能となる新たな磁場も形成される。その時結果に対する判断という一つの反省自体のあり方を巡る判断において幸福的価値というものが見出される余地が生れる。
 瓢箪から駒的な喜びを発見することとか、計画を立て過ぎないでいること自体の価値の発見をするとかがこの中に含まれる。
 例えば旅行は実際に行ってみるまで現地自体の事情が良く把握されていないがために、実際には必ず計画からはずれた結果となる。だから逆に計画から常に著しく外れないでいられること自体の中には自己の想定能力自体に対する確信を揺るぎないものにする一方、それだけではつまらないというもう一つの欲望をも生む。努力の甲斐があることと努力した割りにいい結果を導き出せないでいること自体の間の距離を常に我々は問題にするが、では努力とは一体何なのだろう?
 恐らくそれは出来る限り後悔せずに結果を受け止めることの出来る心の余裕を得ることへと常に行為において近づけていくことではないだろうか?反省とはその中で我々の能力自体に常に限界があることを覚醒することであるとも言える。何故なら我々は常に想定以上に巧く行くと必ず自己能力に対して過信しだすからである。あるいは今現在こうはなるまいと考えているような状態へも常に一挙にではなくても緩やかに移行しつつあることさえ稀ではないのである。つまりある部分では自分では絶対こうはまるまいぞとか、決して真似はすまいぞと固く決心しているということがもしあるとすれば、それこそが極自然に惹かれていってしまうのに、そのこと自体をモラル的に自己規制して禁止していることも多いのである。その当の相手が後々後悔を誘うことになることが分かっていることであるなら払い除ける必要があるが、そうではないものであるなら受け入れていった方が得なこともある。しかもその禁止とは余り意味のない執着から引き出されている場合も多いのである。
 愛情とはしばしば執着心と区別がつかなくなる。その一つの典型例こそ深情けである。そして深情けとは往々にして過去に対する未練が生み出している。しかし人間は考え方も性格もどんどん変化し続けている。そういう意味では自己内の過ちに対してさえしばしば意図的に目を瞑ることを選んでいる自己を実は発見している。或いはある考えと別の考えを共存させながらも、その共存は相互に相手を否定するような自己矛盾を来たしていることさえしばしばである。そういう矛盾した考え方の共存を平気でしているのが人間なのである。だからこそ自己信条を他者に合理的に説明することが出来ないと大半の成員が自覚している。だからこそ我々は哲学、思想、宗教を生み出し、それを必要としてきたのである。だから人間はどんなに精緻に論理武装しても100パーセント完璧ではあり得ないし、純粋なものを抽出したり、創造したりすることも本質的には不可能である。その事実に対する冷徹な眼差しこそが哲学的反省であり、日常使用語彙的な反省ということの意味を確定的にさせている。それは社会の不文律を踏襲しないでいることに対するピア・プレッシャーに対する配慮といった世間的なことではない。もっと本質的な実存の問題である。
 それは常に完璧ではないけれども、その時その場なりに最良であるとも言え、あるいは強ち間違いとは言えないような行為事実を集積していこうとしているのが私たちである、ということである。それは意気消沈させるような後悔を極力避けようと心がけることである。それこそが努力ということだからである。哲学において適切性ということが思惟レヴェルで言われるのは実はこの強ち間違いであるとは言えないことを極力多くしていきたいという願望が一定程度達成されていることを示している。つまり欲望において充足とは未充足である内はかなり願望内容が膨れ上がっているが、それは机上の空論的なことである。そして空想とか想像と実際とは必ず食い違っている。その食い違い自体に対する妥当性こそを私たちは適切性と呼ぶのである。常に食い違っているのであればその食い違いを予め想定して計画を立てたりすればいいではないか、と言っても、その食い違いは常に一定のベクトルであるわけではないので、その想定外的偶然的結果に常に妥当性自体が揺らいでいるのだ。するとその揺らぎ自体を巧く掬い取ること自体が価値化されていく。その時願望の実現による欲望の充足自体に対する価値の組み換えが行われる。その価値の組み換えによる認識と判断こそが幸福の実現を可能とするのである。

Saturday, May 26, 2012

第三十六章 人間は何故他者を羨み嫉妬するのか?

 人間はとりわけ同世代の人で、自分よりより成功を勝ち得ている人に対して羨望の念を抱き、嫉妬さえする。何故そのようにそういう気持ちになるのだろうか?意外とこのことに正解を示した例を私は知らない。嫉妬とは経済学的な心理であるということは脳科学でも解明されているらしいが、こちらの持ち札の少なさに対して向こうの持ち札の多さに対する不安が生じさせているということも言えるが、嫉妬する対象に対して我々は寧ろ自分より劣った部分を発見しているからこそ、その劣った奴が自分よりもずっと上の地位を獲得し、ずっとよく色々なことを知っていて、ずっと世間からもよい風評であるということに耐えられないという気持ちだろう。だからこそ前節で述べたようにむきにならないでいることは大事であるということは頷けるわけだが、やはり相手に対して、しかも相手とは誰でもいいのではない、つまり自分とかなり共通性があって、かなり似ているところもあるのに、一方相手は自分よりもずっと先を行っているという事実がある者の成功を耐え難いということにしているのだろう。
 つまり我々は自分にとって関心のあることに関して自分よりもより先を行っているとか、自分よりもより成功しているという相手に対してのみ嫉妬をし、羨望を抱く。そもそも自分にとって何の関心もないことに関して成功していても感心はしても、嫉妬や羨望を抱くということはあり得ない。だから逆に誰も関心を抱かないことに関して関心を持つように心がければ、然程嫉妬や羨望を抱かずに済むということになる。尤もそんなものはそう容易に発見出来はしない。それが発見出来ないからこそ焦り、悩み、その発見を少しでもなした者に対して嫉妬し羨望を抱くのである。
 と言うことは逆に常に人間は他者と自己を同列の価値のものとして認識せざるを得ない生き物である、ということになる。つまりそれが何故だろうかという問いを差し置いて、嫉妬や羨望を論じることは出来ない。そのことは自己にとって他者とは一体どういう意味を持つのかということと、そのように他者に対して自己という意識を何故持つのかという問いを問うことの必要性をも物語っている。そうすると前々節において論じた自信ということだって、実際本当に自己内の、と言うより自分内部のことだけではないのではないか、という設問を用意する。だからある意味では本当に自信を得ることが出来るのは、他者存在に対する必要以上の意識を払拭し得たという達成感によってである。自己内で他者存在への意識を払拭し得た価値を発見をし得たということ自体に内在する自信が本当の自信であるとするなら、逆に他者に対する嫉妬と羨望というプロセスを経ない自信などあり得ないということになる。或る特定の他者に対して意識せざるを得ないということや、むきになってしまうということの内に、それ自体そういう意識は克服すべきであるという課題を産出するそういった意識への意味づけへの価値を発見し得る。つまりどうしてもそういう感情を抱いてしまうということの内に自己の真意を知る手がかりが潜んでいると同時に、そういう意識へと釘付けになってしまうことの意味を問う価値を知ることが出来るのである。そうすると、特定の他者への嫉妬とか羨望という心的作用はそれを克服し得た時にこそ本当の自信を獲得することが出来るという意味合いにおいて価値的に理解することも可能である。

Thursday, May 17, 2012

第三十五章 むきにならないことの価値

 人間は一定の業績とか評価を得ると、他人に対してプライドを誇示したくなってしまって、例えば自分よりその時点であまり高い実力ではないと目される人間から何か教えて貰ったり、親切に「~はご存知ですか?」などと質問されたりすると、「そんなこと知っているよ」と言ったりして、要するに「こんな奴に負けてたまるか」とむきになってしまう。要するに自分がそれまでに得た経験の尊さに対して「これだけのことをしてきたのだから最早誰からも言葉をかけて貰わなくてもいい」という気分へと舞い上がってしまうものである。しかしある意味では常にどんな時にでも「いざ自分よりも高い実力の人が現れたのなら、いつでも教えを請おう」とか「相手が誰であれ、負けたっていいじゃないか」という気持ちを失わないようにするべきなのである。  しかし意外とこれが難しい。人間は自己のプライドに釘付けになりやすいからである。あるいは「俺としたことが」とかそう思ってしまう。勿論一定の自信を持っていることは大事だが、必要以上の他者に対する依怙地な思い込み、つまり相手によって見方を変えて、例えば自分よりもずっとあることを後から始めた人間とか若い人に対してむきになって「こんな奴から教えて貰えることなどない」などと高を括ってしまうことが一番陥穽である。いつ何時でも自分より優れたことをする能力がある者が現れたら素直にその優れた箇所を認め、ある部分では教えを請うていったりしてさえいいと思っておいた方がいい。
 あるいは常に最善を尽くすということはいいことであるが、ひょっとしたら自分よりもより高いレヴェルの仕事をする者が現れて負けることだってあるし、そういうことが絶対あってはならないと思い込むよりは、負けを素直に認める気持ちを抱いていた方がより次回からいい仕事をする可能性を生むことが出来る。
 勿論相手から負けられないことの方がビジネスでは多いだろう。しかしもし負けてしまったのなら、それはそれで最早どうすることも出来ないし、仕方ないのであるから、即座に何故負けてしまったのかということを冷静に分析していく必要があるだろう。要するに人間は常に最善のことばかりが持続して出来るわけではないのに、最悪なことだけは避けるという心がけが大事なのである。
 だからこそ他者に関しては相手が常に百パーセント信用出来るケースばかりではないから、少なくとも相手の悪を出来る限り発動させないように自己によって責任を持てる部分を必ず維持していくことを心がけておかなければいけないのだ。人間は誰しも最善の性格であり人格ではない。つまり神や仏のような人物などこの世には殆どいないと言ってよい(勿論絶無というわけではないが)。しかし同時に百パーセント悪に塗れた人間も殆どいない(勿論絶無というわけではないが)。だから他者存在とはどんな場合でも、相手の長所だけを引き出すように利用すべきなのである。またそうすることが相手に対する敬意であり、信頼しているということになるのである。
 そういう相手に対してむきになるのは損である。メリットはない。故にそういう相手なりの対応を巧くするに限る。それはカント的に言って嘘をついてはいけないのだとしたなら、余り相手に対して相手をすることは楽しくないのだから、「~を教えて頂けませんか?」と聞けばよいのかも知れない。そうすることで自分にとって知らないことに関して教えを乞うことで、相手を有効活用することを意思表示すれば厭な相手でも巧く対応出来て、しかも自己欺瞞に陥らずに済むという寸法である。

Wednesday, March 7, 2012

第三十四章 自信論

 公共的価値と個人的価値との間の齟齬から我々が得る不安は我々を一挙に奈落へと突き落とす。従って我々はどこかでその不安を払拭したいと願う。しかし案外その時虚勢を張って自信を持とうとしても、それは自己欺瞞的なことである。第一それを自分自身は一番よく知っている。不安が自信を作ることを知っているのだ。しかし本当に自信がある時には案外声高に何かを叫ぶことはない。何か常に信念として、あるいは価値判断として正しいと思っていること自体を懐疑的に他者から捉えられると、我々は依怙地となってそれを違うと言いたくなる。そうすることによって不安を持つまいとするのだ。
 しかし自信とは一面では「そんなことはない」と誰かから一蹴されてしまうと一挙に失われていく。だから却って自信とはそれほど最初からない方がより、慎重になるということから逆に発生するとは言えるし、また却ってその方が脳自体は安定した考えが出来るのではないか?脳科学者に聞いてみたい気がする。
 ただ単に自信がある内はいいけれど、自信過剰になりやすくなる瞬間も我々にはある。だから本当に自信がある時に、それが違うと否定されると、案外そんなことはないと逆上することもなく「そうかも知れないですね」と相手に適当に合わせることも多いかも知れない。寧ろ本当はあまり自信がない時こそ依怙地に相手から否定されると、その否定を
頑強に否定しようとする。だが案外我々はこの空元気のようなものを自信と勘違いしていることが多い。それは他者に対する優越感自体がかなり他者に対する劣等感と抱き合わせで、その自信のなさを払拭したい心理が優越性を意識したいと気がついた時にはそう構えている。
 自信とは端的に大きな選択をする時に躊躇しないで実行出来ることから生れる。すると大きな選択をするためには我々日常で小さな躊躇をしていくべきであり(そうしなければ大きな選択は出来ない<余程経済力の或る人でなければ、いや経済力のある人でさえ大きな選択をするにはそれが必要である>)、且つ大きな躊躇を回避するためには、日頃から小さな選択(つまり些細な努力)を躊躇しないということが求められるのだ。
 その二つを両立しないままでいると、いつまで経っても大きな選択も可能とならないし、大きな躊躇もしなくてはならない、つまりあらゆる可能性を諦めていかざるを得なくなる。
 つまりしなくてはならない小さな躊躇とは端的に危険を回避するためにするのであり、逆に小さな選択をしなければならないのは、努力して何らかのことを乗り越えていく必要があるからだ。つまり小さな危険を回避することにおいて躊躇することが、強いては小さな選択を潔く豆にするということである。それは努力に他ならない。
 又本当に信じて貰いたい相手から信頼されていないということがあれば、確かに本当にあることを自信を持って信じていても、それを声高に叫ばなくてはならない局面も人生にはある。
 そもそも人間は死ぬのに生れてくるのだ。いつか死ぬのなら、いっそ生まれてこなければよさそうなのに、偶然我々は生れてきた。だからこの理不尽、不条理、不合理に対して何らかの折り合いをつけるために我々の祖先の一群の人たちが原罪という観念を拵えたのだ。全ての宗教が志向することとは、端的に死を恐れない心理を作るという必要性である。この不合理性に対する決着である。その決着自体に対して自信があるということは、ある意味ではいつでも死ぬ覚悟が出来ているということに他ならない。それは得てしまって失うことが恐ろしいことではなく、得ないで失うことがないことを通して恐れないということに尽きる。それはある部分では仏教の歴史そのものであると言ってよい。
 しかし我々は残念ながら、自らの成功とか虚栄といったものを得てしまう。つまりだからこそ得ないでいることを価値と見ることも出来る。その一つが財産であり、知識である。
 例えば我々はどこかで縦の遺伝という「死する生命」における合理性を担って生れてくるが、実は生れてきたある限定された時代を生きるということが、他者と出会うことを運命づけられていることを知る時、横の遺伝もまた重要であることを知る。だからこそ仏教ではかつて輪廻転生とか因果応報と言ったのだ。
 しかしユダヤ教でもキリスト教でも壮大なフィクションを拵えた。つまりその壮大なフィクションそのものが我々に近代合理主義とか自然科学による恩恵を齎した。その一つが論理である。しかし一旦獲得した文明が一段落すると、心の余裕がポジティヴな意味でもネガティヴな意味でも出て来て、そこからは逆に仏教的死生観の活躍する場が与えられる。
 要するに縦の遺伝と横の遺伝の縦横の座標系における交点こそが私たち一個一個の個であると言ってよい。そのことをかつて仏教の偉い思想家たちが輪廻転生とか因果応報と呼んだのだ。
 それは私にとって馬の合う仲間や友人に対して、私の祖祖父も、その又曽祖父においても、似たような他者間での経験を持っていたかも知れないということが、逆に現代の遺伝学では証明出来ることなのだ。だが勿論証明とは部分的にしか出来ないだろう。つまり完璧には解析出来ないということを知ることで、またそこに神秘性を我々は抱くことが出来る。その分からなさ自体へと着目することが存在者としての自信を我々に植え込むことになるのかも知れない。それは知ることの根拠を巡る問いである。
何故私たちはもっと何かを知りたいと願うのだろうか、あるいは何故我々はある異性に対しては惹かれ、それ以外の異性に対してはあまり惹かれないのかということも一定の線までは解明出来たとしても、それは完全にではない。何故なら個々ある一定のタイプに惹かれるということだけでなく、全く相反するようなタイプ二つに同時に惹かれていくということもあり得るからである。まさにそれこそが私たちはもっと何かを知りたいということなのだ。
しかしその一定までしか解明出来ないということが逆に個々の存在者に個を生きることの価値を教えてくれる気も私はするのだ。その解明出来ないということは人類全体にとってもそうだし、私という一個の存在にしてもそうである。しかし逆にそのような不可解な個であることから我々は生きる自信を得ることが出来る。何故なら生涯をかけて何故この自分として生れてきたのかという問いは確かに私たちにとってポジティヴに自分自身の可能性を探ることだからである。その問いを生涯抱き続けることが出来ると思える時に私たちは自信を得ることが出来る。
 つまり私は恐らく全ての他者よりもよく知らないままであることを多く持つだろう。そのことは終ぞ生涯一定の線以上の知も理解もないままで死んでいくことを私に運命付けるが、その事実こそが実は全ての私にとっての他者には終ぞ知ることの出来ない多くを私だけが知ることが出来るという可能性(それは実際に事実である。私しか知らないことは確かにある)を私が見出すことを可能にする考えだからである。
 画家の横尾忠則は「自分というものは一番神秘的です」とテレビアートヴァラエティで述べていたが、まさにその通りである。それこそが自信論の結論として相応しい言説ではないだろうか?