セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, May 17, 2012

第三十五章 むきにならないことの価値

 人間は一定の業績とか評価を得ると、他人に対してプライドを誇示したくなってしまって、例えば自分よりその時点であまり高い実力ではないと目される人間から何か教えて貰ったり、親切に「~はご存知ですか?」などと質問されたりすると、「そんなこと知っているよ」と言ったりして、要するに「こんな奴に負けてたまるか」とむきになってしまう。要するに自分がそれまでに得た経験の尊さに対して「これだけのことをしてきたのだから最早誰からも言葉をかけて貰わなくてもいい」という気分へと舞い上がってしまうものである。しかしある意味では常にどんな時にでも「いざ自分よりも高い実力の人が現れたのなら、いつでも教えを請おう」とか「相手が誰であれ、負けたっていいじゃないか」という気持ちを失わないようにするべきなのである。  しかし意外とこれが難しい。人間は自己のプライドに釘付けになりやすいからである。あるいは「俺としたことが」とかそう思ってしまう。勿論一定の自信を持っていることは大事だが、必要以上の他者に対する依怙地な思い込み、つまり相手によって見方を変えて、例えば自分よりもずっとあることを後から始めた人間とか若い人に対してむきになって「こんな奴から教えて貰えることなどない」などと高を括ってしまうことが一番陥穽である。いつ何時でも自分より優れたことをする能力がある者が現れたら素直にその優れた箇所を認め、ある部分では教えを請うていったりしてさえいいと思っておいた方がいい。
 あるいは常に最善を尽くすということはいいことであるが、ひょっとしたら自分よりもより高いレヴェルの仕事をする者が現れて負けることだってあるし、そういうことが絶対あってはならないと思い込むよりは、負けを素直に認める気持ちを抱いていた方がより次回からいい仕事をする可能性を生むことが出来る。
 勿論相手から負けられないことの方がビジネスでは多いだろう。しかしもし負けてしまったのなら、それはそれで最早どうすることも出来ないし、仕方ないのであるから、即座に何故負けてしまったのかということを冷静に分析していく必要があるだろう。要するに人間は常に最善のことばかりが持続して出来るわけではないのに、最悪なことだけは避けるという心がけが大事なのである。
 だからこそ他者に関しては相手が常に百パーセント信用出来るケースばかりではないから、少なくとも相手の悪を出来る限り発動させないように自己によって責任を持てる部分を必ず維持していくことを心がけておかなければいけないのだ。人間は誰しも最善の性格であり人格ではない。つまり神や仏のような人物などこの世には殆どいないと言ってよい(勿論絶無というわけではないが)。しかし同時に百パーセント悪に塗れた人間も殆どいない(勿論絶無というわけではないが)。だから他者存在とはどんな場合でも、相手の長所だけを引き出すように利用すべきなのである。またそうすることが相手に対する敬意であり、信頼しているということになるのである。
 そういう相手に対してむきになるのは損である。メリットはない。故にそういう相手なりの対応を巧くするに限る。それはカント的に言って嘘をついてはいけないのだとしたなら、余り相手に対して相手をすることは楽しくないのだから、「~を教えて頂けませんか?」と聞けばよいのかも知れない。そうすることで自分にとって知らないことに関して教えを乞うことで、相手を有効活用することを意思表示すれば厭な相手でも巧く対応出来て、しかも自己欺瞞に陥らずに済むという寸法である。

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