セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, May 26, 2012

第三十六章 人間は何故他者を羨み嫉妬するのか?

 人間はとりわけ同世代の人で、自分よりより成功を勝ち得ている人に対して羨望の念を抱き、嫉妬さえする。何故そのようにそういう気持ちになるのだろうか?意外とこのことに正解を示した例を私は知らない。嫉妬とは経済学的な心理であるということは脳科学でも解明されているらしいが、こちらの持ち札の少なさに対して向こうの持ち札の多さに対する不安が生じさせているということも言えるが、嫉妬する対象に対して我々は寧ろ自分より劣った部分を発見しているからこそ、その劣った奴が自分よりもずっと上の地位を獲得し、ずっとよく色々なことを知っていて、ずっと世間からもよい風評であるということに耐えられないという気持ちだろう。だからこそ前節で述べたようにむきにならないでいることは大事であるということは頷けるわけだが、やはり相手に対して、しかも相手とは誰でもいいのではない、つまり自分とかなり共通性があって、かなり似ているところもあるのに、一方相手は自分よりもずっと先を行っているという事実がある者の成功を耐え難いということにしているのだろう。
 つまり我々は自分にとって関心のあることに関して自分よりもより先を行っているとか、自分よりもより成功しているという相手に対してのみ嫉妬をし、羨望を抱く。そもそも自分にとって何の関心もないことに関して成功していても感心はしても、嫉妬や羨望を抱くということはあり得ない。だから逆に誰も関心を抱かないことに関して関心を持つように心がければ、然程嫉妬や羨望を抱かずに済むということになる。尤もそんなものはそう容易に発見出来はしない。それが発見出来ないからこそ焦り、悩み、その発見を少しでもなした者に対して嫉妬し羨望を抱くのである。
 と言うことは逆に常に人間は他者と自己を同列の価値のものとして認識せざるを得ない生き物である、ということになる。つまりそれが何故だろうかという問いを差し置いて、嫉妬や羨望を論じることは出来ない。そのことは自己にとって他者とは一体どういう意味を持つのかということと、そのように他者に対して自己という意識を何故持つのかという問いを問うことの必要性をも物語っている。そうすると前々節において論じた自信ということだって、実際本当に自己内の、と言うより自分内部のことだけではないのではないか、という設問を用意する。だからある意味では本当に自信を得ることが出来るのは、他者存在に対する必要以上の意識を払拭し得たという達成感によってである。自己内で他者存在への意識を払拭し得た価値を発見をし得たということ自体に内在する自信が本当の自信であるとするなら、逆に他者に対する嫉妬と羨望というプロセスを経ない自信などあり得ないということになる。或る特定の他者に対して意識せざるを得ないということや、むきになってしまうということの内に、それ自体そういう意識は克服すべきであるという課題を産出するそういった意識への意味づけへの価値を発見し得る。つまりどうしてもそういう感情を抱いてしまうということの内に自己の真意を知る手がかりが潜んでいると同時に、そういう意識へと釘付けになってしまうことの意味を問う価値を知ることが出来るのである。そうすると、特定の他者への嫉妬とか羨望という心的作用はそれを克服し得た時にこそ本当の自信を獲得することが出来るという意味合いにおいて価値的に理解することも可能である。

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