セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Friday, June 1, 2012

第三十七章 願望の実現と幸福の実現

 人間は一定の欲望を常に携えているが、それは自らの中に欠乏感があるからである。それを穴埋めしようとすることが行為である。その中に努力もあるし、意志もあるし、それらを促進させるものとして反省がある。さて欠乏感とは端的に物質的な自己に纏わる豊かさに対する実現とか精神的充足感といったものの両面がある。だから通常欲望を充足することは個々の願望が実現することであると考えてもいい。つまり願望そのものを実現させるための対象を我々は常に創出しているのである。そこにはある意味では限界がないが、その限界のなさは実はかなり自己能力としてたやすく実現し得ることの範囲が狭いということに対する自覚があるからである。そして願望が実現することの内には実現しそうにないと高を括っていたのにもかかわらず予想外に想定を超えて実現してしまったということの幸運と、実現しやすいと想定していたにもかかわらず、予想外に難航して実現には覚束ないまま終えてしまったことの両方が常に付き纏う。その結果によって我々はその想定を育んだ自己の裁量自体に対する反省を強いられる。つまりこうすればこうなる、ああなればああなるという想定を育む磁場であるところの知性とか悟性とか、要するに鑑識眼、あるいは計画性といった判断の全てに纏わる自己能力の度合いをまざまざと見せ付けられるのである。つまり私たちは計画を立ててどれくらいの計画通りであるかということと、どれくらい計画以上の成果を挙げられたかということにおける判断そのものにおいて充足感と達成感とか、あるいはその逆で後悔と消沈を味わうのである。
 しかし願望が常に想定通りには実現し得ないということに対する覚醒自体が私たちにある意味では欲望通りになることに関する幸福感情とか快自体の価値への再考を育む。つまり予定通りに行くこととか、計画通りに行くこと自体に対する懐疑も生れるし、又逆に全てが予定通りにならないとか計画通りに行かないこと自体に魅力を発見することも可能となる新たな磁場も形成される。その時結果に対する判断という一つの反省自体のあり方を巡る判断において幸福的価値というものが見出される余地が生れる。
 瓢箪から駒的な喜びを発見することとか、計画を立て過ぎないでいること自体の価値の発見をするとかがこの中に含まれる。
 例えば旅行は実際に行ってみるまで現地自体の事情が良く把握されていないがために、実際には必ず計画からはずれた結果となる。だから逆に計画から常に著しく外れないでいられること自体の中には自己の想定能力自体に対する確信を揺るぎないものにする一方、それだけではつまらないというもう一つの欲望をも生む。努力の甲斐があることと努力した割りにいい結果を導き出せないでいること自体の間の距離を常に我々は問題にするが、では努力とは一体何なのだろう?
 恐らくそれは出来る限り後悔せずに結果を受け止めることの出来る心の余裕を得ることへと常に行為において近づけていくことではないだろうか?反省とはその中で我々の能力自体に常に限界があることを覚醒することであるとも言える。何故なら我々は常に想定以上に巧く行くと必ず自己能力に対して過信しだすからである。あるいは今現在こうはなるまいと考えているような状態へも常に一挙にではなくても緩やかに移行しつつあることさえ稀ではないのである。つまりある部分では自分では絶対こうはまるまいぞとか、決して真似はすまいぞと固く決心しているということがもしあるとすれば、それこそが極自然に惹かれていってしまうのに、そのこと自体をモラル的に自己規制して禁止していることも多いのである。その当の相手が後々後悔を誘うことになることが分かっていることであるなら払い除ける必要があるが、そうではないものであるなら受け入れていった方が得なこともある。しかもその禁止とは余り意味のない執着から引き出されている場合も多いのである。
 愛情とはしばしば執着心と区別がつかなくなる。その一つの典型例こそ深情けである。そして深情けとは往々にして過去に対する未練が生み出している。しかし人間は考え方も性格もどんどん変化し続けている。そういう意味では自己内の過ちに対してさえしばしば意図的に目を瞑ることを選んでいる自己を実は発見している。或いはある考えと別の考えを共存させながらも、その共存は相互に相手を否定するような自己矛盾を来たしていることさえしばしばである。そういう矛盾した考え方の共存を平気でしているのが人間なのである。だからこそ自己信条を他者に合理的に説明することが出来ないと大半の成員が自覚している。だからこそ我々は哲学、思想、宗教を生み出し、それを必要としてきたのである。だから人間はどんなに精緻に論理武装しても100パーセント完璧ではあり得ないし、純粋なものを抽出したり、創造したりすることも本質的には不可能である。その事実に対する冷徹な眼差しこそが哲学的反省であり、日常使用語彙的な反省ということの意味を確定的にさせている。それは社会の不文律を踏襲しないでいることに対するピア・プレッシャーに対する配慮といった世間的なことではない。もっと本質的な実存の問題である。
 それは常に完璧ではないけれども、その時その場なりに最良であるとも言え、あるいは強ち間違いとは言えないような行為事実を集積していこうとしているのが私たちである、ということである。それは意気消沈させるような後悔を極力避けようと心がけることである。それこそが努力ということだからである。哲学において適切性ということが思惟レヴェルで言われるのは実はこの強ち間違いであるとは言えないことを極力多くしていきたいという願望が一定程度達成されていることを示している。つまり欲望において充足とは未充足である内はかなり願望内容が膨れ上がっているが、それは机上の空論的なことである。そして空想とか想像と実際とは必ず食い違っている。その食い違い自体に対する妥当性こそを私たちは適切性と呼ぶのである。常に食い違っているのであればその食い違いを予め想定して計画を立てたりすればいいではないか、と言っても、その食い違いは常に一定のベクトルであるわけではないので、その想定外的偶然的結果に常に妥当性自体が揺らいでいるのだ。するとその揺らぎ自体を巧く掬い取ること自体が価値化されていく。その時願望の実現による欲望の充足自体に対する価値の組み換えが行われる。その価値の組み換えによる認識と判断こそが幸福の実現を可能とするのである。

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