セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, June 9, 2012

第三十八章 ドライヴァーにとっての快という価値

 かつて私はある論文風エッセイ、エッセイ風論文に次のように書いたことがある。 「スピード狂の心理には、どこか無意識の自殺願望、死への止み難い憧れがあるように思えてならないのだ。例えば飲酒運転による悲惨な事故死が多くなったために飲酒した場合運転出来ないような車の制御システムが開発されたりしている今日であるが、例えば自動車事故を全く起きないようなシステムが開発されたとしよう。すると私たちは概ね安全である電車を使って場所の移動をするのと同じような感覚を車に対して抱くようになるだろう。しかし私はこう思うのである。もし百パーセント車が安全な乗り物になったとしたら、寧ろどうしても生活をするために必要な地方とかの地理的な条件で車の免許を取る人は別として、それほどではない人は車の運転免許を取らなくなる人も多くなるのではないだろうか?あるいはもし車の免許を必要に応じて取ったとしても尚、それ以外に多少危険度の伴う別の乗り物を運転、あるいは操縦することを志向するのではないだろうか?私は専門の心理学者でも、脳科学者でもないので、これは私の直観的な観測にしか過ぎないのであるが、何故かそのように思われてならないのである。」
 私たちは不確実な未来に対してある種の不安を抱く。その最たるものはいつか自分も死ぬということである。しかしどんなに不安でも未来において自分がどうなっているかということを全面的に知る術はないし、仮にそういう術があったとしてそれを知りたいと我々は願うだろうか?例えばギャンブルとはそれが勝利するかどうかということにおいて不確実であるからこそすることがスリリングであり楽しいのであり、全て結果が分かっているのならそれはギャンブルとは呼べない。
 また我々は脳科学的にも既に毎回餌を貰える時のマウスよりも、数回に一回しか餌を貰えない時の方が、レヴァーなどを押して餌を請求するマウスの実験からも脳内によりドーパミンが放出されることが分かっているように、我々自身も恐らくそのように何らかの形で未来事象そのものの不確実性を兼ね備えたものにおいて挑戦し甲斐があると認識している。そういう意味では交通事故が多発しているということを現実として受け止めていながらも、その危険な乗り物を操縦するという部分に何らかの快楽を我々は得ているかも知れない。特にそれは乗り物に乗っている時に感じるスピード感である。これはスピーディーな乗り物の機能性と、それに乗っている時の爽快感から一切その感覚をなくしてしまえば、乗り物自体への乗ってみたい快楽とか欲求はなくなってしまうだろう。
 ところで私たちは通常警官とか警察官とか言い、警官さんとか警察官さんなどとは言わない。またさん付けしないでいることの方を普通だと思う。それは職務的呼称だからだ。
 一方私たちは通常「お巡りさん」とは言うが、「お巡り」とは言わない。そう言うと俄かに特殊なニュアンスを帯びてしまうからだ。何か警察官の存在そのものを宿敵としているようなニュアンスである。しかし我々はドライヴァーの立場に立って何か話しをしている時には彼等のことを「あそこの道は結構飛ばせるのに、制限速度が厳しくって、ポリ公がネズミ捕りをしているんだよね」などと言う。つまりドライヴァー同士の会話とは端的に相互に別段犯罪者同士ではなくても尚、その共有感覚とは反体制的なものなのである。要するにスピードを出したいドライヴァー全般にとって警察官という取締りをする側とはあくまで「抵抗すべきお上」以外のものではないのだ。
 そういう会話の時に「いやあ、やはり制限速度を超えて走るのは公序良俗に反しますよ」などと言うものなら、その場のドライヴァー同士の共有感覚、ある意味では運命共同体的な感覚に水を差すこととなるし、決して適切な言辞ではない。
 つまり我々はそういう風に犯罪者ではなくても、取り締まる側のお上性に対するアンチヒーロー意識をどこかで必ず抱いている。車を運転している時に聞くのに相応しい音楽というものもある。それは端的に音楽そのもののクラシカルな芸術性とは全く関係ない。快適にハンドルを握ってスピードを調節することのしやすい雰囲気に持っていく「ノリのいい」音楽である。
 例えばビリー・ジョエル、シカゴ、マンハッタン・トランスファー、イーグルス、アース・ウィンド&ファイヤーなどが私から感じる「聴いていて心地よく運転出来る」のではないかと思われる音楽である。上原ひろみ とかチック・コリアなどもそうかも知れない(勿論楽曲にも拠る)。

No comments:

Post a Comment