セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, April 27, 2013

第四十三章 価値と倫理Part2 未来展望から鑑みる価値と倫理

 Symbol、notion、abstractionは我々の価値判断を他者へ説明する為のツールである。倫理や道徳も自主価値判断、自主道徳を持つ事を促す教育ツールであった。しかしそれが教条的な権威へと転化しやすいという事が前回の論旨であった。
 我々は生まれてきた時特定の民族、性別、家系や遺伝子を受け継いでいる。その点ではあらゆる我々の日常に付帯する物事の考え方の流儀は特定の方向性へと権威付けられている。つまり憧れや敬意の対象が暗黙の権威となっている。そういうもの一切のない家庭環境はない。たとえ犯罪者や盗人の家系でもそういう反社会的誇りを暗黙の内に受け継いでいる。それは正当的権威であるかやお上に容認されてきているのかという事とは無縁に固有の視点を全個人に与えている。
 つまりそういった固有の条件のない存在者はおらず、それは実存的に生活しているという意味で全存在者の共通する性格、つまりその制約に対してどう自己を考えて行動していくかという事である。
 それは一人の大人がどういう家庭環境で育ってきたかという事以外でも、歴史的に後から考えられる時間軸的な意味でどういう時代に育ってきたかという事を抜きにその考えや思想、信条の出発点を語れないという意味に於いてもそうである。
 要するに完全に全ての条件から自由な存在者は居ない。
 その点から考えれば、確かに現代社会でのウェブサイトを通したサイバー空間、ネット空間は様々な意味で情報摂取とウェブ上でのコミュニケーションを日常生活で不可欠のものとせざるを得ないという意味で我々はどんな個々人も固有の条件と制約を引き受け生まれ育ってきたという事をウェブ上でのコミュニケーションマルキシズムに於いて無効化させる幻想を強制的に全ユーザーが享受している。
 インターネット利用とはかつて大きな会社であったヒエラルキーが今でも厳然と存在するのに、少なくともウェブ上ではそういった階級差とか社会的地位の高低さえそれ程重要な事ではないかの様なウェブサイト利用時での共通した幻想へと全ユーザーを運んでいる。
 この点は寧ろ最早社会システムの階級差とか経済格差等の全てがどうにも大きな変革等期待すべくもなく恐らく殆ど変わりなく存続していくであろうという固有の諦観が、だからこそ一時ウェブサイト上で全ユーザーはそういった固有の個人の条件を引き受けた社会での個人の内的心情を隠蔽し対外的には偽装した日常の自己欺瞞的なゲームで休憩を取り、もう一つの社会的リアルの変えられなさからの逃避的心理で集う別のゲームとして我々にインターネットを通したコミュニケーションが提供されていると考えてもよい。
 だが本当に何時迄も我々はこの社会的実際としてのリアルとウェブサイト上での全ユーザーに拠るコミュニケーションマルキシズムを続行していくであろうか?少なくとも百年単位で考えれば、何時迄も21世紀前半の侭で人類が居続けるとも私には思えないのである。
 確かにウェブサイトを通して我々は固有の単発的メッセージの送受信、つまり短いフレーズでの言葉の遣り取りを絵文字等と共に日常生活で不可欠のツールへと昇格させてきた。
 しかしそういう風に言葉と密接ではなく日常生活を過ごす事等出来はしないという事実への覚醒は、一面では全世界的規模で人類全体にとって言葉とは何かという哲学思想的思惟を与えずにはおかないし、それは益々個々人の間で痛烈な命題となっていくだろう。
 資本主義は欧米では王政と貴族制度の成熟と崩壊とを並行させて、キリスト教倫理の人民への精神的支配と呪縛それ自体への自問と共に成立してきた勤労観や人生全体への価値規範の意識の芽生えと共に17世紀以降徐々に確立しつつあった産業革命と、その大量生産、そして倫理的政治理念的には公平と平等と自由との兼ね合いで次第に商業活動の自由という形で定型化され、それと並行して国家的理念も絶対王政的秩序の崩壊と期を一にして定型化されていく議会制度等と共に国内でのグローバルスタンダードを各国が模索していく様になる(アフリカ、中東や中国、インド等は異なる歴史であるが)。
 20世紀は戦争の世紀であり、それは産業革命以降の技術革新と国家的権威とが結託して兵器を主とした軍需産業の確立に伴って起きた事であり、そのテクノロジーは鉄道や自動車へと徐々に主産業的アイテムとしては移行していく(勿論現在でも航空産業と軍需産業の技術的提携は益々確固となっているし、宇宙産業とそれらも密接である)。
 しかしウェブサイトが個々人の世界市民に個人主義的精神的憩いを見出させた事は、一面では社会的な規約がどの分野でも定型化され、そこで求められるスキルへの評定基準が益々数値化され(日本では偏差値教育、各種プロに求められるスタンダードがTOEIC等で何点以上であるとかあらゆる技能的に求められるスキルが数値化されている)、しかし一方精神的安らぎをアートや音楽、芸能へ求める現代人は、殊にアートというニッチマーケットでの価格設定が一般耐久消費財的なグローバリティとは全く異なった常識と根拠で同居させる如く、要するに一方では極めてグローバリティある普遍的基準を正当としながら他方では益々価値規範的にはオタク的なスタンダードを幾つもそれ等グローバリティとは別個に別腹で用意している。音鉄(録り鉄)、撮り鉄、乗り鉄、時刻表鉄 等様々に細分化させる事にあらゆるオタク領域で憩いを見出し悦に浸る。それは言ってみればグローバリティとオタク的スペシャルスタンダードとの全く正反対のベクトルへと益々現代人の意識が乖離していっている証拠である。
 しかしこの先百年、二百年とずっと人類はこの二曲分離的な分裂、統合失調を持続し得るだろうか?まさにそれこそが問題である。
 鉄道マニアをそれぞれ分野別の呼称をつけてカテゴライズする感性は日本人に顕著だが、これはある意味では現代分析哲学の唯名論者であるネルソン・グッドマンの哲学的思想を現代人が体現してみせた、と言うことすら出来る。
 しかしこの飽きもしない既に大きな秩序、国家とか組織とか集団の論理は変え様もないという諦念が齎すオタク的趣味とSNS等を通した擬似コミュニケーション、つまり文字と文字の遣り取りだけに費やされる送受信行為がリアル社会の変わらなさへのうんざり感からの逃避的シェルターとなっている。
 数日前私は次の様なツイートをFB.とTwitterで呟いた。
 「現代社会はある部分では一切細かい部分を気にしない感性でないと気楽には生き抜けないが、私は普通の人なら見過ごせる部分をどうしてもそう出来ない。故に時々全てを破壊したい願望に駆られるが、その勇気もないので全てから逃げ回る。常に自分だけのシェルターを探し回っては失敗し続けている。」
 このツイートは現象学者よろしく全世界市民が自己の日常的行為を反省的視点を携えつつ現在行為を観察すれば誰しもが結果的に見出す像であろう。つまりウェブサイト上での送受信行為は投稿サイトであれ似非的なニュースであれ、全てそれを送受信する事であたかもリアル社会へ参画しているかの幻想を個々人に与えつつ着々と無自分化を果たしている事に全ユーザーは気付いていて、しかしそのリアル社会のリア充的様相からの逃避を止められなくなっているのだ。しかしそれでいてそれを深刻に受け止めもしない。しかしリアルな我々の肉体は確実に個々人で老化していて、何時かぷつんと送受信は止む。これも間違いない。
 しかし個人が呟いた膨大なツイートはウェブ上で確実に残っていってしまう。残したくもないものさえ残されてしまうのである。ブログは作っていた本人が死ねば永遠に消す事が出来ない。
 この事が齎す我々の内的変化とは、この侭でよいのだろうか、コミュニケーションとは逃避的に一人で送受信する行為への没入の侭で真に果たされていると言えるだろうか、という事である。
 私は最近先のツイートより前に次の様なツイートも別々の時に呟いた。
 「現代社会はテレビでどんな番組を見ても視聴率が分かったり、街中至る所に隠しカメラ(監視カメラ)が仕込んであったりして、要するに何から何迄メカによって張り巡らされていて、そういう技術がどうなっているかという事を一々気にしていたら生きていけない様になっている。要するに利便性を享受しつつ無関心的に都市空間を闊歩し生活するしかないと皆分かっているのだ。自分に関心ある事だけにかまけていればいいと決め込んで生活するしかないのだ。」
 「SNSでも携帯でも余りにも多機能だと却って食傷気味になり、もっとシンプルなのがいい、心地良く使いやすいという気持ちは現代人に固有だと思うけど、よく分かる。四六時中その過剰サーヴィスに応対して享受サーフィンだけが得意な奴って何処か阿呆みたいに見えないだろうか?」
 前者ツイートでは全市民をゆったりとしたリズムの牧歌的生活に於いて老成させないありとあらゆる新機種登場と、システムの改変に目配せせねばならぬ現代情報化社会市民性を、後者ツイートではそれを只管喜んで便利だと享受するタイプの市民を揶揄している。
 ガブリエル・マルセルに拠る『存在と所有』では現代人の堕落を堕罪等で象徴させているが、21世紀の現代人にとってそれは安穏としたシステム改変に伴う利便性向上への享受とシステムのテクノロジーの全てを把握しきれぬが故に好奇心が何時迄も止む事のない老成させない社会故に派生する決め込み型的無関心心理であろう。  
 20世紀以降今日迄はあらゆる意味で天才の才能の独占の時代だった。商業資本主義スキルの才能の独占者としてハワード・ヒューズ、投資資本主義スキルの才能の独占者としてウォーレン・パフェット、コミュニケーションツール提供型資本主義スキルの才能の独占者としてビル・ゲイツ、スティーヴ・ジョブズ、マイケル・シュミット、ジュリアン・アサンジ、マーク・ザッカーバーグ等々。彼等は明らかにビートルズ、マドンナ、マイケル・ジャクソンといったロック&ポップスの世界の精神と、セルゲイ・エイゼンシュテイン、スタンリー・キューブリック、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャーといった映像の鬼才達の精神をコミュニケーションスキルに於いて統合した。
 恐らくこれからも短期的に大きな話題を攫う堀江貴文型の鬼才は登場しては消えていくだろう。しかし基本的にコミュニケーションマルキシズムが全世界市民へ浸透していくにつれ、よりミニチュアサイズの准天才がごろごろとあらゆるエリアを闊歩する時代へと突入するのではないだろうか?
 その意味では個々人の精神に多大にインスパイアされた言語認識的な精神の変革者として上記の資本家やアーティストと並行してルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン、アラン・チューリング、リチャード・モンタギュー等の考えた認識論や観念図式や数式は無意識の内に21世紀人の精神へ浸透し、彼等のスピリットが現代社会全体の様相へと体現されていると言っても過言ではない。
 それ等に加えてC.Sルイス、ガブリエル・マルセル、マイケル・ダメットといったキリスト教精神の思想改変者達が上記言語認識的改変者と同時代を生き思想提供した事実が、無神論者と有神論者の壁をぶち破る方向へと今後の人類を誘引していくのではないだろうか?
 以前私はこうツイートした。
 「恐らく刹那に対する考え方に有神論者と無神論者とでは決定的に異なっていくのではないだろうか?つまり刹那に永遠を感じ取れる感性は無神論者の方が多いのではないだろうか?」
 基本的にこの考えは変わっていないが、永遠性への希求という意味で両者に何か明確な境界がある訳ではない。20世紀の思想哲学は多くが否定論理に拠って成立していたが、その点でも今後人類はもう少し素朴な肯定論理を見出そうとしていくのではないだろうか?認識論的な観点から20世紀思想哲学と各種コミュニケーションツールでのスキルが否定論理に拠って多大の進化を遂げた事は確かだ。芸術表現でもジョン・ケージ、ジャン・リュック・ゴダール、寺山修司等多くの逸材、天才達は否定論理に拠って表現の認識に改変を加えてきた。
 しかし我々は内的な自然としての肯定を求めていく必要性に目覚め、そこで再度20世紀思想哲学、そして表現を振り返るのではないだろうか?
 金融資本主義は確かに当分は続くだろうが、商品価値やサーヴィス提供価値自体の金銭化のイデアそのものを改変させていく事に於いて参考となるのは、ニッチマーケット的アートが浮き沈みの大きな毀誉褒貶的反動主義から学んだ事であり、とことんロングテールビジネス化させるいい意味での袋小路ニーズに対応したニッチマーケットとそれを支えるオタククラスターの自然性である。
 科学的合理性は徐々にヒッグス粒子やダークマター等のより高次の抽象化された理論物理学の宇宙起源論に拠って、アートと理論物理学の境界が曖昧化していく方向へとシフトしていくだろう。そこに従来型の哲学や認識論、存在論迄もが統合されていくのではないだろうか?勿論完全融合するのには後数百年はかかるかも知れない。
 20世紀型管理職然としたソーシャリティは一部SNS等に拠って残存していくだろうが、益々個々人は不干渉主義的に徹底化していくものと思われる。つまりそれだけ人類は全スキルや全テクノロジーを熟知していられぬという知識と情報の完全制覇への諦念から先程述べた無関心性を自然なものとしている以上、個々人の対人関係もより不干渉主義が徹底化していくだろう。
 要するに相互干渉主義的モラルは少なくとも市民生活からは徐々に消滅していく。それは国家主義でも二三百年はかかるだろうが、人類が絶滅を未然に防止する意図と知性と理性で臨むのであれば柔軟なものへと改変されざるを得ないだろう。
 ある部分伝達意図を相互に汲み取る様なコミュニケーションセンシビリティはリア充回復的な意識へと目覚め、テレビのスポンサーとか制作者に顕著であり続けてきた業界的な特権意識や階級意識がより雲散霧消していき、SNS等のサイト運営自体も国家に対する地方の発言権の様になっていかざるを得ないのではないだろうか?それをなし得ればテレビ等のメディアがよりウェブサイトと協調していけるだろう(そうでなければ全放送局は淘汰されるだろう)。
 全メディア、全ウェブサイトを人類から放逐される可能性を今度は考えてみよう。
 それは要するにコミュニケーションの根本原理であるフェイス・トゥ・フェイスコミュニケーションへの覚醒に拠ってであろう。
 メディアもウェブサイトも健在である時点でも恐らく人類は誰かと会話する時相手の顔の表情から相手の感情を読み取るという判断の仕方を変える事はないだろうからだ。
 確かに現在はより20世紀と違って自己世界への没入が日常化している。しかしそういった自己没入とフェイス・トゥ・フェイスコミュニケーションとは常に日常生活ではどの個人でも反復されている。唯今の時代では自己没入が旧態依然的な集団や組織の論理へと批評性を獲得している。しかしそれすら時代と共に旧態依然的なものの一つへと格下げされていく事は間違いない。
 人類全体の意識はウェブサイトを通したコミュニケーションマルキシズムがより時代の必要性としてクローズアップさせられるエポックと、逆にそこで見られる自己没入を各種ツールを消滅させず温存させつつつも、リアル対面型の個々の共同体的回帰志向が価値化され、自己没入の価値化を転倒させるエポックとが反復して暫く二頭制として定着していくのではないだろうか?
 しかし原発事故等が自然災害に拠って勃発するなどすれば、自然回帰的なテクノロジーの開発がより叫ばれ、自然科学全般が生命倫理や医療と密接に自然還元的システムとしての社会インフラを模索していくことだろう。つまり文明崩壊的インシデント(例えば二年前に日本で起きた原発原子炉のメルトダウン等とそれに拠る放射能汚染区域の発生等の)が今後どの程度人類を襲うかに拠ってその改変スピードも決定されていくと言える。
 文明破壊欲求的なデカタンスとかインフラ消滅を叫ぶ自然回帰的なメッセージが詩人やアーティスト全般で隆盛を極める文化的様相も予想し得るが、それ等のスピリチュアルなムーブメントが如何に自然科学や言語理論等の社会インフラ接続型のスキルと融合していけるかが人類の生存のキーとなるものと予想される。要するに人類生存にとって何を全世界市民に共通した価値とし得るかという事が、リアル社会での実用性と形而上性との相補性に於いて何を求めていくべきかという自問自答をする事こそが殆ど無意識の倫理命題となり、それこそが価値の全体であるという個の意識となっていくのではないだろうか?
 価値は実用的で個人的であってよい、という在り方から無意識の世界市民共通の倫理と同質的であろうとする意識は、現在にとっての前時代の倫理とは必然的に異なった位相の認識ではないだろうか?それはある意味で全ての個にとって自己内での言葉の遣り取りという意味では20世紀の偉大なる言語的認識の天才の仕事を全個人が反芻する機会を時代と生存の意識が提供するという事である。或いは倫理基準の個々人性とその他者との共有可能性の模索という発想へ人類は強制される事なく目覚めていくという事である。
 その意識の中でどんなコミュニケーションが今最も求められ正当であるかが個々人の中でその都度判定されていく様な未来が私には見える気がするのである。

Saturday, April 13, 2013

第四十二章 価値と倫理Part1 自主道徳や人類の未来と個人の愛着、価値は倫理や道徳と一致するか?①

 価値が固有の偏見へと結びつきやすく、価値と偏見の共生は避けがたいにも関わらず我々は他方では常に価値を更新させ、その価値へ従って行動したいと望む。つまり価値とはそれ自体行動原理であり、行動規範である、と言うより、そうあるべきだと考え我々は語彙化し、言説化する事で行動しやすくしようと考える部分では我々は言葉に拠って決心しようとする生き物だと言える。あらゆる政党の選挙公約、マニフェスト等はそういった宣言してその通りに履行する事が行為者への信頼を構築してきた一つの政治史的なリアルである。
 しかし公約とか約束手形とかの資本主義ツールとしてのプロミスだけが行動規範ではなく、我々は感性的趣味嗜好型の生き物でもある。それこそが愛着という事だ。愛着は常に実践的であるとは限らない。
 例えば価値とは公共的価値を基準に考えれば個人の愛着は二の次とされて然るべきと誰しも公平や正義の原理としてはそう思う。しかし同時にその公共性が使命だけが崇高でも何処か居心地の悪いものを感じたなら誰しも抵抗を試みる。沖縄の米軍基地を基地関連の産業に従事しその恩恵を被っていない市民にとっては四六時中飛ぶ軍用機やヘリコプターやオスプレー等の導入へ反対したい感情も極自然なものだろう。
 しかしそれは個人的な感慨も多く手伝っている。危険性という事で言うなら成田空港も羽田空港も同様であるし、日本中の空港は危険と隣り合わせである。
 しかしもし公共的価値と個人的価値双方で重複している部分を規定するなら、それは真に価値的であり、実現されて然るべきだと誰しも思おう。
 従ってそれは極めて実践的、プラグマティックな事であり、具体的な事である筈だ。先月中旬東大本郷キャンパスで行われた国際会議(international conference)でスウェーデンから来日されたWlodek Rabinowicz氏は価値とモラルは別者であり、一致しないとレセプションで私が質問すると返答された。氏の発表ではto be valuable is to be desirableという一節を挿入していた。
 この事はモラルとはそれ自体一種の便宜的な(expedient)社会ツールであり、価値化するだけの大仰なものであるべきではないという思想の表明と受け取る事も可能である。プロテスタンティズムの本家でもあるスウェーデンの哲学者である氏のナショナリティを象徴しているかの様だと言ったならレイシズムとなるだろうか?
 従って個人固有の愛着だけを最大限優先したなら個人の偏見にもなり得る個人的価値とは、それ自体公共的な人類の未来への視点とは別個に成立し得る。だから個人の愛着とは個人の思い出とか趣味同様エゴイスティカルである。
 しかし同時に誰しもが等しく(勿論出来る限り)不快ではなく心地良いものであるべきだ、とは公共的価値では言い得るし、それに反意を示す社会人は少ないだろう。つまり建築も都市計画も全て少なくともそうあるべきであるという努力に拠ってはなされてきた(その中でナチスの様な誤りも在ったとは言え)のだ。つまりそれこそがRabinowicz氏の主張でもあったわけだ。
 そもそも倫理とは欧米では元々は旧約聖書世界観であるところのユダヤ選民思想、つまり約束された土地への祈念に満ちたエスノセントリズムでありレイシズムだったのだ。旧約聖書から新訳迄アラブ人とは異邦人だし異教徒(misbeliever)で在り続けてきたし、今でもそうである事はイスラエルとパレスチナ問題一つ取っても明らかである。預言者エイブラハムとモーゼとその思想の伝授というヤハウェ思想が根幹に在るユダヤ教起源のキリスト教倫理は個人の価値を認めるていのものではない。カソリックでも最後の審判に拠る神に拠る決裁から決して自由ではない。
 だからこそプロテスタンティズム以降の倫理思想はマックス・ヴェーバーを待たずともプラグマティズムを志向する性質のものであるという事自体が歴史的必然であった。
 要するに問題となるのは倫理や正義を何処迄遵守すべきかという判断の問題である。そして判断自体が既にどんな場合でも個人に拠るものでありながら、本ブログで口を酸っぱくして述べてきた様に集団とか他者一般という意識を介在させずに下す事がないという事こそが問題なのである。そしてそれは価値それ自体ともずれるのだ。
 日常的に些細な事では我々は価値とは個人的な嗜好を優先する事も多い。ある部分では我々は誰しもかなり日常的な行為の大半は個人的価値に従って行っている。
 しかし倫理とは正義とは、なるとがらりと様相を変える。これらは要するに集団(組織、法人、国家、民族)の共同幻想なのである。そこには固有の精神病理性さえ見出せる。倫理や正義への恭順、殉じる意識の全ては集団ヒステリー的な愉悦を伴っている。モブメンタリティ以外の快楽は三島由紀夫の自決にさえなかっただろうと読み取れる。勿論彼の場合はアナクロ的に過去の軍国主義的幻想が脳内に育成されていたし、こんな筈ではない日本のあるべき姿という観念が柱としては在った。
 集団ヒステリー的な郷愁は時代の移り変わりと共に実感される。東急渋谷駅の蒲鉾駅舎への郷愁が都市再開発の流れで掻き消されていく姿を脳裏に止めておきたいという事は、ある種の前時代を知る者によるエゴイズムでもあるし、愛着である。
 三島の自決等に見られるナルシシズムはアナクロ的な前時代へ遡行出来なさへの痛恨、前時代で兵役を逃れた彼自身の贖罪、その時代に国家奉仕出来なかった事の後悔と未練が見て取れる。
 集団ヒステリーは多くは自己犠牲的美学で自己の最期を飾りたいという観念性を帯びている。しかしこれは価値の中の極めて特殊な集団同化衝動であり、よく冷静沈着に考えれば回避し得る事だ。アートや文学作品創造のモティヴェーションにはこの種の衝動的なクリエイティヴモメントがある事は確かである。しかしその創造的衝動も一種のヒステリックなものであり、それと日常的なルティンや安定した生活への欲求はそういうものとは切り離されている。仕事自体が一種の精神的幻想である。しかし生活とか人生全体は仕事の没頭や熱中とは切り離されて認識されている。そこに敢えて仕事とか家庭とか幸福的充実的な何かを我々は人生を意味づけて納得しようとする。
 ある部分では風景への愛着もかなり個人的な事である。個人の思い出に好きな風景とは当て嵌められている。それが個人と集団への同化と時代への未練が加われば東急渋谷駅蒲鉾駅舎への郷愁が形作られる。それは要するに個人の感慨での憩いのある風景であれ集団の一員として都市空間の代表的風景であれ、見慣れたものを変えたくはないという願望である。それは保守的な価値である。
 従って個人的価値とは一方では全ての自分にとって気に入らない因襲的な事はどんな事でも変えたいと内心では思うのに、他方では保守的に見慣れたものを変えたくはないという心理へも志向する。だからこそ価値は自己信条や理想に準じた革新的部分と、逆に見慣れた風景やツールやディヴァイス等の使い慣れた仕方とかツールそれ自体を変えたくはなという保守的部分とが共存するし、自分は多くの人は変えて欲しいものでも、とりわけそこに住んでいるのではなく近所の散歩ルートとして憩いの風景として発見しているものは住民本位で変えていかれる事を望まないという身勝手なエゴイズムでもある。
 しかしそのエゴイズムこそが倫理や正義の宗教的因襲性や雁字搦めの保守的社会制度へも食い込んだ保守的通念をぶちやぶっていきたいという自主道徳的な観念をも生んでいる。些細な自己に拠る日常的発見こそが理念型の理想主義とか正義とか倫理に対して待ったをかける事を時として可能にする。だからこそ価値とは実践的で自由なものであり、アナクロニスティックな集団同化幻想に拠る自己犠牲へも発展し得るも、理念だけで全てを履行する際に伴われる四捨五入的な切り捨てに拠って失われるものへの価値再発見も促す。
 要するにある種の社会正義とか常識の教条性への謀反をアウトロー的に意識革命する部分の精神とは個人の愛着とか、日常的習慣に拠って形成されている個人的行動パターンとか日常的生活の個人的理想と言った行き着けの居酒屋から好みの散歩ルート迄含む個人にとっての価値それ自体である事が多いものと思われる。そしてそれを失っている事は社会全体を全体主義とか唯理念主義へと退行させていく危険性と常に隣り合わせである事を我々は歴史から経験的に学んでいるとも言えるのだ。
 今回の論旨を纏めておこう。
☆倫理とは常に正しいとは限らない。→倫理が持つ教条性への懐疑(歴史から学んでいる我々の経験的判断)
☆宗教倫理的な伝統的思考の持つ陥穽への着目→結果、価値(value)=行動規範(action normativity)とは倫理それ自体とはずれる。
結論的に、価値とは最終的には自己に拠る価値であり、行動規範とは自己固有の行動規範である(それは集団同化や烏合の衆への批判的眼差しを形成する)。
 価値(個人に拠る価値判断)とはpragmatic、practical、concreteであり、symbolic、notional、abstractではないという事である。