セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, April 13, 2013

第四十二章 価値と倫理Part1 自主道徳や人類の未来と個人の愛着、価値は倫理や道徳と一致するか?①

 価値が固有の偏見へと結びつきやすく、価値と偏見の共生は避けがたいにも関わらず我々は他方では常に価値を更新させ、その価値へ従って行動したいと望む。つまり価値とはそれ自体行動原理であり、行動規範である、と言うより、そうあるべきだと考え我々は語彙化し、言説化する事で行動しやすくしようと考える部分では我々は言葉に拠って決心しようとする生き物だと言える。あらゆる政党の選挙公約、マニフェスト等はそういった宣言してその通りに履行する事が行為者への信頼を構築してきた一つの政治史的なリアルである。
 しかし公約とか約束手形とかの資本主義ツールとしてのプロミスだけが行動規範ではなく、我々は感性的趣味嗜好型の生き物でもある。それこそが愛着という事だ。愛着は常に実践的であるとは限らない。
 例えば価値とは公共的価値を基準に考えれば個人の愛着は二の次とされて然るべきと誰しも公平や正義の原理としてはそう思う。しかし同時にその公共性が使命だけが崇高でも何処か居心地の悪いものを感じたなら誰しも抵抗を試みる。沖縄の米軍基地を基地関連の産業に従事しその恩恵を被っていない市民にとっては四六時中飛ぶ軍用機やヘリコプターやオスプレー等の導入へ反対したい感情も極自然なものだろう。
 しかしそれは個人的な感慨も多く手伝っている。危険性という事で言うなら成田空港も羽田空港も同様であるし、日本中の空港は危険と隣り合わせである。
 しかしもし公共的価値と個人的価値双方で重複している部分を規定するなら、それは真に価値的であり、実現されて然るべきだと誰しも思おう。
 従ってそれは極めて実践的、プラグマティックな事であり、具体的な事である筈だ。先月中旬東大本郷キャンパスで行われた国際会議(international conference)でスウェーデンから来日されたWlodek Rabinowicz氏は価値とモラルは別者であり、一致しないとレセプションで私が質問すると返答された。氏の発表ではto be valuable is to be desirableという一節を挿入していた。
 この事はモラルとはそれ自体一種の便宜的な(expedient)社会ツールであり、価値化するだけの大仰なものであるべきではないという思想の表明と受け取る事も可能である。プロテスタンティズムの本家でもあるスウェーデンの哲学者である氏のナショナリティを象徴しているかの様だと言ったならレイシズムとなるだろうか?
 従って個人固有の愛着だけを最大限優先したなら個人の偏見にもなり得る個人的価値とは、それ自体公共的な人類の未来への視点とは別個に成立し得る。だから個人の愛着とは個人の思い出とか趣味同様エゴイスティカルである。
 しかし同時に誰しもが等しく(勿論出来る限り)不快ではなく心地良いものであるべきだ、とは公共的価値では言い得るし、それに反意を示す社会人は少ないだろう。つまり建築も都市計画も全て少なくともそうあるべきであるという努力に拠ってはなされてきた(その中でナチスの様な誤りも在ったとは言え)のだ。つまりそれこそがRabinowicz氏の主張でもあったわけだ。
 そもそも倫理とは欧米では元々は旧約聖書世界観であるところのユダヤ選民思想、つまり約束された土地への祈念に満ちたエスノセントリズムでありレイシズムだったのだ。旧約聖書から新訳迄アラブ人とは異邦人だし異教徒(misbeliever)で在り続けてきたし、今でもそうである事はイスラエルとパレスチナ問題一つ取っても明らかである。預言者エイブラハムとモーゼとその思想の伝授というヤハウェ思想が根幹に在るユダヤ教起源のキリスト教倫理は個人の価値を認めるていのものではない。カソリックでも最後の審判に拠る神に拠る決裁から決して自由ではない。
 だからこそプロテスタンティズム以降の倫理思想はマックス・ヴェーバーを待たずともプラグマティズムを志向する性質のものであるという事自体が歴史的必然であった。
 要するに問題となるのは倫理や正義を何処迄遵守すべきかという判断の問題である。そして判断自体が既にどんな場合でも個人に拠るものでありながら、本ブログで口を酸っぱくして述べてきた様に集団とか他者一般という意識を介在させずに下す事がないという事こそが問題なのである。そしてそれは価値それ自体ともずれるのだ。
 日常的に些細な事では我々は価値とは個人的な嗜好を優先する事も多い。ある部分では我々は誰しもかなり日常的な行為の大半は個人的価値に従って行っている。
 しかし倫理とは正義とは、なるとがらりと様相を変える。これらは要するに集団(組織、法人、国家、民族)の共同幻想なのである。そこには固有の精神病理性さえ見出せる。倫理や正義への恭順、殉じる意識の全ては集団ヒステリー的な愉悦を伴っている。モブメンタリティ以外の快楽は三島由紀夫の自決にさえなかっただろうと読み取れる。勿論彼の場合はアナクロ的に過去の軍国主義的幻想が脳内に育成されていたし、こんな筈ではない日本のあるべき姿という観念が柱としては在った。
 集団ヒステリー的な郷愁は時代の移り変わりと共に実感される。東急渋谷駅の蒲鉾駅舎への郷愁が都市再開発の流れで掻き消されていく姿を脳裏に止めておきたいという事は、ある種の前時代を知る者によるエゴイズムでもあるし、愛着である。
 三島の自決等に見られるナルシシズムはアナクロ的な前時代へ遡行出来なさへの痛恨、前時代で兵役を逃れた彼自身の贖罪、その時代に国家奉仕出来なかった事の後悔と未練が見て取れる。
 集団ヒステリーは多くは自己犠牲的美学で自己の最期を飾りたいという観念性を帯びている。しかしこれは価値の中の極めて特殊な集団同化衝動であり、よく冷静沈着に考えれば回避し得る事だ。アートや文学作品創造のモティヴェーションにはこの種の衝動的なクリエイティヴモメントがある事は確かである。しかしその創造的衝動も一種のヒステリックなものであり、それと日常的なルティンや安定した生活への欲求はそういうものとは切り離されている。仕事自体が一種の精神的幻想である。しかし生活とか人生全体は仕事の没頭や熱中とは切り離されて認識されている。そこに敢えて仕事とか家庭とか幸福的充実的な何かを我々は人生を意味づけて納得しようとする。
 ある部分では風景への愛着もかなり個人的な事である。個人の思い出に好きな風景とは当て嵌められている。それが個人と集団への同化と時代への未練が加われば東急渋谷駅蒲鉾駅舎への郷愁が形作られる。それは要するに個人の感慨での憩いのある風景であれ集団の一員として都市空間の代表的風景であれ、見慣れたものを変えたくはないという願望である。それは保守的な価値である。
 従って個人的価値とは一方では全ての自分にとって気に入らない因襲的な事はどんな事でも変えたいと内心では思うのに、他方では保守的に見慣れたものを変えたくはないという心理へも志向する。だからこそ価値は自己信条や理想に準じた革新的部分と、逆に見慣れた風景やツールやディヴァイス等の使い慣れた仕方とかツールそれ自体を変えたくはなという保守的部分とが共存するし、自分は多くの人は変えて欲しいものでも、とりわけそこに住んでいるのではなく近所の散歩ルートとして憩いの風景として発見しているものは住民本位で変えていかれる事を望まないという身勝手なエゴイズムでもある。
 しかしそのエゴイズムこそが倫理や正義の宗教的因襲性や雁字搦めの保守的社会制度へも食い込んだ保守的通念をぶちやぶっていきたいという自主道徳的な観念をも生んでいる。些細な自己に拠る日常的発見こそが理念型の理想主義とか正義とか倫理に対して待ったをかける事を時として可能にする。だからこそ価値とは実践的で自由なものであり、アナクロニスティックな集団同化幻想に拠る自己犠牲へも発展し得るも、理念だけで全てを履行する際に伴われる四捨五入的な切り捨てに拠って失われるものへの価値再発見も促す。
 要するにある種の社会正義とか常識の教条性への謀反をアウトロー的に意識革命する部分の精神とは個人の愛着とか、日常的習慣に拠って形成されている個人的行動パターンとか日常的生活の個人的理想と言った行き着けの居酒屋から好みの散歩ルート迄含む個人にとっての価値それ自体である事が多いものと思われる。そしてそれを失っている事は社会全体を全体主義とか唯理念主義へと退行させていく危険性と常に隣り合わせである事を我々は歴史から経験的に学んでいるとも言えるのだ。
 今回の論旨を纏めておこう。
☆倫理とは常に正しいとは限らない。→倫理が持つ教条性への懐疑(歴史から学んでいる我々の経験的判断)
☆宗教倫理的な伝統的思考の持つ陥穽への着目→結果、価値(value)=行動規範(action normativity)とは倫理それ自体とはずれる。
結論的に、価値とは最終的には自己に拠る価値であり、行動規範とは自己固有の行動規範である(それは集団同化や烏合の衆への批判的眼差しを形成する)。
 価値(個人に拠る価値判断)とはpragmatic、practical、concreteであり、symbolic、notional、abstractではないという事である。

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